程よく都市部から離れた最寄駅は、帰り道に田園も見られる長閑なところである。駅から自転車で10分、コンビニの灯りに寄りつく蛾を横目に帰路を急ぐ。6月になったばかりだというのにむしむしと汗ばむ気温は、日が沈んでも下がる気配がなく湿気で髪が張り付いた。
(それでも川や田んぼがあるだけ夜風は涼しいかなぁ……蛙の声すっごいけど)
大合唱する蛙の声の中自転車を走らせる。
(にしても本当暑すぎるよね。あの頃は夏って言っても朝晩はスッキリ冷えたし、打ち水したりたらいの水に足を浸せば快適だったような…ここ200年くらいでひどい温暖化よ〜〜)
記憶を手繰り寄せて嘆く彼には、何故か江戸の末期、歴史で習うまでもなくエンタメでも取り上げられる不朽のテーマ『新撰組』——その一員として生きていた時の記憶がある。
(ま、替え玉なんだけど)
僧侶として生き罪人として捕まり、本来の新撰組が解体しかけたところへ替え玉としてすげられた斎藤一、その記憶。
(本来の新撰組が生きていたら、僕は記憶を持ち続けなかったのかしら?それとも僧侶として断罪されて人生を終えた記憶を持ってたのかな?そもそも現代で本やゲームになってる『新撰組』って、絶対僕の知ってる替え玉の皆じゃないんだよねえ。近藤さんが少年だとか、土方さんが暗殺剣の使い手だとか……もちろん斎藤一が坊主なんて設定、全く無いもの)
とすれば、自分のこの記憶は出鱈目なのか?どこに存在した己の記憶なのだろうか?自分はただの妄想に頭が占拠された、やばめな男子高校生なのだろうか?
「だめだ頭痛くなってくる!こういうの考えるの向いてるお人がいるじゃない、僕の担当じゃないんだよなあ〜〜ねえ、ソーゲンちゃんっ」
ペダルを踏み込み、街灯がまばらな橋を一気に駆け抜けようと勢いをつける。
と。
暗がりと一体となっていた人影がゆらりと動き、灯の下に躍り出る。
「うわ!!」
絶対幽霊だ、と血の気が引いてブレーキを掴むが、慣性の法則でよたよたと進んだ自転車はその影間際で止まった。
「こんばんは」
声をかけられ、幽霊じゃなかった!と顔を上げる。歳の頃は十を少しすぎた頃かの少年。記憶にあった頬の痩けはなく、細面だが子供らしい輪郭で街灯の光を浴びてそこにいた。
「…………あの……」
「そんなびっくりした顔をなさらずに。大砲を見た時もそのような呆気に取られた顔をされていました。つまり今の小生はあの当時の外国製の兵器に匹敵する驚きを与えたのでしょうか」
「……い」
「い?」
「言ってることが子供じゃない〜〜っ」
「今世では現在小学四年、歳は九つになりました。背丈があるのでもっと上に見られることが多いです」
「間違いなく……ソーゲンちゃんね、うん、めちゃくちゃソーゲンちゃん……はい……」
「いやはや明るいうちにお声がけしたかったのですが、なかなか小学生の自由時間というのはままならず」
「あ!!?そうだよ、暗くなってから一人で出歩いちゃだめじゃない!?え!!九歳!?ご家族は!?おうちは!!?」
急な再会に、それでも順応の早さを見せて多く言葉を紡ぐ様をにこにこと見て、緑の髪の子供は欄干に寄りかかり道の先を示した。
「あちらの上に見えるのが現在住んでいる家です。祖父母の家で…離れに二週間ほど前越してきました。両親は仕事中ですし祖父母は母屋におりますので、抜け出してきただけです」
「だめじゃん」
「丁度家の窓からこの橋が見えるのです。越してきてすぐ両親の帰りを待つのにぼんやり外を眺めていたら、あなたが見える。4・5日観察をして、最寄駅の時刻表と照らし合わせて時間帯を把握しました。そうして本日こちらで待っていたわけです」
「ひ、ひえ〜〜」
「差し当たって、連絡先の交換など…」
スマホを取り出す手のひらが記憶より小さく、伏せた目も切れ長にはまだ遠く柔らかそうな睫毛が揃う。初夏の夜の湿気にあてられ、手を伸ばす。
耳の横に流した若草色の髪に触れ、自分の肩下にある頭を撫でた。
「………ふふ」
「ご、ごめんつい」
「なかなか撫でて頂く機会などありませんでしたから。新鮮ですね」
「うん……あのね、ソーゲンちゃん」
「はい。申し訳ありません、はしゃいで話が止まらなくなってしまい——ああ、そうです。何をもってもまずは言わなくてはいけなかった——」
まっすぐこちらを見据えた目は、街灯の黄色みがかった光に柔らかくきらめく。周りの新緑を写したかのような生き生きとした純粋な緑は、記憶の中と違わない。
「スズラン殿。お久しぶりです」
名前を呼ばれて、詰めていた息が漏れ出るようにスズランはひゅ、と呼吸をした。何度も何度も、さまざまな場面でこの人に呼ばれて馴染んだ名前。声変わり前の高い声が新鮮だが、ソウゲンだと確証をもって相対しているこの少年に呼ばれればいつかの記憶が蘇ってくる。
「うん」
「手を取っても?」
「え!?あ、あの」
「抱き込めないこの体格差は新鮮です。とはいえあと五年もすれば追い付きましょう」
「小学生の言葉じゃないのよソーゲンちゃん……」
「小生もその名を呼んでいだくのが心地よい。ふふ、橋の上であなたを見掛けてから声をお掛けするのを待ちわびておりました」
少年の頭上から街灯の光を受けて立つ様は後光か光輪のようだ。
己の記憶が間違いでなかったこと、共有したい疑問、たくさんの溢れる気持ちを見透かすようにソウゲンがスズランの手を恭しく取る。
目を眩ませながら、「神様みたい」と呟くとしばし間を置いてまっすぐ見上げてくる。
「それを言われたのは二回目ですね。小生が見上げているのは以前とあべこべだ」
「………うん」
スズランがそれきり言葉を次げずにいれば川の音と蛙の声が大きくなる。
「幸い、お互い年若いですから時間が多くありそうです。なにからお話しましょうね」
「……とりあえず、おうちに戻らなきゃダメよ君は」
鼻を啜りながら答えるスズランに、ソウゲンは眉を下げて笑った。
木々を抜ける湿った風が体を撫でていく、初夏の夜であった。