高い高い、空の下で一
空が高く感じる。暑い夏が過ぎ去って、秋が来たんだなとミランは空を見上げながら思った。
こんな空の高い日にはゲンカクはどの辺りにいるのだろうと、考えることがある。ゲンカクを弔った日、ナナミが言っていた。じいちゃんのお墓はここにあるけれど、きっとじいちゃんは空の上で、わたし達のことを見守りながら空の旅を楽しんでいるんだろうと。本当のところはわからない。だが、あの頃はそう思うことで、ミランもナナミも少しだけ前向きになれていた。ナナミはいつも、そうやってミランに光を与えてくれる。今日のような日は、ゲンカクもいつもよりも高いところにいるのだろうか。
そんなことを考えながら、空を見上げながら歩いているミランの耳に、流れ込んできたものがあった。これは。
「……歌?」
誰かが、歌を歌っている。それ程距離は離れていないように思えた。軍の拠点であるこの地も、かなり人が増えてきて、様々な人が集まっているため、誰かが外で歌を歌っているということ自体は不思議なことではない。だが、何故かその歌声には、ミランの足を止める力があった。とても穏やかな歌声なのに、それはまるで、耳を通ってまるで脳に静かに突き刺さってくるような、そんなインパクトがあったのだ。ミランは気になって、歌声が聞こえる方向へ歩き始めた。
(アルトさんだ……)
歌声の主は、先日知り合ったトラン共和国の英雄と言われている人物だった。少し開けたスペースに座り歌っているようだ。彼とは先日の出会いをきっかけに協力関係にもなり、このように本拠地にも訪れるようになってくれていたのだが。
(――どうして)
ミランは不思議だった。それは、何故歌っているのか、ということではなく。その歌声が――。
「……ミラン?」
ぼんやりと聞いていたら気配を消し忘れていて、すぐに気付かれてしまった。アルトがこちらを向き、名前を呼ぶ。ミランは見つかってしまったのなら、とその場で頭を下げた。
「お邪魔して、すみません」
「いや、勝手にこの場所を使っていたのは僕だから」
まだ知り合ったばかりのため、アルトの人となりをミランはよく知らない。先日知り合った騒動の時に共に行動した際には、あまり感情が大きく出ることのない、大人びた人という印象を持った。その印象が全てとは限らないが、今のミランの乱入には気分を害したような様子はなかったため、ミランは安堵の息を吐く。
「聞こえてきた歌が、良い曲だなって思って。親しみやすくて、でも綺麗なメロディで」
「そうか。そう思ってくれたのなら嬉しい」
素直に感想を口にすると、アルトの表情が少し和らいだ。ミランはアルトの隣に移動し、並んで座る。
「これは、僕の故郷で良く歌われているもので」
「グレッグミンスターですか?」
「そう。僕の付き人をしてくれていた者も好きで、幼い頃によく子守唄代わりに歌っていたんだ」
「あ、確かに子守唄としても良さそうです」
「それで、妙に頭に残ってしまって。ふとした時に無意識に口をついて出てしまうんだ。今のように」
そこまで言うとアルトは、空を見上げた。
「爽やかな青空の下でのんびりとしていると、特に」
「無意識に、ですか」
「そう。君にも、あるのではないか。無意識に口をついて出るようなフレーズが」
「うーん……」
ミランは、アルトの言葉に暫し考え込んだ。日常的に音楽を進んで聴くことはなく、歌についてもあまり詳しくはない。だが。
「あ、でも、ナナミが街で覚えてきた歌なんかを鼻歌でよく歌ってて。それを自然に覚えちゃって気付いたら自分も……みたいなのはありますね」
「じゃあ、君も一緒だ」
「そうですね」
確かに、と二人で少し笑った。そう言われると一緒だとも思える。だが。
「でも……」
「でも?」
「あ、いや、ナナミって細かいとこは気にしない性格で、同じ歌のはずなのにその時によってちょっとメロディが違ってて。だから僕もうろ覚えで歌うたびに違っちゃったりします」
「あぁ、成程。まだ彼女とはしっかり話したことはないけれど、確かにそんな印象は受けるかもしれない」
「あはは、失礼があったらすみません」
「そんなことはない。明るくておおらかで、良いと思う」
「ありがとうございます」
礼を言いながらミランは、うまく誤魔化せたかな、思う。思わず呟いてしまったが、『でも』の内容は実際には違っていた。無意識に歌ってしまうということは同じかもしれない。でも。
――でも、何故、悲しそうに聞こえたのだろう。
ミランが足を止めた理由だった。
二
「……そんなところでしゃがんでこっちをずっと見られても、困るんだけど」
いつも通り石版の前に佇んでいたルックは、そう言ってミランを軽く睨みつけた。
「言いたいことや聞きたいことがあるなら、はっきり言ってくれる?」
「うーん……」
普段ならこの場に来るとすぐに要件を切り出してくるはずのミランが、今日は妙に歯切れが悪い。珍しいこともあるものだ、とルックは思う。思うがずっとこのままでいられるのも困るので、再度行動を促した。
「話すの、帰るの」
「……話す」
やはり話したいことはあったものの、二の足を踏んでいたらしい。言うのを躊躇うような案件を抱えているというのだろうか。話す、と言った通り意を決したらしく、ミランは立ち上がり改めてルックに向き直った。
「ルックは、アルトさんと仲が良い?」
「……何、急に」
「シーナも仲良さそうだけど、客観的というか、フラットに話が聞けそうなのはルックかなって。で、仲が良い? アルトさんの軍でも一緒だったんでしょ?」
「……あそこも集まる人は老若男女様々だったからね。偶々同世代だったから自然とつるんでただけ。特に仲が良いってわけじゃないよ」
「じゃあ、仲良かったんだ」
「人の話聞いてた?」
「ルック、いつも進んで人と関わろうとしないのに、つるんでたって言うってことは、仲が良かったんだって思う」
「……じゃあ、それで良いから。あいつの事が聞きたいわけ?」
アルトの名が出てきたということは、つまりはそういうことなのだろうと、ルックは察した。確かにミランはまだアルトと出会って間もないが、一体何を聞きたいというのか。
「歌を歌っているのを、聞いたんだよ」
「歌」
「聞いたことある?」
「いや……僕やシーナといる時はあまりそういうことは無かったと思うけど。シーナが喋り通すからそういう余地はなかったんじゃない」
「そっか……それがさ、すごく綺麗だったんだけど、悲しそうにも聞こえて、苦しくなるような」
「……そう」
「付き人さんが、よく歌ってたって」
「……あぁ、成程ね。それで一人の時に歌ってるのか」
「ルックは、やっぱりその付き人さんのことも知ってる?」
ルックはミランの問いに頷いた。それから、天を見上げる。
「少しね。あいつの世話をするのが生き甲斐って公言するような奴だったよ。初めて会った時もぴったりあいつにくっついて」
目を閉じて、あの頃のことを思い出す。坊ちゃん、坊ちゃんと常にアルトの側を離れなかった、アルトに心を傾け続けた人。ミランにもそれが伝わったのだろう、そして、そんな人物が今アルトの側にいないことが、何を表しているのかも。ミランの表情が、僅かに固くなった。
「……一応聞くけど、その人は、今は」
「……あいつの家に行った時、いたのは?」
「クレオさん……だけ」
「そう。つまり、そういうことだよ」
アルトを助けるために、グレミオは命を散らした。最期の最期まで、ひたすらアルトのことだけを思い続けていて。ルックが知っている範囲の事実を伝えると、すっとミランの視線が下がった。
「そっか……だから」
「口では平気だって言い張ってるけどね」
普段のアルトからは、悲しんでいるような様子は見受けられない。だが、それは表面上のことだ。
「そんな簡単に消えるものじゃないでしょ。人を喪った悲しみは」
「知ってるような口振りだね」
「僕にも経験があるから」
「……そうだね。人が誰かと共に生きている以上、いつか必ず喪失は経験する」
ルックとて同様だ。直接の身内というわけではないが、アルトの軍に所属している時に多くの喪失と悲しみを目の当たりにした。そして、この軍ではそんなことは最低限であって欲しいとも思っている。
「人間が音楽を奏でるとき、音を出す部分が口に近い程、感情表現が容易だって聞く。手で叩く打楽器よりは口から息を出して奏でる笛の方が。笛よりも直接声を音とする歌の方が」
逆に考えれば、感情を隠すのが最も困難な手段が歌であるということだ。アルトは無意識かもしれないが、歌声では感情が隠しきれなかった。そして、ミランはそれを感じ取った。
「……他にも、アルトさんの身近な人は亡くなってるんだよね。お父さんとの話も、トランにいる時に耳に入ってきたし。ソウルイーターの話も聞いた」
「……その通りだけど。それで、それを聞いて、どうするの」
ルックはミランに尋ねた。ミランが何を、何故知りたかったのか、ということはこれまでのやりとりで理解したが、知るだけで終わりなのだろうか。
「……なんとか、したい」
「なんとかって」
ルックの声に、僅かな驚きが混じった。アルトとミランはまだ出会って間もない。かつて同じような立場だった者として尊敬しているということはその態度から感じ取れるが、そこまで踏み込みたいと思う程だったのだろうか。
「悲しみを消す、なんてことは考えてないよ。そんなことは他人には不可能だ。でも」
消すまではいかなくても、何かをしたいと、ミランはまっすぐにルックを見つめた。
「そのためにアルトさんのことを知りたくて、ルックに聞いたんだ」
「そう……珍しいね」
「珍しい? 何が?」
「いや、何でもないよ」
気付いていないなら、態々言うこともない、とルックは言葉を切る。ミランは首を傾げたが、それ以上ルックが何かを話すことはないと察したのだろう、ルックに頭を下げた。
「ありがとう。ルック」
「別に、昔話をしただけだよ」
ミランはもう一度ありがとう、と言うと、慌ただしく動き出す。走り去る後ろ姿を見ながら、ルックは腕を組んだ。
今までここに来る時は、ただの世間話か軍の連絡事項を伝えに来る程度だったあの子が。
「……何かしたい、って、あいつの口から初めて聞いた」
三
秋晴れの空は綺麗だ。アルトはいつもの場所に腰掛けて空を見上げた。特に何かをすることもなく、ぼんやりとそのまま見上げ続ける。ここ数日は、この時間にこの場所に来るようにしていた。何故なら。
「こんにちは、アルトさん、今日もここにいるんですね」
ミランがそう声をかけて近付いてくる。アルトは目線をミランに移して頷いた。
「ここは風が心地良い」
「あぁ、そうですね。僕もすっかりお気に入りの場所になりました」
にこりと笑うミランに、微笑みを返す。君がこの時間にここに来るから、という本当の理由は心の中だけで呟いた。
最初はミランに言った通り、この時間のこの場所の風が心地良いと思ってここに滞在していただけだったのだ。だが、ミランと一度ここで会ってから、ミランがこの時間にここを通るようになって。ミランはその理由を言うことはないが、もしかしたら自分と話をしたいのかもしれないと考えて、アルトはこの時間にこの場所にいるようになった。ミランはこの軍の長であり、軍全体を気に掛ける必要があるだろう。アルトとも会話をし理解を深めることで、この場所に滞在しやすいように配慮してくれているのではないかと、アルトは考えている。
「ここでお弁当食べるのも、良いかもしれませんね。外で食べる食事って、なんだか美味しく感じませんか」
「だが、軍としてどこかに行ったりするときにも野宿や外での食事はするだろう」
「それとはまた違ってて……こう、のどかで天気の良い空間でおにぎりとか、サンドイッチとかを食べるのが良いんですよ」
「戦いとは無縁の場所で、か。確かに、それは美味しく感じるような気がするな」
会話をしているうちに、思い出した。自分にもそう思った時期があったのだ。空を見上げる。
「昔、まだグレッグミンスターを親友と遊び回っていた頃に、親友と街を出て食事をした。森の中だったり、丘の上だったり。君の言う通り、料理は持ち歩ける素朴なものだったが、随分と美味しく感じたのを覚えている」
「やっぱり。僕もナナミやジョウイ……僕の親友と一緒によくやりました。楽しいし、美味しい」
ミランはアルトの言葉に嬉しそうに笑った。アルトはその笑顔を見て、少し心の奥があたたかくなったような感覚を覚える。
「今度、作ってきます。あ、ナナミとかルックとかシーナなんかも誘って皆で食べると、賑やかになって良いですね」
「君が作ってくれるのか」
「料理はけっこう得意なんです。あ、よかったらクレオさんも一緒にどうですか」
「その申し出はありがたい。クレオもきっと喜ぶ。帰ったらクレオにも伝えておこう」
「お願いします!」
元気良く『お願い』を口にすると、ミランは立ち上がった。そろそろ次の場所へ行く時間らしい。
「それじゃあ、僕行きますね。ゆっくりしていってください」
「あぁ。話に付き合ってくれてありがとう」
「いえいえ、勝手に来てるのはこっちなんで、こちらこそ!」
ミランは力いっぱい手を二度振ると、走り去っていった。元気だな、と思う。アルトのみが残された場に、再び静寂が訪れた。ミランが訪れる前と、同じ。同じはずなのに。
「不思議だな……」
アルトはそう言って周囲をゆっくりと見渡す。ここ数日いつもそうだった。
ミランと会話した後のこの場は、空の色も、草木の色も、少し明るく見えるのだ。
*****
「お帰り! ミラン」
「ただいま、ナナミ」
自室に戻ってきたミランを、ナナミはいつも通りに出迎える。ミランはここのところ、軍の拠点としているこの場に滞在している間は自ら各所を周って様子を見ているようだった。以前は自分から動くことは少なく、ナナミが連れ出すことの方が多かったのに。軍の主となって、様々な人と関わることで、少しずつ成長という名の変化が訪れているのかもしれないと思う。それは、長い間義弟を見守ってきた義姉としては嬉しいことだった。自分の手から離れていくようで、少しだけ寂しいけれど。
「ね、何か、面白いことあった?」
「うーん、特に面白いってことは……今のところはどこも安定してて良かったって感じかな。あ、そうだ」
ナナミが期待するような派手な出来事はなかったようだが、ミランは何かを思いついたようだった。あのさ、とミランが窓の外を指差す。
「今度、ピクニックしよう。外で」
「ピクニック? 楽しそう! でも、外ってどこ?」
「良い所があるんだ。風が気持ち良くて、空がよく見える所。最近そこでアルトさんとよく話すんだけど」
「アルトさん?」
「うん。そこで、ピクニックの話になったんだ。ナナミと、ルックやシーナと、クレオさん達も一緒に、皆であの場所でご飯を食べたらきっと美味しいし、楽しいよ」
またアルトさんだ、とナナミは思った。最近、よくミランからアルトの名を聞くようになったのだ。バナーの村で会って、協力要請に応じてくれて、時々ここに滞在してくれている、英雄と呼ばれる人。今のミランと同じような立場にいたことがあるらしく、ミランは何かと頼りに思っているようなのだが、最近特に名前を聞く機会が増えた。この地の巡回の土産話になると、必ずと言っていいほど名前が出てくる。
「最近、アルトさんとよく一緒にいるんだね。お姉ちゃんを差し置いて、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
ナナミがそう言ってみると、ミランはうーん、と首を傾げた。
「差し置いてないし、仲良くなれてるのかはわからないけど……会いに行くようにしてる」
「どうして?」
「話をしたいんだ、アルトさんと」
「話?」
今度はナナミが首を傾げた。軍主として、聞いておきたいことがあるのだろうか。ナナミの問いに、ミランはふわりと笑う。その笑みが見たことのないような柔らかさを含んでいて、ナナミははっと息を呑む。
「これが最適解なのかはわからない。でも、何とかしたくて。アルトさんの歌声が、少しでも悲しくなくなるように」
ミランの言葉は要点だけで、そこに至るまでの過程を知らないナナミが状況を完全に理解するには至らなかった。だが、理解できたこともあった。
会いたい、話をしたい、何とかしたい。ミランをそう駆り立てる何かが、アルトにはあるのだ。
「それに、最初はそれだけだったんだけど……」
ミランは、その先を言うことはなかった。だが、窓の外を、恐らくその先にアルトを見ているのだろうミランの姿は、とても眩しく見えた。
初めて見る、義弟の姿だと思った。
四
今日も、アルトは同じ場所でミランを待つ。いつの間にか、この時間が楽しみになっていた。ミランと会話をする、この時間が。今日はどんな会話をするんだろうか。この場での食事はいつ実行に移すのだろう。日々生活する中で、気がつくとここでのミランとの時間のことを考えていた。暫く軍に動きがないようなら、一度グレッグミンスターに戻っても良いかと思っているのに、それでこの習慣が立ち消えてしまうのは少し惜しく感じる。さてどうするか、と思っていた頃だった。
「こんにちは」
背後からかけられた声は、いつもと違っていて。振り向くと、ナナミが笑顔で立っていた。
「こんにちは。僕に、何か用が?」
「はい。隣、いいですか?」
ミランの隣で常に笑っている明るい少女。アルトも一度じっくり話をしてみたいと思っていた相手だ。勿論、と一度立ち上がって彼女を迎え入れた。
「本当だ、ここ、とても素敵な場所ですね」
「ミランに聞いたのか」
「はい。今度ここでピクニックしようって言われたので。場所を聞いて、ちょっとだけ先回りしました」
先回り。アルトは太陽の位置を確認した。確かに、ミランがいつもこの場を訪れるのはもう少しだけ後だ。ミランを入れずに、話をしたいということなのだろうか。
「何か、聞きたいことが?」
「いえ、お礼を言いたくて」
「……お礼?」
アルトは首を傾げる。戦いに赴く際に、ミランの手助けをすることはよくあるが、礼を言われる程のことではないし、それ以外には思いつかない。
「あまり覚えがないのだが……」
「あの子を、変えてくれました」
「あの子?」
ナナミが『あの子』というのはきっとミランのことだ。それは、理解できる。だが、変えたという言葉の意味がわからない。
「ミランは、変わったのか?」
「変わりました。今まで、ずっと変わらなかった部分が、急に」
ナナミは大きく頷くと、空を見上げた。今日も、よく晴れている。
「あの子は、ミランは、あまり自分から何かを望むような子じゃなかったんです。孤児で、ゲンカクじいちゃんに拾われて、わたしと一緒にじいちゃんに育てられたんですけど、何て言ったらいいのかな、生きてさえいれれば十分だって考えてて」
遊びに行くのも、ナナミや親友のジョウイに連れられてだった。勿論行ったら一緒にはしゃぐし楽しむ。だが、自分で何かをしたいと言うことは殆どなかったという。
「人に望まれるままに生きてるというか……明るく見えるのも、わたしが一緒に楽しく生きようねって言ったからで」
「そこが、変わったと?」
「はい。この間、ミランから聞いたんです。アルトさんのために、何かしたいって」
「……僕のために?」
「そのために、自分から歩き回って、アルトさんの所に行くようになって。そしてその時のミランは、きらきらしてるんです」
「きらきら」
「はい。きらきらです。戻ってきてアルトさんの話をするミランは、本当に楽しそうで」
ずっと共にいたナナミですら、初めて見ると言ってもいい姿だという。
「アルトさんとのやりとりの何がきっかけだったのかは、わたしにはわからないけど。でも、変わったのは事実です。ずっと見てたわたしが言うんだから! 本当です」
「……」
力いっぱい言った後で、ナナミは笑った。それは喜びを表現しているように、アルトには見えた。
「ずっと、そうなって欲しかったんです。じいちゃんやわたしが言うからじゃなくて、自分で考えて、自分のやりたいことをやって欲しいって。じいちゃんも、そこはずっと心配してて」
勿論、自分で選んだ先にわたしやジョウイがいたらわたしは一番嬉しいんですけど、とナナミは言う。
「だから、少しでもそうなるきっかけがあればいいなって、色んな所に連れ出して、ついて行って、ってやってたんですけど。まさかいつの間にかアルトさんのお陰でそうなってたなんて」
だから、ありがとうございました、とナナミは頭を下げた。
「僕の、何がそうさせたんだろうか」
「心当たり、ないですか?」
「全く……むしろ、僕の方が話すことで元気をもらっていた感じだ」
「あ、それかも」
ぽんと、ナナミは片手で拳を作りもう片方の手のひらに当てる。何かを思い出したらしい。
「アルトさんが、少しでも悲しくならないようにって」
「悲しく?」
「歌声って」
「歌……は……」
一度だけ歌った。初めてこの場でミランに会った時だ。だが、悲しいとは。だが、もう少し詳しく聞こうと思ったところで、ナナミが立ち上がった。
「あ、もうすぐミランが来ますね。わたし御暇します」
「君がいても良いと思うのだが」
「うーん、なんか邪魔しちゃだめな気もするし」
ここに来たの、実は内緒だったんです、とナナミは悪戯っぽい笑みを見せる。その後で、大きく手を広げて体を伸ばした。
「ちょっとだけ、ちょっとだけね、悔しいんです。わたしが何年もかけてなかなかできなかったことを、アルトさんは一瞬でやっちゃった」
わたしがお姉ちゃんなのに、と。先程は嬉しそうにしていたのに、確かに今は少しだけ寂しそうで。どう言葉をかけるべきかアルトが動きかねていると、ナナミはすぐにその様子を消し、でも、と再び太陽のような笑みに戻した。
「まだまだあの子の側は譲りませんよ。わたしは、わたしなりにミランを守り続けるから」
「……それは、君にしかできないことだと思うし、ミランもきっとそれを望んでいる。君のような、ずっと側で笑ったり叱ったりしてくれる存在は、本当に大切なんだ」
願わくば、とアルトはナナミに笑いかけた。
「君達が、変わらず一緒にいる姿をずっと見ていたいと思う」
「えへへ、ありがとうございます」
嬉しそうに笑ったナナミを見ていたら、一瞬だけ、目の端で金色の髪が揺れたようにアルトには見えた。
五
ナナミがこの場を後にしたことで、この場に再び静寂が訪れた。アルトはナナミとの先程までのやり取りを思い返す。
悲しくないように。歌声。ヒントはその二つ。ミランの前で歌を歌ったのは、最初にこの場で会った時。そういえばあの日から、ミランは決まった時間にこの場を訪れるようになった。悲しく、聞こえてしまったのだろうか。
「そんなつもりは、なかったのだが……」
それは、本心だった。確かに、喪われた人達の事を思うと全く悲しくない、と言えばそれは嘘になる。だが、全てを受け入れ、前に進んでいると自分では思っていた。歌だって、天気の良さに空を見上げていたら自然と口ずさんでいただけで。
本当に、そうだったのだろうか。
アルトはもう一度、自らの内心を振り返る。あの歌を歌うとき、自分はいつも何を思っていた。グレミオがよく歌っていた曲。皆揃って、グレッグミンスターで暮らしていた頃を懐かしんで、今、側には彼らがいないことを、思い知って。それが、出ていてしまったのかもしれない。それを、ミランは敏感に感じ取った。そして、その日からこの場に顔を出すようになった。だが、何故だろう。何故それだけで、ミランは。
確かに、この場でミランと会話を交わすことは、アルトにとって良い一時になっていた。他愛もない話ばかりだったが、それが良かった。こんなにゆっくりと、誰かと会話をするのは久しぶりで。会話が終わると世界は明るくなって、心は軽くなった。そして、いつしかこの時を心待ちにするようになった。
ミランに会いたいと、思うようになっていた。そして、この時がずっと続けば良いと。そんな願いさえ抱くようになっていた。
人との接触をこんなに望むのは本当に久しぶりで、だが、これまで他の人に抱いていた想いとは少し違う気もして。考えれば考える程わからなくなっていく自分の想いに、アルトは頭を抱えた。
たった一つわかっていることは、今この瞬間も、ミランに会いたいと思っていることで。それを自覚した瞬間、居ても立っても居られなくなって、アルトは勢いよく立ち上がった。
*****
「アルトさん?」
まさに一歩を踏み出そうとしたときに、聞きたかった声が響いた。
「ミラン」
「はい。どうしたんですか? どこか行きます?」
「いや……」
君に会いに行こうとしていた、と言うべきか、アルトは一瞬迷った。先程のナナミとのやりとりも、どこまで打ち明けて良いものだろうか。
「一度、いつものように座って欲しい」
考えた結果、それだけを言って、再度アルトも腰を下ろした。ミランは首を傾げつつ、いつも通りに隣に座る。アルトはミランをじっと見つめた。やはり、ミランを見ているとほっとする、心があたたかくなる。これは何だろう。
「聞きたいことが、ある」
自然と、そう切り出していた。
「はい」
「君は、何故毎日ここに来る?」
単刀直入に尋ねると、ミランは僅かに驚いたようだった。
「も、もしかして、迷惑でしたか……?」
「そうではなくて。むしろ、僕としては嬉しかった」
「嬉しい?」
「君とここで会話をすることが楽しいと思っていた。こうやって、人と会うことが楽しみになるのは本当に久しぶりだった。だが、君は何故来てくれるのかと思ったんだ」
ミランは腕を組んで考え込む。どこまで言うべきか迷っているように、アルトには見えた。アルトとしても、ナナミと会ったことを言うべきかは迷っている。
「君が来るようになったのは、あの日、僕の歌をここで聞いてから」
「はい。歌声、とても綺麗だったんですけど、その……気分悪くしたらすみません、悲しそうに聞こえて」
ミランの説明に、やはり、とアルトは思った。
「で、ちょっとその付き人さんのことを聞いたりして」
「聞いた?」
「ルックからです。すみません、勝手に聞いちゃって」
「いや、それは構わないが」
「それで、何とかしたいって思っちゃって」
「何とか、とは?」
そう尋ねると、ミランは上に目線を移す。見上げているのは空であり、空でないようにも見えた。
「僕もじいちゃんが亡くなったからわかるんですけど。人を喪った悲しみは、他の人には癒せない。そんな簡単なものじゃないのはわかってます」
でも、とミランは続けた。アルトは口を挟むことなく、先を促す。
「僕にはナナミがいて。じいちゃんが亡くなってから、毎日他愛もないやりとりをナナミとしてきたことで、少しだけ心が軽くなったというか、楽になったというか。そうやって、あとは時間の力で傷を塞いでいった、そんな感じです」
そのために、アルトとこうやって少しずつ話をすれば、僅かでもアルトの心を軽くできるのではないかと考えたという。
「せめて、歌声が悲しくなるくらいまでには」
「そうか……ならば、それは成功していたと思う」
「本当ですか!?」
アルトは頷いた。ミランの言う通り、ミランとの会話を終えた後は、心が軽くなった。今ならば、少し違う想いであの歌を歌えるような気もしている。礼を言おうとして、だが、とアルトは一度動きを止めた。肝心な所を、聞いていない。
「それで、何故君は僕のためにそこまで? まだ僕達は知り合って間もない。君は」
アルトは、そこで一度言葉を切った。ナナミとの会話を引き合いに出すかまだ迷っていたのだ。だが、全てを話さないと本当のところは聞き出せない気がした。
「ナナミが、そんな君を初めて見たと」
「ナナミ?」
「君が自分から何かをするような性格ではないと聞いたから。それなのに、何故僕に、と思って」
「えぇ……ナナミ、何か言ってました?」
「いや、君のその変化を喜んでいた」
「変化……なのかなぁ。確かに言われてみれば、あまり自分からこうしたいって、今までなかったかも。じいちゃんやナナミ、ジョウイが良いって思えば、僕はそれで良かったから」
ミラン自身、あまり気付いていない変化だったようだ。少し考え込んだ後で、ミランは再び口を開いた。
「最初は、色んな人を喪ったアルトさんを見てるのが、あの歌を聞くのが苦しくて。僕もじいちゃんが亡くなったときナナミの存在に救われたから、同じように何とかできればって思ったんですけど、そう思う事自体が初めてだったかも。それに、今はそれだけじゃなくて」
「それだけじゃない?」
「毎日アルトさんとここで話しているうちに、話すこと自体がとても楽しくて、嬉しくなっていって。もっともっと一緒にいたい、話したいって思うようになりました。アルトさんのためにって思ってたはずなのに、いつの間にか自分のためになってた」
隣りに座って同じ方向を見ながら話していたはずが、いつの間にかミランは、アルトの方を向いていた。アルトの目を、まっすぐに見つめる。アルトはその目を、綺麗だと思った。
「アルトさんの声が聞きたい、悲しい声じゃなくて、楽しそうな声が聞きたい。そして、そんな楽しそうなアルトさんに」
ミランはそこまで言うと、手を伸ばしてアルトの手に触れた。
「こうやって触れていたいって、思うようになりました。もしかしたら、最初に歌声を聞いたときからそう思ってたのかもって、今は思います。だから、こんな行動に出たんだ、きっと。これって、何なんでしょう」
最後にミランは首を傾げた。無邪気に疑問で締めくくられたのがなんだかおかしくて、アルトは笑い出す。
「それを、僕に聞かれても」
「まぁ、そうなんですけど……」
「でも、僕もそうなのかもしれないな」
アルトは、自分の手に触れているミランの手に、もう片方の手で触れた。紋章のことが一瞬頭をちらつく。だが、負けるつもりはなかった。
「僕も、君と話しているうちにそれが楽しくて、嬉しくて、君といたいと思うようになった。きっと、君と一緒だ。これは、何だろうな」
「えぇ〜、アルトさんがわからないことを僕かわかるはずが……」
ミランが困ったような声を上げる。それがまたおかしくて、アルトはまた笑った。
「君といると、こうやって笑える」
「それは、嬉しいです。あ、じゃあ、一緒にこの答え、見つけましょう」
「見つける?」
「はい。僕達は互いに一緒にいるのが楽しくて嬉しくて、沢山一緒にいたいと思ってる。この気持ちの正体が何なのか。推理ですね」
そうやって、考えながらこれからも一緒にいませんか、ミランはそう言った。アルトは、すぐに頷く。
「そうするのが良いかもしれない。それも、楽しそうだ」
アルトがそう答えると、ミランの表情が嬉しさで染まる。見ているこちらが嬉しくなるような、そんな表情だった。
「それじゃあ、これからは気持ち探しもやるってことで、これからもよろしくお願いします」
「あぁ、よろしく頼む」
「ピクニックもやりましょうね。皆で」
「そうだな、楽しみだ」
そう言って、二人で顔を見合わせて笑った。それからアルトはまた空を見上げる。秋晴れの空は美しくて、高い。
アルトとミランが自らの気持ちの正体に気付くのは、もう少し後のことになるかもしれない。それまでは、二人でわからないなりに、触れ合っていければ良いと、アルトは思った。
この高い高い、空の下で。