硝子窓 小鳥のさえずりが聞こえる。その音に促されるように目を開けると、窓の外にすっかり昇りきった太陽が見えた。ミランはゆっくりと起き上がる。陽の光が入った、明るく広い自室。本拠地である城が大きくなるにつれ、広くなっていった自室だ。けれど今朝は、とりわけ広く、そして寒く感じるような気がして。何故だろうと考えて、すぐにその理由にたどり着く。
(そうだ、声が聞こえないからだ)
声が聞こえないから。姿が見えないから。
『朝だよー!』
今までだったら、元気な声と、昔からずっと見ていた笑顔が目の前にあったはずなのに。それが失われて数日。まだ慣れないなとミランは苦みを含んだ笑みを浮かべた。あの姿が見えないだけで、この場所がこんなにも広く、何もないように感じるなんて。
ベッドから降りた。さて何をしようかなと、ミランは軽く体を動かしながら考える。先日城内で倒れ、それが心身の疲労のためと判断されたミランは、皇都侵攻の準備が整うまでは静養を言いつけられていた。やりたいこと、やるべきことは、今は何もない。以前倒れた時もしばらくベッドの住人であったため、今日も同様に、自室で寝たまま一日を過ごしても良いのだ。だが、今は。
ミランは静かにドアを開けた。目的地は考えていないが、そのうち決まるだろうと歩き出す。
階段を降りたところで、見知った顔に出会った。
「ミラン」
「アルトさん?」
以前偶然出会ったことをきっかけに、力を貸してくれるようになったトランの英雄その人。かつて彼が置かれた境遇が今の自分に近いことから、ミランとしては先輩のように思えて慕うようになっていた。だが、基本はグレッグミンスターの自宅に滞在し、こちらからの要請を受けてこの城に来ることが多かったのだ。要請なしにこの場にいるのは、極めて珍しい。
「どうしたんですか?」
ミランが首を傾げながら問うと、アルトは君に会いに来たんだ、と言う。
「僕に?」
「そう」
アルトは首を傾げたままのミランに、微笑みかけた。その表情からは、まだ目的が読めない。
「君が今一人でいたいか、誰かといたいかにもよるのだが」
「……それは……」
それはつまり。ミランは自室を出た理由を思い返しながら再び問いかける。
「……一緒にいてくれるってことですか?」
その問いに、アルトは柔らかい表情を変えないまま、どこへ行きたい、と問い返した。
◇ ◇ ◇
「本当は、もっと遠くに行きたかったのだが」
外は、雲一つない快晴だった。程良い強さの風が吹いていて、爽やかだ。屋上から城内を見渡しながら、アルトが口を開く。
「今の君の体調で連れ出すと、君の軍師殿に出禁を言い渡されそうで」
「……そんなことは……」
ない、と言いかけて留まった。通常であれば隣国の英雄にそんなことは言わないだろうが、シュウならやりかねない気もする。何よりもこの軍の、ミランのことを優先する男だ。
「でも、ここでよかったです。今は、賑やかな方がいいかなって」
シュウ云々はさておき、見下ろす地上で忙しなく動き回る人々を眺めながら、ミランはそう思っていた。今は、この場所がベストだと思う。その言葉を聞いたアルトは、そうだね、と頷いてみせた。
「僕も、そうだった」
肯定を受けて、景色を見ていたミランの視線がアルトに移る。
「……やっぱり、そうですか?」
「少なくとも僕は。こういうときは、一人でいたくないと思うことが多かったな」
「はい」
やはり同じなのか、とミランは思った。ミランは、誰かに会いたくて自室を出たのだ。何故なら。
「一人だと、色々考え過ぎてしまいそうで」
誰かと一緒にいて、話をしていれば、思考の海に沈むこともないと思った。沈み過ぎたら、戻ってこれなくなりそうで。
『気持ちいいねー!』
明るい声が、耳を打った気がした。ミランは声の主がよく立っていた場所へと、目を向ける。今は誰もいない、その場所へ。
「……ナナミはこの場所が好きで、よくいたんです。風が気持ちいいって」
あれから、ふとした時に考えてしまうのは、姉のことばかりだ。よくいた場所、元気な声、明るい笑顔。それから――自分とジョウイの今の状況に悲しむ顔――そして、最期の瞬間。
「一人だと、どうしてもマイナスの方向に思考が行きそうで。もっと何か、できたのかもしれないって」
例えば、逃げようと言われた時にその手を取っていたら。同行の申し出を、危ないからと断っていたら。そして、あの時、もう一歩前に出ていれば。それ以外にも、もっと、もっと何か。
「今更そんな事を考えても、意味がないのに。どうしても一人だと、そんなことをぐるぐる考えてしまうんです」
自分が、昔のように田舎町の隅で細々と暮らしている身なら、それでもよかった。だが、今の自分の立場を考えるとそれでは駄目だと思うのだ。
「僕だけじゃない。他にも大切な人を喪った人は沢山いる。その人達の想いが集まったこの軍の、一応だけど上に立つ立場の僕が立ち止まっちゃいけないって」
誰かと話していれば、余計な事を考えなくて済む。だから、誰かの側にいたかった。話をしたかった。
「こんなに弱かったんだなって、思います。誰かに頼らないと、歩き出せない」
アルトは、自嘲の笑みを浮かべるミランを静かに見つめる。クレオや旧知の者達が、口々に自分とミランがよく似ていると言っていたが、アルト自身は、これまではそこまで似ているところがあるようには思えなかった。だが、今の彼は、まるでかつての自分を見ているかのようで。鏡に映った自らの姿を見ているようで。
あの頃の自分に言葉をかけるとしたら、何だろう。
「……弱さも、悲しみも、捨て去る必要はないと思う」
あくまで僕の意見だが、と話し始めると、ミランは僅かに目を瞠った。
「そういったものを無理矢理抑え込むと、きっと体のどこかに綻びが出る。大切なのは、その弱さや悲しみを抱えながらでいいから、歩き出すことだと思う」
たとえ足が動かなくても、なんとか一歩ずつでも動くことが大事なのではないかと、アルトは言う。
「抱えた重さで動けないなら、先程君が言ったように、誰かに頼ればいい。君を支えたいと思っている者は、ここには沢山いるだろう」
「……アルトさんも、そうでしたか?」
アルトの言葉を噛み締めるように聞いた後、ミランはそう尋ねた。ミランも、アルトに似ていると言われていたことを思い出したのだ。そして、先の戦争で多くの喪失を経験したということも。
「あの頃は必死に動いているだけだったから、果たして自分がそうだったのかは覚えていない。でも、今ならそう思う」
アルトはそこで一度言葉を切り、空を見上げた。雲一つない空の向こうに、まるで誰かがいるかのように。
「……毎朝、起きてすぐ聞こえる声が聞こえなくなったことは、とても寂しいと思ったし、それは今でも変わらない」
「……そうですか……」
同じだ、とミランは思った。英雄と呼ばれるこの人も、自分と同じような悲しみを、寂しさを今でも抱えている。そして、歩き続けている。
「今のように、僕に話してくれてもいい」
「……いいんですか?」
アルトももう十分重いものを抱えているだろうに、自分が寄りかかってもいいものか。ミランは懸念したが、アルトはあっさりと勿論、と答えた。
それを聞いた途端に、目の前のこの人に、体を預けたくなって。
「……手、握ってもいいですか?」
確認すると、構わない、と手が差し出された。それを、そっと握る。手袋越しではあるが、触れているところから温かい力が流れてくる気がして。足りない、もっと欲しいと思ってしまったミランは、すみませんと断ってから手を引いてアルトの身を引き寄せた。ゆっくり彼の背中に手を回し、腕の中に閉じ込める。
「こうしてるたけで、体が軽くなる感じがします」
「医者である知人が言っていた。触れ合うことは、心の薬になると」
「そうかもしれません」
ミランはそれきり黙ったまま、大きく深呼吸を繰り返す。負の感情を吸い込んで、身の内で昇華しているように見えた。こうして触れていることで、その昇華に力添えできているだろうかと、アルトは思う。
悲しみの深さは、よく知っている。それでもミランが歩き続けなければいけないことも知っている。ならばその悲しみを、少しでもこちらで引き取れればいいのに。アルトの腕も、自然とミランの背に回っていた。
どれだけの時間そうしていただろう。やがてミランがゆっくりと身を離した。
「ありがとうございました」
「これくらいなら、いつでも」
「いつでもいいんですか?」
「あぁ」
太っ腹だなぁと、ミランが笑う。少し明るさを取り戻したように見えるそれに、アルトの身も少し軽くなったように感じた。
「もう大丈夫です。悲しいのは変わらないけど」
弱さも、悲しみは捨てないけれど、立ち止まろうとしてしまう自分だけは、この場に置いていく。
立ち止まって振り返るのは、全てが終わってからでいい。
「僕は――」
一度言いかけて、言葉を切った。ミランは数秒目を閉じて、開けて、それから口を開く。
「俺は、歩き続けます」
だから、側にいてくれますか、とアルトをまっすぐ見据えてミランは言った。彼の目からは悲しみは去っていないものの、前へ進もうという強い光が戻っていて。その光に眩しさを感じながら、アルトは勿論だと、迷わず先程と同じ答えを返した。