ラブミー・テンダー【犍陀多にもなれない】

熱い湯が肌を滑り「今は一体何時だろうか」と考える。今日人間をひとり解体したのだった。俺の家について何時間がたっただろう。緩やかに時間の感覚が狂っていた。無意識のうちに頭の隅に追いやろうとしていた事実を思い出したとき、シャワーヘッドから押し出される熱い湯が冷水に感じられる。ボディーソープは使い切った。ストックしてあった石鹸はもうすぐで擦り切れそうだ。俺は、多分何時間もアホかというほど体を擦っていた。指の先から冷えて行く感覚。ただ、擦りすぎた皮膚だけが摩擦で炎症を起こし燃えるように熱かった。ああそうだこの手で触った肉の温度。一線を超えたとはこういうことをいうのだろうか。どちらにせよ、初めて人を殴った瞬間から逸れた道をまっすぐにするすべなぞなかったように思うが。
多分何時間か経過して、一向にバスルームから出てこない俺をおかしく思いヤノさんがここに入って来たのは何時間前だ。ヤノさんはバスルームには不釣り合いに、服を着たまま俺の目の前に立っていた。跳ねた水滴がグレーのスーツの色を変えてヤノさんの細い体の輪郭を浮き上がらせる。ヤノさんの顔を見ているといつも月を思い出した。青白く暗闇に浮かび上がる不気味な月。この人の顔が好きだ。いつも感情とアベコベ。傷ついた時には太陽みたいに笑うくせに、本当に嬉しい時この人は奥歯の奥で苦虫をかみつぶしたみたいなおかしな顔するんだ。この人のためならなんでもできる、何にでもなれると、鬼になったのだったか俺は。
「関口、関口。震えてかわいそう。でも安心しろそんなことでつかさねえさ愛想。怖かったか？震えるほど？そうか。どうだった人間の肉は、内臓は、血は。熱かったか、熱かったろうなあ。思ってるか俺たち終わりだって？ふざけんな第一歩だぜ。な、関口、な。」
俺は一度も相槌を打たなかった。けど、ヤノさんは俺ではない俺と話しているようだったしそれでよかった。今は彼の言葉を頭の中で噛み砕けるほどの体力は残っていなかったし、音楽みたいに滑らかに耳を滑る彼の声は心地がよかった。俺はこの時全く状況を把握できていなかったのだが、少なからず死体処理でショックを受けているであろう俺のことを、ヤノさんがいたわって、体まで洗ってくれているらしかった。そんなことがあっていいはずはないのだけどどうやらそういうことだった。情けない。ヤノさんより体格に恵まれている俺が彼にいらぬ心配をかけるのは心底情けなかったしそれでは俺の存在意義はないのだった。弱く情けない舎弟はこの人の隣にいらなかった。「ヤノさん俺大丈夫ですよ」戦力外通告をされてしまう前に口をついて出た言葉はなおさら俺を弱く見せる。ああもう最悪だよ。大丈夫なやつは大丈夫なんて言わねえんだ。そんなこと知ってるのにヤノさんはしどろもどろに言葉を絞り出す俺の瞳から一瞬も目を逸らさなかった。小枝のように細い指が俺の頰の傷を撫ぜた。その動きに官能的な意味を感じとって、少し身を引いたがその両腕の中に頭を寄せられる。頭のてっぺんから額、まぶたに濡れた唇を押し付けられて、最後は唇にキスされた。濡れた髪の先から先ほどまで温度を保っていた湯が冷たくなって額に落ちる。すぐに離れていこうとした頭を押さえつけてもう一度角度を変えて唇を押し付ける。つるりとした感触の舌だけが熱く、唇は驚くほど冷たかった。別に俺は、人間をバラしたことについて今更怖気付いているわけではないのだ。地獄まででもついて行こうと決めたこの人と、本当にもう一生離れなくていいという切符を手にしたような気になって、震えたのだ。
バスタブの端に小さなハエトリグモが跳ねているのをヤノさん越しに確認した。俺は彼を抱きしめた手を緩めて蜘蛛に手を、かける。皮膚の下で生き物が潰れた感触が伝わって身震いした。天井からつりさがる細い糸さえも燃やしてやろう。あなたが好きです。

「たとえば俺がドブさんに負けなかったら、あの時ちゃんと金を確認してたら、なんか変わってましたかね？はは…忘れてください…忘れて」

終