逸失の秋風 夏の去りゆく気配を感じる風だった。
そうしたことに深い理由はなく、ただ目の前でそうなったから、ドクターは手を伸ばした。押し寄せた風が、どこへ行くのかも知れない風が、そのままハットを攫ってしまわないように。腕を伸ばすだけでは足りず、視線をハットに注いだまま大きく一歩を踏み出した。その先に地面がなかった。たった数段の階段を踏み外してバランスを崩した。それだけだ。それだけなのに、風上の龍は今まで見てきたなかで一番目を見開いてこちらを見ている。見たことのない表情に、なんだかおかしくなった。
君、そんな顔もできるんだな。ハットを掴んだまま碌に受け身も取らず、そのまま強く体が地面に叩きつけられる。ぐにゃりと曲がってはいけない角度にドクターの足首が曲がった気がした。
「ドクター!」
数段しかない階段を軽々飛び越えて、龍が傍らに膝をついた。いつもはハットの下に隠れた龍のツノが、ひょこりと銀杏色を覗かせていてかわいらしかった。いつだったか、かっこいいって言ってくださいよと苦言を呈された気がする。ドクターは横向きに倒れたままの姿勢から仰向けとなった。ふう、と一息ついて上体を起こす。左手は身体を支えて、右手はハットを見せびらかして。
「ほら、リー。どこにもいかなかったよ」
そのまま龍の頭にハットを被せようとして、肩を大きな手でがっちりと掴まれた。堪らず驚いてしまい、体がぎしりと動きを止めた。
「なんであんなことしたんですか!」
浮き草のような、ゆぅらりと掴みどころのない、しかし心の隙間に簡単に入り込んでしまうような温い声ではなかった。龍の口から、鋭い怒鳴り声を聞いた。ドクターはひどくゆっくりと首を傾げ、平静とは程遠い強張った顔をした龍を見上げる。
「なにって…君のハットが飛ばされてしまったから、取っただけだよ」
「そんなの、あなたが怪我してまで取りに行くことないでしょう!いつもしてるフルフェイスのシールドだってつけてないのに、頭を打ったりなんかしたら……」
ふるりとドクターの目蓋が震え、一度視線が下の方へと泳ぎ、再度リーと目を合わせる。ドクターのその挙動が泣きたいのを我慢する時の癖だと知っているほどに、リーとドクターは親しい仲を築いてきた。
「そんなものなんて言わないで」
中断してしまったハットを被せるというミッションをクリアする。定位置に戻ったそれに「これでよし」とドクターが呟く。見慣れた姿に戻ったというのに龍が呆然としている。ドクターはハットの上からよしよしと子どもたちにやるのと変わらない手と心でリーの頭を撫でた。
「よかった。手の届かないところまでいってしまったら、もう探せないから」
ぽつりと零された言葉は努めて無感情かのように平坦な音をしていたが、リーの耳には寂しげな声色に聞こえた。そうして、目の前の人の境遇を思い出し、隠れて奥歯を噛みしめた。やってしまったな、とリーは思う。それにいちいち気を遣って発言することなんて不可能だと言われるだろうが、それでもリーはドクターにそんな声で話してほしくはなかった。
ドクターのなくしたものは、少なくとも今は手の届かないほど遠くへいってしまって、探してくれる人もいないのだ。
「ドクター」
泣かないでください、とは言えない。泣かせてあげたいくらいだ。周りが憶測で語るよりずっと、この人は酷く孤独で、疎外感すら覚えているのだろう。なくしたものが大きすぎて、心と体が乖離してしまっているのかもしれない。俯瞰的に物事を見聞きしてしまっているのかもしれない。あの雪に覆われた地で、将の隣に指揮官である自身を置いてしまうくらいには。
リーがドクターの足首を軽く視診し、外套の内ポケットからやや大きめのハンカチを取り出した。広げたところで「ハンカチ大きくない?大きい手の人専用?」とまじまじと見つめてくるドクターを無視してできる限り刺激しないよう靴を脱がせたが、やはり痛むらしく息をつめる音が聞こえた。応急処置になればと足首を固定するように巻いていく。ただでさえ大きいハンカチなのに、ドクターの細い足首のおかげで十分に固定に必要な長さが足りた。
「さっき足首、おかしな方へ曲がってましたよね?」
「正直立つのがすっごく怖い。ふにゃふにゃしそう」
「あなたはいつもぐにゃぐにゃですけどねぇ」
「のらりくらりしてる君に言われたくはないな」
手慣れた様子でハンカチを巻き終えたリーが、片方だけ脱がした靴をドクターに差し出した。ドクターが差し出された靴を受け取ると、リーの腕が背中と膝の裏を支える。まるで重さを感じていないように抱え上げられ、所謂お姫様抱っこをされていた。突然の浮遊感に体が強張るが「力抜いてもらった方が抱えやすいんで、リラックスしてください」と言われてしまい、深呼吸をする。ゆっくりと体を弛緩させれば、今度は別の理由で心臓がバクバクと荒れ狂う。リーの癖の強い髪がドクターの顔をくすぐった。
顔が近い。顔が近い。顔が近い!一気に顔が熱くなり、頬に血が集まっていくのがよくわかる。ひんやりとした秋の風が心地よい。
「ありがとうございます」
「なにが?」
「ハットをつかまえてくれたことです」
それくらい、と口をもごもごさせて言うドクターは、とうとう耐えきれず俯き気味にリーの肩に顔をうずめてしまった。
「それくらい、訳無いよ」
きっとその顔を覗きこめば、食べ頃までに熟れた可愛らしい顔が窺えるのだろう。ぴったりと体を寄せあったおかげで、小走りする鼓動がリーにも伝わってくる。
「ドクター。あなたのスケジュールに余裕がある時に、今度はあなたのうせもの探しをしましょうか」
「えぇ?いいよそんなの……面倒くさいでしょ?」
寧ろドクター自身が面倒くさそうな声で言うものだから、リーはつい笑ってしまった。笑って、抱えなおすフリをしてドクターを抱える腕の力を強める。一層強く、鼓動を近くへ抱きしめる。
「訳無いですよ」