Happiness is a warm puppy「あなたのことが好きなんです……」
あの日。おそるおそる、といったふうに彼……降谷くんはそう切り出した。
突然何を言い出すのかとか、正気なのかとか……思うべきことは多くあったはずだ。だが、その時の俺は、彼のことをいたずらを咎められた子犬のようで愛らしいとしか思えなかった。
あの組織で初めて彼に会った時から、彼に対してはずっと似たような印象を抱いていた。幼子や他の小動物ではなく、間違いなく「子犬」としか言い表せない何かを彼は持っている。普段は自信家で、明るく人懐っこい雰囲気でありながら、時々寂しそうに物思いにふけっている姿が、あの有名なビーグル犬のキャラクターを思わせるからだろうか。いや……そう難しい話ではなく、ただ単に、俺が動物の中では特に犬を好ましく思っているからにすぎないのかもしれない。
だからこそ、彼の告白を受け入れることに、何も不安や戸惑いはなかった。可愛い、大切だ、何よりも愛しい……と思う相手と「そう」なることに疑問を抱く余地はないし、俺の方も降谷くんと「そう」なることを望んでいたからだ。
それとはっきり自覚をしたのは、彼の言葉を受けてからのことだ。愛の告白をしたばかりだというのに、審判を待つかの如く緊張した様子の彼は、まさにしょげかえった子犬のようだった。そんな彼の金茶色の髪を思い切り撫で回して安心させてやりたい、ぎゅっと抱きしめて温もりを分かち合いたい、かなうなら俺にじゃれついてきて目一杯甘えて欲しい……という衝動的な欲望は、何も彼が子犬のようだからという理由のみからもたらされたものではなかった。俺は降谷零を……否、彼が何ものであったとしても、彼自身を愛している。温かくて柔らかな彼の愛情をこの身に感じる度に、その想いは徐々に深まっていった。
しかし、そうやって満たされた気になっていたのは、俺だけだったのかもしれない。
ある夜、彼の唇から「ミドリ」という言葉がこぼれ落ちた。
彼がその言葉を呟くのは就寝中……つまりは寝言としてだった。最初こそ聞き間違いかと流しはしたものの、二度、三度と同じことが繰り返されると、さすがに間違いではないと思わざるを得なかった。俺がその寝言を聞いたのは数回にすぎないが、彼と毎夜ベッドをともにしているわけでもないからには、実際にはもっと多くの回数の「ミドリ」という言葉が彼の唇から吐き出されているものだろう。そう思うだけでも、もやもやとした何とも言い難いような澱みが胸の中に広がってゆくようだった。
しかし、無意識の状態で幾度も同じ言葉を呟くからには、それは色彩や他の意味を纏う言葉ではなく、人名なのだろうと思う。その主は日本人の女性だろうか……否、男性にもないとはいえない名前だし、あるいは苗字だということも考えられる。新手のコードネームの可能性も否定はできないが、件の組織以外の仕事に彼が大きく時間を割いている様子はない。無論、彼の周辺や職場の関係者でも、疑わしい要素を含んだ者は俺の知る限りでは皆無と言ってよかった。どこの何者が彼にこれほどまで執着されているものか……正体を突き止めるにしても、干し草の中から一本の針を探し出すようなもので、途方もない話だった。
ならば、こちらもそれなりの手を打つしかあるまい。一番手っ取り早いのは、彼が余計なことに気を取られないようにすることだが、さすがに四六時中監視を続けるわけにもいかない。それなりの手などと言ってはみたものの、連絡なしで突然彼の家を訪ねたり、そのままベッドをともにしたり、休みを合わせて一緒に過ごしたり……と、彼一人だけの時間をできる限り少なくするあたりが関の山ではあるのだが。しかし、そうやって訪ねた先で彼が不在にしていたことはなく、こちらの目を盗んでどこかに連絡を取っていることもなく、他に何らかの違和感が生じた様子もなかった。本来ならそこで胸を撫で下ろすところだろうが、相手はあの降谷零だ。その程度で易く尻尾を掴ませてくれるはずもない。
その夜……無意識のうちにまた、彼はその名を漏らした。それからくすくすと笑みながら、「やだ、くすぐったい」というような言葉を続けたうえ、俺の髪を指先でさらりと梳いていった。おそらくは、俺ではなく「ミドリ」に対して夢の中でそうしているものだろう。ベッドの上で一戦……という表現では控えめすぎるほども熱烈に情欲を交わした、そのわずか数時間後だというのに。あれだけ睦み合ってもなお、俺などでは「ミドリ」に及ばないというのか。彼はいま、夢の中の「ミドリ」と何をどうしているものか……。あれこれと考えを巡らせると嫌なことばかりが思い浮かび、気がおかしくなりそうだった。
そして……どうすることもできずにそのまま朝を迎え、今に至っている。その場で彼を叩き起こして問い詰めるとか、朝になる前に黙って帰るとか……方法は幾つかあったはずだ。だが、どの方法も彼と過ごす心地よい時間にヒビを入れてしまいそうで、迂闊に選び取ることはできなかった。そうやってやり過ごすことで選択肢は徐々に少なくなってゆくのだが……それは彼と少しでも長く過ごしたいからというよりは、よからぬ真実が詳らかになることが怖かっただけかもしれない。
彼からは休日が重なったから昼食はどこかに出かけようと誘われたが、快晴の空の下でデートを楽しむような気分にはなれなかった。それならデリバリーを、と彼がスマホを取り上げるのをやんわりと押しとどめ、簡単でいいから何か作って欲しいと告げた。そうやってリクエストすることは何も今回が初めてではないため、彼は特に疑問に思わなかったようだ。……本当はスマホやタブレットといった、他の誰かと連絡を取れそうなものを彼から遠ざけておきたい、などという自分勝手な思いがあっただけなのだが。
結局は家で怠惰な休日を過ごすことになり、片付けを終えた降谷くんはヤレヤレと呟きながらソファーに腰を下ろした。彼はすぐにテーブルに手を伸ばし、リモコンを取り上げてテレビをつけた。何か面白い番組をしていないか……とチャンネルを次々に変えていたが、選局を一周させた末、刑事ドラマに落ち着いたようだ。とはいえ番組も始まってしばらく経っており、彼もそのストーリー自体を楽しむつもりではなさそうだった。
「そっち、少し詰めてくれるか」
隣に座りながら告げると、彼はそれだけで意図を察したらしい。彼はアームの方に少し寄って座り直し、どうぞ、と言うように自分の膝を軽く叩いた。俺が膝枕を強請っている……ということは、正しく彼に伝わっているようだった。そのまま横になり、彼の脚の上に頭を預ける。互いにしっくりとくる場所を探る間に伝わる、彼の筋肉の動きやほのかな温もりは、俺にとって癒やしのようなものだった。そうやって彼にわがままを許されること、彼の体温を感じるほどの傍に居られること……それが日々を美しく彩る小さな幸せの一つなのだと実感できるからだろうか。
そのうちに彼の掌が俺の頭に置かれ、髪を柔らかく撫で始めた。彼は俺の髪をことさらに好いているらしく、膝枕をしている時だけでなく、それこそベッドで抱き合っている時にも同じようにして触れられることが多い。さわさわと髪の表面を撫で、毛先を摘んで弄び、そのまま指先に絡めるなどして戯れているかと思うと、不意に指先が髪の間に差し入れられ、地肌を探るようにして甘く愛撫される。うとうととした眠りを誘う心地よさと、官能を呼び覚ます熱とがないまぜになったような感覚は、当然ながら俺も嫌いではなかった。それが降谷くんから与えられるものなら、なおのこと……。
「心地いいよ、とても」
「えっ……? 何って?」
「男の膝枕で喜ぶなんて、お前の気がしれない……という顔をしていただろう」
思ったことをそのまま言葉にすると、彼はひどく狼狽えた様子をみせた。柔らかく髪を撫でていた彼の手が動きを止め、頬を預けていた太腿がピクリと反応した。そのまま彼が居心地悪そうにもそもそと両脚を動かしていることも、ダイレクトに伝わってくる。
「えぇ……そこまで思ってないですよ」
彼の返答は、予測していたものと少し違っていた。笑いまじりに肯定して茶化すのか、完全に否定して情事のきっかけにするのか……そのいずれかだと思っていたからだ。しかし、「そこまで」ということは、何かしら彼にも思うところがあったということだ。それを取り繕うこともしないのなら、暴かれてもいいと思っている、ということなのだろう。
「なら、もう少し控えめな内容だったのかな?」
「んー……そんな感じ、かな……」
水を向けても、易く打ち明けるつもりはないようで、やはり言葉を濁される。手持ち無沙汰なのか、一度は動きを止められていた手が愛撫を再開しようとした。するり、と髪に差し入れられた指の触れ方がいつもより粗雑に感じられる。ああ……こんなことで誤魔化そうなどと、なんという下策を選び取るのか。あまり深く追及するつもりはなかったが、彼が滅多に見せない隙だ。踏み込むなら、いま、なのだろう。……いや、これは彼によって巧妙に張り巡らされた罠で、もっと深くまで切り込んで来いと誘われているのかもしれない。暴かれてもいいのではなく、暴いてみせろという彼からの挑戦だというのなら、それはそれで受けないわけにはいかなかった。
「本当は何を思っていたんだ? 例えば……」
軽く首を振って彼の手を払うと、俺はソファーに身体を起こした。彼ににじり寄りながら、横抱きにされるようにしてその脚の上に座る。そのままではさすがに座りがよくない。いつもそうするように、俺は彼の首に両腕を回し、可愛らしい彼の顔を、吸い込まれてしまいそうに美しいブルーアイズを間近で見つめる。
ああ、これはお互いにスイッチが入ったな、と感じる瞬間がある。彼の腕が俺の脇腹から腰をゆるく撫でるようにして回され、ぐいと引き寄せられる。その手はTシャツの上から肌をまさぐりながら、布地を手繰るようにしている。彼の手が直接肌に触れたがっていることは明白で、俺の身体もそれを受け入れようとしていることは彼にもわかっているだろう。目の前にある柔らかな唇に触れたが最後、もう後戻りはできなくなる。
だが……なし崩しに事に至る前に、俺には尋ねるべきことがあった。俺は降谷くんの額に自分のそれをこつりと押し当てた。この話が落ち着くまで、スキンシップもキスも一旦お預けだ。
「……なあ、『ミドリ』って誰なんだ?」
「なんでそれを……」
また、彼はひどく狼狽えた様子をみせた。それも、先程とは比にならないほどの様子で……。やはり、そこが彼の触れられたくない部分だということか。嫌な予感が的中してしまったという苦い思いがせり上がる。
「なるほど、やはり覚えがあるようだな。昨夜もいい夢をみていたようだぞ、そのミドリとやらの」
「えっ、寝言聞いてたの? 嘘でしょ……?」
「嘘なものか。……散々に俺を抱いた後だったというのに、ニヤニヤしながら平気で他人の名前を呼びやがって……。昨夜だけじゃない。何度も繰り返して夢にまでみるとは、余程ご執心の相手とみえるな」
「それは……」
まだ言葉を濁すのか。この期に及んで往生際の悪い。沈黙は肯定に匹敵することを、知らないわけでもないだろうに。……せめて今すぐに、彼が何らかの言い訳でもしてくれれば、考えを切り替えることもできるはずだが……何を迷う必要があるのか。
それとも……最初からすべてが間違っていたのだろうか。彼に愛を告げられてからというもの、この身の奥深くまで彼の愛情を注がれて、歓びとともに受け入れたつもりになっていたが、その何もかもが、まやかしだったとでもいうのか……。
ならばこれ以上、彼の言葉を待つ意味などない。俺は腰を抱えていた彼の腕をほどき、そのままソファーを離れた。
「……いや、もういい……」
己の唇からこぼれ落ちたというのに、その言葉はやけに無機質で、まるで他人事のように聞こえた。
「待って、お願い」
突然、降谷くんは俺の手首を掴み、強く自身の方へと引き寄せた。妙な姿勢で倒れ込んでしまうと、彼がどこかを痛めるかもしれない。そう思い、どうにかその場に踏みとどまる。だが、すがりつくような声色が、ぎゅっと握られた手が小さく震えているさまが……また、あのしょげかえった子犬のような彼を思わせる。
そして、彼が告げた言葉は、またもや俺の予想とは大きく異なっていた。
「あのね……僕、猫好きなんですよ」
「……なんの話をしている?」
これまでの話のどこがそんな話につながっているのかがわからず、思わず眉根を寄せる。しかし、適当な方便でもないのか、彼はさらに食い下がった。
「いいから、ちょっとだけ聞いて」
「聞く意味があるのか。話をそらすつもりじゃないだろうな」
「そんなつもり、ないですから……お願いだから、安心して聞いて。ね?」
彼はぐいぐいと俺の手を引きながら、またも自分の膝を叩いてそこへ座るように促す。今からでも言い訳をするというなら、聞かないでもない。だが、先程とは打って変わって、彼は穏やかで優しい笑みをみせていた。もしかすると、言い訳……ではないのだろうか。拒む理由もみつからず、俺は彼の膝の上に座ることにした。そうやって座るといつも彼の肩に両腕を回して抱きつくようにしてしまうのだが、さすがに今はやめておいた方がよさそうだった。一度は持ち上げかかった腕の置きどころに迷ったものの、最終的には自身の膝の上に落ち着かせるよりなかった。それを見計らったように、降谷くんは再度、俺の腰にそっと腕を回して抱きかかえるようにした。
「……僕、子供の頃、猫を飼ってたんですよ。つやつやの黒い毛皮で、透き通るような緑色の瞳をした子猫。どこに行くのも一緒で、家でもしょっちゅう膝の上に乗ってきてて、そんな時は僕もどう動いたらいいかわかんなくなって、翻弄されてばっかりで。夜も僕の布団にいつも潜り込んできてたし、ホントに甘えん坊で可愛くて、大好きで堪らなかったな」
そんなことをぽつぽつと話し、降谷くんは俺の頬に掌を押し当てた。そして、そのままふわりと髪を撫でられる。彼が触れてくれた場所からじわりと温かさが生まれるような……いつもと変わらない優しさが溢れていた。
「その猫のことね……『ミドリ』って僕は呼んでました。綺麗な緑色の瞳……あなたの瞳と同じ色をしてた」
は……?
いま、彼はなんと言った……?
あれほどまでに気を揉まされた原因の「ミドリ」が、まさか……猫だったなどというのか……??
「なっ……猫の話、だと……?」
何もかもが間違いだった……どうやら、その部分は正しかったようだ。ただし、俺の思い過ごしが度を越していたのだ、という意味合いで。それを意識するだけでも、文字通り顔から火が出てしまいそうなほどの羞恥に襲われる。……冷静を装ってそんなことを考えでもしないことには、この場にこうして居ることさえ気まずい思いで一杯だった。
だが、降谷くんは俺の顔を覗き込むように、ことりと首を傾けた。ああもう! 頼むから、今だけはそっとしておいてくれ。後でどれだけでも埋め合わせはするから……などという願いも虚しいだろうことは、俺が一番よくわかっていた。
こうなったら、致し方ない。つい先程そうしようと思っていたように、彼の肩に両腕を回し、ぎゅっと強く抱きつく。俺に残された数少ない選択肢からとなると……彼の視界から一時的に外れるためには、そんな下策を選ぶことしか、もはや考えつかないでいた。
「ふふ……可愛い、猫に嫉妬してる赤井」
「……うるさい。黒猫にそんな紛らわしい名前をつけるな」
「えぇ……だって、緑色の目がすごく綺麗だったから、ミドリ。何もおかしくないと思うけど」
「だとしても、その猫と俺になんの関係があるんだ。目の色が同じくらいなら、他にもゴマンといるだろうが」
「そうかもだけど……実はね、ライに初めて会った時から思ってたんですよね。綺麗な瞳だけじゃなくて、雰囲気がミドリに似てるなぁって。だから、僕の人生初の……っていうか、最初で最後の一目惚れ、あなたになんですよ。……どう? そろそろ僕の言うこと、信用してくれる気になった?」
「君な……あまりしつこいようだと、それなりのことをやり返すぞ」
このまま聞かされ続けるのもいたたまれず、俺は顔を上げて彼を至近距離から睨みつけた。だが、彼はそれに怯む様子もなく、それどころか嬉しそうに微笑んでいるばかりだ。
「やり返す、って何を? 猫みたいに引っ掻くつもり?」
彼はまた、戯れのように俺の頬を指先でくすぐった。そうやって彼に触れられることは、確かに心地いいのだが……このままやられっぱなしでばかりいるのも性に合わない。
「Meow」
猫、と言われたからには、そうしてやるのが礼儀というものだろう。威嚇するようにすぐ目の前で猫の鳴き真似をすると、彼はさすがに驚いたらしく、大きな目を軽く見開いてみせた。その隙に、彼の美味しそうな肌……無防備に晒されたその首筋へと唇を押し当てる。強く吸い、舌先で肌をくすぐり、そこに甘く歯を食い込ませてゆく……とはいえ、何も本気で彼に噛みつこうと思っているわけではないのだが。
そして……彼もまた随分と負けず嫌いな性格をしているからには、それなり以上にじゃれついてきて、昨夜のように舐めたり囓ったりと散々ないたずらを繰り広げ、俺の身も心も満たしてくれるものだろう。それこそ、いつでも温かな幸せをもたらしてくれる、愛らしい子犬のように。