安赤ワンドロワンライ【チョコレート】「あなたに毒を盛りました」
自身のデスクで書類と睨み合う赤井の目の前に、降谷はトラベラーリッドが被せられた紙コップを一つ置いた。そして、もう片方の手に持っていた紙コップも、その隣に並べるようにして。二つのカップは大きさも模様も、巻かれたカップスリーブも全く同じで、どこかに目印がついている様子はない。無論、プラスチック製の蓋に覆われているからには、色や匂いも外からはわからない。
「物騒なことを、随分と楽しそうに言うものだな」
「ええ、僕の念願ですので」
赤井の隣に立つ降谷は、くす、と笑みをこぼしながら、二つの紙コップの間で指先をゆるりと往復させた。
「中身は近くで買ってきたコーヒーで、片方にだけ毒が入っています。あなたは必ずどちらかを選び、飲まなくてはならない。残った方は、僕が飲む。片方には死、片方には生が……ほら、あなたの好きな、あの名探偵が活躍する長編小説にも、そんなくだりがありましたよね? あれに倣った、賭けのようなものです」
「どちらか一方は明日の太陽を見ることはできない……だったか」
赤井が小説の一節を引用して告げると、降谷は我が意を得たりとでもいうように頷く。降谷が何かの意図をもって、この遊戯を仕掛けようとしていることは明白だ。しかし、薄く笑みを浮かべたままの彼からは、赤井もまだ、その真意を伺いきれないでいた。
「それで、その話に乗るメリットは、どこにあるのかな」
「そうですね……特別に一つだけなら、質問をしてもいいですよ。僕は何を問われても決して嘘はつかず、正直に回答します。仕事上のことでも、プライベートなことでも、何でも構いません。さあ、何を聞きますか?」
「いや……今は特にないな」
「このまま勝負を降りるつもりですか?」
意外な答えに軽く目を見開いて驚きをみせる降谷に向かって、赤井は首を横に振って応じる。
「それもノーだ」
赤井は最初に置かれた方の紙コップを手に取り、蓋を外した。紙コップからは、ふわり、と湯気とともにコーヒーの芳醇な香りが立ち上る。
「……どうやら当たりのようだな。カフェモカのフレーバーだ」
「どうしてそちらが当たりだと?」
降谷はもう一方の紙コップを取り上げ、同じように蓋を開けた。その中身はミルクを混ぜているらしく、赤井のものより幾らか明るい色をしていた。降谷はコーヒーに軽く息を吹きかけて冷まし、半分ほどを一気に飲んだ。
「古来、チョコレートは媚薬、あるいは毒薬にもなり得ると信じられてきた。後者については、カカオ元来の強い苦味と、それを緩和させるためのスパイスの風味からきた俗説かもしれないが。まあ、キスの二倍の心拍数を催させるとも聞くから、その成分が体に何らかの変化をもたらしていてもおかしくはない。ブラックチョコレートだと、なお効果があるそうだが……」
赤井は紙コップに唇をつけ、一口をじっくりと味わう。先程彼自身が告げたように、濃厚なエスプレッソの中に、ほんのりと、だが深みのあるビターチョコレートのフレーバーが混じっている。
「……この程度では影響も何も、というところだな。即効性があるわけでもなし」
赤井はさらに一口を飲むと、紙コップをデスクに戻した。普段と変わりのないその様子を見ながら、降谷は小さく溜息を落とす。
「残念。……量が足りなかったか」
「いや、問題は量ではなく方法だ。それから……質問の前とはいえ、嘘はいけない」
赤井は降谷の手から紙コップを取り上げ、自らの口元に近づけた。しかし、赤井はそれには唇をつけず、軽くその香りを嗅いだだけだった。
「では、改めて一つ質問をしよう。こちらもカフェモカのフレーバーのようだが……君への影響はどうだった?」
赤井はミルク入りコーヒーの紙コップをデスクに置き、緑色の双眸を降谷に向けた。それを受ける降谷は、しばし考える素振りをみせた。
「んー……それ、迷信じゃないですかね。たぶん……あなたとのキスには及ばない」
「たぶん、か……」
「生憎、僕はまだそれを知らないもので。正確な答えを聞きたいなら、今夜……あなたの時間を頂いても?」
「頂かれるのは時間だけなのかな?」
「質問は一つだけですよ。……まあ、これは僕の念願だ、とも言いましたが……」
降谷はブラックコーヒーのスリーブを外して開き、裏側を上にしてデスクに戻す。そこには既に、とあるホテルの部屋番号と時間とが記されていた。
「最終的に僕が賭けの勝者になるか否か……それはあなたが決めてください」
では、と言い置いてその場を去る降谷の背を見送って、赤井は唇を微笑みの形にする。明日の太陽は二人で見ることになりそうだ……と思いながら。