安赤ワンドロワンライ 黒/十五夜/魔王/お泊まり あれは魔王のような男だ。
いつしか組織の中では、そのような噂が聞こえるようになった。無論、それまでにも、悪魔だのなんだのといわれる者に出くわしたことはある。だが、いずれも噂に過大な尾鰭がついており、虚仮威しにもならない者ばかりだった。
じきに、噂の男と仕事をする機会が訪れた。とはいえ、こちらは狙撃手として遠隔から、顔も知らない彼をサポートする役目だったのだが……予定された時刻、予定された場所に彼らしき男とターゲットは現れなかった。
「……ライ? 聞こえます?」
インカムを通じて聞こえる男の声。俺は「バーボン」と呼ばれる男を、件の噂と、この声でしか知らない。
「……ああ、今どこにいるんだ、バーボン」
「あなたよりも、少しだけ月に近い場所に」
「ふざけるな」
「酷いな、本当のことなのに。でも……このまま暇を持て余してると、ターゲットは僕が片付けちゃうかも」
「生かして捕らえろと言われていたはずだが」
「不可抗力って、何事にもつきものだと思うんですよね」
「いいから待て。すぐにそちらに行く」
「ええ、特別に待っててあげます。……あと少しだけならね」
くす、と喉の奥で笑みをもらし、彼はすぐに通信を切ってしまった。
何を勝手な真似を……これ以上の面倒事に巻き込まれるのは御免だ。通信範囲と彼の言葉とから判断すると、十中八九はこちらの待機地点から南側に見えるビルの屋上だろう。俺はライフルを仕舞ったバッグを背負い、その場所を目指した。
目的地は朽ちかかった廃ビルのようだった。屋上までをざっと外から見上げるが、電気系統は動いていない様子だ。ならば下手に中に入るよりはと思い、外階段を一気に駆け上がる。だが、屋上に到達する少し前に、一発の乾いた銃声が耳を打った。
屋上では、男が仰向けに倒れていた。事前に聞いていた容貌と照合するまでもなく、それがターゲットに違いない。男は肩のあたりから出血しているらしく、低い呻き声をあげながら自身の手で押さえてはいるが、流れ出した血の染みが床に少しずつ広がっていこうとしていた。
「残念。もう着いちゃったんだ」
もう一人の男……バーボンは銃を提げたまま、漆黒のコートの裾を翻し、靴音を響かせてターゲットへと歩み寄る。ざり、と靴底が砂を噛む音とともに彼は片脚を軽く持ち上げ、倒れた男の喉元を踏み躙った。彼の構えた銃が、男の心臓に狙いを定める。
「それ以上はよせ!」
制止する俺の言葉と同時に、彼は表情を変えることなく引き金を引いた。……しかし、そこから発されたのは再度の銃声ではなく、カチリという軽い音だけだった。先程の一発が最後だったらしいことに、深く安堵の息をつく。そのうちにも彼はつま先を男から離し、銃をコートの内側に仕舞った。
「よかったですねぇ。命拾いしたようですよ……ここでは、ね」
青白く冴える月明かりに照らされた彼の横顔も、風にさらりと靡いた黄金の髪も、これまでに目にした何ものよりもはるかに美しく、それを確実に言い表すだけの言葉を俺は持っていなかった。彼は静かに、頬に飛んでいたらしい返り血を袖で拭い、乾いた唇を自身の舌先で軽く湿して、こちらへと柔らかな笑みを向ける。その仕草のすべてが凄絶なまでに鋭く俺に襲いかかっていた。
「初めてお目にかかりますね、ライ。僕がバーボンです」
快晴の空の色をした瞳が、俺をまっすぐに射抜いた。圧倒的な美と、妖艶でさえある官能との化身であるかのように、彼はただその場に佇んでいるだけだ。それだけなのに、俺は彼から目を背けるどころか、固唾をのむことすらもできないでいる。俺だけではなく、その姿を見た誰もが同じように思うだろう。
ああ……彼は確かに、魔王と呼ばれるにふさわしい男だ、と。
……あれから数年が過ぎた。
紆余曲折の末、俺と彼とは互いをコードネームではなく、本来の名で呼び合うようになっていた。それだけではない。今では互いの家を訪ねたり、時には夜を共にしたり……という、あの頃には想像すらしなかった関係にまで至っている。
「あ、ススキはテーブルの右に。それから、お団子は後できな粉にしましょうか」
ちょうど十五夜ということもあり、晩酌のついでに、と彼は月見を楽しむ準備をしていたらしい。窓際にテーブルを寄せて、酒やつまみだけでなく、簡単なお供えも用意して……という間、降谷くんは終始笑顔だった。時折混じる鼻歌もアップテンポの流行曲であり、随分とご機嫌なことは疑いようもない。
「なに? じろじろ見たりして。やーらしいんだ」
「いや、楽しそうで可愛いな、と思っただけだよ」
「えー、そうかなぁ。絶対、僕より赤井の方が何倍も可愛いのに」
彼はそんなことを言いながら日本酒を注いだグラスを差し出した。俺がそれを受け取ると、その手ごと、彼の掌にそっと包み込まれる。
「ね、明日休みだし、泊まっていくでしょ?」
「そうだな……どうしようか」
「ちょっと、そこは即答でイエスじゃないの? あなたがどんなに可愛いのか、今夜じっくり教えてあげたいんだけどな」
「……仰せのままに」
「やった!」
うふふ、と小さく笑いながら自分のグラスに手を伸ばしている彼の横顔は、あの日と同じ月明かりを受けていても、やはり可愛らしく思われる。本来の「降谷零」としての彼を知る者はそう多くはないはずだ。その彼の一番近くに居られることは、俺にとって何よりの幸福だった。
ただ……時折だが、身を震わせるほどの畏怖の念を抱かされた、あの姿を懐かしく思うこともある。しかし、今でも彼からその片鱗が完全に失われたわけではない。……今日のように月の美しい夜の、ベッドの上でだけは。