「あのさ……洋平と、その……つまり、もっと先に進みてーんだけどよ」
洋平を誘うために、どうしたらいいのかわからない。そう言う友人のほっぺは今が旬のサクランボみたいに赤く染まっている。190に迫ろうとしている大きな背中を丸めて指を弄るその姿は、まあ健気と言えなくもなかった。
大楠雄二は、一度大きくゆっくり静かに息を吸って吐いた。
相談があるから夜家に来いと花道に言われ、大宮を誘い出すために朝のうちにカレーまで仕込んだという話を聞いた時から、まあこんなことじゃなかろうかとは思っていた。花道にしては気の回ることに、今夜は洋平のバイトが遅くなる日だ。大楠はそっと野間のほうを向いた。諦めたような黒い瞳が、大楠を見返している。
こんなに無駄な相談は、この世を見回してもそうはないだろう。
何故なら、花道の相手は洋平だからである。
ずーーーーっと花道のことを好きで、少し離れた場所から花道の50回の失恋のたびに静かに目を伏せていたあの洋平である。
自分から動く気は毛頭なくて、だが今年の春、なんと花道の方からコクハクしてきたので、現在ただいま有頂天を極めている、あの洋平である。
大楠達が一言も発さなくとも、洋平はいずれ必ずこの目の前の友人をぺろりといただくはずだ。花道はなーーんも心配しなくてもいいと断言できる。
洋平が二の足を踏んでいるのは、ひとえに花道を大切にしているからだろう。花道は純だ。高校生にもなって、夢はお手てつないで登下校の男だ。
そこで大楠は、ひとつの疑問を呈した。
「先に進むって、今はどこまで行ってんの?大体おめー、先ってどーいうことか具体的にわかってんのか?」
「ふぬっ」
大楠は、口に出してからやや後悔した。
友人達を心の底から、ラッパを鳴らしながら、洋平の代わりに紙吹雪も散らしながら応援しているが、この友人達の生々しいアレやコレやを知りたくはない。
だが、花道がほっぺをますます熟れさせて話したところはこうだった。
部活終わりに迎えにきた洋平と、おててを繋いだ。
デートをした。映画見て、パフェ食べて、お揃いのキーホルダーを買った。夕焼けの海岸で、ほっぺにチューされた。
そしてなんと。2週間前から、お口にもチューをしている。
「先に進むって言うのは、つまり……アレだろ、C……ってやつ……カラダに触ったり……するんだろ……」
花道の声はか細くなり、顔はいよいよ真っ赤になり、瞳は羞恥にか潤んでいた。
大楠と野間はまた視線を合わせた。花道がもっと先の秘密の花園のことを知らなかったことに安堵し、そして口をつぐんでいようという確認である。それを花道に教えるのは、水戸洋平の仕事であろうからだ。
「ふっ、ふぬー!なんとかいえ!」
大楠は、このデカイ図体の友人が乙女のように恥じらう姿を見ても「ウブなやっちゃなー」としか思わないが、洋平が見ればまたかわいいかわいいと言うのだろう。
花道と付き合ってからの洋平は、まるで花が咲いたかのようだった。頭のてっぺんに、お花畑が咲いている。率直に言って浮かれまくったトンチキ野郎になっていた。花道がいるところでは、キリッとした顔を保って優しい彼氏をしているが、花道のいないところではデレデレのドロドロなのである。洋平は1キロ痩せた。昼ごはんを高宮に譲るからだ。花道が愛しくて、胸がいっぱいで、腹が空かないのだそうだ。花道が、寝ててもかわいい、起きててもかわいい男である。洋平は2年になってもまた花道と同じクラスになって、しかも席を変わってもらってまた花道の近くの席を陣取っているのだが、毎時間毎時間飽きずに花道を見つめているそうだ。ある時、花道が洋平とは逆側に顔を向けて眠っていた。その日洋平は花道のつむじは世界一かわいいと言った。大楠は屋上の青い空を見つめた。ヤニ下がった友人の顔が、見るに耐えなかったからである。
まあとにかく、世間一般からはともかく、水戸洋平から見れば桜木花道は世界で一番かわいい生き物なのである。
花道にかかれば、洋平などイチコロだろう。何故ならもう既に完全にまいっているので。
誘いたければ、そう言うだけでいい。
だが、それでは芸がない。
大楠は、ここ数ヶ月の洋平のノロケとも色ボケとも言えぬ浮かれポンチ具合に食傷気味であり、そして花道の変わらぬウブさを確認して、ムクムクとイタズラ心が湧き上がってきた。
野間と目が合う。
こくりと頷きあう。
「脱げば?」
「そうそう、露出は大事だぜ」
大楠は健康な男子高校生なので、可愛い女の子なら大抵なんでもサイコーである。
そしてもちろん、露出は多ければ多いほどサイコーだ。
そう言う気持ちで言ったのだが、花道はこてんと首を傾げた。
「でもオレ、昔から洋平の前で何度も着替えてるぞ」
洋平!!と立ち上がって叫びたくなった大楠である。多分、いや間違いなく、その頃から洋平は花道にフォーリンラブだったはずだ。ただただあの鋼の理性でニコニコしていただけなのだ。
ただその洋平の努力を勝手につまびらかにするのは良くないと思い、大楠は目先を変えた。
脱ぐのではなく、着るのである。
「……そりゃ、花道、やっぱイロケが足んねーんじゃねーか?服でも変えたらどーよ。普段とずっと同じカッコだと盛り上がらねーんじゃねーの?」
「ぬ。なるほど、服か」
具体的な案が出て、花道が立ち上がる。ドタバタとしばらく騒がしくしていたが、花道が持ってきた服はたった二種類の上下だった。
湘北バスケ部の赤いユニフォームと、和光中の小豆色ジャージである。
「オレ、洋平があんま見ねー服ってこんぐらいしか持ってねー」
そういえば、花道はあまり服を持たない男だった。最低限の服を着まわしている。これは、花道が幼少の頃から雨後の筍のごとくあまりにすくすく育つため、多く買ってもすぐに着れなくなってしまうからついた習慣だった。
「いや……ユニフォームは流石にまずいだろ……」
「洋平も多分そう言う気がするぜ……汚したくないとかなんとか……」
大楠達は、花道のバスケをする姿を見る洋平の妄言には聞き飽きている。
コートの中のあいつには羽があるだの、バスケ界に舞い降りた天使だの、とにかくなんかバスケ中の花道は特に神聖なもののように言うのである。多分、ユニフォームを着て誘ったら……どうだろう。わからない。大楠は頭を抱えた。
「いや……わかんねー。逆にメチャクチャ興奮すんのかもしれねー」
「おお!」
「いや、でも待て待て待て!そりゃ、一応借り物だろーが!」
「いつもこれ着て試合中汗だくになってんだし、ちょっと家で着ててもベツに問題ねーだろ」
大楠は、まーーー別に洗えばいいかなとも思ったが、これからも花道のバスケの試合を応援する身として反対した。あのユニフォームを見るたびに、友人のあんなことやそんなことを連想したくはないのである。
「……イヤ!やはり神聖なるユニフォームでそういうことをするのはけしからん!!」
「そのとーり!!」
高宮はモクモクとカレーを食べ続けている。花道は却下されたユニフォームを片付け、ついでにもう一方を着てきた。
和光中の、小豆色のジャージである。
「ウワ……」
「こりゃ……」
大楠と野間は絶句した。
たった2年前まで、フツーに着ていたはずの学校指定のクソダサいジャージである。それが、何故こうも犯罪くさいのだろう。
久しぶりに見たから?
バスケを始めて更に育った胸筋で、胸元の「桜木」のワッペンがパツパツに伸びているから?
それとも中学生のあの頃の、まだオレ達しか知らなかった花道を思い出させるから?
大楠はまた野間と視線を合わせた。無言のままの2人に、花道が焦れたように言う。
「なんとか言えよ!オイ高宮!オメー、カレー食ったんだからなんか言え!」
高宮は6杯目のカレーを食べ尽くしたところだった。そして高宮は食事に敬意を払う男であるだけでなく、そのなかでも特別にカレーに敬意を払う男であったので、彼の中の最適解を述べた。
「……洋平は花道のコト大好きなんだから、ただフツーに言えばいいだろ。そーいうことしてみてーって」
その通りであった。
そもそも、水戸洋平が桜木花道のお願いを却下できた試しなどないのである。それが水戸洋平も垂涎の内容なら、却下などされようはずもない。
「ただいまー。アレ、あいつら来てんの」
その時であった。
花道の家に、花道以外で「ただいま」と帰ってくる世界で唯一の男が帰ってきた。
水戸洋平である。
大楠と野間は同時に立ち上がった。
可能ならば、洋平がこの部屋に入る前に出て行きたかったが、居間は玄関のすぐ隣なので不可能だった。洋平がふすまを開ける。高宮は7杯目のカレーに七味唐辛子をかけていた。
洋平が、和光中ジャージを着た花道を見てビシリと固まる。
同じくビクリと跳ね上がった花道は、頭が真っ白になった挙句、今夜の友人達の全てのアドバイスを実行した。
①露出が大事
②普段と違う服
③そのまま言う
花道は、あろうことか「桜木」のワッペンのついた胸元をがばりとたくし上げ、ピンク色の乳首をチラリと見せながら大声で言った。
「洋平!オレとエッチなことしよ!!」
洋平が、一瞬石のように固まる。そして嫌にゆっくりと大楠と野間の方に振り返った。
その目の座り方が、完全にカタギじゃなかった。
「……申し開きは後で聞く。とりあえず出てけ」
大楠と野間は脱兎とばかりに駆け出した。取るものもとりあえず、ただいまだにカレーを食べている高宮を引きずって。
外に出て、ほっと息をつく。高宮は花道の家の数少ない皿をいまだに抱えていた。
「なんだよぉ。もう一杯食べようと思ってたのに」
「オメーなあ……あーもういいや。帰ろーぜ」
「このまま帰ったら悪夢見そう。ゲーセンかパチ行こ」
「いーね」
大楠達は、その夜パチンコでチョイ勝ちした。翌日登校すると、洋平の頭の上の花畑に虹がかかっていた。
「おはよう。昨日は誤解して悪かったな。高宮、花道んちの皿、ちゃんと返せよ」
ニッコリと笑う洋平の向こうの席で、花道が机に顔を伏せている。その耳が赤くなっていることに、大楠は気づかないふりをしてやった。