紫原 AM8パティシエの場合 八時
「黒ちん、できたよ」
名前を呼んで寝室を覗き込めば、ちょうど着替え終えたタイミングだった。
「今いきます」
「んー。今日はそれにしたのー?」
「はい。ダメでしたか? 今日はどこにも行きませんし」
首を傾げ、黒ちんは長い薄紫色のTシャツの裾を広げる。そのせいで、真ん中に描かれた猫の顔が少し伸びてブサイクだけど、オレと色違いだから何も言えない。そういうところが、あざとくて可愛い。
「別に〜ダメじゃないし」
「ならよかったです」
黒ちんはそう言ってオレにしかわからない笑みを浮かべながらどこか嬉しそうだった。だからオレも釣られる。一緒にいるようになって結構経つけど、喧嘩してもこの先黒ちんとは離れられない気がする。そう思ったら、今すぐ抱きついて、ギュってしたいけど、昨日もしたから今日は我慢。
黒ちんは、大人になっても相変わらず体力がない。エッチしても、すぐへたっちゃうから、そこだけが今の唯一の不満。まぁ、オレとしてはエッチをしなくてもそばに居るだけでもいいようになってきた。
同じ服着て、くっついて、だらだらして、一緒に甘いもの食べて――そこで、オレは今日の朝ごはんはを思い出した。
「朝ごはん、早く食べよ。お腹すいたし」
「お待たせしました。いただきましょう」
二人で寝室を抜けて朝ごはんを並べたダイニングに向かい合って座る。今日はオレの当番だったから、朝ごはんはパンケーキ、フルーツと生クリーム添え。飲み物はオレンジジュース。はぁ、お腹が鳴る。
「一応言うけど、おかわりあるから」
「はい。ボクはこれだけでお腹いっぱいになりそうですが」
「おやつでもいいしー」
「そうですね。ではいただきます」
「いただきまーす」
いつだって真面目な黒ちんは、ちゃんとナイフとフォークを使って少し厚めに焼いたパンケーキを器用に切り分ける。じゃないと、ちっちゃい口には入らないから。
「ふわふわでとても美味しいです」
「まぁ、こだわってるしね。んで、今日は何すんのー?」
「そうですね。洗濯物を干したら、溜まっている録画でも見ましょうか」
「オッケ〜」
オレが一口で半分食べる間に、くろちんは四分の一を三口。昔からペースは変わらないから、多分これが黒ちんのペースなんだと思う。もくもくと食べていると、やっぱりオレの方が食べ終わるのは早くて、黒ちんはまだ半分は残っていた。
それ、食べられるの? 黒ちんに聞こうとした時、目の前に小さく切られたパンケーキと生クリームがやってきた。
「紫原君、あーん」
掛け声のせいか、無意識に口を大きく開き、オレの口の中にはパンケーキが入ってくる。ふわふわで、生クリームとも相性が良く、自画自賛で美味しい。でも、なんか子供扱いされたと同時に心の奥がずきっとした。
「ふふ。君の一口には物足りなかったですね」
「んーん。それより、保育園でもそんな事してんの?」
「あぁ、食べさせたりですか? 食べない子にはしますよ」
「へーそうなんだ。じゃあなんでオレにはしたの?」
「それは、キミが物足りなそうだったから……」
目を丸くしてきょとんとする黒ちんに、オレは少しだけ苛立ちながらも、前に喧嘩した時言いたいことはちゃんと言えと言われたから、思った事をちゃんと言う。
「……オレ以外にしないでって言ったら、黒ちん怒る?」
「えっと、今のをですか?」
「うん、そう」
多分、めちゃくちゃわがままだって思われてる。でも、それでもオレは子供たちには負けたくないし、黒ちんを取られたくない。
「敦君は甘えん坊ですね。でも、キミのそう言うところ、嫌いじゃないですよ?」
「甘えん坊じゃないし。黒ちんの方が甘えん坊じゃん」
売り言葉に買い言葉。つい反論してしまうけれど、大人になったらオレたちは、昔みたいに本気の喧嘩にはならない。
「……じゃあ、今日はお互いがお互いに甘えませんか?」
「なに、それ」
「こうでもしないと、甘えられない人がいるようなので」
黒ちんはそう言うと、もう一口パンケーキをオレの口の中に放り込んだ。馴染んだ甘さがとても美味しくて、黒ちんの手の上で転がされてるような気がした。
「ずりぃ」
「ボク、キミがそうやって食べてる姿見るの好きですよ」
「オレだって好きだし。なんか、黒ちんリスみたいだよね。ほら、あーん」
黒ちんの皿のパンケーキをそのまま本人の口に突っ込めば、目を丸くして驚いていた。まさか、自分がされるとは思っていなかったのだろう。少し困惑した顔が、普段のポーカーフェイスとはかけ離れていて、少し面白かった。
「こら、急に、してはいけません。めっ、ですよ?」
「はいはい。ほら、最後一口早く食べちゃいなよ。んで、洗濯してダラダラするんでしょ」
「そうでしたね。じゃあ最後は特別にキミにあげます。特別ですからね?」
「黒ちんそれ自分が食べられないだ「はい、あーん」
半ば強引にオレの口に最後の一口を入れた黒ちんは、いつになく楽しそうだった。