赤黒(僕)社長の場合 二十二時
駅の改札を抜けて、ほっと一息をつくと目の前に今一番会いたかった人物が立っていた。
「おかえりなさい、征十郎君」
「テツヤ……! どうしてここに」
「一人で家で待ってるより、早くキミに会いたかったんです。一緒に帰りましょう」
「そう。ありがとう、嬉しいよ。ただいま、テツヤ」
今すぐにでも抱きつきたいのに、周りにはそれなりに人がたくさんいて、仕方なく肩を並べて歩くだけ。テツヤも僕が考えていたことがわかるのか、苦笑しながらも、歩幅を合わせてくれた。
駅から歩いて十分。それは、僕の感覚からすれば少し遠いのだけれど、テツヤからすれば十分歩いて行ける範囲だとマンションを買う時に教えられた。
実家や京都の家など、ほとんど与えられた環境にいた僕は、ごく当たり前の常識を当時はあまり知らなかった。それを教えてくれたのは、他でもないテツヤだ。少しずつ、当たり前を教えられて、それが日常になるくらい一緒にいる。僕にとってテツヤといる時間は何よりも変え難い物だった。
しばらく差し障りない話をしながら、マンションへ向かって歩いていると、次第に人通りもなく周りには誰もいなくなっていた。
僕はこの時がチャンスだとテツヤの手をとって、指を絡めた。ずっと、触れたかったテツヤの手。自然と心が落ち着いた。
「征十郎君は甘えん坊さんですね」
「保育園の子達と、どっちがテツヤに甘えてるかな」
「そうですね……同じくらいでしょうか」
「そう。じゃあ、もっと甘えて一番になりたい。ね、ここでキスしても良い?」
「こら、いけません。ダメですよ征十郎君。めっですから」
目を大きく見開いて、ギョッとするテツヤ。初めて見る顔に、そんな顔をもできるんだと、新たな発見が嬉しかった。
「ふふ、冗談さ。家でたっぷりしてもらうよ」
「はぁ。キミは冗談に聞こえない時があります」
「僕はいつでも本気だけどね」
「征十郎君。怖いこと言わないでください。ほら、家に着きますよ」
いつのまにか家の前まで来ていて、夜のデートはこれにて終了。一緒に家に入ると、たまらずキスを送った。
「ほら、あーんしてごらん」
「あ、あーん?」
「うん。よく出来ました。そのまま、口を開けていて」
膝上に乗せたテツヤの口を大きく開かせて、歯に沿って歯ブラシを動かして行く。
仕上げだからほとんど汚れは見えず、中は綺麗な物だった。
テツヤは毎回この時間になると不服そうな顔をしつつも、大人しく口を開いてくれる。そんな素直なところが可愛くて、僕はこの時間が好きだった。
一通り仕上げ磨きをしたあとは、水で流させて歯磨きは完璧。すっかり眠たそうな顔のテツヤはベッドで待っていた僕にすり寄ってきて、甘え出す。
僕はこの時間が一日のうちで最も好きだった。
「征十郎君。毎回疲れませんか?」
「仕上げ磨きのこと? 全く。むしろ、テツヤに触れられる機会が増えて嬉しいな」
「そうですか。それなら、良いですけど」
「あぁ。でもテツヤが嫌ならやめるけど」
「嫌じゃないです。その、ボクもキミに触れられるのが嬉しいので」
「ならよかった。おいで、テツヤ」
テツヤを膝上に乗せて、思う存分抱きしめる。もちろん、テツヤの腕は僕の背中に回っていてお互い抱きしめあって、エネルギーチャージをする。自分と同じボディーソープの匂いだとか、シャンプーの匂いだとかが鼻をついて、心の奥がうずうずしてきてたまらない。
「重たくないですか」
「重たくないよ。テツヤ、苦しくない?」
「大丈夫です。苦しくありません」
「よかった。キス、しても良い?」
「良いですよ。キミの好きなように」
その言葉が合図となり、唇が合わさって吐息が混ざり合う。
舌を絡ませて、その隙間から唾液がこぼれ落ちる。寝る前の儀式のような口付けは、もう何年こうしているのだろう。
健やかなる時も、病める時も。そのどんな時もテツヤは僕を見ていてくれてた。この世で一番大切な人。
やがて、深くなりすぎた口付けは、どちらからともなくベッドに倒れ込むと、もつれ合い、より一層深くなった。片手でテツヤを抱き止めて、もう片方の手で服に手を掛ける。すると、驚いた目をして口付けは離れていった。
「昨日も、しましたよね」
「そうだったかな。忘れてしまった」
「忘れないでください。二日連続は無理です」
「無理じゃない。お前は寝てたら良い」
「いやです。ちゃんと征十郎君を感じたい。キミにも気持ちよくなって欲しい」
「テツヤ……」
「だめ、ですか?」
真っ直ぐな目で懇願されてしまえば、ダメとは言えない。テツヤはいつもそうだ。僕がその目が弱いことを知っている。ずるい。
「ダメじゃない。でも、もう少しだけ許して」
負けじとお願いをしてみれば、あっさりと許可が降りる。テツヤも僕の目には弱いのだから。