さよならSpaceまた来てCosmos そのセンター街の裏手の、白い電球がいつも店内を煌々と照らす花屋には宇宙人がいる。宇宙人、いや、「あのバイト」を宇宙人以外に形容する言葉を僕は今までの人生の中で出会ったことがない。
まず、「あのバイト」には触角がある。それは頭から二本にゅっと生えていて、日によってなんだかどぎついピンク色だったり、薄い水色だったり、血よりもさらに真っ赤だったり、てらてらとした黒だったり真珠のような鈍い艶の白色だったりした。さすがにそれを本物かどうか試すために掴んで引っ張ってみたことなんかない。髪は薄い青と紫の中間のような色でいつも高い位置でくるりとひとつにまとめている。そして何をどうしているのか光が当たるたびにまるで流れ星のように大きくていろいろな色の光の粒子が髪の上で飛び跳ねる。僕がここでバイトを始めた二週間前と比べると前髪のあたりがほんの少し伸びたように思うから、あれはコスプレウィッグなんかではなくて地毛だ。いや、信じられないけど。
そして、「あのバイト」の虹彩は……サファイアブルーの奥に銀の星屑が散ったような虹彩は、誰が何をどう見ても、きれいな角が五個ある星型なのだ。 これらの事象を総括して、僕は「あのバイト」を「宇宙人」と呼んでいる。
「対話の相手の顔をじろじろ見るのは失礼。見られている私はきっとあなたの思っている以上に威圧と恐怖を感じる。だからあなたがやめないか、何か対話のきっかけを提供してくれないと、私はあなたとこれ以上会話をしたくない。それよりそのガーベラはもう水あげてないから廃棄。私からは以上」宇宙人と同じシフトに入った三回目の時、無意識のうちに予想していたより一オクターブぐらい高くてふわふわと歌うような声にビンタされた。頭までその衝撃が響いてその場で固まっていると、宇宙人はその星型の目を明らかに厭そうに細めて、ガーベラ、廃棄、ともう少し大きい声で言い残してバックヤードに早足で入っていった。
不思議なことにここの店長も客も宇宙人にぎょっとしたり、驚いたり、じろじろ見たりしないし、宇宙人も本当に自然に接客をする。色にあふれる店の中できょろきょろ落ち着かない客に季節の花を紹介し、それに合う他の小花や観葉植物の葉を出したりしてきて、てきぱきとあっという間に包装してリボンを巻いてブーケを作る。みんな常連というわけでもないのに宇宙人が気にならないのだろうか。僕にだけ宇宙人に見えているなんてことは起こるはずがないと信じたいけれど、あまりに何もかもが釣り合っていない。宇宙人の見た目も、この店も、仕事も、ふわふわ歌うような声も、ビンタするようにひりひりした言葉も。
今日も瞼と頬に細かいパステルカラーのスパンコールを貼り付けた宇宙人は肘より上まであるゴム手袋を履いて床をデッキブラシでこすっている。宇宙人とバイトで出会って十五日目、その日は夏の初めにしてはやたら暑くて昼間はほとんど人が客がこなかった。今日も瞼と頬にいろいろな大きさのパステルカラーのスパンコールを貼り付けた宇宙人は肘より上まであるゴム手袋を履いて一心不乱に床をデッキブラシでこすっている。
僕は宇宙人が何か物を食べているのを見たことがない。週に一日フルでシフトが被る日があるのだけれど、その日も一日中ペットボトルの水かスポーツドリンク以外口にしていなかった。でも差し入れに何か菓子なんかがあるといつも一つだけ持って帰っているから何も食べないというわけではなさそうだ。
「……飲み物だけで、平気なんですか」僕の口からぽろりと漏れた言葉に宇宙人はふわりと顔をあげた。長くカールしたまつ毛にラメが光っている。
「平気。人前で物を食べるより食べないほうが楽」
「……だめなんですか、人前で食べるの」
「うん」
会話はそれ以上続かず、宇宙人の額から汗が一筋伝って水をまいた床にぽとりと落ちて分からなくなった。
その三日後、その日は朝から客がよく入った。狭い店内に入れ替わり立ち替わり人がやってきて、ろくに花を見ているようではないのに花束を欲しがった。
「なんか、今日人多いっすね」
「知らない? 人が死ぬとよく花が売れる」
「え、誰か死んだんすか?」
「角曲がったとこ、ホテルあるでしょ。そこからカップルが飛び降りたんだって。ほら、パトカーと人、多かったでしょう?」
「……」
「不思議。生きている間だと見向きもされないような人が、たった一回飛び降りるだけでこんなに花をもらえるなんて」
「その言い方は、さすがに……」
「でもそれよりもっと哀しいのはね、その供えられた花が腐っていくのを見ること」歌うように、ふわふわと、宇宙人はここではない暗闇を見ている。
「今、暑いでしょ。こんなところに置いておいたら一日もしないうちに枯れてしまうのに。段々干からびてカラカラのミイラになるか、ぬめぬめと腐っていくかのどちらかなのに、私は花が死んでゆくのを見るのはきらい。かわいそう、たった一度きりの満足のために置き去りにするのは、かわいそう」
「でも、そうやって花を見てなんというか、ああ、こうやって誰かが悲しんでくれてるんだなぁって思う人とか、いるんじゃないですか?」
「そう思うなら、せめて飛び降りる前に、その二人を慈しんであげたらよかったのに」
「じゃぁ……なんで、花屋なんかで働くんですか?」
「花屋『なんか』? 『なんか』?あなた、そんなこと思うんだね」 思わぬところを突かれる。宇宙人の星を浮かべた瞳は、深い深い何かを見ている。
「花屋は、美しくて、矛盾して、残酷なお店。長生きできない一瞬の美しさを、切り取って売るお店。そうでしょう? ……あなた、花、好き?」
「……まぁ、人並みには」
「誰かと比べないとあなたは自分の事もよくわからないのね、不思議」
宇宙人は白く光る唇をゆがめてふっと笑い。無造作に虫に食われた鶏頭の花を切り落とした。
宇宙人は僕より早く店に来て、僕より遅くに帰る。だから、宇宙人の店での似合わない大きなエプロンを付けて長靴を履いた姿しか、僕は知らない。もしかしたら宇宙人でいるのは店だけかもしれないと思っていたけれど、蒸し暑いある夜、宇宙人は繁華街のコンビニでアイスを物色していた。カーキ色の薄いTシャツとダメージジーンズを合わせている宇宙人はふっと顔をあげて俺の姿を認めると、あれ、とだけ言って星型の瞳を細めて笑った。触角は生えていなかったし頬にスパンコールは貼っていなかったし唇も普通の色だったけれど、瞼はオパールのようにきらきら光っていた。
「私でも、物は食べるの。それにアルコールも」宇宙人はじっくりと見比べた後、大きなマンゴーのアイスバーをコンビニのカゴに入れる。
「今日、店シフト入ってましたっけ……?」
「ううん、今日はまた別。今日はネイルサロンでちゃんと仕事してた。私ネイリストなの。でもそれだけじゃ全然生活できないもん。アイスと発泡酒ぐらいしか嗜好品が買えない。コンビニのケーキは高いし小さい。みんな高い。だからお金がいる。だから働かなくちゃ」途中から半分独り言のようにぼそぼそ歌って宇宙人は発泡酒を二缶カゴに入れた。
宇宙人はコンビニを出て、ただぶらぶら歩いた。宇宙人はその日は機嫌がよかったのか僕のことなどどうでもよかったのか宙に向けてふわふわ語り、僕はそのあと何も用事がなかったから一緒に歩いて宇宙人の誰に向けてでもない言葉をずっと聞いていた。
「ねぇあなた、宇宙に飛び降りたことある? 私はあるよ!」さっきまでこの夏の流行りのネイルの色なんかをしゃべっていたのに宇宙人は唐突に明るく喚いた。僕たちは歩いて歩いて繁華街を抜けて、いつのまにか大きな橋の上にいた。
「うぅーん、この川はあんまりよくないね。川というより用水路。私の好みじゃ、ない!……昔々、私の住んでたところにあった川はね、もーっと大きくて、もーっと、もーっと、きれいだった!」そう言うと、宇宙人はひょいっと欄干に座って袋をがさがさ漁り、アイスが溶けてる、と言った。
「……それでね、私、飛び降りたの、その川に」
「川に……死ぬ気で、ですか?」
「そう。それ以外に飛び降りる理由はないよ。田舎のヤンキーの紐無しバンジーじゃあるまいし。まぁ、私のいたところも、相当田舎だったけど」
宇宙人は、そんな田舎にいた頃から、宇宙人だったのだろうか。
「それでね……夜。いざ橋の欄干に立って、下を見て、その時初めて気が付いたの。……自分の下にあったのは暗くて冷たい水の塊じゃなくて、星空だったのね」
「……」
「きれいな晴れた夏の夜。私は宇宙に飛び込んだの。物凄い星の群れに……そう、光の群れ。するりと足が離れて、風圧と重力で宇宙に吸い込まれて……そう、そして、ばらばらになった。宇宙の中で、砕け散って、塵になった」
でも、この人は、今もここにいる。
「……死ねなかったのね、全然。まず見込みが甘すぎた!橋は低いし水温は高いし流れはよどんで水草ばっかり。一瞬衝撃で意識飛んだだけでそんで水飲んでむせて気が付いたの。アオミドロだらけの水だよ。そんで、なんだかもうどうでもよくなって、目をつぶって水に浮いたの。ふわぁっとね、そしたら……」
「そしたら……?」
「ばらばらになった星屑が、宇宙の彼方からふわふわ集まってきて、からっぽの私に吸い込まれていって、新しい私が生まれたの……。宇宙に飛び降りて、私は、生まれ変わって帰ってきたの。宇宙人になって、帰ってきたの」
宇宙人の言っていることは、まともじゃない。まともじゃないけれど、それは全くの虚構ではないはずだ。
「信じてないでしょ。嘘だと思ってもいいんだよ。嘘って、本能的に傷つかないために口にしたり信じ込んだりするものなんだから。別にあなたがどうなったって、私は知りもしないけど」
ふっと瞳をあげて、僕は思わず瞬きをした。いつの間にか宇宙人の頭にあの触角があった。
「あの……!」
「あら、何?」
「あの、なんていうか、その触角? みたいなの、なんなんすかね?」
「あぁ、これ? ……引っ張ってみる?」
「ええっ! えっ……? え? え! 引っ張っていいものなんですか、それ……?」
「うん……別に、そんなに強く引っ張らない限り、痛くはないはず」
今のそれは、ラムネの瓶のように透き通ったみずいろだった。おずおずと手を伸ばして、掴むと、つやつやと滑らかなのになぜかどこか、ほろぬるい。
「……ん、割と、痛いんだけど」
「ぅわ! そんな、ごめんなさい!」
「うん、ちょっと強すぎね、今のは……。感覚器官なんだからもっと優しく扱ってよ。耳触っていいって言われて指突っ込む人はいないでしょ? そういうことよ」
……どういうこと?じゃあこれはちゃんと生えてるってこと?マジで?
宇宙人はおかしそうにケラケラ笑い、発泡酒の音を立てて缶を開けるとふわっと人工的な柑橘の香りと共に中身があわあわと溢れた。
「ま、そういうことよ。何でも理解していると思わない事ね。考え続けなよ、この身体に不釣り合いなほど大きな脳でね」
そう言うと宇宙人はのどを鳴らしてくぅっと酒を飲み干した。
「それじゃ、またね」
そう言うと宇宙人はひらりと身をひるがえして橋から飛び降りた。あわてて下を覗き込んでも、水飛沫も上がらなければ、音もしなかった。ただ、蒸し暑い夜が、静まり返ってそこにあるだけだった。ゆっくりと周りに音が戻ってきて、気だるそうに蛙が鳴いていた。
地球の夜が、僕を押し包んで去っていった。 そうして、僕は宇宙へ還ってきた。