さかなだったいつかないか 何故か小さい頃から海の夢をよく見る、特に海が好きだというわけではないのに。実家は海から遠かったしそう出かけることもなかったから、自分の中でぼんやりと憧れというか、砂浜と大きくて底知れない波打つ水の塊というイメージが知らないうちに膨らんでいったからかもしれない。
子供の頃は、何かの拍子で熱帯魚とかサンゴ礁とかの自然番組とか、赤い髪の人魚の少女が泳ぐようなアニメーションを見た後はそんな美しく温かい海で泳ぐ夢を見たけれど、あの災害の後はものすごい勢いで迫ってくる濁って重く油と泥のにおいがする水に飲み込まれる夢を見た。その水は身を切るように冷たくて、あっという間に息が詰まって怯えて目が覚めた。でもいつの間にかそんな海や水の事は頭からすっ飛んで、血糊と汚物と悲鳴と呪いにまみれた夢ばかりになったけれど。
重い打撃、左目の端の皮膚がぴりっと切れて血が飛ぶのも構わずにその勢いのまま前に駆けだして刃を振り下ろす。終わりがない。祓っても祓っても、切り裂いても殴り飛ばしても潰してもどんどん呪霊は溢れ出してくる。
「真希、一体いつまで寝てんのよ。……外見なよ、すごいわよ」
つん、とつま先で枕を蹴られて私は浮かび上がるようにして目を覚ます。いつもの私の狭くてどれだけ掃除しても埃の匂いのする部屋。大嫌いな実家。
半身を起こして見上げると真依が眉を曇らせて外を睨んでいる。見ると、一面の水。縁側まで透き通った青を湛えた水に浸かってゆったりと波が打ち寄せている。辺りは静まり返っていて誰の声も足音も聞こえない。
「みんなもう逃げたのにいつまでも寝てるからあんたは置いて行かれたのよ」
「じゃあなんで真依はここにいるんだよ。お前も一緒に行ったらよかったじゃん」
真依は答えない。こんな内陸の高台まで水に浸かったらもう日本なんて終わりだな、とか思いながらもなぜか心は凪いでいた。よかった、嫌いな親も親戚も知らんオッサンもこの家から追い出せた。ここには私たちだけだ。
「……私もついていきたかった」真依がぽつりとつぶやく。そのとたん床がぐわっと抜け落ちた。
夢の中でも、あ、これは夢だな、と思う瞬間が時々ある。妙にゆっくり時間が流れているような、クッションに包まれて落ちているような鈍い感覚。
そこは砂浜だった。腰まで海に浸かっていた真依がふいっとこちらを振り返って、なんだ、とふてくされたようにまた目をそらした。そうか、ここは真依の海か。
「なぁ、待てよ」
「何よ、今になっても飽きずに私の事を夢に見て。全部壊してって言ったわよね? 馬鹿なあんただから聞いてなかった?」
「悪いかよ夢にぐらい見て」
「別に……」そう言って真依はざぶざぶと海に入っていく。あぁ、いつもここで目が覚めるんだ。動けなくて、引き留められなくて、そんな未来も過去もなかったって分かってはいるのに。
「泳ごうぜ、真依」いきなり声が出て自分でも驚いた。
「……は?」
「だから、泳ごうって」口が勝手に言葉を紡ぐ。これは、夢だ。目の前の真依もこの場所も、私が体験したものでも本当の彼女でもなくてただの私の記憶の再構成だ。たぶん。いや、もしかしたら。
「……真希がこんなにいつまでもぐちぐち何かを引きずり続けるタイプだと思ってなかったわ。もっとあっさり割り切ってくれるものだと思ってた」
「いつの話だよ。もう振り切ったよそれは……。そうだよな……そうだよ、あん時の自分は馬鹿だったし、未熟で、弱かった。自分の思ってたその何倍も」そうだ、私たちはあまりにも不完全だった。不安定で、脆くて、そのままで誰かを殺しに行かなくてはならなかった。……これもただの言い訳だ、私の犯したたくさんの過ちと奪った命にしてみれば。
立ち上がって真依の後を追ってざぶざぶと海に入る。眼鏡も寝巻もそのままで。真依は顔をしかめたままだったけれどそのまま待っていてくれた。お互いどちらから言い出すわけでもなく海にすうっと身を滑りこませて水を掻く。
大人になったら漠然と、いろんなことがよく分かるようになるものだと思っていたけれど全然そんなことはなかった。生も死も、善も悪も、愛も呪いも深く潜れば潜るほど全てが曖昧になって融け合っている。議論も定義設定も私は苦手だからうまく言葉にできないけれど。
「……もういいのよ。さっさと私の事なんか置いていきなさいよ、真希」
「そうしたいんだけどできねぇんだよ、双子は二人で一人って言ったのはお前じゃねぇか」
そうなんだよな。真依は壊そうとしてくれた、禪院家だけではなくて私を縛っていたすべてのものを……それに気がつくのに時間がかかりすぎた。
水は涼やかで甘く、肌を柔らかく撫でてゆく。幼い頃の夢のような海。何故かいつもの街が、景色が水に浸かって見慣れない何かがたくさん泳いでいる。柔らかい世界の滅亡、あたたかい滅亡の夢を見ていた。この魂はどこかで破滅を予感していたのかもしれない。
水を蹴って、ゆったりと掻いて泳いでゆく。ここはきっと狭間なのだろうな。いないはずの人がいる、あるはずのない場所。
真依がするりと水を切り裂いて泳いでゆく。こういう生き方もあったのかもしれないな。二人でひっそり手を取って暮らすのだ、私たち二人だけの場所で、イソギンチャクに隠れるクマノミのように。
でも……その未来への道を私たちは一つ一つ全部蹴ってきてしまった。それが私たちの生き方だった。
そうするしか、私たちは私たちとして生きられなかった。
泡の粒が光を受けてゆらゆらとのぼってゆく。真依に口の形だけでじゃあまた、と呟くと、真依は頷いてくるりと水中で回った。
いつでもいるよ、という声が聞こえて、もうよくわからなくなった。
*
「あ、真希先輩寝てんじゃん。釘崎が探してたのに……珍しいな、先輩が居眠りするなんて」
「先輩も人間だからな、寝かせとこう虎杖。きっとめちゃくちゃ疲れてんだ」
「……大丈夫だよ伏黒、今起きた。釘崎が探してたって? わりぃすぐ行くよ」
あの渋谷事変があって、世界のかたちが何もかも変わって、その世界に振り落とされないようにすりつぶされないように生きてきてもう何年だろう。私たちは生きてゆくだけだ、これからも、意味なんか考えるだけおこがましいような気がして。
それでも……まだ夢を見る。あたたかい夢を、もう一つの夢を。
水没の夢をよく見る あたしたち魚で生き残る二匹だった/山中 千瀬