たとえば忘れられない誰かの微笑みとか 誰のものかも分からない、誰かの記憶を持っている。
それは、振り子時計が鳴る部屋だったり、よく晴れて星が空を埋め尽くす山だったり、視界が悪く冷たい霧の中だったり。
〝誰か〟が付き合っていた彼女だったのだろうか。紺髪の少女がいつもそこにいる。
俺はまだ誰とも付き合ったことがなければ、他人を好きになったこともない。勝手に笑って、泣いていればいいとさえ思っている。何でも一緒、という考えが気持ち悪くて、分かり合えない。
ただ、記憶の中の少女とその景色だけは、他人事なと思えないままでいる。少女の表情は何があってもほとんど変わらないというのに、嬉しいのか悲しいのか何故か分かるのだ。〝誰か〟の記憶でしかないというのに。
日に日に〝誰か〟の記憶は、少女が幸せそうなものを残して薄れていく。幸と不幸が半分ずつあったはずなのに、気が付けばほとんどが幸福をかたどったものにすり替わっている。
こうやって記憶は塗り替えられていくのだろうか。どれだけ自分が覚えていようと頑張っていても、いい思いをするものだけを残して捨てていくのだろうか。
それなら、本当に愛したいと思った人との日々すらも、都合のいいように編集されていながら、覚えている気になったまま過ごしていくのだろうか。
脳裏に焼き付いているのは、嬉しさと悲しさを混ぜたような少女の微笑みで。
誰に言うでもなく言葉が零れる。
「いつしか美しい記憶だけが残るのでしょう、」
答えが知りたくて転がっていった独り言は、自分のものでも〝誰か〟のものでもない。
知らない人の知らない記憶の中、知らない少女。
──酷く苦しくなって、目の奥がじんと痛んだ。