三叉路山間の夕暮れ時の畦道を陸奥守吉行は足速に駆けていく。
夕焼け色に溶け込む着物が旗めく。
ゲコゲコゲコと蛙達が喚き立てる。
石に掘られた道祖神がこちらを見つめている。
任務は問題なかった。
久方ぶりの肥前との出陣が嬉しく、誉を取るほどに滞りなく終えたその時、
夕焼けに染まり始めた畦道の三叉路に向かう進む肥前の姿を追いかけて…いや、正しくは肥前に見えた何某かを追いかけてしまい、しくじって霊道に突っ込んでしまったのだ。
高天原にせよ、黄泉の国にせよ、それらは何らかの理の上に世界が成り立っていて、それ故に管理者もいる。
なので今がその世界へ行くべき時でなければ、彷徨い混んだ異物として懇切丁寧に送り返してくれる。
しかし霊道から繋がる霊界は、それらとは似て非なる全く別の世界だ。
霊界は言わば「此の世」の裏側。
黄泉の国とも異なる、本来の意味の「彼の世」である。
「此の世」を覆う薄い膜を一枚超えてしまった先の、彷徨える魂の辿り着く場所。
夜と昼が混じりあう黄昏時
道と道が交わる三叉路
誰そ彼と問わずに背中についていく
少し考えれば霊道が開いていることは容易に考えられたが、恐らく浮かれていたのだろう。
先程までと風景はさほど変動はない。
しかし、振り返れども先程までいた仲間が見えず、日暮れの畦道に伸びる自身の影だけが存在する。
前を見やれば、畦道の先に山際と先ほどの三叉路が見える。
前にも後ろにも人の気配は無いのに、風の音や虫の声に混じりが何かの声が響いている。
「付喪神が神隠しにおうとるのぉ…」
陸奥守は周りの音を振り払うように呟くと、三叉路に向かって走り出した。
留まれば良くない、これ以上振り返ってもいけない。
嫌な胸騒ぎがする。
畦道を越えてようやっと山際の三叉路に辿り着く頃には、
山間に見える夕陽で真っ赤に染まっていた。
三叉路には庚申塚があり、お供えものとして不自然に握り飯が置かれている。
ふと視線を感じ右手を見やり、思わず驚き体が跳ねた。
小さな墓が数個立ち並ぶ中、見慣れた肥前の後姿があったのだ。
「こらめった…」
この霊道に迷い込んだのは自分だけだ、肥前がいるわけがない。
いくら脇差とは言え、こんなに気配がない訳がない。
何より暗がりに溶け出す空気に、つぅ…と冷たい汗が背中を伝い、
「それ」をこれ以上追いかけてはならないと、ぞわぞわとした感覚が告げる。
下を向き、三叉路を左に曲がり再び走り出す。
周りの不穏なものたちがざわつく声に気を取られないように考えを巡らせているうちに、思い出される記憶。
「霊道?うーん、もし迷いこんでも斬っちゃえば出れるんじゃないかな?」
「俺や兄者は、妖の方から避けていくからな…役に立てず、すまない」
自分にも鬼や幽霊を斬った逸話や、ご神刀やら御仏の加護がついていれば良かったのにと心底思う。
「れいどうは、よくちかみちにつかいますよ!」
「そうですねぇ、あまり使うと穢れが!と怒られてしまいますが、便利ですよ?」
「うむ、霊道ならいつの時代でも人の歴史に干渉せずに通れるからな」
「がははは!まあ、慣れぬうちは我らと通ろうぞ!」
「ありゃあ、流石としか言えにゃあ…」
三条の面々の事もなげな笑みを思い出しては、思わず独りごちる。
陸奥守は一度焼けた刀だ。
三途の川を渡りかけたものは、彼の世の気が混じっているそうで、彼の世を見えなくしている薄い膜がより薄くなる。
それ故に、身体が欲しい彼の世のものたちに手招きをされやすいそうだ。
はたと「そもそも手招きとは何か」に考えが及ぶ。
視える
聴こえる
臭う
重さを感じる
彼の世のものたちは、此の世を覆う薄い膜をより曖昧にするべく、味覚以外の五感に訴えかけてくる。
これを感じ取る能力を一般的には「霊感」やら「虫の知らせ」と呼ぶらしい。
先生はこの霊感といった類がほぼないらしい。
時々「おや?」と気配がある方を訝しげに見ている時があるので本当にそうなのか認識していないだけなのかはわからないが、特に袖を引かれるような素振りはない。
肥前は自分よりもハッキリと認識できるようで、時折「ボサッとすんな、妙な所に引かれるんじゃねぇ」と腕を強く引っ張られる時がある。
ザァァと風が吹きふと足を止める。
気がつくと目の前に握り飯が置いてあった。
また三叉路の庚申塚に辿り着いている。
「どういて…」
陽は落ちかけ宵闇が始まりかけてきている。
敵と対面したり命を奪われるのとは異なる、霊界のじわりじわりと闇に侵食されるような恐怖が背後にピタリと寄り添ってくる。
恐る恐る右手に顔を向ければ、先ほど同じ何かの影が揺れる。
その肥前のような影は後ろを向いたまま、顔は黒く闇に包まれて見えない。
不自然に置かれた食物からは、先ほどとは違い強い腐臭が漂い、ザワザワと草木が鳴る音と共に「食エ…食エ…」と何処からか声をかけられる。
手の中にゴロリと首が一つ。
よく見慣れた黒と赤。
目玉は抉れ、その肉を虫が喰ろうている。
小さく悲鳴を上げて手放すせど、何故か手の中に丸い目玉の感触が残る。
食べねばならない…その思考が止まらない。
紅い目玉を口に含む
視える
聴こえる
臭う
触感、重さを感じる…
そして、味覚
五感のうち、霊感で味覚を感じる事がないのは何故か?
それは、黄泉竈食ひをしたものにしか分からぬ霊感なのではないか。
彼の世の物を食ったものはもう此の世には戻れない。
だから、此の世に生きるものは知る由がないのではないか。
味覚に訴えて来ていないのではなく、味覚に訴えられた時には捉えられているとしたら…
口に含んだ物体のグニャリとした感覚に吐瀉物が込み上げる。
思わず膝を折り、地面に蛙のように吐き散らかす。
頭上で、ドスンと重たい物が何か落ちた音と
刃物が風を切る音がした。
見上げれば、倒れた庚申塚と、
顔のある肥前が刀を鞘に収めつつそこにいた。
「おい!聞こえてんのか!」
乱暴に左肩を小突かれる。
周りの音が此の世の物に戻っていることに気がついた時、はらりと涙が溢れ、そのまま溢れ止まらなくなってしまった。
「…お前みたいに彼の世に片足突っ込んだやつが、ぼーっと歩くんじゃねぇ!何度言ったら分かるんだ!」
肥前は舌打ちと文句を言いながらも、吐瀉物を撒き散らした身体を持ち上げてくれる。
じんわりと伝わるその温もりに安堵する。
「さっさと口、開けろ…」
彼の世を彷徨っている間に何をされたのか正確にはわからない口の中にジャリジャリとした感触と泥の味がする。
大人しく口を開けると、ジャバジャバと酒を流し込まれて、思わず咽せる。
「そのまま、全部吐き出せ」
自分の涙と吐き出した酒でぐしゃぐしゃになっている姿はあまりにも情けない。
「っうう…その酒…何時も持ち歩いてるき、まっこと酒が好きなんかと思うちょったぜよ…」
しゃくりをあげながら呟くと、肥前の眉間に皺が寄りもう一度左肩を強く小突かれた。
「ふざけんな、誰のためだと思ってんだ…クソッ、手も泥まみれじゃねぇか…広げろ」
大人しく手を広げるとまた酒をかけられ、握りしめていた小さな泥団子が流されて落ちていく。
「うー…肥前のぉ…」
自分の為に酒を持ち歩いていたその優しさにまた涙が溢れる。
泣きみそなのは元主譲りだと言い張りたい。
甘えるように抱きつこうとする陸奥守を肥前はグイッと押し返す。
「触るんじゃねぇ!触りてぇなら、まず帰って全部清めてからだ」
辺りはすっかり闇に包まれ、蛙の鳴く声が響いている。
灯りのない畦道の先から、明かりを持った仲間たちが駆け寄ってくるのが見える。
倒された石に掘られた道祖神は、忌々しげに陸奥守たちが帰路に着くのを見つめていたがもう二度目見えることはないだろう。
時が経った後、神隠しや事故の多い三叉路として子供たちの怪談話になり、消えていくだけである。