庭先の蝶アラマキはしがない書生だ日々人の目に触れることの無い駄文を書きなぐっては途方に暮れている、何故文字書きを目指そうと思ったかなんて忘れてしまった、ただ自分の思いの丈を紙に綴るのは苦ではなかった、楽しささえあった、そういう所が物書きに向いているのかもしれない
だが流石に生活も苦しい、そこでアラマキは自分の憧れである若くしてその才を遺憾無く発揮し数々の賞を総なめにした小説家サカズキの屋敷へ下宿する事にした、仲間の書生に知り合いがいたのは実に運が良かったアラマキの憧れでもある大先生の元で学べる、心躍らぬわけが無い、動きに出るような上機嫌で荷造りする
その日飯を食うのがやっとの身の上、荷物もそこまでないので片手に収まるほどの量を風呂敷に包み、立派な擬洋風建築の屋敷の玄関
…いや違ったこれは門だ…なんてこった、これじゃ奈良の大仏様だって入りそうだ、あまりの大きさに目を丸くしながらも門の向こうを覗くと汚れひとつない真っ白なシャツを着た男が見える、どうやら庭の花に水をやっているようだ
「あぁ〜ちょっと、そこの人、ちょっといいですかね?俺今日から屋敷に下宿させてもらうアラマキって言うんだけど」
とアラマキが言うと純白の男は振り返りハッとした顔を一瞬浮かべたあと、すぐ微笑みアラマキの方へ走ってくる、別に走ってこなくても良いのにとか思いながらも小走りに近づいてくる、その人が何処か可愛らしく見えて
近づいて来たその人は少しだけ息を切らしながら門の鍵に手をかける
「はぁ…ごめんねェ…サカズキ今散歩に出てて…さぁどうぞ〜首を長くして待ってたんだよォ〜」
「あ…あぁ…ありがとう…ございます…あの…あんたは…」
「わっしはサカズキの家内だよォ……名前はボルサリーノ、よろしくねアラマキくん」
「家内!?」
「そうだよォ」
そう言って差し出された手は指先まで美しく雪のように白い、自分のささくれだったような手を差し出して良いかと悩んでいたら、ボルサリーノの方から手を取り両手で包み込むように握った
「家族みたいに思ってくれて良いからねェ〜…困ったことがあったら言うんだよォ…」
「…あ…ありがとうございます…」
綺麗だな……声に出しそうなのをアラマキは必死で飲み込んだ、人好きがする笑顔で両手で自分の手を握り込む、距離の近さに怪しさを感じはしない、何故なら疑いようもないほどに純粋な微笑みが目に焼き付き、心を掴まれない訳が無いのだアラマキの脳裏には知り合いの書生の言葉が蘇っていた
「心取られないようにしろよ」
聞いた時はこいつは遂に書け無さすぎて頭のネジの1本でも取れちまったかと思ったが今この瞬間に言葉の意味を理解した
しかし何もかも遅いこれからの事など想像がつかないアラマキは手を引かれるまま屋敷に足を踏み入れた
赤い絨毯が敷き詰められた廊下を歩く、目がチカチカしてどうにも落ち着かないが目の前の奥様を見失わないようにしないければならない、何故ならこの屋敷は半端なく広いからだ……多分一度迷ったら二度と同じ場所には戻れないそんな気がする
「驚きました、サカズキ先生に奥様が居たとは……」
「…あぁ…そうだろうねェ…家内と言っても籍入れられないし…わっしが居る事はこの辺の人しか知らないしねェ」
「え、そうなんですか」
「うん、まぁ…人気作家はそれなりに苦労も多いからねェ…サカズキなりの守り方なんだよォ〜」
そう言えばサカズキ先生は賞の審査員もしてたな、作品についての感想が鋭すぎるから怒ってるやつもいたなぁ、危険が及ばないように結婚も奥様が居る事も公表しないのか…
「奥様は秘密にされるの嫌じゃなかったんですか?」
「嫌じゃないよォ、サカズキがちゃんとわっしの事考えてやってくれてるって知ってるからねェ…」
なるほどいい夫婦って訳だ、しばらく他愛もない会話をしながら歩いて居ると奥様がピタリと止まる
「さァ着いたよォ〜ここが君の部屋、自由に使って良いからねェ」
「えっ!?こんなでっかい部屋良いのかよ……あ、ですか!?しかも…ベッドまで…ほんとこっちは住まわせてもらう身なんで物置でもいいって……良いんですけど!」
広々とした部屋には日差しが差し込む大きな窓と西洋から取り寄せたのか見慣れないフカフカのベッド、湿気の多い狭い部屋の煎餅布団で寝ていたアラマキからすると、急に夢の中にでも連れてこられた様だ
「はは…おっかしい事言うねェ〜物置なんて住まわせるわけないでしょうにィ〜、ほら持ってきた荷物置いて…もうサカズキも戻ってくる頃だと思うし、皆でお茶しながら自己紹介でもしようねェ、準備してくるから後から来なよォ」と言って部屋から出ていく
部屋をキョロキョロと見回したあと、ハッと気がついた
「何処でやるか言われてねぇよ!」
アラマキがそう叫んだところで広い自室に声が反響するだけだった
アラマキの豪邸探索が始まった、奥様はしっかり者に見えたがお茶の場所を言わずに行ってしまうとは…抜けてる所もあるんだな…
四方八方見回しながら進むが何処まで行っても同じ風景のような感じがしてきて、全くお茶の場所つける気がしない
「やべぇ…本格的に迷子かよ…」
「おどれ、何しちょる」
肩を落とすアラマキの後ろから声がかけられた
声の圧と重みに勢い良く振り返ると暗い赤色の着物に灰色の羽織を着たいかめしい男が立っている、アラマキはその男顔に見覚えがあった
「サ……サカズキ先生…」
「あ?」
「あすいません!俺…俺は…今日から世話に……お世話になります!!!し…書生の…アラマキって言います!!よろしくお願いします!!サカズキ先生の作品全部読ませて頂いてます!!俺もいつか…サカズキ先生のような小説家になりたくて…」
と首が取れそうな勢いで礼をすると、サカズキはギョッとした顔を浮かべたあと直ぐに先程のいかめしい顔に戻る
「ほうか……お前が…なるほどな………出かけとって悪かったのう……ボルサリーノとはもう会うたか?」
「はい、さっき挨拶させて貰って…もらいました…俺が住まわせてもらう部屋とか案内してもら…頂いて…それに茶会にも呼んでくださって……あ…場所教えてもらうの忘れてたんだった……ですけど…」
それを聞くとサカズキはフッと笑って「あいつは抜けとるところあるからのぉ」と歩き出し
「ついてこい、わしも行くけぇ」
「あっ!はい!」
結局お茶の準備がしてあったのは広い庭の手入れされた花や盆栽が並ぶ場所で、ボルサリーノがせっせと用意を進めていた、白いテーブルに色とりどりの菓子が並ぶ
年中金欠だったアラマキは見たこともないような菓子の数々に目を奪われ、しまいには美味そうと口走る始末だ、そんなアラマキを見て奥様はクスクスと笑い椅子を引く
「ほらここに座りなァ、甘い紅茶も淹れるからねェ…わっしのお気に入りはこのワッフル ジャミ(ジャム)つけて食べると美味しいよォ、サカズキは何食べるんだい〜?」
「ハット(ホット)ケーキがええ」
「あっ!奥様ばっかりに、俺も手伝うよ!…あ!です!手伝いさせてもらう為に来たんで!!!」
「オ〜ありがとうねェ〜…手伝いをしにって…文を学びに来たんだろォ、手伝いは程々でも良いからねェ、言葉使いもわっしにはそんな気にしなくていいよォ」
穏やかに飲んだこともない上手いお茶を飲み、食べたことない菓子を食べ、2人と会話をしながらアラマキはこんないい所に下宿させてもらえるなんて俺めちゃくちゃラッキーだな!!!と内心小躍りしまくっていた
アラマキが下宿に来て3ヶ月程だった頃
いつものように奥様が3時のお茶にアラマキを誘う、だが実を言うとこの所アラマキは奥様から目が離せないでいた。
最初はただ優しい方だと思っていた、しかし奥様の一挙一動を見る度、まるでつい先程まで鳥籠の様な何の天敵も居なければ代わり映えのしない限られた世界で暮らしいたような穢れたものなど一つも知らない恐怖も感じた事もないであろう優雅な所作に見とれてしまう、きっとその透き通るような肌の体には、まだサカズキ先生の熱しか触れたことがない
そして今後もサカズキ先生の体しか知らないのであろう、庭先でこじんまりとしたテーブルにお茶の道具を並べ紅茶を淹れる手つきが官能的に見えて、浅ましい自分が多少嫌になる
奥様が微笑むとちらりと見える綺麗な歯並びと熟れた林檎のような赤い舌に目を奪われる、見つめていると奥様はアラマキに気づき「こちらにおいでェ…港の出店で かすていら が売ってあったから買ってしまったんだよォ〜1人じゃ食べきれなくてねェ」と手招きする、細くて白い指に抗えるはずもなく言われるがままたった2席の椅子へ着くと「いい子だねェ」と、大して手触りの良くないであろう髪をゆるりと撫でられた
「サカズキ先生は」とアラマキがたずねると「サカズキは1度文字を書き始めると自分が納得のいく一段落が来ないと休憩しないんだよォ…サカズキの分の かすていら は取ってあるから大丈夫だよォ」そう言って かすていら を品の良い小皿に取り分けアラマキの前に出す
アラマキは自分が今後も文字を書き続けるならば是非奥様も紙の海の波間のひとつに記すだろう、記さなければならないと言う使命感まである
奥様は本に記され永遠を生きるに相応しい、アラマキが熱の篭った瞳で見つめているとボルサリーノがフッと笑う
「…創作意欲でも湧いてきたかい〜?随分熱い視線だけど…」
何もかも見透かされたような言葉に胸がはね
人肌にもならない紅茶を飲んだ
「あち」そう言ってアラマキが舌を出すと奥様は小さく笑い「急いで飲むからだよォ…火傷になってないか見せてごらん」とアラマキの顎をグイッと引き寄せた
アラマキが乗り出せば唇がくっついてしまえる距離だ「かんちがいされる」と舌を出しているせいでおぼつかない滑舌で言うと
「そうかい?じゃれてるように見えるでしょ」なんて奥様が目を細めながらはにかみ返答が帰ってくるから、無垢な唇を奪ってやろうかと世話になっている身で失礼な事を考え直ぐに捨てる
サッと顎を引き椅子に座り直し煩悩を消し去るように紅茶と茶菓子の かすていら を口に詰め込む
そう言えばサカズキ先生とボルサリーノさんはどうやって知り合ったんだろうか、趣味とか性格も違うし…1度気になってしまったら聞かないとスッキリしないのでアラマキは紅茶を飲み干して口を開いた
「そう言えば…聞きたかったんだけど…奥様とサカズキ先生は…どういう出会いで?」
「オ〜、学校が同じだったんだよォ、長い事一緒に居て…その流れでねェ〜、それだけェ」
「…なるほど…」
嘘みたいにさっくりした出会いだ、驚く準備をしていたが予想は外れて拍子抜けしてような顔だけが残る
「期待はずれで、ごめんねェ」
ハハハと困った様に笑ったボルサリーノはかすていらを口へと運ぶ
「いや!期待はずれじゃねェって…王道って感じして良いなって俺は思ったぜ?!」
「そうかい?ありがとう…君もいい歳がきたら身を固めなよォ」
「んー…俺の嫁さん…………」
アラマキはそう呟いてピタリ言葉を止めてしまった、アラマキの想像に浮かぶのはボルサリーノだったからだ、何度かき消しても浮かぶ
狭いながらも温かな家で台所に立つボルサリーノが、自分の呼びかけに柔らかく微笑みながら振り向くのを
「…………嫁さんは…無理だね」
だってボルサリーノはサカズキの妻だ
「え〜?どうしてだい〜?アラマキ君なら男前だし女の子には困らないんじゃないのかい?」
「…………さんは…」
「ん〜?」
「女はよく分かるからいいよ、ボルサリーノさんは、俺の事どう思ってんのか聞きてェんだ」
「………」
ボルサリーノが何度か瞬きした後コトリとソーサーにカップを置いた、そして伏し目がちになり一言「困るよ」そうポツリ呟いて
「サカズキには及ばないけど良い男だよォ」
わかってはいたがアラマキへのダメージはでかい、全てを吹き飛ばすようにアラマキはらははと庭の花に留まる蝶が全部飛び立つくらいの大声で笑った
「じょーだんだよ!からかって悪かったねボルサリーノさん」
「アラマキくんは嘘を本当みたいな顔で言うから、冗談か分からないよォ〜」
そう言って笑うボルサリーノの顔をアラマキは目に焼き付ける、やっぱりボルサリーノさんの、一等星はサカズキ先生だもんな
されどアラマキの胸の熱は大きくなるばかりだった
暑い夏が近づいてくる前アラマキはボルサリーノに買い出しを頼まれて街へ出ていた
何でも かれーらいす を作るのに材料が足りないらしい、材料が足りない他言われてもアラマキは かれーらいす…カレーらいす…カレーライスを知らないので、何をもう使うのか摩訶不思議なのだが
街は活気に溢れていて、貧乏暮らしの頃は何も買えないので街の風景など殆ど見ていなかったがこう見回すと色とりどりの歌舞伎の旗やキネマやカフェーが並んでいる、まぁ入った事は殆どないが、小説のネタになるかもしれない1度入ってみるのも手だなと考えたり
アラマキの所持金はと言うと材料用のお金とボルサリーノさんが何でも好きな物買いなと渡してくれたお金……あんまり財布の中は見たくないと言うか外でそんな事したらろくな事にならない、まぁ買う材料は2つくらいだし何か見てから買いに行こうかと、またぶらぶらと当てなく歩く
人はそれほど多くないが、元気な声は飛び交っている野菜が安いとか魚がどうとか、サカズキ先生が度々言うのが心にゆとりを持たなければ日々の生活を書くことすらままならないと言う言葉だ、サカズキ先生にも貧乏な時代はあったが1日1回は空の色、街の雰囲気、自然のゆらぎ、それらを何度も使ったメモ用紙に書き起こしていたと言う、度々散歩に行くのも日々の書留をしているからだと思う
アラマキは今までそれが出来ていなかった街を見る余裕するなかった、自分に足りないものとはそれだったのか、まだ答えは出ない
ふと足を止めるいかにも高級ですとやたら派手な看板が出されている
「着物…洋服…毛皮……ふーん…」
身なりなぁ……別に品評会に出る訳でもないが、一応は余所行きの服もあった方がいいんだろうか
そう思い店に入ろうとすると出てくる人とぶつかった
「いってぇ…あらら…ちょっと兄(あん)ちゃん…前は見てくれないと困るよ…」
「あでっ!…悪ぃ……貧乏なもんで高そうな服に気ィ取られちゃってね、荷物は大丈夫か?」
「荷物は無事だよ、まぁ…出る時しっかり前見てなかったし…痛み分けだな……貧乏な割には良い服きてんじゃないの…何?謙遜?」
「らはは!違ェよ、これは世話になってる人に貰っただけだぜ、アンタこそ高そーなもん買って」
「これは…まぁ…あー…貢物的な?」
「貢物?」
「あー…振り向いて欲しい人がいるのよ、こんなの渡した所でとは思ってるけどな…まぁ似合うと思うし…あげないよりましだしな」
「ふーん…熱心だもんだね、よっぽど高嶺の花なんだな…」
「そんなとこ」
「へぇ、頑張れよ!ここでぶつかったのも、なんかの縁だ!応援してるぜ」
「ぶつかって縁か…兄(あん)ちゃん面白いな、まぁまた会うことでもあったら良い報告出来るようにしとくよ」
「らはは!おー頼むぜ!」
ぶつかったクルクルと巻き毛の男は片手をあげると去っていく、アラマキは店に入ろうかと思ったが視界の端カフェーから出てくる知人の姿に気づく、サカズキ先生の屋敷に下宿するのを手伝ってくれたやつだ、ひとつお礼でもしとかないといけないと思い声をかける
「よぉ、元気そうだな」
声をかけると知人はギョッとした顔をした
「お前はだいぶ元気になったな雰囲気も野良犬から飼い犬って感じだ…いい飯食わして貰ってるんだろ」
「おいおい犬呼ばわりかよ、はー…まぁ間違っちゃいねェ、いや感謝してるぜ…お前のおかげで天国みたいな場所に住めてよ」
「天使は居たか?」
「居たよ、ありゃ本当に天使だぜ…独り身じゃないって所が残念だけどな…」
「……忠告は無意味だった様だな」
「お前も今の俺と同じ感じだったのか?」
「そうだよ、俺だけじゃない…あそこに下宿しに行ったヤツらは1年も経たずに追い出されてたな」
「奥様に手ぇ出してか?」
「声がデケェよ、まぁそうだけどさ……俺の勘違いだったかもしれない…でも奥様に好かれてるような気がしてたんだ…距離も近いし…優しいし…もしかしたらって手を出したら……このザマだけど」
「……ちょっと思わせぶりな所はあるなって思ってたけど…そうかお前だけじゃない訳だ心を取られたやつは」
「今にお前も取られてしまうさ…まぁ本当にサカズキ先生に殺されなかっただけマシだよ…困った奥様だ…」
「……そうか」
アラマキはうっすらと気づき始めていた、見えないほどの細い糸で作られた蜘蛛の巣に自分が近づいていることに
思わせぶり所の話じゃないのだ、あの人はきっと
知人との話もそこそこに材料を買った後に屋敷に帰ると奥様は相も変わらず微笑みで迎え、ちょうどサカズキ先生の書斎の掃除で頼みたい事があると話す
アラマキは言われるまま赤い廊下を歩く、窓からは薄く日が差し込みポツポツと廊下を照らしている初めてこの屋敷に来た時を思い出しながらも、その時とはまるで違う自分の心を嘲笑い真っ直ぐ奥様を見つめて後ろを歩く
書斎に着くと奥様は窓の外を拭きたいけれども、どうにも端の方自分では手が届かなくてアラマキに頼みたいらしい
「アラマキくん良いかい?」
「お易い御用だね」
ひょいひょいと拭くとボルサリーノは笑顔でアラマキの髪をふわふわと撫でた
「ありがとうアラマキくん、頼りになるよォ…わっしがもう少し若かったら旦那に貰ってたかもねェ」
なんて冗談言ってスルリと髪から離れる手を強く掴んだ
「ン〜?」
「ボルサリーノさん…やっぱ悪い人だね」
「なんの事ォ〜?」
「俺の前に下宿に来てた奴ら、何で追い出されたのか聞いたよ」
「それでェ?」
「サカズキ大先生様の大変大事にされている奥様に手ぇ出したって、それでサカズキ先生はおかんむり……殺されなかっただけマシだってもっぱらの噂だぜ」
俺の話を聞くと奥様は長い指で夫であるサカズキの本の背表紙をなぞりながら妖しい微笑みを浮かべた、アラマキはこの掴めぬ方から本当の心根など聞きようがないと心の底ではわかっていても、この欺くような純白の出で立ちの中に隠されたが情事が好奇心を刺激し秘密を暴く事を止められない。
「貴方が誘ったんでしょ」
今までここで暮らしてきてわかったどうにも抗えない様に心を掴むのが上手い…そのくせ言葉では何も言わないのだ、言えば本当にボルサリーノさんから誘い、夫がいる身にも関わらず不純な間柄を築いた事になる、ボルサリーノさんは自分自身を悪くするつもりがない…誘いに乗って巣にかかった虫達が泣きを見る、この蜘蛛はきっと言うのだ「自分は何もしていないのに、彼らが急に人が変わったように襲ってきた」と旦那様に縋り泣く姿が目に浮かぶ、疑いの目を向けるアラマキにボルサリーノが告げる
「わっしは身も心も旦那様の物…そんな下品な真似…すると思うかい〜…」
不意に陽を雲が隠したのか奥様の顔にうっすら影が差していく、影のベールの奥、読めない表情でボルサリーノはアラマキの方に近づくと頬を人差し指でするりと撫でた
「じゃあこの指の意味は?」
アラマキがボルサリーノの指に自分の指を絡ませ口づける
「さぁ?」
あぁ本当に
「らはは…狡い人だ…貴方、はいもいいえも言いやしない」
「書生を可愛がってやってるだけだよォ」
「食いもしない獲物で遊んで獲物が死んだら、ほっといてどっか飛んじまうんだ」
「そんな生き物は嫌いかい…?」
「嫌いじゃないから困るんだよなぁ」
ボルサリーノを書斎の机に押し付けた、唇に息が触れる程に顔が近づく
「俺の事も愛しい旦那様に言うんだろ」
「さぁ、どうだろうねェ」
「はぁ全く…今楽しんどかないとな…この時だけは旦那様忘れて俺だけ見ててよ」
逃げ場などない逃げようもない、ただ美しく見える薔薇の棘に自ら触れる、ボルサリーノはまた微笑みアラマキは抜け出せやしない蜘蛛の糸に絡まっていく
机がガタリと揺れ、はだけたシャツから覗く白い肌、細いボルサリーノの腰を抱き腹に口付ければ、小さく嬌声を漏らすボルサリーノにアラマキの中で渦巻く欲は歯止めが効かなくなる、薄桃色に色ずいた蕾を口に含めば体は少しばかり強ばり、ボルサリーノは可愛いとアラマキの頭を撫でる
「アラマキ……君は…ぁ…小説家になるんだろォ……」
「ん……あぁ」
「……どんな小説書くのォ…?」
「……どんなって……」
奥様を書きたいなんて言ったらどうなるんだろうか、驚くのか嫌がるのか、いや、嫌がった所で書くことを辞めるかと問われれば否だ
書かずには居られない、こんな狂おしいほど美しく残酷なほど狡い人間を
「俺は奥様を書きたい…最初に書く小説は…アンタを題材にしたい」
とアラマキが言うとアラマキの首に腕を回しボルサリーノは薄く微笑む
「じゃあ、今も……これからも……一言一句感じた事覚えておいて……」
そして本の中にアラマキだけが見たわっしを閉じ込めて
奥様との秘密は増えていくばかりだ、禁断だからこそ人間は惹かれる、他人のものだからこそ美しさが際立つ、倫理もクソもない楽園で恩を仇で返すように幾度も奥様と罪ばかり重ねた
そうやって月日が過ぎていく、ある日の事アラマキが自室から出て食堂へと足を運ぶと、いつもは散歩へ行っているサカズキ先生が椅子に腰掛け長机に肘を着いて考え込んでいた
「サカズキ先生?どうしたんですか?」
そう声をかけるとサカズキは鬼のような形相でアラマキの方を見た
貫くような眼光に冷や汗が止まらなくなる、まさかバレたのか奥様との関係が
冷や汗ばかりが流れ声をかけた場所から微動だにしないアラマキにサカズキは椅子から立ち上がる
1歩1歩重い足音が聞こえる度に恐怖が膨らんでいく、殺される、確実に殺される
声を出ないアラマキに鬼神の如き男が迫る
アラマキがヒュっと息を吸った瞬間目の前に紙が出された、ギョッとしたままのアラマキは紙に書かれた言葉を読む
「……さ……サガサ…ナイデ…クダサイ」
「終わりじゃ……」
「へ」
サカズキは肩を震わせながら紙を見直し、鬼のような顔のまま絶望している
「朝寒うて起きた時には…もう隣におらんかった…………急いで食堂まで出たらこれが……」
「は!?奥様出てったんですか!?」
「買い物かもしれんじゃろ!!」
「いや、出てった人だけが確定で書く置き手紙ですよねコレ!?」
「買い物かもしれんじゃろが!!」
「いやいやいや!!探すんでしょ!?俺手伝いますよ!!」
「朝4時からもう散々探したんじゃ!!!」
ちなみに今は朝の10時
「…………さ…サカズキ先生…4時に起きて居ないって奥様買い物に行くにはちょっと早すぎると、俺は思うんですけど…」
「そんな事分かっとるわ!!」
お手本の様な現実逃避をするサカズキにアラマキはかける言葉を選びまくる
え?いやなんで出てったんだ、なんか嫌な事あったとか?いやでもサカズキ先生ボルサリーノさんにめちゃくちゃ甘いし、怒った所見た事ないし、え?なに?俺?俺のせい?俺が抱いたから?奥様罪悪感とかで出てったとか?え?それ不味いだろ普通に、それは不味いだろ!!!
「さ…サカズキ先生」
「無理させすぎてしもうたんじゃ……」
いや、いやいやいや、言う?いや!!殺されるって!!こんな時にそんな事暴露されたら、それこそサカズキ先生おかしくなっちゃうよ!!あと俺も殺される!!
「何か…奥様が行きそうな場所に…心当たりとか…」
「……心当たりある所は散々探した……」
「奥様友達とか知り合いとか居ないんですかね?知り合いの家に行ってるとか……」
「知り合いの家…………」
サカズキがハッとした様に目を見開く
「アラマキ!!!行くぞ!!!!」
サカズキは椅子にかけてあった羽織をひったくるように取ると食堂を出て玄関へと向かう
「え!?あっ!」
アラマキは着崩れた着物の上に外套を羽織って後を追った
外へ出ると雪が降り始めていた
「寒い寒い寒い!!!!どこ行くんですかサカズキ先生!!」
「ええから着いてこい!!!」
寒さなど気に留めずドンドン歩いていくサカズキを凍えながらアラマキは着いていく
しばらく歩くと長屋が見えてきた、サカズキは吸い込まれるように並ぶ長屋の戸の1つの前に立つ
「サカズキ先生、こんな所に奥様が…………」
「開けえ!!!クザン!!!!」
ドンドンドンっと開くより先に戸が無くなるんじゃないかという勢いでサカズキは叩いている
「ちょっ壊れちゃうよ!サカズキ先生!!」
「壊れてもええ!!!」
ドンドンドン!!!と本当に壊れそうだ
「クザッ……」
バンッと戸が勢いよく開いた
「うるせぇなっ!!!戸が無くなるだろ!!サカズキ!!何しに来たんだよ!!」
クザンと呼ばれ長屋から出てきたのは見覚えのある巻き毛
「あ!!!!!アンタ!!」
「ん?あ?……あらら…兄(あん)ちゃんは……」
「入るぞ!!ボルサリーノ!!居るんか!」
会話などお構い無しにクザンの家へと上がるサカズキ
「あっ!!ちょっ!!!おい!!どうなってんだよ!!」
「いや…実はかくかくしかじか…なんだよ……」
何故か申し訳なさそうに言うアラマキ
「はぁ!?ボルサリーノが家出!?何で!?おい!!サカズキ!!うちにボルサリーノは来てねぇって!!お前何したんだよ!」
部屋に上がり込んだサカズキの羽織を引っ張るクザン
「探してもおらんなら、お前の所しか無いじゃろうが!」
「アンタどういう知り合いなの?」
「え?あー…あれだ…俺はボルサリーノの愛人的な……」
「はぁぁ!?」
長屋に響き渡りそうな大声でアラマキは叫んだ
「おい!!うるせぇよ!!近所迷惑!!ほんとやめて!!俺の家壊れちゃうから!!サカズキ連れて帰れって!!」
「壊れてしもうたらええこんな家」
「ええ事ねぇよ!!帰れよ!!」
「愛人ってどういう事だよ!?」
「そのまんまに決まってんだろ!!俺とボルサリーノは好きあってんの!!終わり!!帰って!!本当に俺が長屋から追い出される!!ここ以外の所に住めない!!金ないんだって!!」
「アンタ、高い物買ってボルサリーノに貢いでるから金ねぇんだろ!!!」
「おどれ!まだボルサリーノにそんな事しちょったんか!!早う諦めんかい!!」
「いいだろ別に!!ボルサリーノが喜んでるんだから!!!サカズキは旦那様(仮)だろ!!名称だけだろ!!!旦那面すんな!」
「ええ!?そうなんですか!?サカズキ先生!?」
「これから(仮)から旦那様になるんじゃ!!」
「何それ!?」
「俺と喧嘩して旦那様の称号勝ち取っただけなんだよ!サカズキは!」
「話見えてこねぇ!!」
そうやって3人でぎゃあぎゃあと騒がしくしていると長屋の大家らしきに人に、こっぴどく怒られ追い出され(本当に物凄く怒られた)、一応落ち着きサカズキの屋敷に集まることになった、帰る途中も3人で手分けして探しながら帰ったがボルサリーノは結局見つけられず…
3人は屋敷の食堂に集まった
「…で…愛人と旦那様(仮)って何?」
アラマキはサカズキがいれた緑茶を飲みながら聞く
「ボルサリーノを取り合って喧嘩して俺が負けて一緒に住む権利をサカズキが勝ち取っただけ」
そう答えてコーヒーを飲むクザン
「わしとボルサリーノが好き合っとる所に、お前が割り込んできたんじゃろが!わしは学生の頃からボルサリーノと一緒に居ったのに…」
拳をギリギリと握りながらサカズキが言う
「恋に年月なんて関係ないから、サカズキよりも年月かけず早く俺とボルサリーノが惹かれあったって事だよ!」
「何じゃ、おどれ…ここでもう1回白黒はっきりつけてやってもええんじゃぞ」
「あらら…今度こそ負けねぇよ」
「おいおいおい、やめてくれよ!ボルサリーノさんが居ないのが今1番の問題なんだぜ」
「そう言う兄(あん)ちゃんはボルサリーノの何なのよ」
「……俺は……あ、俺名前アラマキね…ここで下宿してるただ書生だよ」
「こいつもボルサリーノの愛人じゃ」
アラマキは飲みかけた緑茶を全吹き出した
「うわっ汚っ、ちょっと気をつけてよ」
「さ…サカズキ先生知って……」
「知っちょるわ、わからんはずないじゃろうが……これまで来た書生がボルサリーノに引っ掛けられたんも知っちょる」
「え、えええ………怒らないんですか?ボルサリーノさんを…」
「……蝶は…飛んどるから美しいんじゃ…わしの意思で捕まえて籠に入れる事は出来ん…入れた所で逃げられるのがオチじゃ…それにボルサリーノには無理言ってここに住んでもらっとる身じゃ……これ以上わがままは聞いて貰えん…」
「うーん…蝶っつーか…蜘蛛だぜ…」
「あらら…馬鹿言っちゃいけねぇよ、あの美しさとか自由さは鳥……いや気高さは馬……」
「じゃあアンタ鹿か」
「馬鹿ってか、お前上等だよ表出ろよ、アラマキ」
「おい、やめぇ…喧嘩してもボルサリーノは帰ってこん…」
実はもう日が傾き始めているお通夜みたいな雰囲気を出すサカズキは何がダメだったのかとグルグルと頭で考えているのか、目が死んでいる
「ただいまァ〜カニ買ってきたよォ、今日は味噌カニ鍋……オ〜?クザン〜、珍しいねェ〜…と言うか…何で皆で集まってるんだい〜?」
「「「ボルサリーノ!!!!!」」」
のほほんと帰ってきたボルサリーノに3人とも椅子から勢いよく立ち上がる
「出てったんじゃないんか!!」
「カニの取り置き頼んでただけだよォ、港は朝早く行かないと、すぐ売れちゃうから…その後キネマ行って…サカズキの着物の新調頼んでェ…」
「罪悪感で飛び出したんじゃねぇの!?」
「何に対しての罪悪感なのォ?アラマキにもお土産買ってきたから後で食べなねェ…」
「やっと俺の所に来てくれる気になったと」
「いや違うけどォ…あ、この間の贈り物ありがとねェ、今度着けてみせるねェ〜」
サカズキは今朝から肌身離さず持っていた書き置きをボルサリーノに見せる
「探さないでとは何じゃ」
「それごめんねェ急いでたから詳しく書ききれなかったァ…買い出しに出かけるから探さないでってェ」
「せめて買い出しを優先しなさいよ」
「焦って心臓止まったぜ」
「申し訳ないって思ってるよォ〜、ほらァカニ鍋皆で食べようよォ〜、準備するから手伝って」
台所へと向かうボルサリーノ
「カニ鍋良いじゃないの、俺も食べて良い?てか長屋追い出されたから、俺もここに住んでいい?」
「住むな、やめぇ」
「良いよォ」
「良いのかよ…」
「明日荷物持って来るわ」
「皆で住んだら楽しいよォ」
「ボルサリーノさん結局誰が一番好きなの?」
「ン〜?皆平等に大好きだよォ〜、わっしの可愛い恋人さん達」
相も変わらず、にこりと微笑む男に3人は胸を貫かれるばかりで、こればっかりは惚れた弱み、己の上で美しく飛ぶ鳥を落とせるものがどこに居ようか?
出会ったのが運の尽き、出会えた事が運の尽き、どのようにとるかはその人次第だが、この3人の男たちは後者のようで、そして蝶よ鳥よ蜘蛛よと変幻自在の男は全て平等に愛しその後も本の中で姿を残し、絵の中で人を惑わし後世まで長く愛された