傷む 初夏というには少し早いぐらいに、通知音が響いた。
スマホから特徴的なメロディーが鳴るとすぐに手に取るようになったのはいつからだったろうか。この場所に引っ越してきて、戦うようになってからだったと思う。
チャットアプリの一番上に固定してあるチャット欄に、1件通知が入っていた。
『こんにちは。水上君。哲次は亡くなりました。追って、お電話させていただきます 母』
初夏、まだ春が少し終わったぐらいで桜も桃色を残している。
すべての色が吹き飛ぶように、ただ地面が揺れた感覚だけを鮮明に覚えている。
✿
「ほな、おつかれさん」
大学のノートが入ったショルダーバッグを片手に持って、水上は生駒隊の隊室を後にした。ぱちりとライトを落として、静かな本部の廊下に靴底の音を鳴らす。
すっかり帰るのが遅くなってしまったと自らのスマホで時間を確認する。成人して少しばかり居残りをしても周りの大人が何も言わなくなった頃から、止められなければ夜が更けるまで隊室でのんびりすることが増えてしまった。
夜9時を示すスマホには何軒か通知が入っている。それは明日の見回り任務の時間だったり、同じ隊のメンバーである隠岐からは救助の要請が入っていた。どうやら課題の提出日が近づいてきたらしい。今年は単位安定させます、なんて言って結構な数を捻じ込んだと言っていた。大変やなぁと流した水上はとっくに卒業単位を取り終えているものだから、全くの他人ごとだったわけだが。
なんて返そかな、いつ手伝いのスケジュールを組もうか。そんなことを考えながら返信をしようとしたら、ふと鼻腔を香ばしい匂いが貫く。顔を上げた水上の前に見えたのは、元同級生の実家であり、かつよくお世話になっているお好み焼き屋だった。冬の少し手前、肌に浸み込みそうな冷たさの空気に混じる地元の匂いに、ぐう、腹の虫が興味津々に鳴いた。それを無視して水上は足を進める。鳴る腹と別に、水上の頭に大して空腹感はなかった。
2LDKの部屋は一人で住むには少し広いが、大は小を兼ねるという言葉通り、水上はこの広さに特別不満を持っていなかった。強いていうなら少し家賃が高いぐらいだが、ボーダー隊員ということもあって不自由するほど貧窮しているわけではない。生きるだけなら2LDKは非常にお手軽で、すこしだけ広すぎる場所だった。
通販サイトで購入したシューズボックスに靴を入れて、真っ先に洗面所で手を洗う。それからリビングに入って冷蔵庫を開けた。 中には野菜類と調味料、昨日炊いたばかりの米がパックに入っている。それらを取り出して、さっさとフライパンの上にすべてぶちまけた。
「おっと、忘れとった」
閉めかけた冷蔵庫のドアを引き留めて卵を取り出す。
ほんの15分程度炒めればできる簡易的なチャーハンを皿に盛りつけて、4セットほどある箸の中から1セットを選び出す。判別できるのは持ち手の色だが、あいにく箸入れがわりの筒に差し込んでいるだけなのでいつも別の色を引っ張り出してしまう。
そこで気付く、チャーハンならスプーンでもよかったと。
はあ、水上は盛大な溜息を吐いて1セットの箸を筒に戻す。そのまま同じ筒に入れているスプーンを手に取った。
湯気を立てているチャーハンにかぶりつきながら、水上はぐっと腕を真上に伸ばした。ぱきぱきと体中から骨の鳴る音がする。この時ばかりは歳やな、なんて考える。周りの先輩に言ったらシバかれる可能性があるから口には出さないようにしていた。
あっという間に胃の中に納まったチャーハンの皿をシンクに置きっぱなしにして、さっさとシャワールームに向かう。服はなるべく絡まないようにして洗濯機の中に入れる。2年と数か月前に奮発して買ったドラム式洗濯機は水上のQOLを高める一つの要因だ。今日も今日とて、ボタンを1つ押せばすべてが終わっている夜が訪れる。
シャワーを浴び終えて脱衣所に出れば、普段は静かに稼働しているドラム式洗濯機がやけにうるさいことに気付く。透明な蓋の部分から水上が中を伺えば、先程脱ぎ捨てた服に混じって丸いものが回っていた。それをみて水上はポンと掌を叩く。
「そういえばお前洗濯しとったわ」
納得した水上の視線の先にいるのは暴れまわっているぬいぐるみだった。ちょうどドラム式洗濯機と同期ぐらいの存在だ。「そらうるさいわ」。そう言って水上は髪をタオルで拭きながらリビングに戻る。
冷蔵庫の閉め忘れや火の元を確認して、リビングの奥、扉一枚隔てた先にあるベッドルームへと入る。そのままベッドへと飛び込めば一気に水上の周りを眠気が飛び回りはじめた。
「あかん、今日ねむいな」
目を擦りながら水上はスマホを手に取る。お好み焼き屋の前で閉じていた隠岐とのチャット欄が表示されるが、この眠気でスケジュール調整をするのは危険だと水上の中で警報が鳴る。つい先日ぼーっとしながら遊びの予定を立てたら、ド平日の深夜2:00という謎の時間帯にスケジュールが入っていてびっくりしたばかりだ。勿論その予定は断った。
充電器にスマホを接続することは忘れずに、水上は枕元に置いてあったリモコンで室内のライトを落とした。手探りでなければ歩けないほどの暗闇が訪れて、高さを合わせた枕につつまれながら右腕を真横に伸ばす。
あ。水上は小さく声を上げた。瞼を持ち上げるのと同時に開いた視界には、何もない所に伸びた腕が見える。いつもそこに置いていたぬいぐるみはと言えば、まだ同期と一緒に回り続けている頃だろう。
久々に二の腕に乗る重さがないことに水上は静かに瞼を伏せた。ふたたび、暗闇が訪れる。
(お前がおらんと静かやな)
そんなに騒がしかったかと水上は独り言ちる。
静かと言っても、沈黙の深さではない。響く音が少ないことが、静かだった。自分の呼吸音だけが響き渡っている。
騒がしいと感じていたのはきっと、呼吸音が1つだけではなかったからだろう。
まだ二の腕に程よい重さが乗せられていたころ、ベッドルームは暗闇であってもすぐに目が馴染んで、寝ぼけ眼の緩んだ表情をよく見ていた。今はもう見えないあの光景を思い出そうとして、水上は更に強く瞼をくっつけあう。こうしていれば幸せなまま、朝を迎えられることを知っていた。
✿
高校を卒業するかという時期に荒船と付き合いを始めた。きっかけは閉鎖環境の訓練で、元々きっかけもなかったのにどうしてと、周りに迫られることに若干辟易した瞬間もある。なんと言っても荒船は各方面に顔が広いうえに愛される男だった。本人にこんなことを言ったら、普段は澄ましているあの顔が真っ赤になるのは間違いない。案外、事実を伴って向けられる愛情に弱い男だった。
そんな荒船が死んだという連絡があったのは初夏に入る少し前だった。車に跳ねられたと、病院に運ばれた時点で既に意識もなく心臓も動いていなかったらしい。せめて苦しまなくてよかったという世間の声に吐き気がした。
葬式は身内と友人らのみで開かれ、ボーダー関係者が多く参列していた。普段はカラフルで個性的な隊服を着ている面子が全員黒に染まっていて息が詰まった。
水上の記憶に残っているのはそれだけだった。あの場所で誰にどう声を掛けられたかを全く覚えていない。ただ、黒い人波が今まで生きてきた光景の何よりも恐ろしくて何度もトイレに行って吐いた。その度に会場に戻って、よく見た顔が仕舞われている額縁を覗いた。
死ぬんだと思った。あんなにしっかりしていて人をまとめるリーダーシップを持っていて、映画を観るとなったら目を輝かせて、お好み焼きを焼きに行ったら自信満々で謎の手さばきをしていたあの男が、死んだんだと。
呆気なく死ぬんだと、思った。
そして今も、そう思っている。
トリオンが漏れ出ている右脚を後ろに下げれば、それに合わせてモールモッドが足を1本前に出す。
水上は手元にトリオンキューブを生み出すがそれは酷く小さい。たとえ当てたとしても致命傷にすらなりえないものだろうと理解していた。それでもこの場を棄てて逃走する選択肢はない。
後ろに積み重なっている瓦礫の中から微かな泣き声が響いている。つい先ほど、水上が見つけた男児の声だ。見回り任務の途中に近界民が発生して、住宅街の一部が吹き飛んだ。その際に巻き込まれたんだろうと容易に想像できる。
その男児を救い出そうとした途端に目の前にいるモールモッドが現れて、物言わぬ間に水上の右腕を切り落とした。そのまま足まで持っていこうとした刃をなんとか退けるころには、男児を挟んでいる瓦礫はさらにバランスを崩していた。
泣き声が出ているならまだ助かると、水上は視線を瓦礫の山に向ける。
もしかしたら自分は助からんかも、とその視線は落ちた。
『今イコさんたちそっちに向かっとるから、隠れとき!』
真織の声が耳元に直接響く。オペレーターの彼女が言うことは酷く真っ当で、この状況に見合った100点満点の指令だった。
腕一本、脚の一部を負傷している水上に出来ることは少ない。このまま居てもモールモッドがトリオン体をみじん切りにしてきて、挙句トリオン不足で換装が解けるだろう。そうなったら終わりだ。
ただ、瓦礫の山だけが水上を逃がさない。
聞こえてくる声はだんだんと小さく、聞き取りづらくなる。それと同時に水上の心臓も激しく高鳴るような感覚がした。
せめてこの泣き声から引き剥がそうと、水上は右脚を引きずりながら小走りで崩れかけた建物群の中から飛び出す。広い場所はモールモッドの刃から逃れるのに不利だ。それでもあの刃の衝撃で連鎖的に建物が崩れるよりはましだと水上は判断した。
そうして飛び出したころには、背後に伸びていた刃が水上の身体を吹き飛ばした。
「ッ、」
廃ビルの壁に思いきり体を叩きつけられた水上が思わず息を吐く。それと同時に視界の下側に、切り裂かれた胸元が見えた。そこから大きな煙が噴き出す。
「これっ、ほんまに 」
なかった右腕に感覚が戻る。それどころか、さっきまで感じていなかったはずの気温が感じられた。冬にはまだ早いと思っていたあの空気が今はどうだ。すっかり身を凍えさせるように吹きすさんでいる。いや、物理的に凍えている。身体も心も。
冷えすぎて回らなくなった脳味噌に向かって衝撃が迫っていると気付けたのは、間一髪だった。モールモッドの腕の節が水上の頭上に振り降ろされる。いつものトリオン体と同じように避けようとすれば体がもたついて、刃とは別の部分が水上の頭にぶつかった。
ガンっと鈍い音がして水上は地面に転がる。ぐらぐらと視界が揺れて、段々と視界に映る月の明かりと街頭から彩度が失われていく。右側はほとんど見えていない。ぼやけて色もほぼ判別できない中で、白くて太いものが自分に振り降ろされるのを、水上は確かに見た。
あ、死ぬ。
呆気なく、俺も。おまえとおなじで。
そこで水上の意識は飛んだ。
✿
目が覚めると、真っ白な世界が広がっていた。輪郭らしいなにかがぼやけているせいでその白が何かを判断するのは難しかったが、とにかく白い。これが天国か、なんて。
考える暇もなく、水上の耳に大きな声が響く。
「水上!起きとるやん」
白い世界に響いた声はあまりにも聞き馴染みすぎて、最早頭痛すらしない自信がある…と思ったが、普通に痛かった。水上は思わず顔を顰めて再び瞼を閉じた。
「目覚めたんですね、よかったわぁ」
未だにキンキンとなっている耳とは別の方角から声が聞こえる。薄く目を開いてそちらを見れば隠岐が居た。相変わらずの顔面の良さと背景の白さが相まって輝いているようにすら見えた。
「……目覚めのイケメンは反則やな…」
「元気そうで安心しましたわ」
隠岐が背中に腕を回してくる。それを支えに腹筋に力を込めれば、案外簡単に上半身が持ち上がった。まだツキツキと頭が痛むが、その原因である声の主はカーテンレール越しに叱られているようだった。
「イコさんまで来てくれたんです?」
ようやく説教から解放されたわりにはどこか凛々しい表情をした生駒に向けて水上が問いかければ、振り返ってすぐにその顔が頷く。
「当たり前やん。2日起きてなかったらさすがに肝冷えたわ、流石の俺でも。マリオちゃんも怒っとったで」
「退院したら土下座しに行きます」
「あと海がな、俺が作った飯食わなくなった。謝っといてや」
「それ俺関係あります?」
余りにも日常過ぎるテンポの会話をしていると、隠岐の後ろからナースが顔を出した。どうやら意識が戻ったから検査をするらしい。
生駒と隠岐は「預かった」と言って、果物が入ったバスケットをおいて病室を出て行った。まだ話し足りないなと思ったが、検査なら仕方ないと水上はベッドから立ち上がる。一瞬視界がふらついてナースに支えられる。腕に柔らかい胸の感覚が当たって、ああさっきイコさんが凛々しくなってたのはこのせいかと、水上はまた頭痛がした。
数時間拘束されて精密検査の末に出た結果は、要約すると脳味噌がとても傷んでますということだった。
どうやら頭頂葉前部と後頭葉とあとドコドコに…若干損傷が残っていると説明されたが、大して医学にも脳味噌の構造にも興味を持ったことがない水上は頷くことでその場を流した。重要だったのは今後の生活に影響が出ることはないということと、完治するまでに2週間程度かかるということだけだった。ちなみに入院生活は今日で終わっていいと言われ、ジェットコースター並みに早く世間への帰還を許されてむしろ混乱した。
病室に案内されて帰宅の準備をしていると、カーテン越しに視線を向けられていることに気付く。水上が振り返っても、地面から数センチ浮いたカーテンの隙間に影は見えない。首を傾げたまま水上がカーテンを引けば、病室の外から小さな影がこちらを覗き込んでいた。
その姿をじっと目を細めて見つめてから、水上は口を開く。
「あん時の男の子か?」
見ず知らずの子供に見られる理由は、それぐらいしか思いつかなかった。
水上が声を発したことで、少年が病室の入り口に立った。それから水上の傍に近寄ってくる。よく見れば小学生にあがりたてぐらいの身長の低さだった。水上はしゃがみ込んで視線を合わせる。
「無事でよかったわ」
「……さっき、お兄ちゃんのベッドのとこに来てた人たちが助けてくれた」
「流石やな。まあ俺も生きとるってことはそういうことか。自分はしばらく入院なん?」
少年が小さく頷いた。それから段々と視線が床に向いていき、最終的には俯き切ってしまった。そんな姿を見て水上が目を細める。
黒くて何にも染まっていない髪の毛の上に、掌を置く。
「どうしたん」
「まま…まま、……っの、せいで、……っ」
水上は黙って震える小さな体を見つめた。
あれだけ住宅街の被害が多かったということは、市民への被害も小さくはなかっただろう。ボーダー隊員数名がすぐ対応したとは言え、その前に何度か建物の崩壊は起きていた。あの瓦礫の山の中に男の子が1人で泣いている時点で察しはついていたが、いざ事実として聞いてしまうと、何も言葉は出なかった。
「あ、ここにいたの!」
小さな影の向こうからナースの声が聞こえた。それから病室に入ってくるナースの手によって、少年が引き剥がされる。まだ重傷なんだからと、大人らしい叱責をするナースに手を引かれながら少年は水上の前から姿を消した。
少年の頭に乗せていた手を見つめる。少しの震えも伝わってこなかったのはもしかしたら自分が一番震えていたからかもしれないと、水上は目元を抑える。
隊のメンバーからもらった果物のバスケットと、任務につく際に本部に置いていた荷物(隠岐が病室に持ってきていた)を持って水上は帰路を歩いていた。まだ夜というには早く、公園に設置されている時計を見れば午後7時を示していた。
今日は帰って、とりあえず飯食って寝よう。まだ冷蔵庫におかずは入っていたはず。
そんなことを考えながら水上が歩いていると、前から歩いてきた男性と肩がぶつかる。些細な衝撃だったが、突如走った頭痛の鋭さに水上が思わずよろけて果物を地面にばらまいた。ぶつかった男性のアッという声が響いて、それから果物が急いで回収される。
「すみません!」
「いや、こっちも見てなかったです。すんません」
手を貸してもらって立ち上がり、ズボンについた汚れを落とした時だった。
地面に向けて下ろされている水上の視線の上側に、人の足が見えた。靴を履いている。
先程の男性かと思ったが彼はスーツを着ていたし、きっと革靴だったはずだ。
とすれば、今目の前に立っている人物は、誰なんだ。
ゆっくりと水上が顔を上げる。段々とその人物が視界の中に収められていって、最後には夕暮れに溶けそうな濃い茶色の髪と、紫の瞳が見えた。
視界の端でさっきぶつかった男性が立ち去るのが見えた。
視界の真ん中には、死んだはずの荒船が立っていた。
大きく口を開けた水上の表情を少し低い位置から見つめる荒船は、懐かしい笑みを浮かべた。
「変な顔になってるぜ」
ありえないと傷んだ脳味噌がいうまえに、水上は足を踏み出している。
ここが外だということも忘れて、水上は目の前の荒船を抱き締めた。ぎゅうっと、腕の中に20歳の肉体が収まる。記憶の中にいる荒船と何一つ変わらない、ただ、自分が1年だけ多く成長してしまったせいで小さく感じる何とも言えない感覚に水上は身体を震わせた。
一瞬耳元で詰まったような声がして、それから背中をポンポンと叩かれた。
「往来の場でするもんか?これ」
相変わらずポンポンと叩かれ続ける感覚に水上は目を伏せる。変わらない、付き合ってから見せるようになったこの宥めるような仕草も。息を吸えば体の中に流れ込んでくる匂いも、擽ったい髪の毛の感触も。
「水上」
やがて優しくリズムを刻んでいた手が背中に添えられたのが分かった。そして、ぬくい温度が体中を包み込む感覚がした。
「ただいま」
その言葉を、いつから待っていたのだろうか。
「おかえり」
言葉が零れた。
✿
身体が全快するまでゆっくり養生しろと隊長に言われた。そのため、水上は2LDKの部屋に1週間の軟禁を言い渡された。とはいえ、大学は大体用事がない。実質プチ冬休みのような期間を貰った水上は、せっせとプレートでお好み焼きを焼いていた。
「相変わらず綺麗な焼き方だな」
「そら本場やからな」
「生まれたころからやってると上手くなるかそりゃ」
「いや焼き始めたの普通に中学からや」
小さく笑って肩を震わせた荒船を見て水上も頬を緩ませる。まるであの日々が戻ってきたようだと、いっそうお好み焼きを焼く手に力が籠った。
荒船が目の前に現れてから水上は2つのことに気付いた。
1つ目は、この荒船が自分の見ている幻覚だということだ。
大体、荒船が死んでいることを一番深く思い知って、この1年間引きずっていたのは他でもない水上自身だった。今更現れた存在が生きている荒船だと考える思考はおろか、そうであってほしいと願うことすら、想像するだけで頭以上に心臓が痛んだ。
そんな水上の思考と合わせて、荒船の行動もいかにも幻覚らしかった。抱き締めてくるのも不意に頭に触れるのも、眠る前にひとつキスをするのも。全て生前に2人で行っていたことだ。逆に言うと、荒船が生きていた頃にしていなかった行動を、1つも目の前の荒船は行わない。喋る内容こそ全く記憶にないものもあるが、返答はいつでも水上が想定できる荒船らしい言葉だった。
この荒船は自分の脳味噌が作り出す紛い物だと、荒船が目の前に現れたあの日の夜に気付いてしまった。
2つ目は、トリオン体になると荒船が見えなくなることだ。
トリガー自体は常に持ち歩いていたため、ふと荒船の前で換装したら荒船はどこにも見えなくなった。換装を解いたら当たり前のように自分の目の前に立っている。
そんなことがあってからトリガーは部屋のテーブルの上に放置している。どうせ任務にはしばらく出ないため、持ち歩く必要もなかった。
荒船が現れたあの日から、夜に1度将棋を打つようになった。普段は隊室に行って1人で打っていたが、幻覚とは言え荒船と将棋が再び打てるのは楽しかった。
18の頃に付き合ってまず初めに荒船が聞いてきたのは、将棋の打ち方だった。なんでそんなもん、と聞き返した水上に大して荒船は自信満々に歯を見せて笑っていた。
「お前の好きなもんが得意になりてぇ。そうしたら互いに楽しめるだろ?」
ああ、この男が心底好きだと思った。その頃も少し前も今も。
そんな荒船の希望と水上の手腕もあって、あの頃の荒船はめきめきと腕を上達させていた。それこそ水上の思考を読んであと一歩まで追い詰めたこともある。それでも水上は1度も勝ちを譲ったことはなかった。
そんな荒船と打つ将棋は、いつも静かだった。熟考して最善手を打ってくる荒船の姿は美しかった。水上の考えうる上から考えて1番目か2番目の「良い手」を常に遠慮なくさしてきた。
今だって、そうだ。
水上と対峙する荒船は落ち着いた表情で盤面を見つめている。すでに50手を終えている番、荒船はぴたりと動きを止めた。考えている時の癖だった。口元に手を当てて、時折何かを呟きながら盤面を見る視界に、水上は入り込んでいない。
それをいいことに水上は指先で掌に収まった駒を弄ぶ。先程荒船側から奪った金だ。
その金を見て思い出す。最期に打ったあの盤面も、金を取ったことで崩れ始めた。
あれは水上が明確に詰ませようと思考して導いた手だった。その誘いに乗った荒船は金を身代わりにして場を繋ぐ。それが数手先の王手に多大なる痛手を与えるものだということを、知ってか知らずか。結局あの晩面は水上が勝利した。今でも思い出せる、あの時の荒船の表情を。
ぱちりと音がして水上が顔を上げれば、荒船がさした一手はあの人全く変わらない手だった。
水上は確信する。この勝負に発展はないと。またあの日の勝利と敗北を繰り返してしまう。
「考えてる顔じゃねぇだろ」
ふと荒船から声を掛けられる。盤を通り越して彼を見れば、紫色の瞳が鋭く光っていた。それからさっさと打てよと言わんばかりに腕を組んだ。
「…痛い手打ってくるなぁ。じゃあ、ここやな」
王を出す。途端に見開かれる荒船の瞳。一瞬揺れてから、その口元が持ち上がる。
「とらせてくれるのか?」
あの日と全く同じ言葉だった。
いや、荒船が現れてから毎夜打っている将棋ではすべてこの言葉が返ってくる。この手を打ってその数手後、荒船は投了する。
でもこの勝負に飽きることはない。1年間聞けなかった声も台詞も勝気な表情も何もかも、全部わかっていてもこの勝負を切り上げることは出来なかった。
数手進めるごとに荒船の表情が険しくなった。そして最後の王手へと繋がる駒を動かして宣言すると、整った顔の額にしわが寄る。見る人から見れば人でも殺しそうな顔だと形容されそうな表情は、将棋というルールで戦った時に荒船が見せる一番集中している顔だ。
それでもこの局面を乗り切れないことを水上は知っている。王手を宣言するとき、相手に逃げ道を与えないのが水上の戦い方だった。言わせた時点で負けることが決まってると、この荒船だって知っているはずだ。
「……詰みだ」
やがて投げるように呟いた荒船が小さく頭を下げた。まるで棋士のような所作に思わず水上は苦笑して、それから自らも同じ動作をなぞる。
盤面に彩られた戦略をすべてなぎ倒して駒箱に封じ込める。また明日の夜もやるからと、盤は床に出しっぱなしにした。
「そろそろ寝よか」
「そうだな」
ベッドに寝転がった水上の右側に荒船が寝転がる。壁際はいつも荒船に譲っていた。というのも、普段の立ち回りや性格からは想像できないぐらいに、荒船という男は寝相が悪かった。壁に閉じ込めておかないと朝になれば床に転がって寝ていた回数も少なくはない。そんな経過も相まって、眠る水上の右側に荒船が寝転がるのがいつもの決まりごとになっていた。それは、幻覚であっても変わらないらしい。
真横に伸ばした右腕の二の腕部分に荒船が頭を乗せる。それこそ初めのころは寝てる途中で腕が痺れて腕枕の形を保てなくなったまま朝を迎えていたが、それすら最後には慣れていた気がする。勿論腕は痺れているが、なにより朝起きた時に腕の中にいる感覚に味を占め始めたのがあの頃だったはずだ。
「水上」
「どしたん」
腕枕をされる荒船がこちらに顔を向けている。水上からも顔を近付けて軽く唇に吸い付いた。柔らかい感触に何度か唇を押し付ければ、水気を帯びた感触が表面を這った。思わず、水上が顔を離す。
「あら、ふ」
「何だよ」
暗闇にはとうに目が慣れてしまって、荒船が腕枕の形を解いて水上の身体の上に乗り上げる姿が分かった。ラフなシャツの内側に肌色が見えて思わず低い声が漏れそうになる。思ったよりも近い位置にある顔がさらに寄ってきて、頬を温かい温度が包み込んでくる。こつりと額がぶつかり合って、唇が濡れた。そのまま柔らかい唇の感覚が動く。
「してぇって顔してた」
「……してへんよ」
「嘘つけ」
擽ったい吐息が唇と頬と瞼をなぞっていく。風呂上がりのボディーソープの香りが濃い。クラクラと視界を揺らしながら、荒船の手が胸元に触れるのが分かった。酷く冷たく感じるのは、自分の身体が熱くなっているからだろうか。
水上が、目を伏せて奥歯を噛み締めた瞬間だった。
冷たい掌が胸元からどけて、体全面に乗っかっていた重さが右腕の二の腕に集中する。
思わず伏せた目を持ち上げれば、いつもの定位置に寝転がる荒船がじっとこちらを見ていた。暗闇でも分かる紫色に心臓が締め付けられる感覚がする。
「こういうことされたかったか?」
その問いかけは荒船の口から出ているのに自分の口からも飛び出しているような気がした。微かに痛む後頭部を枕から離して水上は荒船を抱き締める。さっきよりは冷たくない肌の温度が心地いい。
「なあ荒船」
「ん」
「名前、呼んでや」
「何だよ急に」
「ええから」
「水上」
「ちゃう。下の」
「…敏志」
「おん」
「何だよそれ」
「自分、俺のこと一回も名前で呼んでくれんかったな、そういえば」
「そうだったか?記憶にねぇな」
腕のなかで荒船が笑っている。その静かな笑い声が心地良くて、水上は目を閉じた。暗闇が迫る。
1週間の軟禁が解けて水上は久々に本部に顔を出した。隊室に入った途端にクラッカーの音が鳴り響いて思わず閉じた目を見開けば隊室が随分ファンシーに飾られていた。大きな画用紙には手書きの文字で『退院おめでとう!おかえり水上!』なんて言葉が描かれていた。
「いや退院はとっくにしてましたよ」
「うちに顔出すまでが入院やろ」
「どういう理論やねん」
腕を組んで仁王立ちしていた生駒に早速突っ込みを入れながら、水上は真織の前に立つ。目の前の彼女は随分と頬を膨らませていてご立腹のようだ。それはそうだろう。怪我をしたあの日、彼女の指示を聞いていれば少なくとも、もう少しマシな状況になっていたはずだ。
水上は隊室の床に膝をついた。そのまま頭を下げる。
「マリオ、すまん。指示聞いとったらもっとよくなってたわ。心配かけたやろ」
普段から失敗という失敗もなく、最善手で動けることもあって水上が真剣な謝罪をするのは生駒隊の中でも珍しかった。そんな姿を見たからか、真織は膨らませていた頬を落ち着かせて水上の肩を思い切り叩いた。ぱぁんと音が響く。
「ったぁ!」
「もう!今度は退けって言ったら退いてや!なんでランク戦の時あんなに頼りになるのに一人になると突っ走んねん!こっちの心臓がいくらあっても足りんやろ!」
矢継ぎ早に告げられる叱咤と配慮の言葉に水上が顔を上げる。それから視界に入ってきた彼女の、普段からは想像もつかないほどの涙を浮かべる表情を見て思わず水上は立ち上がった。それからポンポンと背中を叩く。
「二度とせんから。それで許してや」
「でもすぐ嘘つくやん…」
「あかん、全然信用されとらん…。海ー」
水上は隊室の奥の方で何やら格闘している南沢を呼ぶ。するとすぐに南沢が顔を出してきて、真織の姿を見るや否や、えぇッ!!と声を上げる。
「マリオ先輩が泣いてる!泣かしたんですか退院明けで?!」
「人聞き悪いこと言わんといて。事実やけど」
「あーあ、泣かしちゃいましたねぇ。罪な男ですわほんま。ねぇイコさん」
「もう一回病院のベッドに沈めたろか。うちのかわいいマリオちゃんを泣かすな!」
「退院明けの人間にここまで容赦なくやってくるあんたらも罪背負いすぎやろ。あ、マリオはちゃうで」
「そういえば海が俺の作った飯を食わなくなって」
「え、あれ普通に飽きたからっすよ!毎日カレーじゃないですかイコさんの料理!」
「ほんまに俺は関係ないんかい!」
一旦深呼吸をしなければならないほどの情報量の多さに一瞬隊室が静まり返る。少ししてから、ふっと口元を緩ませたのは真織だった。
そんな笑顔を見て水上も後頭部を掻いて苦笑する。そうだった、ここはこういう場所だったと久々に思い出した。やがて南沢が笑って隠岐が釣られて肩を震わせて、最後には生駒がどこか空中に向けてガッツポーズをしていた。
とんっと水上の背が押される。真織が後ろから押してきているようだ。押されるがまま席に着けば、どんどんと隊室の奥から料理が運ばれてくる。
「え、なんやこれ。てか任務は?」
「今日は代わってもらったんや!盛大な退院祝いはまだ終わらんで!」
どんどんと目の前に並べられる食事と肉、さらには小さなケーキも見える。これはまた言葉通り盛大やなと呟きながら水上は、あれやこれやとまだまだ騒がしい隊室の光景を見つめていた。
ふとそんな光景を見つめていると、数年前に同世代組で行ったプチ卒業式を思い出した。あの時はかげうらにみんなで集まってお好み焼きをケーキ代わりにしていた。今考えるととんでもない味だった気もするが、皆笑っていた記憶がある。勿論、一番後ろで控えめに満面の笑みを浮かべていたのは誰でもない荒船だった。
あの怪我がなければ、今家で待つ幻想の荒船に会うこともなかったと考えると。真織の指示を無視した今の現状は、自分本位に捉えればただただ最善手だったはずだ。
そんな考えを思い浮かべる自分が気持ち悪くて、水上は思わず立ち上がる。隣で、騒がしさから避難してきていた隠岐が顔を上げた。
「水上先輩、大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
自らの顔面を抑えるふりをして吐き気の収まらない口を閉じる。数秒してから、ごくりと喉を鳴らして嗚咽を飲み込んだ。
「ちょお花摘みに行ってくるわ」
「はぁい」
背中に感じる視線を振りきれないまま、水上は騒がしい隊室を飛び出してトイレへと駆け込んで、吐いた。
❀
一生分を食わされるんじゃないかと水上が危険視していた退院祝いの料理も、他の隊から退院祝いに来てくれた同期やら先輩たちのお陰で見事に空になった。隊室の飾りはすべてトリオンで出来ていたらしく、真織がPCを弄ればあっという間にいつもの隊室に戻った。怒涛のイベントを主役として乗り越えた水上はテーブルの上でぐったりと上半身を倒していたが、やがて夜に近づくにつれて隊室を去っていくメンバー達には体を持ち上げて手を振った。
そんな水上の隣で最後まで笑っていたのは隠岐だった。
「隠岐、お前帰らんの?」
「帰りますよ、お茶飲んでから」
「そうか」
先程までテーブルの上で死人のように俯せていた(後半は無理矢理食わされていたからだろうか)水上は椅子から立ち上がって隊室の奥へと引っ込む。そこには水上専用の将棋盤が置かれている。また打つのかと、隠岐は奥が見えるテーブルの椅子の方へと座りなおして水上の背中を見つめた。
元々プロ棋士を目指していた背景を知っていれば、水上が1人で将棋を打つことは大して違和感ではなかった。そういう練習方法もあるという。ただ隠岐が気にしているのは、そんな先輩と付き合っていた荒船が死んでからの一人将棋だった。
初心者の隠岐から見ても水上の打つ手は長考されていて、一手に数分黙りこくっていることも珍しくなかった。水上が成人してからというもの、隊室に荒船が迎えに来るまでずっと黙って将棋盤に向かっていた。
そんな水上の打つ手が短い時間で盤に展開されるようになったと隠岐が気付いたのは、ちょうど荒船が死んでから3か月後だった。ぱちんぱちんと響く音は軽快で、時折止まることはあるもののすぐにその音は鳴りはじめた。ぱちん。
今もそうだった。背中を向けて盤に駒を置いている水上の仕草に迷いが見られなかった。どうしてかは知らないがいっそ事務的にすら見えるその動きに、思わず隠岐が立ち上がって歩み寄る。
「調子どうです?」
「おー…ぼちぼちやな」
隠岐を振り返ることもせず水上はまたぱちりと音を鳴らした。自分の陣から駒を進めたらしい。その駒が相手の陣の金を奪っていった。水上の手の中に金が収まる。
「頭、治ってきてて良かったですね」
「アホになったみたいな言い方せんといて。…、そこか……」
水上の軽いツッコみの後、続けざまの言葉が零れる前に水上の手が相手側の陣地に伸びて、駒を動かした。その自然な動きに隠岐は目を小さく見開く。その行動はかつて聞いた話と違うものだったからだ。
前に聞いた話では、一人将棋は自分の駒の動かし方と相手の駒の動かし方を交互にひっくり返して考えるものだという。だから時間がかかって効率が悪い、でもいろんな筋の見え方が見えてくるから続けてる。どこか誇らしげに水上自身がそう言っていたことを隠岐は覚えていた。
しかし今見ている一人将棋は、明らかに動く手が分かってたかのようだった。水上が金を取った段階で盤はひっくり返されて、相手側の思考に移るはずなのに。先程の水上は、どう動かすかを深く考える前に相手側のコマを動かしていた。
まるで相手側に誰かが座っていて、実際に打っているみたいに。
隠岐が立ち上がって水上から距離をとる。何とも言えないきもちわるさが隊室を包み込んでいる気がした。荷物を軽くまとめて、今度は全く動かなくなった背中に声を掛ける。
「俺先に帰るんで、電気だけお願いしますわ」
水上から返事は帰ってこない。一人将棋をしているときは大体こんなものだからと普段の隠岐は気にせず帰っていたが、今だけはどうにも、その背中が何を考えているのか分からなかった。
しかし考えたところで水上の片鱗だけでも理解できるわけはないと隠岐は諦めている。だから今日も少しだけズレただけだろうと、廊下に出るドアに手を掛けた。ぱちん。ぱちん。
「やっぱそこに置くんか」
2度響いた音の後に水上の声が聞こえた気がして隠岐が振り返る。
「……なんか言いました?」
「なんも」
今度はすぐに返ってきた声。隠岐は首だけ振り返ったまま、小さく水上先輩、と呼ぶ。今度は返答はなかった。聞こえなかっただけか思考の波に憑りつかれているのか判断はできない。
(あんた、誰と打ってるんです?)
そんなことを聞けずに、隠岐は隊室を後にした。聞いたところであの背中は、何も答えてくれなかっただろう。
❀
隊室を出ると、少しだけくぐもった音が聞こえてくる。水上が窓から外を見渡すとそこには、黒い雲が空を覆って雨が降っていた。普段から持ち歩いている折りたたみ傘を開きながら水上は本部の玄関を出る。思った以上に風が強いせいで、両手で傘の柄を持つ。
雨が傘にぶつかる音を聞きながらふと辺りを見回せば、近くの公園でブランコを漕いでいる荒船が見えた。その姿には違和感しか抱けない。雨の中成人済みの男が一人でブランコを揺らしていたらそれはただの恐怖映像だろう。そう考える一方で、そういえば残業をした帰りはこうやって帰ったんだと思い出す。あの時は雨なんか降ってなかった。
宙に浮いた荒船と目が合った。雨に濡れてぺちゃんこになった髪と真っ青な顔がじっとこちらを高い所から見下ろしていた。
すぐにブランコから飛び降りた荒船が駆け寄ってくる。水上は傘の右側を空けて荒船を迎えた。
「なんでブランコなんか」
「本でも読んでようと思ったが忘れちまった」
相合傘の中で荒船と目が合う。譲っている傘の分だけ肩が冷たくなるのが分かった。相合傘は濡れている方が惚れているだのいうが、目の前の荒船は全身びしょぬれだ。この場合はどうなるんやろうなと水上は少し考える。
「俺の方が惚れてるってことだろ」
足を進める荒船がそういえば、水上は顔を上げた。そうだったんか、と返そうとして、口を閉じた。
自分が求めている答えが返ってくるのは当たり前だった。目の前の荒船は自分の見ている、都合のいい幻覚なのだから。
進んでいく荒船を追いかけるように水上は足を進めた。まだ肩は濡れている。きっと濡れる必要もないと分かっていても、水上は傘を前に差し出し続けた。
途中で帰路にあるかげうらの匂いに荒船が反応を見せて、いつものように腕にしがみついてくる。行こうぜの合図だ。水上はその背を片手で押しながら先を急ぐ。
「俺が焼いたるから」
この言葉を何日前から毎日伝えているだろうか。飽きもせず(まあ飽きるわけも無いが)お好み焼きだけを求めている荒船をみると、自分の中にあった荒船像というものはお好み焼きで出来ているんじゃないかとすら思えてしまった。
部屋についてすぐに荒船の背をシャワールームへと押し込む。冷たい掌に一瞬頬を触られて驚いたら、「美味いの焼いてくれよ」なんて笑顔で言われた。「はいはい」お決まりの返事を返して扉を閉める。
まだ余っているであろう具材を取り出そうと冷蔵庫を空ければ、まだ数枚のお好み焼きが残っていた。朝も昼も夜もちまちまちまちま食べ減らしてはいたが、また今日も増えるのかと考えると水上はごく自然に口元を緩めていた。
大阪人とはいえこの数を一気に、しかも毎日は食えない。それでも、荒船が食べたいと言えばいくらでも焼いたし材料を買いに行く。出来上がったものをすべて食べきるのは勿論俺だ。冷静に考えればとんだ苦行だと文句の一つでも言いたいし、食いたがった本人は一口も口をつけない。
それでも、それでもだ。また明日食べればいいと赦してしまう。
慣れた手つきでお好み焼きを焼いていれば荒船がシャワールームから出てくる。水上の手元を見て、良い匂いだと微笑んでいる。その姿を横目で覗き見れば、不意打ちのように唇にキスされた。近い箇所にある荒船の顔がぼやける。水上は目を見開いて、小さく口を開けた。
「…荒船」
「なんだよ」
「……夜、将棋、打とか」
顔を離した荒船が頷いて、先にリビングのテーブルに座り込む。
乾いた唇の感覚を舌で舐めながら、水上は手元で焦げ始めるお好み焼きを見下ろしていた。
腹9分目を越えたまま将棋盤を取り出して荒船と対面する。部屋は暗い。豆電球の明かりだけが盤上を照らして、駒のひとつひとつを判別するには少し明かりが足りなかった。
その中で、ぱちんぱちんと音が響く。水上はもう、盤面や駒を見なくてもどう局面が動くかを覚えてしまっていた。覚えている、なんて考えてから、それを一蹴するように水上は笑う。
「もともと俺の中で覚えてたのをなぞっとるだけやったな」
水上の番が来て、いつも差し出される金をとろうとした。駒を摘まんだところで、ふと水上の手は止まった。
沈黙が広がる。自分一人分の呼吸だけが深く聞こえて、水上はじっと自分の手元を見つめた。
頭の中に、ひとつ考えが浮かぶ。
(もしここで違う手を打ったら、荒船はどうしてくるんや)
過去この局面が初めて訪れた時、荒船が取れた選択肢はほぼ1つだけだった。そうさせたのは水上で、その数手先で確実に詰みにできる局面を作り出していた。
ところが、今取ろうとしている金を見逃せばまだ荒船が取れる選択肢が広がる可能性があった。まだ、詰みにならない。この勝負を続けることができる。
バクバクと心臓の音が高鳴っていく。水上は先程から響いている呼吸音がだんだんと早く、間隔が短くなるのが分かっていた。
分からなかった。未知の手を打つことで、幻覚の荒船がどういう動きをするのか。自分の中にいない荒船が、最後に見れるのか。それは、果たして荒船なのか。
震えるまま、摘まんだ駒を水上は持ち上げる。
本来は手のひらに収まっていたはずの金、その隣に駒を置いた。
チクチクと頭痛がする。ぱちりと音を鳴らして置かれた駒を見下ろす荒船の顔が見えた。その表情は、鋭い目を見開いている。そして、その口元が持ち上がった。
「お前らしくねぇ手だな」
叱責するでも驚愕するでもなく、ただ微笑んだ荒船がそこにいた。
✿
カーテンの間から差し込む光に水上は顔を顰めた。将棋盤に俯せている上半身がゆっくりと持ち上がる。顔を上げると、カラカラと音がして頬に引っ付いていた駒が盤上に落ちた。見慣れた盤面はそこにはなく、床や胡坐をかいた膝の間にと様々なところに駒がはじけ飛んでいる。
酷い姿勢で寝落ちたせいか、腰がバキバキと嫌な音を立てている。表情を歪めながら水上はゆっくり立ち上がった。
洗面台へと向かう。駒の張り付いた跡が赤く残っている顔に向けて水を当てた。昨日の夜に酷くなった頭痛はすっかり収まっていた。タオルで水滴を拭いてからシャワールームの扉を開けた。風呂に入り忘れたせいで、浴室はいつもより乾燥している。扉を閉める。トイレを済ませて、廊下の端にある部屋を覗き込む。もともと2人分の荷物を投げ込んでいたが今ではすっかり物置になっている。今日も暗い。扉を閉めてリビングへと戻った。ベッドルームを覗けば、2週間前にドラム式洗濯機から取り出したままベッドに乗せていないぬいぐるみが床に転がっているだけだった。
ぐぅ、と腹の虫が鳴る。腹を擦りながら水上が冷蔵庫を開ければ、昨日よりも増えたお好み焼きの山が見えた。腹は減っているのに少しも食べたいという気が湧き上がらずに、水上は扉を閉めて静かに呟く。
「こんなんもたれるわ」
防衛任務が終わった後に、恒例行事のように水上は隊室の将棋盤に向き合った。
昨日の夜に差し掛かった盤面を再現してみた。らしくないと言われた手を打って、盤面をひっくり返す。金を見逃されて、どういう手段を講じれるだろうか。自分なら、荒船なら。どう打っただろうか。
じっくりと抜け目なく、ここ最近で一番時間をかけて手を考えた。そうして水上が見つけ出した結果は、たった1つだった。
相手側の駒を動かす。そこから寸分も考えることなく自分側の駒を動かす。そうしたら、自分の手の中には金の駒が収まっていた。
心のどこかで呆気なさを感じながらも、最後は決まりきった局面で詰みを導いていく。
やがてらしくない手から数手進んだ頃に、水上は口を開いた。
「王手」
目の前には、王に迫る銀があった。周りを巧妙に取り囲む駒から相手の王は逃げることができない。
詰みだった。
その王をとることもなく、水上は顔を伏せた。
もし今目の前に荒船がいたら、何とも言えない表情で口元を歪めるだろう。「またこうなんのかよ」って、悔しそうに、嬉しそうに。あの人でも殺しそうな表情はきっとしないだろう。ここまで完膚なきまで叩き潰せたなら、こちらとしても本望だ。何をしたってあの盤面は変わらないし荒船は詰むし俺は勝っていた。
「結局、かわらんかったな」
「終わりました?」
背後から聞こえてくる声に水上が顔を上げる。振り返れば、すぐ後ろに立っていた隠岐が鞄を持っている。
「今日影浦先輩のとこでお好み焼き食べる予約してるんですけど、水上先輩も来ます?」
そう問いかけてくる隠岐の後ろでは生駒や南沢、真織が帰る準備をしている。この時間までいるということは、全員お世話になるんだろう。水上は頷こうとしてから、ぎこちなく動きを止めた。
それから、首を横に振った。
「悪いけど、流石に連続はあかんわ」
「アラ、もう食べに行ってたんです?」
「そんなもんや」
後ろの方からエーっと声が響く。隠岐の後ろから覗き込んでいる生駒が大層不満そうな顔をしていたから、水上はぺこりと頭を下げる。
本部を出るときは隊の全員と共に出た。
嗅ぎ慣れた匂いが漂ってくるのと同時に十字路が迫る。水上を除いた生駒隊のメンバーはそれぞれ水上に対して手を振りながら、かげうらへと吸い込まれていった。そのメンバーに手を振り返していた水上は腕を戻す。それから、俯いた。
思い出される冷蔵庫の中身、あの山をどう崩そうか。これから数日間はお好み焼き生活だ。それでも1週間後にはきれいさっぱりなくせる自信がある。
顔を伏せたまま歩き出そうとして足が止まる。
腕にしがみついて強請ってくる声がないことを思い出して、つんと目頭があつくなって、水上は静かにないた。