一番美味い酒 金曜の夜とはいえ、都心から離れれば人気は格段に減る。雨の気配が加わればなおさらだ。夜十時を過ぎた電車内は乗客がまばらで、ほぼ貸し切り状態だった。
規則的な振動に揺られること数十分。荀攸は自宅の最寄り駅で下車し、重い身体と荷物を引きずるように帰路を辿る。
今回の出張は他者に起因するトラブルやミスが重なり、さしもの荀攸も精神的にも肉体的にも疲れ果てた。今すぐにでもキンキンに冷えたビールを喉に流し込みたい。独特の苦みと喉越しを想起すれば、足取りも少しは軽くなる。
だが問題は、冷蔵庫にビールが残っていたかどうか。この際、焼酎でも日本酒でもいい。飲まなければやっていられない。とはいえ、全身に圧し掛かる倦怠感を携えたままコンビニで酒を買うほどの余力はなかった。
どうか冷蔵庫に酒が入っているように。祈るような心地でアパートの階段を上がり、自室の鍵を開けた。
「おかえりなさい、荀攸さん」
優しい声に呼ばれ、荀攸の手が止まる。どんなに疲れていても聞き間違えるはずはない。荀攸が密かに懸想している、隣人女性の声だ。
「……ただいま、戻りました」
「こんな時間までお仕事ですか? お疲れ様です」
コンビニ帰りなのかビニール袋を下げた彼女は、荀攸を気遣うように眉を下げる。
彼女とは出社時間が近く、朝家を出る時に顔を合わせる事が多い。こんな夜更けに会うのは稀だ。いつものスーツではなくスウェットのパーカーとパンツといった部屋着らしき姿も、初めて見る。
「今日は出張だったもので」
「あぁ、そういえば前に言ってましたね。西の方でしたっけ?」
「ええ、日帰りの強行軍でした」
彼女と話していると、不思議と疲労が薄れていく。人懐っこい笑顔、よく変わる表情、こちらの話をきちんと聞いてくれる姿勢。夜の静寂を乱さない静かな語り口も、すべてが好ましい。
疲れ果て強張っていた荀攸の表情は、自然と緩んでいた。
「あなたは、買い物ですか?」
「はい。急にどーっしてもアイスが食べたくなってしまって」
照れたように笑って、彼女は袋を掲げる。膨らみ具合からして、アイスは一つではなさそうだ。
友人が来ているのか、それとも――男の影を推察しかけた荀攸は、無理やり思考を打ち切る。今まで彼女の周囲に男の気配はなかった。わざわざ自分からダメージを負いに行く必要はない。
「そういう日もあります。俺の場合は酒ですが」
彼女が冷凍品を買ったのであれば、引き留めるのも悪い。名残惜しくはあるが荀攸は扉を開け、荷物を玄関に運び入れた。
「――では、俺はこれで」
扉を閉める前に、もう一度彼女の姿を目に焼き付ける。せめて夢でまた彼女と語り合えたら。それくらいなら、望んでも許されるだろう。
「そうだ! 荀攸さんちょっと待っていてもらえますか?」
言うや否や彼女は慌ただしく鍵を開け、自室へ走っていく。思い立ったらすぐ行動に移すのが、彼女の性格なのだろう。
幾らもしないうちに、彼女はビール瓶を抱えて戻ってきた。
「会社で懇親会があったんですけど、お酒が余ったらしくて。貰ったはいいものの、さすがに一人で中瓶一本は飲みきれなくて、困ってたんです」
荀攸さんはお酒好きでしたよね? そう上目に尋ねられ、荀攸は一も二もなく頷いた。
「良かったら、引き取って貰えませんか? 余らせるのももったいないし、この量のビールを飲む人も周りにいないので」
「喜んで頂戴します。ちょうど飲みたいと思っていました」
彼女から渡されたビール瓶を、荀攸は恭しく受け取る。冷蔵庫に入っていたのだろう褐色の瓶は、よく冷えていた。元々好きな酒ではあるが、想い人から貰ったものは格別に美味いに違いない。思わず、期待に喉が鳴る。
「ありがとうございます。大切に飲みます」
「お礼を言うのはわたしの方です。冷蔵庫に空きも出来ましたし」
「いえ、後日礼をさせてください」
「ほんとに気にしなくて大丈夫ですよ、貰いものですし」
何度か同じやり取りをした後、彼女の方が折れた。荀攸の粘り勝ちである。隣人という微かな接点しかない彼女と縁を繋ぐには、多少強引にでも関りを作る必要があった。
「じゃあ、楽しみにしてます」
自室の扉を開けた彼女は「おやすみなさい」と荀攸に手を振る。荀攸もビール瓶を片手に持ち替え、彼女に別れを告げた。
「おやすみなさい……」
彼女が扉の先に消え、施錠する音を確認してから。荀攸も自室へ入った。
着替えや仕事道具が入った鞄をなおざりにリビングに運び、彼女に貰ったビールはそっとソファ前のローテーブルに置く。
飲むのが勿体ない。しかし折角彼女がくれたものだ。疲れた身体もアルコールを欲している……そうやって迷う事すら楽しいのだから、大分舞い上がっている。
小さく笑った荀攸は優しい手つきで栓を開け、焦がれていたビールを喉に流し込む。いつものペースで飲めば中瓶などすぐ空になるが、今日ばかりはじっくりと時間をかけて、酒を楽しんだ。
この日の酒は今まで飲んだどの酒よりも美味く、心までもが深く満ち足りた。
*終わり*