おととい来やがれ横恋慕「日頃のお礼にって、生徒たちから色々貰ったんだ。一緒に食おうぜ」
玄関のドアを開けてやるなり、お気に入りの枝でも拾った犬のような顔をしたルークが、菓子でパンパンになった紙袋を突きつけてきた。クッキーにキャンディ、スナック菓子、スーパーマーケットで時おり見かける子供向けの駄菓子まで。小さなテーブルは、あっという間に色とりどりの包装紙で埋め尽くされてしまう。
ふと、細々としたそれらの中に、ひときわ目を惹く箱を見つけた。大きさは、ちょうどオレの両の手のひらの上に収まるくらい。いかにも年頃の女の子が選んだとひと目で分かるような、可愛らしい色柄で飾られている。
「ああ、それ! すっげぇんだぜ、見てくれよ!」
オレの視線に気がついたらしいルークが、もったいぶった手つきで箱を開ける。隅々まで丁寧に敷き詰められた緩衝材の上、最高級の宝石か何かようにちょこんと収まったそれは、細長く切り分けられた数切れのガトーショコラだった。繊細に煌めく粉砂糖やステンドグラスみたいなドライフルーツでめかしこんだそれは、たかだか週に数回顔を合わせるジムのトレーナーへの贈り物としては、妙に仰々しい。
「随分と気合いが入ってんな。アンタ、毎年こんないいモン貰ってんのか?」
気になって尋ねると、ルークは手近にあったスナックの袋をガサガサといじりながら、「いや」と首を振った。
「こんなに豪華なやつを貰ったのはさすがに初めてだな。手作りらしいぜ。料理とかお菓子作りとか、得意なんだって」
「へぇ……。どんなヤツ?」
「日本から留学に来てる女の子。うちの練習生にしては珍しいタイプでさ。大人しくて口数も少ない方だから、トレーニング以外で話すことはあんまりないんだけど……。真面目だし、練習にも熱心に参加してるし、いい子なんじゃないかな、多分」
「ああ、日本人」
なるほど、道理で。口の中でこっそりと呟く。しばらく前に大姐から聞いた話が記憶の箱を這い出して、鮮やかに脳裏を駆け巡った。
曰く、日本のバレンタインは、オレがよく知るそれとは少しばかり勝手が違うのだと。アメリカや中国では男性から女性へプレゼントを贈るのが一般的だが、日本はその逆。女性から男性へ、日頃の感謝や……、あるいは、胸の内に秘めた恋慕なんかを込めて、チョコレートを贈ることが多いらしい。
「日本に知り合いがいるから、この時期になると毎年チョコレートを用意しているの。……でもね、何を贈っても『甘くて美味かった』としか言ってくれないのよ! 和菓子を贈った時はすっごく反応が良いんだけど……、せっかくのバレンタインなのにいつもの店の羊羹っていうのも、なんだか色気が無いわよねぇ」なんて。拗ねた口ぶりで言いながらも、カタログやレシピ本を読み漁る大姐の横顔が楽しそうだったことを、今でもはっきりと覚えている。
「せっかくだし、おまえも食うよな? 甘いモノ、平気だろ?」
平然とした顔でガトーショコラの入った箱を差し出してくるルークに、思わず歪な笑みがこぼれ落ちる。このチョコレートを贈った女の子は、きっと、ルークに想いを伝えることはしなかったのだろう。もしも秘めた想いを打ち明ける言葉と共に渡されたものであったのなら、ルークは「受け取れない」と拒むことこそあれ、こんな風にオレに分け与えたりはしないだろうから。デリカシーがなくて鈍感だが、それ以上に誠実な男なのだ、コイツは。
オレが大姐から話を聞くまで『日本式のバレンタイン』を知らなかったのと同じように、ルークもその存在を……、宝物みたいに飾り立てられた小さなガトーショコラに託された感情の存在を知らないだけ。そんなことは分かっている。分かっているけれど。彼女の心にも等しいそれを平然とオレに差し出すというその行為には、なんだか、両者を秤に掛けた天秤がガクンとオレの方に傾いたような感覚があって、ほの暗い優越感を覚えずにはいられなかった。
「んじゃ、遠慮なく」
差し出された箱の中から、薄切りにされたドライオレンジが乗ったものをつまみ上げる。ひとくち齧りつけば、柑橘のツンとした匂いが鼻腔をくすぐって、どろりと濃ゆく重たいチョコレート生地が舌に絡みついた。情念とかいうヤツをぐつぐつ煮詰めて押し固めたら、こういう味になるんだろうな。そんなことを考えながら、いつまでも尾を引く粘ついた甘さを飲み下す。
「うん、美味いな、これ! 手作りでこれだけ美味かったら、店とか開けんじゃねぇの」
テーブルの向こう側では、ルークが呑気な歓声を上げている。唇の端に粉砂糖をくっつけたまま、青い目玉をキラキラと輝かせる無防備な姿に、腹の底からじくじくと甘ったるく疼く。
生徒の前では『良い先生』ぶりたがって何かと気を張るコイツのことだ。このガトーショコラを贈った張本人も、きっと、こんな風にはしゃぐコイツの姿を見たことはないのだろう。皮肉なことだと思うのと同時にどうにもおかしくて、オレは緩んでいく頬を抑えられないまま、半分ほど残ったオレンジのガトーショコラをひと口で平らげた。
「美味いのは分かるけどな、もう少し落ち着いて食えよ。口の周り、砂糖でベタベタだぜ」
「え、マジ? どこ? ……取れた?」
「全然。ほら、こっち向け」
オレはテーブルの上に大きく身を乗り出し、ルークの口元へと手を伸ばす。柔い輪郭線をなぞるように薄ら白く汚れたそこを拭ってやると、ルークはくすぐったそうに肩を竦めながら「サンキュ」とはにかんだ。こぼれ落ちる吐息が指先を掠める度、心臓がそわそわと騒ぐ。オレは角張った顎をそっと掬い上げて、無警戒に晒されたルークの鼻先に自分のそれを擦り寄せた。
「へ? じぇいみっ、……んッ、」
咄嗟に引き結ばれかけた唇の表面を、あやすようにちろちろと舐める。僅かに綻びを見せたあわいへと、舌の先をねじ込んだ。交わる呼気が、唾液が、粘膜が、何もかもがもったりと甘い。鼻を抜ける濃厚なチョコレートの香りに、優越感とも背徳感ともつかない生々しい感情が煽られて、背中がぞくぞくと鳥肌立った。
「ッは、ん、んんッ、……ふ、」
作り物めいて整った歯列をなぞり、縮こまった分厚い舌をくすぐってから、つるりと硬い口蓋へ。テーブルを隔てているせいで、深い場所を責めてやれないのがもどかしい。前歯のすぐ裏っかわ、浅い所をすりすりと撫で擦ると、ルークは上擦った呼吸をこぼしながら震える指でオレの手首に縋りついてきた。躊躇いがちに這い出してきた舌が、ちょんとオレの舌先に触れる。ルーク本人はどうにかオレを押し退けようと暴れているつもりなのだろうが、熱と酸欠で浮き足立った舌は拙く絡むばっかりで、これっぽっちの抵抗にもなっていやしない。
「ぅあッ!? ……は、ぅ、ひぅ……、んッ、……ッッ、」
絡め取ったルークの舌を自分の口内へ招き入れ、その先端にぢゅくりと柔く歯を立てる。怯んだように肩を跳ねさせたルークが、吐息の合間に高い悲鳴を上げた。子犬の下手くそな威嚇じみたそれが、どうしようもなく可愛い。オレは何度も、何度も、柔くふやけた舌に繰り返し歯を立てて、その度にこぼれ落ちる甘ったるい嬌声を貪った。
くちくちと混ざる唾液が口腔から溢れて、ルークの顎を伝う頃。縋る指先が、とうとう限界を訴えるようにオレの手首へ爪を立てた。オレは最後に一度、危なっかしく痙攣する舌の先をちゅう、と強く吸い上げてから、緩慢な仕草で口を離す。は、と。鼻の先を掠めた短い息継ぎが、果たしてどちらのものだったのか。分からないまま、唾液にまみれて艶めかしくぬめったルークの唇を指で拭ってやる。ルークはほの赤く上気した目元を非難がましく眇めながらも、するりとオレの手のひらに頬を懐かせた。
「……は、……はぁ、……ふ、……な、何なんだよ、急に」
「んー……、口直し? これ、残りは全部アンタが食っちまっていいぜ。オレにはちょっと重すぎるし」
言いながら、ガトーショコラの入った箱へ視線を落とす。引っ込めようとした左手が、ルークの右手に捕まった。爪の先から側面をなぞり下ろして、指の股へ。互い違いに深く絡めた指の先で手のひらの柔い部分を撫でられると、くすぐったさに喉が鳴る。不器用でたどたどしいその手つきが、コイツを愛撫する時のオレのやり方を真似ようとしたものだとはすぐに気がついた。当然、じっとオレを見つめる潤んだ瞳が何を期待してるのかも分かっているけれど、ルーク自身の口からそれを聞き出したくて、気がつかないフリをする。
「どうした? チョコ、もう食わねぇの」
「…………ほんっと、イイ性格してるよな、おまえ」
不貞腐れた声でぼやくルークが、引き寄せたオレの手首にくちづけを落とす。まるで、しきりに鼻先を擦り寄せて餌をねだる犬みたいに。2度、3度と続けざまに触れる唇が、薄い皮膚の下に走る血管を辿る。ちらりと上目遣いにオレを見やる瞳の、今にも蕩け落ちてしまいそうな青色がたまらない。「ジェイミー」と呼ぶ声に黙ったまま続きを促せば、手首に触れる吐息がいっそう熱を上げたのが分かった。
「そっちだって、とっくにその気になってるんだろ? ……なぁ、続き、してくれよ」
掠れた声がねだるのを最後の一音まで聞き届けてから、オレはテーブルの向こう側へ回り込んで、ルークの体の上に乗り上げた。逞しい顎と汗ばんだ後ろ頭を、それぞれ両手で鷲掴みにして押さえつける。ガタン。デカい体を押し倒した拍子にテーブルが揺れて、甘ったるいチョコレートの香りが立ち上った。未練がましく鼻先にまとわりつくそれに、内心で舌を出して笑う。せいぜい指を銜えて見ていたらいいさ。玉砕覚悟でぶつかってくる気概もねぇヤツに、このジェイミーさまが負けるわけがない。
熱の上がった太い両腕が背中に回る。後頭部を引き寄せる手のひらと、瞼の影にゆっくりと沈んでいく瞳の青に誘われるまま、満足げに笑う唇へと喰らいついた。ふ、と短く切り落とされた吐息の音が、重ねた唇のあわいで溶け消える。交わる舌から、もうチョコレートの味はしなかった。