無題 死にかけの獣が呻くような声が、伏せたまつ毛の先を震わせる。重たい瞼を持ち上げてみれば思った通り。普段なら呑気に寝息をこぼしているはずの唇が苦しげに歪んで、薄ら白い歯列を覗かせているのが見えた。また良くない夢でも見ているのだろう。オレは自分の体とルークの胸板との間で押しつぶされていた右腕をそろりと引き抜いて、怯えるように縮こまった背中をあやしてやる。
「今でも時々さ、昔の記憶を夢に見ることがあるんだ。血とか火薬とか砂埃とか……、そういう匂いに塗れた生々しいヤツ」
悪夢の余韻が残る掠れた声でそう打ち明けられたのは、ルークとベッドを共にするようになって少し経ったある夜のことだった。そう暑くもない時期だというのに揺すり起こした体はじっとりと寝汗をかいて、そのくせ、顔色は凍えたように蒼白だった。
昔の記憶というのが兵隊として戦地にいた頃を指しているのか、はたまたもっと古い……、コイツに癒えることのない傷を残した幼少期の出来事を指しているのか、ルークは多くを語らなかったし、オレも詮索しなかった。ただ、狭苦しいベッドの上で項垂れる分厚い背中がいやに頼りなく見えて、胸を酷く掻き毟りたいような心地になったことを、今でも苦々しくなるほど鮮明に思い出せる。
さて。ルークを悪夢の中から引っ張り出してやりたいのは山々だが、健康優良脳筋くんのコイツは朝日と共にベッドを抜け出し、ランニングやら朝のシャワーやら諸々のルーティンを済ませて仕事に向かう。変な時間に起こしてしまってはかえって可哀想だ。どうしたものかと考えながら、存外に柔らかな髪を繰り返し梳く。ほのかに香るシャンプーの残り香がさらさらとささめく度、呻く声から苦しげな響きが抜け落ちて、次第に丸っこい寝息が戻り始めた。普段より幾分か体温の高い鼻先が、すりすりとオレの額に懐く。穏やかな呼吸が乱れる気配はないから、きっと、全くの無意識なのだろう。抜き身の信頼と甘えをこれでもかと乗せたその仕草に鼻の奥がこそばゆくなって、思わず溜息にも似た笑い声が漏れた。
この様子なら、わざわざ起こしてやる必要はなさそうだ。内心で胸を撫で下ろしたのもつかの間、オレの背中に回っていたルークの左腕がもぞもぞとシーツの中に潜り、胸元から下げたドッグタグをきゅっと握り込む。とうさん、と。輪郭のふやけた寝ぼけ声が舌足らずに……、けれどたしかに、オレではない男を呼ぶのが聞こえた。 酷く安心しきったあどけないその声音に、喉の粘膜が一斉にささくれ立つ。
縋るなら、父親なんかじゃなくてオレにすればいい。だって、いまアンタの隣で生きているのはオレなのに。そんな薄っぺらいプレート1枚が……、とうに死んだ人間が、どうしてアンタを救えるって言うんだ。
腹の底でぐつぐつと煮立つ言葉を、きつく奥歯を噛み合わせて押さえ付ける。まるで、敬虔な信徒が十字架を手に祈る時のように。小さな、小さな金属の板切れを愛おしそうに握りしめる手のひらを今すぐにでも引っぺがしてやりたくて、けれど、無防備に上下する胸を眺めているとどうにも毒気が抜かれてしまって。結局オレは不自然に力んだ指先を誤魔化すように、寝乱れた短い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。ふう、と細く吐き出した溜息が、ルークの柔らかな寝息に紛れて消える。人の気も知らないで呑気なものだ。年不相応に幼い寝顔を小憎たらしく思いながら、オレは形のいい後ろ頭をそっと抱き寄せた。
「おやすみ、脳筋くん。いい夢を」
気の抜けた寝息をこぼす唇の端に触れるだけのキスを落とす。せめてほんの少しだけでも、コイツの穏やかな夢の中にオレが入り込む余地があれば良い……、と。オレだけが使う愛称を、大袈裟な程ゆっくりと音に乗せた。しゃらり。ルークが身じろいだ拍子に首筋を滑ったドッグタグのチェーンが、か細い金属音を立てる。くぐもった笑い声にも似たそれを意識の外に追いやりながら、オレは静かに、祈るような気持ちで瞼を閉じた。