走れジェイミー「ジェイミー、今日って何の日か知ってるか?」
携帯端末を耳に押し当てるなり、唐突にそう尋ねられる。電波を隔ててざらついた、けれど、明らかに楽しげだと分かるルークの声に耳を傾けながら、オレは端末のホーム画面に表示されるカレンダーを確認した。
日付は8月2日。あと1時間もすれば、3日に変わる。
オレやルークの誕生日ではないし、親しい人間の中にも、今日が誕生日だというヤツはいなかったはずだ。何か重大な約束をすっぽかした記憶もない。そもそも、大切な記念日か何かの類だったのなら、もうそろ日付も変わるこんな時間になるまで、何の連絡もしてこないというのは不自然だ。
……だめだ。完全に手詰まり。オレは早々に考えることを放り出して、屋上の鉄柵へだらりと上体をもたれさせた。
「いや、分かんねぇ。何の日?」
「なんだよ、ノリ悪ぃなぁ。もう少しちゃんと考えろっての。どうせ暇してんだろ?」
「暇なわけあるか。ジェイミー様はいつでも大盛況だっての」
わざとらしく呆れた声を繕って答えながら、オレは眼下に広がる夜の街を見下ろした。ムカつくことに、ルークの読みは大当たりだ。連日の暑さですっかり気勢を削がれてしまったのか、ここ数日、街は妙にお利口だった。ゴミ捨て場を漁る野良犬みたいに群れて、何かと厄介事を引き起こす段ボール頭の連中どもも、今はせいぜい片手で数えられる程の人数が疎らに散らばっているだけで、馬鹿なことをしでかしそうな気配もない。
……今夜はそろそろ切り上げるか。仲睦まじく腕を組んで歩く平和ボケしたカップルの後ろ姿を見下ろしながら、何とはなしにそう考える。
この時間から向かったのでは、到着は日にちを跨いでからになってしまうが、ルークの家にでも顔を出しに行ってやろう。本人に自覚があるのかどうかは知らないが、コイツがこうしてオレに連絡を寄越してまで、大して重要でもないことをグダグダと話すのは、決まってオレにかまってほしい時だ。
「寂しいから会いに来て」のひと言くらい素直に言えないものかと思わない訳でもないが、生憎、そんな風にしおらしいルークは、恋人だなんて関係になってから久しく見ていない。……まぁ、そういう素直じゃない所が、いかにもコイツらしくてオレ好みではあるのだけれど。
「ジェイミー? おい、全然考えてないだろ?」
端末の向こうから、ルークの声が呼びかけてくる。分かりやすく拗ねたその声音に、オレは思わず吹き出しそうになって、咄嗟に咳払いで誤魔化した。
「考えてるっての。……で、結局なんの日なんだ?」
「絶対考えてねぇじゃん。……バニーの日」
「はぁ? バニー? バニーって、あのバニーか?」
「そう。8と2の語呂合わせで『バニー』。日本の記念日……? なんだってさ。俺も昨日教え子から聞いて初めて知ったんだけど」
「へぇ。そりゃあまた、大層な記念日だな」
相槌を打ちながら、眼下を横切る大通りをぼんやりと眺める。先程のカップルは、未だしっかりと互いの腕を絡め合ったまま、のぼせ上がったような足取りで人の波間を縫っていく。随分とまぁ、おアツいことで。
「……で、そのバニー日ってのは、何をするための日なんだよ? バニーガールのコスプレでもして、恋人の上でウサギみてぇに腰振ってやれってか?」
我ながら随分と品のない冗談だとは思う。けれど、ルークがこの手の冗談を嫌う男ではないと知っていたから、さして躊躇はしなかった。
大方「オヤジ臭い」と笑い飛ばされて終わりだろうというオレの予想に反して、端末の向こうからは、なんの言葉も返ってこない。じー……、と鼓膜を炙るような細い電子音がしばらく続いたかと思えば、不意に、ぷつりと音が途切れる。
「……は? ……おい、ルーク? ルーク?!」
慌てて確認した画面には「通話終了」の素っ気ない文字。
どういうことだ? あの冗談が気に障った? 今までだって、似たようなやり取りは何回もしてきたはずだ。それなのに、どうして今日に限って?
混乱でぐちゃぐちゃになった頭の中に、ポコン、と間の抜けた高い音がひとつ飛び込んだ。思わず落としそうになった端末を、鉄柵から身を乗り出して捕まえる。画面には、ルークからのメッセージが届いたことを知らせるポップアップ。オレは半ば落っこちかけた上体を、ずるずると鉄柵の内側に引っ張り戻しながら、不慣れな手つきでメッセージアプリを起動した。
普段は滅多に使わない、メッセージのやりとりをするための画面を呼び出せば、目に飛び込んできたのは1枚の画像だった。腕と脚を大胆に露出した、体にぴったりと張り付く漆黒のボディスーツ……、つまりは、バニーガールの衣装に身を包んだ、ひとりの男の自撮り写真。
男はぎこちないながらも挑発的に身を捩らせ、分厚い筋肉に覆われた胸の谷間を見せつけるように、衣装の胸元へ指を掛けている。引っ張られた布地の隙間から、ツンと勃ち上がりほの赤く色づいた、控えめな大きさの乳首が覗いていた。
けれど、そんなものよりオレの目を引いたのは、ざっくりと開いた胸元に居座る特徴な紋様と、太い両腕に走る無数の傷跡だった。画角を調整して、首から上が写らないアングルで撮影されてはいるが、間違いない。……いや、間違いようがない。過激なコスチュームに身を包み、扇情的なポーズをとって画面の中に写る男は、どこからどう見てもルークだった。
「………………はぁ?」
オレが裏返った声で上げるのとほとんど同時に、端末がけたたましく鳴き喚く。着信を知らせる画面には「ルーク」の文字。1度目のコール音が終わる前に通話ボタンを押して、叩きつけるような勢いで端末を耳に押し当てれば、してやったりと言わんばかりのくすくす笑いが鼓膜を撫でる。
「見た?」
「見た? ……じゃねぇだろ! ……なんだあの写真。なんつー格好してんだ、アンタ」
「折角着たんだし、撮っておこうかなぁと思って。……あれ、もしかして、あんまお気に召さなかった?」
「そうは言ってねぇけど! ……いや、そうじゃなくて……。つーかそもそも、なんで着ようと思ったのかも分かんねぇし……、」
「日付が変わっちまう前に俺の家まで来れたらさ」
ノイズ混じりのざらついた声が、オレの言葉を遮る。電波のイタズラとは明らかに質が違う、いやに熱っぽく掠れた声に、オレは思わず息を詰めて、汗ばむ手のひらでぎゅっと端末を握り直した。
「……そしたら、この格好でお前の上に乗っかって、ウサギみたいに腰振ってやるよ」
「えっ、」
「…………ま! お忙しいジェイミーさんには無理な話か! んじゃ、お仕事頑張ってくれよ。大盛況のトラブルバスターさん!」
「……あ! おい! ルーク!!」
オレの静止の声も聞かずに、ルークは一方的に通話を切った。つー、つー、と愛想なく響く電子音を聞きながら、オレは頭の中で、別れ際のルークの声を反芻する。大袈裟なくらいに明るくて能天気な……、そのくせ、誤魔化しようもなく震えて上擦っていた、あの声を。
なぁ、ルーク。アンタ今、どんな顔してんの。エロい服着て、エロい写真撮って、わざとらしく煽るようなこと言って、どんな顔で、オレのこと待ってんの。
いくら端末を睨みつけてみたところで、当然、ルークからの答えが返ってくるはずもない。画面には通話の終了を知らせる文字と、いくつかの数字の羅列だけが表示されている。
日付は8月2日。あと数十分もすれば、3日に変わる。
「…………上等じゃねぇか」
覚悟しておけよ、ルーク。ウサギみてぇに目が真っ赤になるまで、ぐちゃぐちゃに泣かせてやるからな。
オレは、腹の底から迫り上がる甘ったるくてどろどろとした感情を噛み潰して、ズボンのポケットに端末を押し込んだ。もたれかかっていた鉄柵を、とん、とひと飛びに乗り越える。その勢いのままに大通りを目掛けて飛び降りれば、文字通り降って湧いたオレに通行人が驚きの声を上げて、ばらばらと人波が割れた。まるで花道みたいに、酷くおあつらえ向きに開かれたそこを、脇目も振らずに駆け抜ける。早く、ただただ早く、ルークの顔が見たくて仕方がなかった。きっと今頃、部屋の中でひとり羞恥に悶えているのであろう、真っ赤に染まったルークの顔が。
途中、周囲のざわめきなんてまったく耳にも入っていなかったらしいカップルとぶつかりそうになって、慌てて身を翻して躱す。男の方が威勢よく何事かを喚いていたけれど、そんなものに耳を傾けてやれるだけの余裕なんて、生憎と今のオレは持ち合わせちゃいなかった。
この時間じゃバスはもう使えないし、タクシーは手配するのに時間がかかる。ルークの住むアパートがあるトレーニングセンターの辺りまで、オレの脚なら、全力で走ればギリギリ間に合う。……間に合う、はずだ。だから、頼む。終わるな。終わってくれるな、8月2日!!
胸の内で祈るように叫びながら、遠くなっていく怒号を聞き流す。オレは地面を蹴る脚にぐっと力を込めて、夜空に赤くそびえ立つ紅虎門を飛び出した。