バデェニ「バキュームベッド?」 むちゅ、むちゅうと口づけられて、仕方なく目を閉じる。自分より大きな唇を不躾に押し付けられる感覚は、何度目になってもちっとも慣れやしない。
「ん……っ」
食事と発声のために進化した唇を、どうして人間はくっつけたがる。生存にはまったく必要のない行為であり、中世では疫病が蔓延する原因にもなった。
他人の呼吸も他人の唾液も厭わしいだけだ。
それなのに、口をくっつけながら髪を梳かれると、無性に体が重くなる。抗議をするのが面倒なほどに。
ちゅ、ちゅう、と軽く吸われてリップ音が立てられて、また唇同士がむにゅりと圧迫される。この妙な音を立てる意味も、私には理解しがたい。百歩譲って、キスの接触という行為は受け入れたとしよう。だが、音に何の意味がある。五感をだいたい使うはめになり、いつもより鋭敏になった感覚により落ち着かなくなるだけだ。
唇を斜めに裂くように刻まれた傷に、ちろりと濡れた舌が這わされる。ここからいつも唇を割られるので、背中を大きく反らせて距離を取り、中断をした。
玩具を取られた犬のようなオクジー君が、眉を下げて私を見る。
「バデーニさん、」
「まだるっこしいのはやめだ。今日はなんだ、その――アレをするんだろ」
「ああ、アレ。ちゃんと寝室に準備もしてますよ。ちょっと家具の位置はずらしましたけど、後で戻します」
「位置を……?」
気になるが、リビングを出て数メートル先まで行けば分かるだろう。
今日はアレを――SMプレイをする日なのだ。
数日前、同居人のオクジー君がいつも以上にもじもじそわそわして非常に鬱陶しかったので「素直に吐く方が身のためだぞ」とストレートに聞き出したところ、SMプレイなるものがしたい、と耳を疑う言葉が出てきた。
縛ったり叩いたり、倒錯した変態がやるものだ。我々に要るわけがない。そう述べ立てたものの、彼は熱っぽく「痛いだけがプレイじゃなくて」「信頼の証で」「愛が深まる」などと、脳みそが綿菓子になったような論――借り物の受け売りなのは明白だった――を返してきた。
「俺だってそんな趣味なかったんです。でも……ともすれば命を預けるくらいの信頼が、拘束とかに要るわけで。何より、俺……。他でもないバデーニさんが、俺のワガママきいて、そんなことしてくれたらって思うと、たまらない気分になって。ああもちろん、痛いこともイヤなことはしません」
信じたわけではない。が、私は未知に触れるためのドーパミン分泌が、おそらく凡百より旺盛だ。
単純に、世界に占める体積が大きいことにすら引け目を感じるような男が「SM」だなどと言い出して、どんな欲望を秘めてこの一年私と体を重ねていたのか、気にならないわけがない。
いったい何をするのか。もしくは、何をされたいのか。
小心者の彼のことだ、私にだったら、せいぜい目隠しとか手錠とか、その程度について汗をかくほど悩んでいただろう。大それた申し出に対してあまりにもぬるいプレイの提示だったら、笑ってやろう。
逆に彼が被虐のポジションであれば、血が出るまで鞭を振るうように要求してくる可能性すらある。疲れるし興味もないから応じはしないが。
予想の後には検証が来る。
当日まで秘密にしたいと言っていた彼が、一体何を提示するのか。プレイにつきあってやるかどうかはさておき、物見遊山で眺める気持ちだけはあったのだ。
「ではこちら、準備したバキュームベッドです」
「バキュームベッド」
クイーンサイズのベッドをずらされた寝室に鎮座していたのは、黒い板状に張られた、てかてか光るラテックスの……何? 何なんだこれは?
「バキューム? ベッド? 何だこれは」
「そうなんです、俺も今週知ったばかりなんですけど」
やけに嬉しそうにオクジー君が手を動かし、意気揚々と説明する。
「この袋状のラバー、密閉できるようになっていて、人が中に入ったら掃除機で空気を抜くんです。あ、もちろんホラ! 呼吸するための管はついてますよ! で、空気を抜ききったら真空パックみたいにぴっちりラバーで包まれて、拘束が完成すると」
「きみはなにをいってるんだ????」
やっぱりにわかには信じがたいですよね、と上擦った声で言われたが、なんだそのテンションは。彼が地動説について呑み込んだあとの挙動を思い出してしまった。
「ええと、まず俺が聞いたことについて、順を追って説明しますね。先日家に居たら、インターホンが鳴って。出たら高級布団の訪問販売だったんです。玄関先でかなり粘られて、四十万もする布団を買わないかって」
「押し売りじゃないか」
そうなんですよ、とまた笑顔でオクジー君が続ける。
「後から来た男の人が追い払ってくれて、『布団を無理やり売りつける手口が流行ってるんですよ』って、教えてくれたんです」
だいぶ懐かしい犯罪だったが、まだいい。問題は、どうバキュームベッドに繋がるかだ。
「その人がバキュームベッド業者さんで」
眉間を揉む。
繋がった――。
「その人、酒の匂いがするので最初は警戒してたんですけど、なんでも可愛い姪っ子の学費のために起業したとかで。バキュームベッドは恋人の愛を深めてくれるサポーターだって、六時間もかけて教えてくれたんですよ」
押し売りだ――。
この地域の治安はどうなってるんだ。
「やっぱり、身動きが取れない上に、生命維持の手段は口にくわえた空気の管のみ。このぎりぎり感がクセになるって首都の若者の間でも評判らしくて。下世話な話、感度が上がる――みたいな効果もあるらしくて、俺たちには必要ないですけど、夫婦のマンネリ対策にもぴったりだとか。ラバーで完全に覆っちゃうんで、見た目は全身タイツみたいになりますけど、これもまた芸術性で評価されているらしいです。ピンコン西野さんやメンタリストPaiGoもPチューブで紹介してたらしくて――あの、最初は抵抗あるかもしれないですけど、ぜひ」
「返品しろ」
「えっ」
「クーリングオフ」
「そ、そんなあ……」
毅然とした態度で言い放ち、私は寝室を後にした。この男、詐欺に対して抵抗がなさすぎる。
なおも食い下がるので、結構な時間を取って完全論破してやったら、しょぼくれてだいぶ痩せたように見えた。
「う、うう……スイマセン……。俺も、最初の二時間は変だなと思ってたんですけど……なんか、話を聞いているうちにこれが世界の真実なのかなって思えてきて……」
「分かったら返品して寝室も片付けろ」
なけなしの慈悲で、怒鳴りつけるのだけは勘弁してやった。深いため息をつく。
まるで、六百年前に私がしてやった説明も、コレと同レベルに格下げされた気分だった。
「あの」
叱られた犬のような男が、廊下の角から目を覗かせ、おどおどとこちらを窺っていた。
「ついでに、目隠しや枷なんかも安く譲ってもらってたんですけど、これも返品しますか……?」
目と目が合い、情けなく下がった眉を視認する。
「………………それは、別にいいんじゃないか」
「えっ!」
「不用品を片付けて、ベッドの用意ができたら呼べ」
「え、あっ、…………はい!」
曇っていた顔が瞬時に輝き、どたどたと足音が去っていく。ふんと鼻を鳴らしてから携帯電話を取り出し、「バキュームベッド 詐欺」「SM 初心者」で一応検索することにした。