【弟子バロ】優等生ほどSMにハマる(前編) 馬を降りようとした巨体が傾いたのを、亜双義の目は見逃さなかった。
支える力を失った胴体が宙に放り出され、突っ張ったあぶみが足から外れる。
認識と同時に本能が警鐘を鳴らし、亜双義は地面を蹴って手を伸ばした。
「どわっ!」
間一髪だった。
分厚い肉体と地面の間に滑り込むようにして、鍛えた筋肉でなんとか受け止めた。頭部や頸椎の損傷を回避したのを確かめ、長い息を吐く。
「いったいどうしたというのですか。馬には慣れてい――」
ぐったりとしたバンジークス卿を抱えて顔を覗き込み、はっと息を呑む。
顔が赤く、頬に触れれば燃えるような熱が伝わってくる。
「はにゃ……」
「だから涼しい格好にしろと言ったのに!」
八月末、遅れてきた夏の盛り。平年とは異なる記録的な猛暑である。
太陽がかっかと照りつける中、長袖シャツにベスト、トラウザーズ、ブーツを着込んだ露出ほぼゼロの英国紳士は、体にこもった熱により目を回していた。
遠乗り中に、主人がめまいを起こして落馬しかけた。日に当たりすぎたのが原因だという。
執事もメイドも庭師もえらいこっちゃと動転していたものの、医者が大丈夫と太鼓判を押したので、一同は胸を撫でおろした。「よかった」「坊ちゃまは繊細だから」など口々に言いながら、カントリーハウスのそれぞれの持ち場に戻っていく。
数時間で回復し、氷嚢を持ったままレモネードをちびちび飲むバンジークスは、気のせいか少しばかり縮んだように見える。
「無事でよかった」
「うむ……世話をかけた」
普段の世話はともかく、体調不良で人を頼るのに慣れてはいないのだろう。背中を丸めてベッドに腰掛け、男は気まずそうに目をそらしている。
一時はつきっきりでうちわを仰いでいた亜双義は、安堵と共に腰を下ろした。背もたれを前にした逆向きの座り方だが、いつもと異なり注意はされない。
「では諫言ですが」
「うっ……」
「去年まではそれでもよかったのでしょうが、今年は異常ともいえる暑さだ。せめてベストくらい脱ぐべきでしょう。帽子があれば大丈夫? 医者も呆れてたぞ。なんともなくてよかったが、それは結果論だ。次からは気温に合った服を着て、水もしっかり飲むように」
日焼けすると赤くなる、と男はもごもごと口内で言い訳をしたが、言い返すと面倒とは分かっているのだろう、ゆっくり頷いた。
同じ轍は踏まないだろうが、自身の健康と気持ちを後回しにするのは今後も続くはずだ。傍で支えると決めたが、長年培った性質はすぐには変えられない。
駄目押しとばかりに亜双義はベッドに乗り上げ、苦節の果てに去年結ばれた伴侶を見つめた。
空のグラスを奪って手を握り、眉頭を少し上げる。
「オレが乗馬を楽しんでいたから、なかなか切り上げられなかったのだろう? 嬉しく思うが、体調が悪かったのなら、次からは言ってくれ。オレのせいで貴君が傷つくのは耐えられん。落馬する光景が目に焼き付いて、今夜夢に見るかもしれない……」
仕上げに手の甲に口づけすると、バンジークスは肩を跳ねさせた。効いている。
「わ、分かった! 反省したからもうよい」
「約束してくれますか」
「する。体調不良はちゃんと言う」
ずい、と顔を近づける。
「では誓いの口づけを」
「ッ~~~~!」
声のない叫びに、ぴくりと動いた形のいい眉。
私は今非常にどぎまぎしています、と顔に書いてある男を攻めるのはとても楽しい。一回り年上で冷徹な死神を演じていた巨躯の堅物貴族ならなおさらだ。
熱射病で倒れた後に体温を上げるのは気が引けるが、幸いにして英国の湿度は低く、室内は涼しく保たれている。
目を閉じてじっと待つと、うろうろと迷う気配の後に、控えめな接触が降ってきた。
柔らかな唇の感触を堪能しながら、亜双義は去年から続く人生の春を謳歌していた。
※※※
「考えたが、そもそもあの下着が原因だ。トラウザーズとアレを二枚重ねで穿くなんて、夏にそんなこと、狂気の沙汰としか思えん。オレの故郷はもっと暑く湿度も高い。そんな格好をして外を歩いたら即座に倒れる」
夜、寝室。
足を踏み入れるなり亜双義がそう言うと、顔色が戻った――元よりよくはない――バンジークスは嫌そうにため息をついた。
「まだ言うのか。暑いときには外出せぬ。必要があるなら、次からは半袖にする」
「下半身は」
「し、下着をなくせと……? なんと下品な……」
およよ、と口を押さえて貴族はよろめく。他の者の悪ふざけなら拳骨を落とすところだが、百パーセントの本気だからたちが悪い。
「違います」
「違うのか?」
天然だ。
ドロワーズという色気のない下着は、白い膝丈の股引だ。暑気の中、さらに上から足首までのトラウザーズを穿くなんて、考えるだに恐ろしい。
亜双義は口角を上げ、風呂敷をテーブルに置いた。
「夏にぴったりな下着をプレゼントしましょう。自分用に多めに持ちこんだ新品です」「気持ちは嬉しいが結構である」
バンジークスは珍しく機敏に、まだ見もしないのに断ってきた。遺憾である。
「せめて見てから」
「想像はつく」
無視して包みを開け、真っ赤なふんどしを取り出す。
「英国よりずっと暑くなる国で代々伝えられてきた下着です。まさにこの夏にふさわしい装いではないか」
つきつけられたものに目を剥いたバンジークスは、焦ったように顔をそむける。
「そっ……そんな、ほぼ紐のような……! あと何週間かすれば暑さも引く。そなたの気持ちだけいただいておこう」
「一度つけてみればよさが分かる。それともヤバンな風習であると唾棄するおつもりか」
「思ってもないことを言うな。お互い慣れ親しんだ下着がいちばんと、ただそれだけの話であろう」
「なるほど、確かに極寒の折にはオレもああいう下着を選ぶかもしれん。しかし今は真夏で異常気象ともいえる暑さだ。膝まで覆うか必要な個所だけ締めるか、理性に裏打ちされた合理的判断からすればどちらに軍配が上がるか――優秀な検事殿にはお分かりいただけるだろうと思ったが」
「アソーギ」
「うん?」
いつものように議論になるかと思ったが、バンジークスはじとっとした目でこちらを睨めつけてきた。
「最近、分かるようになったのだが……」
「はあ」
しばし目を泳がせ、こちらが焦れたところでようやく男が口を開いた。
「下心からの提案なら……はじめからそう言えば……」
「ちっちちちちちがいます」
ズキュン! とショックが襲い、亜双義は一歩後ろに下がった。が、即座に二歩進んで猛抗議する。
「たしかにそういうときもなくはないが! 今回は! 本気で貴君の身を案じたからこそで――! オレはそんな、体調不良にかこつけて尻を堪能するフトドキ者では断じてないっ! そのような、弱った伴侶に己のあさましい欲を押し付けるような、男の腐ったような行為など……!」
「はん……、分かった分かった、とりあえず落ち着け」
「むぎゅ」
やれやれとばかりに抱き寄せられて、豊満な胸が顔前面に押し付けられる。
角度によっては窒息の危険があるものの、バンジークスからの接触に甘んじるのはやぶさかではない。「こうすれば黙る」と学習されたのは、少々納得いかないが。
もじもじする気配の後に、ため息が聞こえた。なんだかんだ押しに弱いと最近分かってきた。
「その……いつもつける約束はできないが……、今、つけてみる、だけなら……、そなたがあまり見ないなら……」
「うおおおおおおおおお」
「どうどう」
既視感のあるやり取りを経て、合意が成立した。
施錠を万全にした寝室で、向かい合って立つ。
裾まである長袖のナイトシャツは、昼の装いより断然マシとはいえ酷暑には対応してなさそうだ。燕尾服のお返しに浴衣を仕立てて贈りたい、と今後の目標を決める。
赤いふんどしを手にした亜双義は、紺色の浴衣の内側に同じものをつけている。
贈るなら締めるのが簡単な越中の方がいいだろうが、新品の手持ちがなかった。男といえばやはり六尺。気合が入るので、こちらを多めに持ち込んでいたのだ。
「では脱いで」
「………………せめて目隠しを、」
「却下! ウブなネンネではあるまいし、もう結ばれた仲だというのに何を恥じるのですか」
「恥しかないが 下着をつけられるなど!」
頬をわずかに染め、体を守るように腕で抱く生娘しぐさにやれやれと首を振る。
「うう……つけ方を紙に書いて渡される、あるいは着衣の上から教えられたら、私一人でやれる」
「そんなの楽しくないでしょう、オレが」
「な、なんと……!」
貴族は上品に絶句した。
「じゃあナイトシャツのボタンだけ外しましょう」
「………………ぬう」
男は渋々頷いた。後ろを向かせ、背中側から手を回してボタンを外す。
「ほら、貴君も」
「上は外さなくてもよい」
「ワガママ言わない」
「わっ……」
無駄に数が多いボタンを全て外し、赤いふんどしの端を持たせる。
シャツの前は全開で、ちょうど股間を隠すようなかたちになった。前に鏡があったら楽しいだろうなと邪心が囁く。
「ここで持っててください」
前垂れ部分を持たせたまま、残りの長い布地を落とし、足をくぐらせ後ろに引っ張る。
「見るな」「あーはいはい」
長いナイトシャツが邪魔だが、裾の内側に手を入れて布をまとめ、帯状にする。
作った帯を尻肉のあわいにかませ、後ろから斜めに腹側に渡し、ぐるりと回して背中側に戻す。腰骨を斜めに横切っていた箇所に紐を引っかけ、反対方向に手を返し、きゅっと締めて丁の字の形を作る。
圧迫を感じたのか、「あっ」と小さな声があがった。
ふと思い立って見上げれば、耳が赤くなっていた。たかが下着をつけるだけなのに、こちらまでどきどきする。
後ろで結び目をつくり、余った布をまとめれば完成だ。前垂れを垂らさせ、前に回って出来栄えを確認しようと思ったが、バンジークスはナイトシャツの前を合わせて拒否した。
「待っ……! 見るな」
そのまま部屋の隅に向かって前進し、恐る恐ると言わんばかりに下を覗き込む姿をじっと見る。
気付いていないようだが、前傾したせいでナイトシャツからもろにふんどしが透けていた。尻肉を区切るような赤に、かあっと性欲が燃え盛る。
「…………」
ふんどしをつけさせたい、とは前から少しばかり思っていた。
が、見慣れたはずの下着にこんなにも欲情するものだとは。何事もやってみないと分からない。
亜双義は、顔の下半分を手で覆ったまま、努めて深呼吸をした。鼻の奥がずきずきして、油断すれば鼻血が垂れそうだ。
凝視する中、今度は尻に手が回された。シャツ越しに撫でて感触を確かめているのだろうが、脳に回す血流が下半身に集まり行く身としては、もう誘っているようにしか見えないのだった。
「う、うしろが実に心もとない……」
「夏にぴったりでしょう」
うむ、と返事をしながら振り向いた師は、あらぬ方向を見たまま言った。ナイトガウンの前、胸元と下腹部をぎゅっと握りしめて隠したつもりだろうが、白い脚と前垂れの端が見えている。微妙な動きに合わせてゆれる裾からちらちらと見えたり見えなかったりの露出に、唾液がわいてくる。
「よく分かった。それではいい夜を」
「おやすみキャンセル」
「おやすみキャンセル」
ばしっと空中を手で払い、亜双義は挨拶を聞かなかったことにした。
足早に距離を詰め、どう丸め込もうか思案する。百パーセントの拒否ではないのは、声色から分かる。
「あ、じゃあオレも見せるのでおあいこに」
裾を持ち上げながら冗談を言えば、「ならぬ」と派手にはねつけられた。
「交換条件にならぬ! 貴公は何とも思っていないくせに」
「そりゃまあ。むしろ一人前の男が締めるものなので、誇らしさこそあれ恥など……。見せてもらわねば、似合うかどうかも言えやしない」
「感想はいらぬ」
「せっかく贈ったものだ。色を選べるほど持ってはいなかったが、貴君には赤も似合うと思う。白い肌に映えるかどうか確認したい」
うう、とたじろぐ男の肌に目を止め、足元に膝をつく。
「何を」
「怪我が」
そういえば、明かりの下で脚をちゃんと見るのは初めてだったかもしれない。
膝には、落馬の際にぶつけたのだろう、痣ができていた。打撲の他に、赤い擦り傷も見える。
「問題ない……っ、何を」
自らの膝に、男の足を乗せさせる。近距離で傷口を確認して、問題なさそうなことを確認し、ぺろりと舐めた。血の味だ。
「アソーギっ!」
「早く治るように」
「ッう、…………っ!」
傷口を濡れた舌で舐め、丸い膝の皿に口づけをする。
このまま足指までいきたいところだが、以前何気なく褥で触ったところびっくりするほど拒否されたので、今のところはやめておく。今はまだ。将来的に。そろそろ。
「こ、こら……っ、そこは、何もない……」
答えず、脚を抱え込んだまま上を目指す。筋肉の隆起を指でなぞり、柔らかな内腿を舌で愛撫し、ちゅ、ぢゅう、と音をたてて吸っていく。今日くらいは痕をつけてもいいだろう。
足の付け根に顔が近づき、赤い前垂れが見える。そのまま鼻先がくっつくかというところで、強引に体が離された。
「もうよい!」「おっと」
少々バランスを崩し、後ろに手をつく。
ばさり。これは偶然だった。
ナイトシャツの裾が左右にひらき、前からまともに下着姿が見えた。割れた腹筋の下を、赤い布がきりりと覆っている。
「ッ~~! ダメだと言ったのに」
慌てて体を隠したバンジークスは、浅い息をしていた。
「男らしい。よく似合っておいでだ」
「ぐぬぬぬぬぬ……! な、何か納得いかぬ……! どうせ適当に言っているのだろう」
「失敬な、本心から褒めているのに。鍛えた筋肉も股間の膨らみも、ふんどしがよく似合う」
「また貴公はそんなことばかり……何かを失った気がする」
本心だったが、素直に受け取ってはもらえない。「男らしい」と「抱きたい」は己の中できれいに両立するのだが、いまだに信じられないようだ。
「あ~はいはい。もうふんぎりがついたでしょう」
手を引いてベッドに誘う。
「まだ落馬の光景が目に焼き付いている。貴君の無事を確かめたいのです。ささ、全身で」
「ぬ……」
「倒れた身だ。大事をとって、今夜は挿入はしません」
「え? いや……あ、ああ、うむ……?」
よく分かっていない様子の師をベッドに組み敷いて、亜双義は爽やかな笑みを浮かべた。
いつものように上からたっぷり愛撫を施す。口、胸、と様々なことをした結果、バンジークスはとろ火の快感にあぶられ、すっかり大人しくなっていた。心地よさそうに細められた目が、「恥ずかしい下着」のことをすっかり忘れてとろけている。
自然な動きでうつぶせにさせ、ナイトガウンの裾をめくり――丸い尻肉に食い込むふんどしを見て、一気に呼吸が浅くなった。
「……? あっ! 待て、見え――」
三拍遅れて気付いた男は、尻を隠すように手をあてた。
「脱がしますか?」「え」
邪魔する手を無視し、もちもちと尻肉に指を食い込ませながら、亜双義は問う。
「裸の方がいいですか」
「そ、それは……。しかし、どちらも破廉恥で……ッ、ひ」
ほとんど力を込めずに、ぺちん、と尻をはたいただけだった。びくん! と体が跳ねる。
「なッ~~~~! な、な、なにを……! こら、アソーギっ!」
慌てて起き上がろうとした男の肩甲骨を押さえ、うつ伏せを保たせる。
「欧米も尻を叩く仕置きがあると聞いた」
「だから何だ!」
「オレの愛する人を倒れるまで追い込んだ不届き者のことを……この尻を見ていたらムラムラと思い出しまして」
ひいっと男は息を呑んだ。肩越しに振り返る頬が赤い。
「仕置きをしたら、オレの気が済むかも」
「な、な、なんとっ……! へ、ヘンだ、そういうのは変態がやることで――ッ うっ」
ふんどしの結び目を掴んで抑え、また尻たぶをごく弱い力でぺちんと叩く。傷つけるのが目的ではないし、まだ「合意」もない。痛みもないだろう。
「嫌でなければ、仕置きをする許可をいただきたい」
「い、イヤに決まっているだろう! アソーギ、もう私は十分反省した。そういうのは、言っても分からぬ幼い子供にやるものだ。お互い自立した大人だ、躾けをするような立場ではない」
「経験はあるのですか?」
注意深く、様子を観察する。不当な体罰については許せない過去があった。
本当に嫌がるならやめるべきだ。
目を合わせてじっと見つめる。恐れの色はなく、気まずそうに目が伏せられた。
「あまり覚えておらぬが……学校に行く前、うんと小さな頃、父上に何度か……」
兄君の独り立ちと同時期に、両親を亡くしたという。彼らの思い出話を聞くのは稀なことだったが、こんな文脈で新情報が出るとは。
「本当に嫌ならしない。しかし、こういうのは信頼関係がなければできぬという。オレを信頼して身を預けてほしいと思ったのだ」
本心であった。
ふんどしを勧めた瞬間に下心はなかったし、かのサド侯爵が好んだ残虐で暴力的な行為をしてやろうと画策していたわけではない。
赤いふんどしが食い込む尻を見て、めちゃくちゃにしたくなった。
それから、落馬の光景で受けた衝撃がぶり返した。一瞬で頸椎の損傷まで考え、たいそう肝が冷えた。落馬で命を落とすのは珍しいことではない。あんな、容易に防げたうっかりなんかで死ぬような事態には、二度と陥らせまい。
最後に、愛し合う夫婦のやる遊びとして、あえて縛ったり目隠しをしたりというプレイがあると耳に挟んだのを思い出した。非対等で暴力的ではないかという亜双義に、倫敦でできた悪友(兼裏路地の情報提供者)は言った。身も心も任せられると思わなきゃできないことだ。なんだ、お前はパートナーから信頼されていないのかと。
過去、恥ずかしいだのやりすぎ防止だのと、まさに目隠しも軽い拘束もされた経験はあった。かの貞淑な情人はサディズムもマゾヒズムも意識していなかっただろうが、やられてばかりなのでやる側にも回ってみたいと、赤い丁字を見たとき自覚したのだ。
一秒程度で脳が活性化し、これらの情報を処理した結果、手始めに尻を叩いて揺らしてい
た。
「本気では叩かない。ごっこ遊びや、演技のようなものだ。本当にイヤだと感じたときのために、これを言ったらやめるという符丁を決める」
「ッ――! やるとはまだ……。それに、やめろと言うだけでいいだろう」
張りのある尻を撫でれば、くっと腰が沿った。
「本気のイヤとそうでないイヤがあるのが人間というものです。確かに、符丁を聞いたらやめると約束する。なるべく行為中に口走りそうにない言葉がいい」
悪友から聞いた決めごとをそのまま言う。
本気の拒否だったなら、この段階までいかなかっただろう。つまりはいつか聞いた「ただ恥ずかしいだけ」なのだ。言い訳を与えて逃げ道を塞げば合意はとれる。
「急に言われても……い、異議ありとか?」
「とっさに言うでしょう貴方」
「ぐぬ」
男は悩む。せかすわけではないが、手持ち無沙汰なのでもちもちと尻肉を揉む。
「小麦粉ではないのだぞ……」
身を起こし、バンジークスは言葉を探しながらナイトシャツを着直した。
「では、パンケーキ、とか」
「…………」
視界に星がまたたき、脳みそが一瞬大宇宙に放りだされる。
パンケーキ? かのバロック・バンジークス卿の口から甘いパンケーキだと? 何の隠語だ? 甘い私を食べてという意味なのか
「ぜひいただこう」
「?」
くぅ~、と睦言を噛みしめた結果、ものすごく渋い顔になってしまった。師は困惑している。
「いや、ああ、今日の朝食はパンケーキでしたね。美味かった」
「それもある。日中はパンケーキレースのことを考えていた。そなた、出場したら優勝するかもしれぬな」
ふふ、とわずかな微笑が浮かぶ。よく分からないが楽しそうだ。
「ああ知らぬか。去年も今年も冬の終わりは忙しかったからな」
首をかしげていると、低い声が説明をつけ加えた。
敬虔な信者によるイースターの準備として、一ヶ月以上肉食を控える風習があるという。期間前に卵や牛乳を一気に使い切るため、春は大量にパンケーキを作る。また、主婦あるいはその扮装、エプロンをつけた者なら誰でも参加できる催しも、村や町で行われるらしい。
「フライパンを構え、パンケーキを返しながら四百ヤードほど走るのだ」
「ご婦人が? 落とさず走れるのですか?」
「何百年も続く行事だ。子供の頃に一度見ただけだが、倫敦でもやるらしい。レストレード巡査と出場するといい」
ご婦人たちと共に、エプロン姿で走る自分を想像する。あまりそそられない光景だった。
「辞退します。優勝は巡査に譲るということで」
「フ……生地を宙で返すにはコツがいるらしいぞ? 今年の告解火曜日は二月末だ、あと半年ほどか」
パンケーキに告解。どんどんといかがわしい方面から離されていく、と遅れて気付いた。危機感が込み上げる。
「とりあえず本題に戻って、」
「パンケーキを食べ、告解をしてから四旬節の断食に臨む。そこまでする者は少数派だが、イースターまで好物を控えるなど、乱れた生活習慣を正す誓いを立てるのが一般的だ。二月まで、あまりにも堕落した生活を送ったら……。大いに反省が必要になるかもしれぬ」
じとっとした目を向けられて、口角が引きつる。月数回、多くて二桁抱かせてもらっているが、あくまで自制を求めるらしい。
下手をするとひと月以上まぐわいすら禁止されそうだ。一筋縄ではいかない貞淑さに気が遠くなるが、迂闊な証言には隙があった。
「盛大に釘を刺されたワケですが、悪い気分ではない。俺との交わりを好物とまで言ってもらえたので」
にっと笑って見せると、バンジークスは心外だとでも言うように首を振った。
「そうは言っておらぬ。乱れた生活という意味で……」
「まあ半年ある。我慢したくてもできないほどの大好物にすればよいと受け取った」
「何もよくはない! まったく、貴公はことごとく思い通りにならぬな」
からかうふりと怒るふり。一年経って余裕ができたせいか、こういう戯れができるようになった。
「ではやる前に一度練習しましょう。今から触れるので、適当なときに先の符丁を言ってみてください。何がどうあれ、聞いたら中断するので」
「む……」
これ以上相手のペースに任せたら、朝になってしまう。下腹部をじりじり焦がす劣情をなだめながら、ベッドに手をついて身を寄せた。
薄青の瞳をじっと見ながら、頬に手を添えてゆっくりゆっくり顔を近づける。
チキンレースでもするつもりなのか、はたまた指示をすっぽり忘れたのか、極限まで焦らしてもセーフワードが発されない。
「…………」
なるほど、キスの中断を狙っているのか。えいやと亜双義は口づけた。
数分前もしていたが、飽きることはない。柔らかな粘膜を舌でなぞり、敏感な器官を擦り合わせて微細な快感を追う。
「ッん、んふぅ……♡ ん、っく……、んむ……っ」
唇の内側を下品になぞり、舌を何度も吸いあげて呼吸を乱す。むにゅりと唇を押し付けて、上あごを舌先でなぞる。服越しに体を押し付けて圧迫し、腰骨をなぞるとびくんと震える。
強情だ。未だ制止を求めないので、ちゅくちゅくとわざと音をたてた。何でもかんでもいつもは音をたてるなと言うくせ、今日ばかりはやけに意地を張る。天邪鬼な性質ではなかったはずだが、と亜双義は内心で首を傾げた。
長いキスの後、ぷは、と口を離す。結局セーフワードを聞くことはなかった。
「っは……、やめる練習、だったのですが」
口元に手をあて息を整えたバンジークスは、困ったように目をそらした。
「しかし……あれでは練習にならぬ」
「いえ、練習ですが」
お互い何かがすれ違っていることは気づいたが、何なのかは分からない。男はもじもじと巨躯を揺らす。
「………………本気でイヤ、ではなかった」
「ゑ」
「本気でイヤなときに言うこと、なのであろう」
あ~~~~~~~~~~!!!!!!!!
も~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!
叫びたいのを無理矢理押し込めた結果、血管が切れそうになった。誤作動を起こした体が後ろに倒れ、腕を組んだままブリッジの体勢になった。
「アソーギ」
我が人生に悔いなし。
後半 スパンキングに続く