【弟子バロ】アラゴナイトの内側、あるいは半年かけて舌を入れる話 中央刑事裁判所の死神は黒鉄でできている。いや、あの冷徹さは流氷から削り出されたというにふさわしい。いやいや私は確かに目撃した。彼は怪我をするたびマダム・ローザイクに修理をしてもらっている蝋人形である。
仕事で八年前の雑誌を見る機会があった。議員の汚職を告発しようとした記者を探してのことだったが、途中で目に飛び込んできたのが、死神の正体という見出しの低俗な記事だった。
黒鉄か氷か蝋細工か。
なんともまあ、愚にもつかない議論である。
死神と呼ばれた男の最も近くにいる人間として、亜双義はその答えを知っていた。
――どんな人間も、その内側は柔らかくて温かくて湿っている。
それはバロック・バンジークス卿とて例外ではない。初めて口内に舌を侵入させたときに、しっかり確かめた。驚いて閉じられた顎によりちょっぴり血の味もついてきたのは、告白から数か月経った春のことだった。
バンジークスが本を読みきるのと同時に、亜双義は読みかけの雑誌をテーブルに置いた。
ため息をついて豊かな読書体験に思いをはせている男に向かい、絨毯の上を音もなく進む。気分は獲物を狙う蛇だった。
「大方治りました」
「……そうか」
所在なさそうな師を見下ろし、簡潔に報告。じっと見下ろしていると、男は「よかった」と付け加えそそくさと本を持った。会話を終えてもう逃げようとしている。
少し屈み、長椅子の背に腕を突く。ぐっと近づいた距離から、強制的に目を合わせた。
色素の薄い眼球が、暖炉と洋燈の明かりで揺れているように見える。
「仕事中ではない。他に誰もいない。本も読みきった。断る理由はないだろう」
読了まで待ってやったのは思いやりではなかった。退路を塞ぐためである。
自覚はままある執念深さを嗅ぎ取ったのか、バンジークスは首を振って「貴公は……」と吐息だけで言った。
視線がドアを窺う。
「鍵を、」
「かけてある」
ひんやりした手を握って捕まえ、それから力を入れずに甲を撫でる。長椅子に膝をつくと、抗議するようにきしんだ。
「ん……」
鼻と鼻をぶつけないように慎重に角度を調整し、口づける。この柔らかさを最初は奪い、二度目は懇願し、三度目は勝ち取り、四度目は不意打ちで味わった。全て覚えている。
五度目からは条件も言い訳もいらなくなった。
告白に同質の返事はまだない。それでも「拒まない」という消極的な受容をもって恋仲になることを許された。嬉しく思うが、触れるだけで満足など到底できなかった。
わざとリップ音をたてて離す。
バンジークスという男は浮かれもせず笑いもせず、「こんな罪深いこと許されるはずがない」と苦悩する聖職者の顔をしていた。いつもそうだ。気に食わない。
再度顔を寄せ、唇が触れそうな距離で囁く。
「治ったかどうか確かめてみる気は?」
「それならば下がれ。見えない」
「貴君の犬歯がつけた傷だ。直に確かめるといい」
「あれはそなたが急に……ッ」
「ああ、しばらく沁みたものです。五月とはいえまだ寒い。辛いもので温まろうとしても舌の傷が痛んでピリピリと……レストレード女史からも心配されて、その辺に生えていたジギタリスを食わされました。――ああ毒性は知ってますが、苦いので反射的に吐きました」
「昔は薬と言われていたからな、彼女も善意故だろう。……悪かったが、そなたが五日も苦しむほどの傷とはとても」
「まあすぐ治りましたが」
「……」
たしかに血は出たが、傷としてはわずかなものだった。過去、早口言葉で舌を噛んだときの方が深手を負ったくらいだ。
「傷の確認を」
後頭部を支えるように片手を回し、口づける。位置や角度を変えて何度も吸い、頑なな貝のようなそれがほどけてきたところで舌を伸ばす。薄い唇の合間に滑り込ませようとすれば、とうとう観念したのだろう、ちろりと出された舌先がくっついた。
「ッ――!」
濡れた感触。かすかなおうとつに、頭の後ろ側が歓喜する。
おそるおそるといった様子で舌表面をたどる動きは、律儀に傷を探していた。猫のように舌先を擦りあわせる。
逃げ道を塞ぎ、罪悪感で揺さぶり、言い訳を与えて行動を強制する。気づけばこの男が長年囚われていた鎖を、己が握っているようだった。
悪いとは思う。一方的な押しつけだとも思う。
けれど、バロック・バンジークスというこの陰鬱な大男は、不思議と他人をそうさせるきらいがあるように思えてならなかった。
彼の言動は罪悪感と正義感でがんじがらめのロジックにより動いているため、意のままにしようとすると自然とこうなってしまう。
「司法のため」と彼を長年使った男と、今「愛のため」と迫る男は、どちらも勝手で支配的だ。真に愛するならば手放せとは誰の残した言葉だったか。
しかし、手放したらきっと、法と倫理と常識と道徳と伝統と規範の名の元に、心を閉じて分厚い殻の中に閉じこもってしまうのは目に見えていた。
「ッ――!」
唾液がぴちゃりと音をたて、はっとしたバンジークスは舌をしまった。少女のそれより何倍かの体積がある胸は、きっと背徳感でいっぱいだろう。
たかが口づけくらいでという揶揄は出さずに、亜双義は彼の手を握り直す。
己も経験があるわけではないが、抵抗感がない分余裕の差は歴然だ。しばし混乱と罪の意識に苛まれている男に消化の時間を与えつつ、接触を続ける。すぐに慣れさせてしまいたい焦りもあったし、この男の硬い殻をゆっくり溶かして砕く、罪深い愉悦もあった。
「治っていたでしょう」
「あ、ああ」
「口を開けて」
顎をすくった手の親指で、濡れた唇をなぞる。望んでいたのは前回の続きだった。
わざわざ要求せずに、何も言わずに舌を突っ込んでもよかっただろう。もう噛むようなことは二度としないはずだ。
それでもあえて口に出したのは、自らの意志でやれと迫っているからだ。
絡め手は使うがしかし、最後の最後は自分の意志で決定させる。強制しても意味がない。
視線がぶつかる。
――観念してオレを受け入れろ。
要求は伝わったようだが、目は顔ごとそらされた。
「許したのは、触れることだけだ。服や、あまつさえ体の内側までは……」
いやになるほど貞淑で正しい物言いだった。
「キスは『著しい猥褻行為』か?」
「…………表面に触れるだけならば、たとえ誰が判事でも違法行為にはあたらないだろう」
「舌を突っ込むくらいで違法行為になる可能性があると?」
「その夜にどういうやりとりがあったか、陪審員がどう判断するかだ」
「そうですか。告訴する予定もされる予定もありませんが、今夜は『著しい猥褻行為』をする予定がおありで?」
「無論ない。が、誤解されるようなことは慎むべきだ。貴公には未来がある」
誤解。未来。
かあっと腹が熱くなる。
「何が誤解だ! 愛する者に触れて情を交わすのが――、クソ、何度目だ」
言葉遣いをたしなめられ、亜双義は頭にもかっかと血が上るのを感じた。肺の中の空気を一気に吐き、平常心と己に言い聞かせる。
「どう悪評を立てられ罵られてもオレは気にしないが、貴君には家がある。家名を守らねばという思いは尊重しよう。だから往来で手を引き腰を抱き唇を奪って倫敦市民全員に見せつけてやりたい衝動を日々耐えているのだからして」
「な、なんと恐ろしい思想を……」
「駄目だ月が見ていると言われても迷わず見せつける。それが男らしさというものだろう」
「公明正大も過ぎれば毒だ、マッタク」
バンジークスはやれやれと額を押さえた。
話すうちに少し冷静になった。長椅子に腰かけ、力なく俯く。
言わなかったが、同性愛の旨で告発されれば法曹の任を解かれるかもしれない。そういう許容できないリスクは確かにあった。
「…………」
「人を裁くなら、正しくあらねば。法律に背くことなどあってはならぬ。私心により一つでも例外を作れば歯止めがきかなくなると、去年我らはあの大法廷で思い知ったはずだ」
「その法律に疑問があっても、ですか」
「そうだ。検事として法廷に立つならば、現行法とその解釈には従うべきだ」
「ああそうとも、分かっている。貴君は正しい」
膝上で拳をかたく握った。
死神が現れる前は、貴族の間で売春や不倫が横行していたらしい。きっとなくなったわけではなく、今もまだ密やかに行われていることだろう。
だがこの男は。バレなければよいなんて、決して言わない。言えない。
「折々報告していますが、ラブシェール修正条項については、すぐにというわけにはいかなさそうです。志が同じ仲間ももっと必要だし、言い方は悪いが丁度よく裁判が起こり、丁度よく参加できる保証もない」
「ああ」
静かに頷く姿は落ち着いていた。期待しないことに慣れている、そんな顔だった。
――法解釈を変える判例を作ってみせる。
その目標には近づいている。だが、実現は三年先かもしれないし、十年先かもしれない。
留学生として微妙な立場になってしまったが、それでも渡航から数年もすれば帰還命令が来るだろう。
重たい沈黙が下りる。
気持ちだけでは限界がある。冷たい硝子に閉じ込められているような気分だった。
それでも、諦める気はしなかった。
「……手を握ってほしい。貴方から」
うんともうむともつかない不明瞭な発音の後に、そっと手が握られた。年下の恋人のわがままに応えることができてほっとした。そんな、あからさまな安堵のため息が聞こえる。
骨ばった、大きな手だ。白魚のたとえそのものの白さで、ひんやりしている。いつも触れる度に体温の違いに驚く。
同じ向きで手が重なっている。受け身なのはどうも性に合わず、手のひらを返した。互い違いになるよう指を組み、かたく握る。
これも拒否されないことに、少しほっとした。
線引きの位置がだいぶ異なるだけで、確かに淡い愛がある。そう感じられるようになったのが、この半年の戦果だった。頑強な砦を相手によくやったのか遅すぎるのか、評価は難しかった。
体温と息遣いを感じる距離は、確かに悪くない。悪くないが、それ以上は許されない。
「これだけで満足なのですか、貴君は」
「黙秘する。しかし、なんだ……私にとっては、その」
鼻にかかったような声が、もごもごと喉奥でくぐもる。珍しいことだった。
「非常にトクベツで……これが精一杯で、ある種……特別な感情を、感じて、いるが……正体が、分からぬ」
「!」
特別が二回、感じるが二回。推敲する余裕もなかったのだろう。発音はきれいなのにつたない英語だった。
「特別な感情、とは」
「む……言葉にするのが難しい」
「怠けるな。オレにとって大事なことだから」
「フ、甘やかしてはくれぬか」
自分でも、たまに言葉選びが鋭利なのは分かっていた。幼少期はよく周りの子供を泣かせ、悪癖だとも言われたことがあったが、元死神の克己心はそれを好ましく受け取るようだった。
バンジークスは、膝に載せたままの本を撫で、思案に沈む。もう片方の手は繋いだままで、
地元で一番のせっかちだった亜双義も、神妙に答えを待った。
「十年で一度も、いや……厳密には初めての、他者を排した唯一の繋がり、というべきか……。ある種の共感を伴った関係性であることを、お互いに認識し、根底に同意があるが落ち着かず、契約じみた言葉により安定はしているはずなのに、常に崩壊の危険性を持った……度し難い、相反した状態であること。常に……心の中に対立がある。左と右から同時に引っ張られるような、そんな対立が」
「ふはっ、はは……あはははははっ!」
「何故笑う」
思わず笑いがこぼれていた。まるで神が地上に残した唯一の辞書を引くように、そんな厳かな顔から飛び出した言葉が、こんなにもかわいらしいものだったとは!
「何だ、知らんのか」
「んぐ……」
口を閉じても笑みがこぼれ、口角が歪むのが分かる。拳を口元に当てて笑いをこらえていると、明らかに気分を害した気配がした。持っているのが聖杯だったら迷わず握りつぶしていただろう。込められた握力により、手の骨がきしむ。
「はははっ――それが、愛だということです」
「ッ」
ずざっと長椅子上で距離を取られ、手が離れた。本が絨毯の上に落ちる。
「ッ~~、違う! 愛とはもっと、家族に抱くような穏やかなものだ。このように苦しみと紙一重ではなく、」
「まあ色々あるでしょう。アガペー、ストルゲー、エロス、フィリアの違いなんかは貴君の方が詳しいだろうに」
「それらのどの定義にも当てはまらない。故に度し難い」
「手放しで愛をうたうには余りにも因縁が込み入っている。オレもたっぷり悩みましたよ」
告白に至るまで、随分と葛藤したものだ。
憎しみの全てが消えることはない。しかし彼の置かれた状況を冷静に考えてみれば、自分も同じ行動をしただろうとも思う。それでも長年燃やし続けた感情は容易に消えない。
父を喪ってから焼けつく炎が常に胸の内にあり、日々の素朴な喜びすら焦がし続けた。のうのうと生きるな使命を果たせと、ずっとずっと頭の中で声が響いていた。安寧が停滞が幸福が恐ろしく、不義理で、息がつまって仕方なかった。
「苦しかった」
「ッ――!」
はっとバンジークスは息を呑んだ。左胸に触れようとした右手が宙をかく。
そういえば、初めて弱音の類を言葉として吐いた。はじめてだった。
「ア、アソーギ……」
声が震えている。また青くなっている。こんな顔をさせたかったわけじゃない。
「でもそれ以上に。この感情は、無視することも抑えることもできなかった。貴君のすべてを見ていたい。一番近くにいるのがオレでなければ許せない。遠ざけられると無性に腹が立つ」
眉を吊り上げたまま距離を詰め、長椅子の上で端っこまで追い詰めた。
かすかに眉がひそめられる。理不尽千万といった顔だ。
「やはりそれは……私の知っている愛の定義とは異なる」
「いいや愛に違いない」
「何故断言できる!」
この男が年月をかけて作った厳めしい顔つきも、慣れてしまえば怯むことなどない。それどころか迫力のある美人とすら感じるのだから、もう行くところまで行っていた。自覚はあれど治しはしない。
大きく肺に息を入れる。
「オレがそう決めたからだ」
「は……」
目が見開かれ、さらに迫力が増す。
「愛だと決めて、愛すると決めた。それだけだ」
年上の師にものを教えるのは、案外愉快だ。
呆然としている男の手を取って甲に口づけ、反応がないのをいいことに髪にも触れる。
言わなかったが性欲もあった。健康で若い男だからそこは仕方ないし、無論性欲だけで狙う相手では到底なかった。
どぎまぎする恋の定義に当てはまる反応もあった。しかしながら英国の言葉では、恋と愛は同じ単語だ。気の利いた他の言い回しも知らないし、愛だ愛だと責め立てるしかない。
――責め立てる。
そうだ、まったく奇妙な状況だった。
両者とも愛の告白をしているのに、一方は青ざめ、もう一方は攻撃的だ。とても恋物語のように甘くはならないが、我々らしいと思う。
彼の頬に触れる。いつもよりほのかに温かい。血色がいいのか洋燈の明かりのせいなのかは分からない。前者ならいいと思う。
「心中での相反した対立だったか、オレにも理解はできる。しかし貴君のは、感情と感情の綱引きではないだろう。感情と、倫理道徳法律罪悪感の綱引きだ。辛気臭い内省がはかどり注意がおろそかになるのもまあ無理はない」
「それも、決めつけか」
「見ていれば分かる。――さあ、キサマの感情は一体なんと言っている。いい加減往生際が悪いぞバンジークス卿、オレは全て明かしたというのに。知らないだろうから教えてやる、日本男児は通常愛など口にしない。このオレをここまで狂わせたのを誇りに思え」
「ぐ……そなたは、何という……! 何故いつもそんなにも……ッ!」
ああもう、と破れかぶれになった男は髪にぐしゃりと手を入れた。丁寧なセットが崩れ、紫がかった銀の前髪が垂れる。
気分を害したかと思ったが、男は両手で顔を覆って動かなくなってしまった。迫りすぎて、背中はほぼ倒れていた。そのままずりずりと姿勢が崩れ、長椅子の上で横になる。
「えっ」
「ぐぬぅ……」
「バンジークス卿」
「うるさい」
すねてしまった。
全く予想外の反応に、ぐらりと動揺を覚える。
確かに無体を働いた自覚はあるが、まさか子供のような返しをされるとは。
「あの、」
「少し口を閉じていろ」
「……………………」
背中に冷や汗が垂れるのが分かった。
もしかして、何かやりすぎたのだろうか。亜双義は意味もなくシャツのボタンをいじった。目が泳ぐ。
昔から「思い込みが強い」「視野が狭い」と言われてきた。その評価は結果で覆してきたが、短所であるのは手痛い事実だ。もしや、先ほどの論証に重大なミスでもあったのではないか。必死に脳内で思考を巡らせる。
頭がぐるぐるして、まるで蒸気船の中にいる錯覚を味わった頃だった。
「…………仮に、愛、があれば……どうなるのだ」
震えて掠れて消え入りそうな声だった。
あの、厳かな法廷に朗々と論述を響かせていた元死神が、出す声ではなかった。
微電流が体中を一気に駆け抜け、ぶわりとうなじを逆立たせる。
「嬉しい」
「へ」
思考が介在せず、脳直で言葉が出た。
やっと手が外れてバンジークスがこちらを見る。今度は気のせいではなく、ほんのり頬が赤いのが見えた。
「う、うれしい……か、そう……か」
「ああいや、その……まあ、言葉上のアレソレというか、形而上でも形而下でも、まあ、そうなるかと」
頑張ったが取り繕えなかった。
むずむずするような沈黙が訪れる。こちらも顔が熱くなってきた。
「所在がない」
「オレもだ……」
よく分からないことになってしまった。
のろのろと起き上がったバンジークスは、深呼吸を繰り返した。
垂れた前髪が目にかからぬように払い、熱いのかシャツのボタンを外す姿に、どうしようもなく目が引き寄せられる。乱れた髪を見るのは初めてだった。
少し若く、穏やかに見える。急に胸の辺りが狭くなる。
数秒目を閉じて居住まいを正していた男は、自らの胸に手を当て、しっかりとこちらを見据えた。
「まだ私にも分からぬ。これがどういうことなのか……。貴公もよく知っているとおり、この国では、我々の立場では、厳しいことも多い。だが、心の内だけは……もし、持っていてもいいのなら、そなたのいうようなモノが、存在、するのは……否定すると嘘になる、だろう」
聞いた。確かに聞いた。
近しい者にしか分からぬであろう微笑と共に、半年越しの告白の返事がとうとう来た。
全身の細胞に力がみなぎる。重力がなくなり、力いっぱい叫び出したい気分になる。
「うおおおおおおおおおおおお」
「こ、こら! 夜だというのに」
「やったああああああああああ」
「元気いっぱいか……」
「失敬! その辺を走ってきても構わないだろうか」
「明日にしなさい」
ちょっと活力が溢れて止まらない。運動で発散しないと朝までギンギンに起きていそうだった。
対するバンジークスは、生気でも吸われたようにげっそり消耗している。吸血鬼につまみ食いされた人間は、こんな見た目になるのだろう。
「もう寝よう。そなたも部屋に戻れ」
「待たれよ、まだ終わっていない」
「ちょっと気絶しそうなので明日に、」
「頑張れ」
「…………」
ちろりと恨みがましい視線が寄越される。
「愛を確認したことだし、改めて口づけの続きを」
「なんてしつこい男なのだ」
段々と遠慮がなくなってきた。が、お互い様だった。
バンジークスは力なく座り込んだまま、額に手を当てて辟易している。
「半年待った。褒美がほしい」
「それが、その……続きということか」
「愛があるなら問題はあるまい。服も着ている」
「連呼しないでいただきたい」
「恥じるところは何もない」
バンジークスは、皺の刻まれた眉間を揉みながら、ぶつぶつと口内で何かつぶやいた。聞き取れなかったが、お上品な悪態であることは何となく分かった。今日は珍しい姿ばかり見る。
「……許す」
「!」
やがて、観念したようにゆっくりと両手が開かれた。迷わず飛び込んでかぶりつきたいところを、なんとか抑えて速度を落とした。
柔らかな唇の弾力を味わう内に、とうとう迎えるように隙間ができた。硬い二枚貝がゆっくりと開く錯覚。歓喜と共にねろりと舌先を差し入れ、濡れた感触を味わった。
「ッ…………、ん、ぅ……」
キスの作法なんか知らない。それでも本能が何をすればいいか分かっていた。つるりとした粘膜をこそぐように舐め、慎ましく引っ込んでいた舌を吸って誘い出す。唾液を交換し、くぐもった声を聞きながら舌をねっとりと絡める。
味はないのにあるようで、内側の温度は己と大して変わりない。少し不思議で面白かった。構造は同じはずなのにどこもかしこも新鮮で、舌の裏や唇の内側まであちこち舐めて回る。くちゅ、ぴちゃ、といやらしい音が鳴る。
「ッ――! ン、んむっ…………、っぷぁ、アソーギ、待っ……、んぶ、んぅううっ……」
触感は極めて鋭敏になっているのに、聴覚だけがぼんやり遠くに行ったようだった。
もっと。もっとしたい。
覚えていたのは明らかに快感だった。性的刺激に近いがそれだけではない。脳の近く、主要な感覚器で探り堪能し味わうということ。密着していること。許され受け入れられているということ。
生まれて初めて味わう快感で、脳みそが痺れて思考がぽっかり白くなる。
体の内側にまで、やっと来た。半年いや一年半かけて手に入れた。もう離さないし逃がさない。
吸ってねぶって酔いしれて、全部を暴きたい。
はっと気づいたときには、ずいぶんな時間が経過していた。
「っぷは、っは、は……!」
激しく息をすると、濡れた口元が少し涼しくなる。
いつの間にやら長椅子に押し倒してのしかかり、口内をくまなく踏破しようとしていた。細胞にマーキングでもするかのような執念を思い出し、我ながらぞっとする。
「っは、ぅう……」
バンジークスはぺちゃんこになっていた。無論比喩である。
力なく横たわり、上等なシャツはよれていて、髪は乱れ、濡れた唇がまだ開いていて、粘膜の赤色が色っぽい。
これをオレがやったのだ。そう実感し、たまらない気分になった。ごくりと喉を鳴らす。
防御のつもりか手のひらを口元に当てながら、遅れて男は身を起こす。
「アソーギ。これは、あまりにも、その……」
また妙なことを考えている。が、たかが接吻、法にはもとるまい。
「愛です」
「う、うむ……」
「ちゃんと服も着ている」
「そう、だな」
「よこしまな含みなどマッタクない、清い愛だからよいのです。わっはっは!」
ヒースの野を駆ける涼風のように、さわやかにきっぱりと亜双義は嘘をついた。