呪いと報い(後編⑥) カルエゴが本家に行った日から指折り数える日々が過ぎていく。一日目、二日目、三日目、四日目。やはりカルエゴは帰ってこない。バラムは傍目に見て分かるレベルで日に日にイライラとしていることが増えて機嫌が悪くなっていき、周りが遠巻きに見るようになっている。
そして、五日目の夜が訪れる。生徒達も帰り夜は更けた時間になったものの、職員室には影があった。
「帰って来られますかね。」
「帰ってきてくれない場合の明日からのことを考えると、頭が痛いんですが。」
万が一の時に自分の能力を使うことになるかもしれないと思っているブエルと、万が一の時のために成り行きを見守っておかねばならぬダリが魔茶をすすりながら、窓の外を眺める。心地よい夜風が開けた窓から入ってくる、静かな夜だ。
その時、遠くの空に黄金の光がキラリと走った。その瞬間に準備室方面から猛スピードで飛んでいく白銀の筋。ブエルとダリは窓から身を乗り出して成り行きを見守る。
しばらくすると、ケルベロスに付き添うバラムが近付いてきて窓から中に入ってきた。ただ、ケルベロスの毛の光に隠れるように横たわっていたカルエゴは、全身が血に染まって目を閉じている。
息を呑んだブエルはすぐに駆け寄り魔力を使おうとするが、その血の大部分がカルエゴのものではないことに気付き、別の意味で息を呑む。いくつかは治療が必要な傷もあるようだが…。
「つっ…。」
着いたことに気付いたのか、億劫そうに体を起こしたカルエゴの顔の右半分が血濡れている。ただ、自らの血か誰かの返り血かも分からない程に血濡れている体に対して、その顔を染める血の出元は明確だった。
閉じた右の目蓋から、ポタポタと滴り落ち続ける血の色が鮮やかに地面を濡らしていく。
慌ててそこを直そうとかざしたブエルの手は、カルエゴに止められた。
「ここの治療は不要だ。」
「「何故!?」」
ブエルとバラムの両方の声が被る。
「置いてきた。」
「「置いてきた!??」」
言っていることの意味が分からないので、更に声が被る。
「ブエル先生、すみませんがここ以外をお願いできますか。」
その言葉に慌てて治癒能力を使うブエルに感謝を述べつつ、カルエゴは自分で頬の血を拭い布切れで片目を覆い頭の後ろで結ぶ。
しみ出す血により布の色が変わっていくのも厭わず、バラムに向かい「約束通り、五日で帰ってきただろう?」と満足そうな顔でニヤリと笑うカルエゴには、もうそれ以上を説明する気がなさそうだ。自分の中で納得しているときは、彼はいつも言葉が足りない。
「とりあえず、カルエゴ先生も無事に帰ってこられましたし帰宅しましょうか。そろそろ皆休まないと。」
それまでは黙って成り行きを見守っていたダリが声をかけてくる。確かにもう遅すぎる時間ではある。色々と気にしつつもブエルは自宅へ、何を考えているか読めない顔のダリは教師寮へとそれぞれに帰り支度を始め、ケルベロスを引っ込めたカルエゴの腕を掴んだバラムは準備室に向かった。
「…で、何があったの。」
「そのうち分かる。」
準備室に入るやいなやそう聞くバラムの背後で、ジリジリとした怒りの暗い炎が見えるようだ。それを眺めながらカルエゴは少し楽しそうに答える。
「なにそれ。今は説明する気ないってこと?」
「そうだな。」
「危険なことはしないで、体を大切にして欲しいって言ったよね。」
「ちゃんと帰ってきただろう?」
危険なことをせず体を大切にするは、帰ってくることと同義ではない。バラムは頭が痛くなってきた。
「じゃあ、その目は…?」
「そのうち返ってくる。」
ああもう、カルエゴが何を言っているか理解できない。いや、ここまでのキーワードでひとつだけ心当たることはあるが…厳粛な彼が、そんなことをするだろうか。しかし今回だけは、しでかしていそうな気もする。薄々と先が予測できてきたバラムが念のために問う。
「…いつ返ってくるの?」
「…長くて一週間程度だろうな。」
カルエゴからある程度の目安はついているような答えが返ってきたが、その期間に不満そうだ。バラムはため息をつきながら頭を抱えた。
これはもう、カルエゴが帰ってきたことだけでも是とするしかないではないか。五日を約束していなかったら、彼が満足する結果を得るまで、いつまでも帰ってこなかった可能性がある。
付き合いの長さから相手に対する理解が十分すぎるふたりのため、カルエゴはこの説明で十分だと思っているし、バラムは結果的に理解して受け止めてしまう。
彼は間違いなく我が儘で欲深き悪魔で、自分を許容することを当然のものとして、いつも僕に無意識に甘えてくる。いつになれば、彼の言う“けじめ”がついて、彼が言葉を伝えてくれるのだろうとバラムは思うが、明日も授業はある。もう日付が変わってしまったので、体を休めることを優先することにした。
一週間ほどの休暇の後に眼帯をして現れた姿にざわつく周りを意に介することもなく、好奇心旺盛な質問をねじ伏せカルエゴは日常に戻った。
バビルスの日々は、常に慌ただしく過ぎていく。全体のカリキュラムを進める中で個別計画も検討し、課題の作成配布から採点返却までをこなす中で、賑やかな生徒達によるトラブル対応。クラス担任としての役目は多い。
そんな中を六日ほどが過ぎた頃の、夕刻に事件は起きる。
「…で、あるからこれについては。」
今日一日の時間割の中で最後のホームルームの時間だ。
カルエゴが前で伝達事項の説明を行っているのを聞いていたアブノーマルクラスの面々が、ふとざわざわしだした。
「うるさいぞ、貴様ら。」
「え、いえ。先生、あの…。」
「エギー先生、目が…。」
眼帯をしている右側の目から、ポタポタと血が床へ滴り落ちているのを確認したカルエゴは、ふんと鼻で笑い、先ほどまでの伝達事項を途中で切り上げる。
「もうおまえらも二年生だ。今日は実践付きの特別講義をしてやろう。」
そう言うとチョークを持ち、黒板に向かう。
「魔神や悪魔の魔力による魔術や魔具、特定の家系能力が力のほとんどを占める魔界において、もう一つ特殊な力がある。それが”呪い”だ。」
黒板にスラスラと図を書いて説明を重ねていくが、生徒達は滴り落ち続ける血の方が気になって半分も聞いていない。
「呪いというのは基本的に物を媒介として行われる。例えば書物などが代表的だな。その書物を書いた者の魔量を吸収して媒介となり、設定された条件を満たすと、その書に記された呪いが発動する。バビルスの図書室にも何冊かあるから、取り扱いには注意するように。」
カルエゴは、昔自分がその呪いにかかったことがあるという話は棚上げして、説明を続ける。
「呪いの特徴は、その媒介が存在する間は非常に強力な力を持つということだな。魔術で動かす魔具とはまた違う、術者の魔力を置いて発動させるための媒介だからな。」
滴り落ちる血は止まらぬままに、その血が落ちる床から黒い魔力のモヤのようなものが縄状になり立ち上がってきて、カルエゴを足下から包囲し始める。
「基本的に、貴様らが呪いを使うことは無い。なぜなら禁術の一種だからな。禁術の理由は…。」
そこまで話し書き記して、カルエゴはチョークを置き生徒達の方に向き直る。足下から立ち上るモヤの縄は、グルグルとカルエゴの周りを取り囲み、腰より上に達し始めている。
「その”媒介”に更なる呪いを込めて、術者に呪い返しをすることができるからだ!おまえら、そこから前にくるなよ!!」
そう言った瞬間から、カルエゴの口が何かの口頭魔術を唱え始める。生徒達は皆聞いたことが無い、長い口頭魔術呪文だ。
「… … … … … … ……」
「… … … … … … ……」
カルエゴが呪文を唱えながら眼帯を外した。
そこに見えたのは、本来目があるべき場所に、ぽっかりとあいた虚無の空間。
ポタポタと落ちていた血の滴が重力に逆らい、丸い粒となり黒いモヤと共にカルエゴの周りに立ち登ってくる。
誰しもが動くことができないままに、その光景を見る。
前にくるなと言われたが、その魔力のぶつかり合いに威圧されて動くことができない。
「… … … … … … ……」
「… … … … … … ……」
カルエゴの額にじりっと汗が浮かぶ。唱える言葉はまだ終わらない。
黒いモヤにもう全身が覆われかけているその時、向こうからバタバタと大きな足音がして、ロイヤルワンの扉がバタンと開けられた。
「カルエゴくん!」
バラムが飛び込んできたが、何故か片腕に、何かを悟ったような顔をしたダリが抱え上げられている。
ダリを下ろして「ダリ先生!あとはお願いします!」と言ったバラムは、すぐにカルエゴの側に近づき唱える内容を少しの間聞いてから、タイミングを合わせ合流する。
「「… … … … … … ……」」
「「… … … … … … ……」」
見事に合わさるふたりの唱和で、どんどんと呪文が強力になっていき、カルエゴの周りを立ち上っていた赤い血が分裂を始め黒いモヤの縄にまとわりつく。
一瞬見惚れそうになりながらもダリは教卓と線を引き、「はい、ここから入らない。」と更に生徒達を遠ざけて、被害が及ばないようにその身を間に割り込ませる。カルエゴが戻ってきたときの様子から、こんなことになるような気はしていた。まだまだ彼もやんちゃだなと内心でため息をつく。
ただ黒板にカルエゴが書いている説明が見えたので、補足説明はしておくことにした。バビルスの教師は常に生徒の向上のために、その身を置く。
「えーと、カルエゴ先生が今唱えているこれは、呪い返しへの防御と攻撃の一種だね。これはハイランク悪魔しか使えないレベルの高等口頭魔術だけど、入間くんが入学式で披露していた禁忌口頭呪文と同じで、噛んだり唱え間違えると四肢が爆散しかねないので、覚えなくて良いです!はい、建前は以上!せっかくの機会なので、楽しく安全に見学するように。」
それで良いのかという生徒達からの視線を一身に浴びつつも、ダリは普段通りでにこやかだ。なお内心としては、カルエゴにあとで何か奢って貰う気満々ではある。
「「… … … … … … ……」」
「「… … … … … … ……」」
「「… … … … … … ……」」
「「…!!」」
最後にふたりの揃った声で締められた呪文と共に何かが大きく光り、辺りが一度に落ち着き静まりかえった。身動き一つできずにその成り行きを見守るだけだった生徒達は、固唾を呑んで誰かが動くのを待っている。
「カルエゴくん?」「…カルエゴ先生?」
モヤが拡散しきれぬためにまだその姿がはっきりと見えず、端に立つバラムとダリが同時に呼びかける。
「…。」
ようやく散っていくモヤの中心に立つ姿が見えてきたカルエゴは、両目を開き握りしめた自らの片手を眺めて沈黙している。
ただ、暗闇以外に何も無かった右目の空間には、赤い色の目が戻ってきていた。
一様にほっとした空気の中が流れる中を、つかつかと歩み寄ったバラムがガシっとカルエゴの肩を掴む。
「カルエゴくん、おはなしがあります。」
有無を言わさぬ空気に、周りが威圧される。
カルエゴが口を開きかけたところを、何か言う間もなくズルズルと引きずって教室を出て行ったバラムを見送ったダリは、気を取り直したように生徒達に向き直る。
「えーと、連絡事項伝達は終わってるかな?今日の実習はレポートにまとめておく課題ということにして、解散!」
説明も対応も雑!と生徒達が抗議をするが、あとのフォローは明日カルエゴ先生に自分でさせようと心に決めたダリは、さっさと帰るようにと皆を追い立て、その日の授業を終了とした。
「おい、怒ってるのか。」
何も言わずに準備室に向かって強引に引きずっていくバラムに向かってカルエゴが話しかける。
「怒らないと思ったわけ?」
こちらを振り向かぬまま、明らかに怒った声のバラムが答える。
準備室に到着した瞬間、カルエゴを中に押し込み後ろ手に魔力の鍵を閉めるバラムの俯いたままの全身が、明らかに怒っている。
「…怒るか?」
「怒らないわけないでしょ。なにあの禁忌呪文。唱え間違えたら死んでたかもよ。」
「だが、大丈夫だったろう?」
「そういう問題じゃ無い。あと、僕が入らないと押し負けてたでしょ。」
「いや、そうとも限ら…「限るよ。」
怒っている。完全に怒っている。カルエゴの言葉を途中で遮り、バラムがまくし立てる。
「厳粛な君が!真面目な君がまさか、禁忌の呪術を使うとは!!自分の目玉を媒介に置いて、ボッロボロで帰ってくるし!!どれだけ本家で暴れてきたわけ!?心配して待ってた僕の気持ち考えたことある!??」
「…すまん。」
「その、君の”すまん”の対象が信じられない!何に対して謝ってるの?迷惑をかけたこと?僕はカルエゴくんのことを迷惑だなんて思わないよ。心配してるの!大事なの!これ以上傷ついてほしくないの!!分かる!??」
「…。」
気まずそうに目をそらすカルエゴの両肩を掴み、ガッシガッシと揺らしながらバラムの怒りは収まらない。
「で、その返ってきた目はどうなってるの?見えるの?」
「いや、媒介として使ってしまったので、もう目としての本来の機能は無…「ほら!!だから!!」」
皆まで言わずとも良い。もう聞きたくも無い。物体としてそこにあるだけの存在になった、彼の右目。
「だから、自分の体を大事にしてほしいって言ったよね…。」
カルエゴの体を抱きしめ、バラムが言う。
「すまん…。」
カルエゴが、肩に乗ったバラムの頭をポンポンと撫でる。しばらく沈黙が続く。
「…で、結局何のけじめを付けてきたの。」
このままでは再び埒があかないのは明らかなので、バラムは気を取り直して話題を変える。
「本家と決別してきた。」
「はぁ!?」
思わず抱きしめた腕を外しまじまじと目を見つめてしまう。カルエゴの目はまっすぐだ。てっきり報復でもしにいったのかと思っていたが、報復ついでに決別までしてしまったのか。
「…それ、家的には大丈夫なの?君の今のポジションとか。」
「家のことは知らん。兄上と俺以外に適齢の男は居ないから、当面はこっちに次を送ってこれないな。
あと、ここに俺が必要なら理事長がなんとかするだろう。」
「…すごい放り投げ方だね。」
「ふんっ。」
強気に鼻で笑いながら、全てを放り投げてきたカルエゴはやはり満足そうだ。
「なんでそんなことしたの?そんなに報復したかったの?」
「おまえにちゃんと言うには、本家が邪魔だなと思ってな。」
呪い返しを返しきったからか、今日のカルエゴは珍しく饒舌だ。機嫌が良さそうにバラムの目を見返す。
「…俺にとって一番大事な悪魔は、おまえだぞ。シチロウ。大事なのも欲しいと思うのも、おまえだけだ。
俺はおまえの隣にいられれば、それで良い。あとは何もいらない。」
バラムにマスクにカルエゴの手がかかり、カチャリと外される。そっと寄せられる唇。
最上の笑顔で見上げてくる君はずるい。そんな顔で幸せそうに笑われたら、もう何も言えない。
まあいいか、君がずっと側にいてくれるなら。僕だけを望んでくれるなら、僕は君を永遠に離さない。
そう思いバラムは、目を閉じてその唇を受け入れた。