『つかのま』 https://poipiku.com/6407483/10728409.html
『とるにたらない』のあとの話です。
***
これは夢だ。越智は、目の前の奇妙に薄暗い景色を眺めながら、思う。
グレー一色の船室は、波に合わせてゆっくりと上下する。四畳半ほどの部屋には、なぜか窓も、扉もない。大昔の、船中における神職兼ねて人柱――持衰を閉じ込める空間に似ていた。
壁際に取り付けられたベンチに腰掛け、越智は辺りを見回す。夢と知っていれば、出入り口も梯子もない部屋にも、焦りはない。
今どきありえない白熱灯が、ぽつんと灯っていた。それを見上げ、どうすれば目が覚めるかと視線を戻す。
景色に、人が加わっていた。越智を閉じ込めよるような船室、目の前に、女がひとり。自分の願望がそうさせたのか、女は何も纏わず、自然に脱力して立っている。
夢の中でしか存在しない恋人などではなく、彼女は実在の人物を写し取っていた。こちらを見下ろす女は、越智の瞳を分断する傷跡に、指先を滑らせる。
「……ゆ、み……ん」
名前を呼んだ。妙にだるく、呂律が回らない。肉体は眠っているのだから当然だ。
女の、赤みのある髪は、さらりと肩口にかかっている。長めの前髪から覗く表情は、わずかに微笑を帯びていた。白熱灯の黄みを帯びた光が、女の白い肌に陰影をつける。上背があり、筋肉でしなやかに締まった身体は、長距離走の選手を思わせた。
「身体、冷えるやん……おいで」
手を取り、引き寄せる。手指が長くてリアルだな、と妙なところに感心した。この指がページをたぐるところを、いつも見ていた。自分のスケベ心を、越智は自覚する。
自分を跨ぐように座らせ、背に手を回す。女は黙ったまま、越智に身を預けた。どうせ夢なのだからと、下半身が反応するに任せる。ストレートの髪が、越智の鼻筋をくすぐる。
特別、恋心を感じる相手ではなかった。戦地では、希少な異性が常より良く見える。話しやすい相手でもある。その程度の話だと、越智は思っていた。
しかし、自分の無意識は違うらしい。少なくとも、相手に女を見いだしている。
いつもは強化プラスチックの向こうの、涼しい瞳と長い睫毛。バラクラバに包まれ、時々しか見られない、長い首筋。ほんのりとした、ボディーソープの残り香。後輩の女性曰く、「すごく高いボディーソープの香り、そごうとかでしか売ってないやつですよ」――らしい。
胸は――やや控えめで、手のひらに収まるくらい。休暇に横浜で私服を見たときも、ほとんど「盛って」はいなかった。長い脚は、スリムなジーンズ姿のときの記憶だろう。夢でディティールが目につくところは、それだけ越智が注視しているということだ。
越智に応えるように、回された腕。しなだれかかる体重。人肌の体温。時々、自分だけに微笑んでくれる、唇。「中尉」と囁く声にゾクゾクしながら、「階級で呼ばんといてよ」と返した。
「……俺のこと好きやったでしょ」
越智は、肩口に唇を添わせながら、吹き込む。背に回された手に、力が入った。戦地において、湿った深い付き合いは禁忌とされるが、今だけは好きに振る舞える。
男性を忌避するため、自らを頑強な殻で包む。そんな女が、自分とだけは本の貸し借りをし、喫煙所での時間を共にする。越智は、相手にとって多少なりとも特別だということだ。それ故の、問いかけだった。
越智にとって、恋愛は平熱で行う、余力の活動だ。故に、異性への信頼、友情、情欲は、曖昧な境界線をしていた。――このひとは、どうなのだろう。漠然と、そう思う。
質問に答えない相手の、赤っぽい茶の瞳――いつも、阪急の電車みたいな色だと思っていた虹彩を、見つめ返す。
「ま、どうせ俺の、都合のいい妄想やしな」
密室で、男が、裸の女と抱き合っている。起きることはひとつだ。息が上がってくる。身体がうまく動かないのに、本能は行為を求めようとする。
ズボンの前を緩めて、越智は窮屈な下半身を解放しようとした。
誰かが外から、越智を呼んでいる。
出口がないのにどう答えればと、越智は無視する。抱え込んだ身体を座面に押し倒した。息が、上がってくる。越智を呼ぶ声が、うるさい。――あれは、深浦か。
何か大事なことを忘れている気がする。
夢の中でトイレに行ってはいけない、だとか。
夢の中でうがいをしてはいけない、だとか。
夢の中で性行為をすると、起きたとき後悔するだとか。
「う……」
何かが、意識を引き剥がそうとしてくる。やがて、頭のてっぺんに誰かの指が食い込み、強烈な痛みが入り込んできた。
「い゙てててててててて」
越智は、悲鳴と共に飛び起きた。はっと目を開くと、目の前には縦長のバックパック――賞与で買ったミステリーランチの軍用モデル、割引き後価格で税込み約二十六万円が、越智に寄り添っていた。
黄土色のナイロンに、よだれの跡がついている。壁にもたれ、バックパックを前に抱えたまま、越智は眠っていたらしい。
座位であっても、身体を縦にして眠ることは難しい。バックパックを前に抱えると、頭の置き場や体重の逃がし先があって安定する。そんな姿勢で眠っていたせいで、淫らな夢を見たらしい。
「いって……ええとこやったのに……」
「バーカ」
傍には同期の深浦が立ち、強面を更に顰めて越智を見下ろしている。即応待機で仮眠をとっていたことを思い出す。待機室には、同期深浦と、副隊長の関中佐がいた。パソコンを前に、関は見ないふりを貫いていた。
「寝ながら背嚢に腰振りとか、晴田がいたら完全に引かれるやつだぞ」
「確かにぃ……」
頭を掻いた。後輩の女性に見られたら、色んな意味で終わる。下着を持ち上げていたものをなんとか収めながら、越智は慌ただしく水を飲んだ。
「この間の合コンで彼女できたんだっけ? ユミちゃん?」
越智を起こすのに頭のツボを押し込んだらしい深浦が、手をウエットティッシュで拭く。その仕草に「ひどいなぁ」と関西なまりで抗議し、越智は深く息をついた。
「合コンは幹事しかしてへん……」
「あ、もしかしてあの人の妹?だからユミちゃん?」
PMCの冬見。その妹とは、ひょんなことで面識があり、前回の休暇で幹事として合コンを行った。赤みのある髪の毛と、渋い赤色ともいえる瞳は姉妹共通だ。
「溜まってて、たまたま夢に出てきたんやろな。きれいな人やったから」
誤魔化すように笑うと、深浦が声を潜めた。
「お前もしかして……上のほう?」
「しっ! 偶然! たまたまやって!」
関中佐を視界の端で確認する。
前世紀では男社会と言われた海兵隊も、今ではセクシャルハラスメントや性犯罪に厳しい。管理職となればことさらだ。
女の名前を呼びながら、バックパックに腰を擦り付ける部下――奇行な上に危険だ。バレれば、冬見とシフトをズラされる。
深浦は、ただ深く頷き、ぽんと肩に手を乗せた。
「じゃ、カピカピになる前に拭いとけよ、精液」
「夢精しとらんわ!」
越智は思わず、大声で返した。そして越智は、頭を掻きながら、「あー、なんであの人の夢見たんやろな」と呟いた。
なんとか関中佐には聞かれずに済んだ――そう安堵した越智の耳には、「PMCなんかやめとけよ」という、関の言葉は届かなかったのである。