真夏のプールサイド・ドリーム真夏のプールサイド・ドリーム
〜同時開催/男だらけのアームレスリング大会~
*
魔界の理は、未だ謎が多い。
特にそれが、現世の人間にどう作用するかは、極端にサンプルケースが少ないのである。
その日、ひとりの只人を化性へと変えたのは、「僕はキスが一番気持ちいいな」という一言だった。
彼は魔界の影響下においてのみ、何らかのトリガーによって野干へと変身する。現世において、辺境伯家の息子という地位を持つ男・ルーシアスにとって、三度目の変身だ。
要因はいくつかある。
元々、人から野干の姿への変身を経験していたこと。
前日まで、悶々としていたこと。
男だけのアームレスリング大会に参加し、強い興奮状態を経ていたこと。
いつもは男装し、堅苦しい詰め襟を着ている恋人が、その日は肌も眩しい水着の姿をしていたこと。
彼は、粗野ではあるが人理を知っていた。
招待された場所――やんごとなき方の別荘において、獣性を出すことまかりならぬと知っていた。
ルーシアスは、獣の性を他者へと向けぬよう、己の尻尾を必死に追いかけることしかできなかったのである。
*
「また来ちゃった……ってコトッ!? 魔界の領域にッ」
迎えの車に乗り、その山に入った瞬間、ルーシアスは『全ての記憶』を取り戻した。
思えば、不審な点はいくつもあった。
盛夏のみぎりに届いた、薄青の薄葉紙の封筒。その招待状を手渡してきた、は虫類めいた男の顔を、どうやっても思い出せないこと。
表向き、大公家の養子であるルークと、大公家の庇護を受けた留学生ルーシアスという、ほぼ無縁に近い関係のふたりに、連名で招待状が届いたこと。
招待された別荘地は列車と車で三日もかかるというのに、封筒を渡した執事風の男が「別荘には、すぐに着きます」と言ったこと。
いつもならば、不審を覚えて相手の身辺調査を依頼する。だが、招待状を受け取ったルークも、ルーシアス自身も、何の疑いも持たなかった。
招待者はれっきとした上位貴族であり、帝国が取引を行っている実績もある。疑う余地などない――そう思い込んでいた。まるで、思考を誘導されているかのようにだ。
そんな奇妙な経緯とは裏腹に、招待状そのものは常識的だった。
別荘に水場を設えたため、ぜひ暑気払いを、という誘いだ。私的な集まりということで、軽い服装でよいという旨も記されている。半透明の涼し気な封筒からしても、あくまで略式ということなのだろう。
別荘は、多くの王侯貴族が私的な領地を持つ風光明媚な避暑地にある。
招待の日、夕方に約束していた迎えは、寸分の遅れもなく来た。 用意された車に乗り、何度か街の角を曲がると、既にそこは帝都の景色ではなくなっていた。
後部座席、ルーシアスの隣に座るルークは、いつの間にかうつらうつらと舟を漕いでいる。その姿は常の男装ではなく、袖がケープになった立ち襟のブラウス、そして身体の線をぴったりと拾う足首までのスカート。
対してルーシアスは、丈の短い黒の夜会服を着ている。肩章や略章で飾られたそれは、いつもの詰め襟と違い多少は通気が良い。とはいえ下にはベストを着、首には蝶ネクタイが結ばれている。
あくまで軽やかに、しかし砕けすぎない装い。その命題に対する答えがこれだ。
肩口に、ルークの頭が寄りかかる。その髪も、今日は片方を耳にかけ、首にはルーシアスの贈った装身具が光っていた。
一瞬目を開いたルークが、いつもと違うルーシアスの装いに不思議そうな顔をする。そしてまた、目を閉じた。
運転手が、振り向かぬまま「境界を越えたり、時間を圧縮したりすると、人によって強い眠気を感じるようです。後遺症や悪影響はありませんのでご安心を」と語りかけてくる。ルーシアスは、問い返さず頷いた。
普段は記憶に蓋をされているが、『彼ら』と関わるときにはすべてを思い出すことができる。その間は、不可思議なことがどれだけ起きても疑問を感じない。
「また来ちゃった……ってコトッ!? 魔界の領域にッ」
そしてルーシアスは、境界を越えたときに全てを思い出し、思わず叫んだ。
*
ちょうど日の暮れる頃、車は白樺の林を通り抜けていた。車体にわずかに伝わる振動で、石畳の道を走っていると分かる。常の習性で、ルーシアスは外の景色を絶え間なく観察していた。
いくつ目かのカーブを抜けたとき、目の前に邸宅が現れた。いかにも避暑地といった風の白壁に、黒い柱と筋交いが走っている。二階建てで、一見質素好みに見えるが、庭の草木は恐ろしいほどよく手入れされている。邸の周囲に植えられた薔薇は、晴れ空のような色で咲き誇っていた。その奥には、ひっそりと白い百合が咲いている。
おそらくは、走ってきた石畳の道も含めて、ひとつの山が『持ち物』なのだろう。
車の減速で、ルークが自然に目を覚ます。音もなく止まった車に、遅滞なく使用人が取り付いた。ドアが開けられると、木々の気が一斉に流れ込んでくる。
屋敷の外で出迎えたのは、いずれも若く、そして見た目にそぐわぬほど落ち着いた使用人たち。
その奥に、気配だけでも眩しい貴婦人が待っていた。
女性はスカートをつまみ、軽く膝を折る跪礼を、男性は片膝をつき胸に片手を当て、頭を垂れる礼を――招かれたふたりは、別荘の女主人に対してまずは敬意を評した。私的な場といえど、相手が相手だ。
目の前の女性は、大公女であるルークよりも格上にあたる。なにせ、唯一にして正当なる王妃殿下そのひとなのだから。
現世においては、ギーゼン伯爵を名乗る貴人の、奥方。美しい跪礼をするルークの後ろで、ルーシアスは慌てて目線を石畳に下げる。
傍に控えた女官たちも見目麗しいが、ギーゼン伯爵夫人は抜群で、メレダイヤに囲まれた大粒の宝石かくもやという佇まいだ。一瞬視界に入っただけでも、その美しさは知れた。
「ようこそいらっしゃいました」
澄んで緩やかなのに、その声は遠くまで届く。誰がこの場の主かは、その一言で明白だった。
残照を受ける長い銀の髪、絹地の服より白い肌、視線は鮮やかな明るい青――その冬色の色彩が、印象に残る。その佇まいは、単なる見目の良さ以上の、人目を惹く強烈な磁場を持っている。
ルーシアスは、頭を下げ続けていた。いつかの記憶が、「貴婦人の顔を直視してはならない」と告げる。――記憶によれば、ギーゼン伯爵は奥方を衆目に晒すことを好まない。
同じ男として、気持ちは分かる。並外れて美しいパートナーを持つと、気苦労が絶えないものだ。それに、ルーシアスはどこからか視線を感じていた。この場では、とにかく大人しくするに限る。
「お待ちしておりました。お立ちになって、どうぞ中にお入りください」
「妃殿下、この度はお招きいただきありがとうございます」
鈴を転がす声に、ルークは彼女を妃殿下と呼んだ。
ギーゼン伯爵婦人というのは、表向きに過ぎない。人の理を超えた世界――魔界と言われる領域を統べる貴人、その連れ合いこそが目の前の貴婦人だった。
婦人がたに案内され、ルークが先をゆく。小さく振り返った彼女は、軽く手を振った。
「やあ、久しいですな!いつぞやはどうも」
「オルドさん!」
後ろから、呼び止められる。
振り向くと、羆と見紛うような男がそこにいた。身の丈が平均を大きく超えるルーシアスよりも、さらに大きい。夕映え色の髪に、穏やかな橙の瞳――それ以外は、全てが頑強さという要素で構成されている。首も腕も足腰も、締まっていてなおかつ太い。老いを感じさせないが、成熟した何かがある――そういう男だった。
「そちらこそ、お元気そうで何よりです」
手を差し出すと、冗談のように大きな手が、思い切りルーシアスを握り返す。それに応じて、ルーシアスも渾身の力で手を握った。
ふたりは、つかの間、牙を剥いて力比べに興じる。これは、男流の挨拶なのだった。骨が軋むほどの握手をしたあとに破顔し、肩を叩きあう。
「今宵は、男の祭でもあります。近衛の皆が、ゲストを待ちかねていますぞ」
ルーシアスが通された広間には、既に熱気が籠もっていた。見渡せば、いつもは古風な肋骨服の男たち――近衛の兵が、上着を脱いで腕まくりしている。
その後ろには、天井から「第1回 腕力比べ大会」という横断幕がかかっていた。
*
テラスを吹き抜ける風が、溜まった熱を少しずつ溶かしていく。ルークは、テラスの椅子に座り、辺りを見渡した。目に入るのはいずれも、白い服を着た貴婦人――王妃たるアウゲに、知己であり近衛のグラナート、そのグラナートにそっくりな侍女頭と、色鮮やかだった。
色の淡い真っ直ぐな金髪を、ゆるく三つ編みにしたグラナート。いつものかっちりとした正装とは違い、肩の出る軽い服と、ふんわりとしたスカートをまとって籐の椅子にかけている。
身体はしなやかで、細いという印象以上に、健康的と感じさせる。輪郭はすっきりと整い、鼻筋がまっすぐで、唇は血色良く咲いている。
手元のグラスには、氷と桃の果肉を砕いたものが注がれていた。
その隣には、グラナートに生き写しの、若い女性。整った顔と美しい髪は同じだが、柘榴石の瞳のグラナートに対して、彼女の目は濃く冴えた青だった。今日はふんわりとした装いのグラナートと対照的に、背の出るホルターネックと、麻地のズボンですっきりと装っている。手元では、氷で冷やした茶が揺れていた。彼女はザフィアという名の、王妃付きの侍女頭らしい。
そして、涼しい風を楽しみながらティーカップを持っているのが、今上の魔王の妃アウゲだった。
夜会巻きからこぼれた銀の髪が、風にふわふわと舞っている。白く小さな顔に、明るく青い猫目が収まっている。今日はいつもよりくつろいだ服装で、胸元にプリーツのあしらわれたブラウスと、後ろの裾が長く取られた絹地のスカートを合わせていた。
真珠を繋げて編み上げたタイの首元には、大粒のアクアマリンが光っている。以前、ルークが仲介した宝石商が用立てたものだろう。
周囲の景色も、また別格だった。木製のテラスの先には、楕円をふたつ繋げたようなプール。階段状に、中心に近いほど深くなっていく。土地の余白を前提とした、贅沢な土地の使い方だ。
プールの周りの床は白く、色が対比で引き立つ。そして、水場の外周にもまた、空色の薔薇が植えられていた。鋭い棘に触れるのを防ぐためか、槍を模した意匠の柵で区切られている。
薄闇の時間を、ガラスの玉に入った照明が照らす。それは水上や足元にいくつも置かれ、中の蝋燭はグラスや水面をぼんやりと光らせる。
「妃殿下も、普段から水に親しまれるのですか」
「ええ。練習に通って、泳げるようになったんだから」
――通って、ということは、さすがに城にプールはないのだな。貴婦人が水泳をしている場を想像できないのだが、どうやらこの方は随分とガッツがある人らしい。
「とはいえ、今日は水に親しむ夕涼みの場。ご安心なさって」
「あの、不躾かと思いますが、スカートが濡れないように少々裾を持ち上げても?」
避暑地にふさわしいと思われる格好をしてきたが、水に親しむならそれなりに脚を出さなければならない。
ルークは、アウゲを見つめる。しばしきょとんとしたアウゲは、「あら、説明が足りてなかったわね」と微笑んだ。 控えていた使用人に、アウゲが目配せをする。
「水着はこちらで用意します。大丈夫よ。アマーリア、こちらへ」
黒い紗の、すとんとしたワンピースをきた女が現れた。濃い金の髪を肩口で巻き、成熟した女を前面に出した佇まい――仕立て屋のアマーリアだ。
服を具現化する能力を持ち、もっぱら『布地が少なくて透けている下着』が有名になっている。彼女もまた、奇妙な因縁で巡り合った存在だった。その、椿色に塗られた唇がほほえみの形に歪んでいる。
「殿下にぴったりの水着をご用意します――お任せください」
ルークは緊張を隠そうと、飲み物を口に運んだ。彼女には、以前世話になった。男女の機微に深く通じ、ルークと恋人との仲を知っている。ルークの男装姿に、『そんな野暮ったい姿はやめておしまいなさい』と正面から言ってのける相手――それがアマーリアだった。
どえらいものを着させられたルークが目を剥いたのは、その直後であった。
*
アマーリアの用意するものは、大概、大概だ。
劣情をそそるような、全面がレース、背が丸出しの、丈の短い肌着。着ている意味があるのかないのか、ただ裸体を更にインモラルにするためだけの衣類。そんなものを着させられたこともある。
下着は肌触りもよく、催淫作用があり、お誘いをかけるときにありがたくルークは使っているのだが――
用意された水着には、着慣れたそれとはまた別の、「攻めのいらやしさ」があった。
しかし、プールで目にした景色に、ルークは恥じらいさえ忘れることになる。
「これはこれは、……宮廷の美神像にも、これほどのものはありますまい」
思わず、男の演技を出してしまった。プールには、真珠のような球体の灯りが浮き、淑女たちの艶めかしい身体を浮かび上がらせている。
目の保養、というには眩しすぎる輝きだった。
銀の髪が水に触れぬよう、編み込みのまとめ髪になってるのは、妃殿下アウゲその人だった。水の中に立ち、鮮やかなピンクの風船を持ってる。
黒い水着は、首から吊り下げるワンピースになっている。腿にかかる裾が、水面に触れて揺れていた。水着に包まれた身体は細いが、実用的な筋肉が五体に張り付き、身体の外郭を引き締めている。胸元でふわりと揺れる同色のレース飾りが、柔らかな胸の膨らみを慎ましく包み込む。
白い肌と、短いドレスにも似た、黒い水着のコントラストが目に眩しい。
汀に座り、膝から下を水につけているのは侍女頭のザフィアだった。その傍ら、硝子の盃には、凍らせた果肉と葡萄酒が満ちている。
金の髪は、片側で一本に編んでくるりと丸められていた。ちょうどカフェラテのような色の、レオタード型の水着に身を包んでいる。柔らかで健康的なアウゲの印象に比べ、より大人びた透明感がある。
組んだ足には水滴がつき、光沢のある粉で化粧をした脚を輝きで飾り立てていた。
対照的に、野花のような可憐さがあるのがグラナートだ。水色の、チェック柄の生地は、上下に分かれていた。ネコ科の獣を思わせる肢体に、おおぶりのフリルが愛らしさを添える。ちょうど頭の上、淡い金髪がネコの耳のようにアレンジされていた。
アウゲの投げた水風船をしなやかに受け止めるその姿が、水面に鮮やかに反射した。
三者三様のその姿が、美しく、あるいたおやかに、そして愛らしく、まるで美術館にいるかのような錯覚を覚える。
西の国では、ガラスに人の絵姿を印刷した飾り物があり、人気の女優や絵画を飾る流行があるが――ルークは、これは魔界で売り出したら人気になるのでは、と想像した。少なくとも、魔王陛下は絶対に買うだろう。ただきっと買い占めに走り、他者の手には渡らない。
「あら、お似合い! ずっと、ゆっくり話したいと思っていたのよ。こちらへどうぞ〜!」
手招きするアウゲに向かい、ルークはおずおずと歩き出す。
一時は、目の前の景色に忘れてい、挑発的な水着姿への抵抗感を思い出す。隠そうにも、隠せるものを持っていない。怪我のあとさえ隠れない。
婦人方の前では、治療痕を隠すべきでは――そう言ったルークに、アマーリアは否定の返事をした。内心を察したかのように、決して見苦しいものではない、と付け加える。
化粧箱を手渡される。
果たして、魔界指折りのメゾンが用意した水着は、その言葉を裏付けるかのごとく挑発的なものであった。
箱の中の水着は、明らかに布の量が少なかった。地味なのは、生地の黒い色だけである。
トップスは、細長い布を首から吊るし、鎖骨の前で交差させ、胸のてっぺんだけを隠すようにデザインされている。鎖骨を囲む細い紐が、胸を隠す布に縫いつけられ、防御力はまるでない。胸と胸の間が、完全に露出している。
ショーツは、脚の間の要所だけを隠すよう、前から見るとちょうどVの字にデザインされていた。なぜここで更に露出を増やすのか、ルークには分からない。
アマーリアを見ると、彼女は深く頷いた。
傷が云々の前に、露出が無駄に多すぎる。胸と秘部だけを隠せばいいと勘違いしていないか――そう言いたかったが、相手は妃殿下が呼んだ衣装係だ。それに、彼女から贈られた「ちょっと過激な」下着を使っている後ろめたさもある。
アマーリアは満面の笑みで、「ほら、長い手足がよく引き立ちますわ」と言った。
*
「別荘というのは便利ね。警備にも都合が良くて、人目を気にせず、膝を突き合わせて話せる場所が確保できる――」
アウゲが、そう言って息を吸い込んだ。
冷えすぎない温度の水辺に腰掛け、思い思いの飲み物を手にして、四人が集まる。
「内緒の話といえば――外交と恋の話っ!! かんぱーーーい!!」
鮮やかなピンク、深い青、南国の花を飾ったアイスティー、あるいは宝石のようなフルーツで満たされた硝子の盃が掲げれ、涼やかな音を立てた。
「恋の話といえば、どうなったんです。グラナート嬢は」
今日はアイラインが目尻で跳ね上げられ、野生の猫らしい印象が一層強くなっているグラナートに、ルークは話を振る。桃とグァバの二層仕立てか、爪と同じ鮮やかなピンクの飲み物を持ったグラナートが、赤い目をちらりとザフィアに向ける。彼女にしては珍しく、もじ、とした動きに、ルークは何となく察した。
「そういえば、ふたりが恋人になったのは冬の視察のあとだったのよね」
深い海色のカクテルを口にしたアウゲが、水の中に歩みを進めていく。最近は歌姫として現世でも名が知れているらしい彼女は、軽やかに歌うように話を回した。
「こんなに素敵な女性と恋人になれるなんて、オルド隊長は魔界でも羨望の的でしょうね」
偽らざるルークの本音だった。あの真面目なふたりのことだ、きっと結婚までたどり着くのだろう。そう思っていると、アウゲがくすりと笑う。
「本当に、あの時はザフィアが怒って大変で――今でも、彼女はオルド隊長を許してないんだから」
いたずらっぽく話したアウゲの口調には、それとなくとりなすような気配があった。聞けば、かなりオブラートに包まれていたが要するに、オルド隊長がグラナートを大切にするあまり、進展を拒んでしまったのだという。
ザフィアは肩を竦め、唇の端を意味ありげに吊り上げた。
「殿方は時々、信じられないほど女心に疎くて――それで妹を傷つけるから。嫌になっちゃう」
水着と同じ淡い茶に塗った爪で、ザフィアはマドラーを使う。中の氷がカラカラと涼しく歌い、伏せられた青色の瞳に光を届けた。その様子が、ルークの姉アレックスにどことなく似ていて、つい微笑んでしまう。
グラナートが、そっとザフィアの肩に頭を寄せる。別荘の中から、異様に盛り上がっているらしき男たちの歓声が漏れてくる。
「ザフィア、心配しないで」
「心配するわよ、干渉はしないけど。……姫殿下は、そういう心配はなさそうですわね?」
いたずらっぽく微笑んだザフィアが、ルークを見る。ちょうどそのとき、ルークは飲み物をプールサイドに置いて、半分背をそちらに向けていた。
「背中に、花びらの跡が」
ほとんど剥き出しになった、ルークの背中――ザフィアが、何を示しているか悟る。唇の跡と、食い込んだ爪の傷が、白い背には残っていた。どうやら、アルコールで浮かび上がってきたらしい。
「あらーーー」
「あぁ……」
水の中に逃げたが、時既に遅く、アウゲとグラナートが声を上げていた。傷跡は、何だかんだで勲章のようなものだから、ルーク自身は負い目などない。だがこれは――あまりに迂闊な、言い訳できない証拠だった。
「夜会のときに、おふたりを手助けした甲斐があったというものだ」
グラナートが、くすりと笑う。「本当に、そちらには何かにつけて助けてもらっていますよ」と言ったルークに、アウゲが微笑んだ。
「冬に、近衛のふたりを遣わしたときは、本来の報告よりも、あなた達の話で盛り上がったくらいよ。ふふ――ルーシアス君は、世界でひとりの男なのね」
嫣然と笑うアウゲからは、既婚者の余裕が感じられる。ほろ酔いで頬を赤く染めたザフィアが、「妃殿下、他の殿方の名前をお呼びになると、陛下がやきもちを焼かれます」と笑う。
「大丈夫よ。私には、ヴォルフが世界でひとりのひとなんだから」
黄色い悲鳴が、わっと上がった。肩を竦めたいたずらっぽいアウゲの表情に、一同が赤面する。姫君は完璧で究極の歌姫、というフレーズがルークの頭をよぎった。
「今のセリフはヴォルフ様には内緒ですね」
ザフィアが笑いながらそっと囁く。
「どうして」
訪ねたルークに、「それはもちろん、こんなセリフを聞いたら、あの方は舞い上がって仕事が手につかなくなってしまうからですよ」とグラナートが答える。ルークの記憶にある魔王陛下は、立場にふさわしい重みのある佇まいだったが――青年らしい面も、大いに持ち合わせているらしい。
「今上陛下は、妃殿下のことになると少々熱が入られますから。魔界どころか、現世まで魅了なさる歌姫ですから、仕方のないことではありますわね」
艶のあるベージュの唇を笑わせたザフィアに、ルークはどぎまぎとした。そして、会話を繋ぐ。
「王や領主の夫婦仲がよいことは、国を安定させますから。魔界の治世が、僕は羨ましいですよ」
「あら、この間までは冥府の者との戦いでドタバタしてたのよ。私も冥府に連れて行かれて、大変だったわね〜。あのときは、オルド隊長も、グラナートも、ザフィアも、それぞれの持ち場で良くやってくれた」
アウゲがこともなげに言う。グラナートとザフィアが、深く頷く。魔界の代替わりの度にそんな危機が訪れるらしく、ルークは人の世とは違う理に目を見張った。常に油断にならない人の世と、代替わりでの危機に瀕する魔界と、ままならないのは同じのようだ。
「それ、大丈夫だったんですか」
「大丈夫じゃなかったけど、なんとか大丈夫にしたのよ。これしきで魔界が崩壊するもんか、って思ったら、大丈夫な気がしたし」
気合いの問題のように流すアウゲに、ルークは何か王族特有のストロング根性を感じ、天を仰いだ。魔王夫妻が認められる充分な理由が、そこにはある。これこそが、ロイヤルカップルの真打ちであった。
ザフィアが、ふ、と唇を開く。
「そういえば、王妃殿下。髪が濡れてしまう前に、写真を撮りませんか。makainstagramに掲載する、広報用の」
写真と聞いてルークは身構えたが、不思議な力により魔界内でしか見られないものらしい。
「近頃は夏の暑さで体調を崩す者が多くてな。魔界でも、昼よりは夜のプール遊びを流行らせらたいくらいだ」
貝を模した浮きに寝そべり、グラナートが真面目な口調で言う。広報用の写真に精一杯「おしゃれなくつろぎポーズ」をする様がいじらしく、ルークはつい微笑んでしまう。髪を猫耳に意匠した、小悪魔的なルックスと、中身の堅さがよいギャップとなっている。
水面に浮かぶ球体の灯りも相まって、人魚姫のようだ。
「脳筋たちは山に登れば涼しいって言うけど、こんなに暑い中、そもそも山まで行けないですわよ」
プールサイドに腰掛け、どういう仕組なのか分からない光るグラスを手にしたザフィアが、光沢のある粉を塗った長い脚を優美に組む。こちらは大人の色香そのものだ。白い肌と、肌のトーンに近いラテ色の水着が、身体のしなやかなラインを強調する。
「魔界の業務を支えてくれる文官たちには、急な登山は厳しいわ。でもプールなら、負担が少なくていい気分転換になる。王宮での福利厚生に組み込もうかと思っているところなの」
アウゲの言葉に、ルークは感心して頷いた。水面の光る球体を胸元に持ち、カメラに向かって小首を傾げる。レースの胸飾りが、水面に広がって揺れていた。
濡れた肌に滑る水滴は、宝石のごとく彼女の肩口を煌めかせた。撮影用に向けられた強い照明に、猫目を彩る金属質な青のアイラインが輝く。美しい人は、骨から美しい。骨格の陰影を眺めながら、ルークはそう実感する。
遠くから、「脳筋たち」と呼ばれた近衛と、恐らくはルーシアスの、どっと沸く歓声が聞こえる。何をやっているのかと、ルークは訝しんだ。
「そういえば、職場内恋愛、どうですか? うまくいってます?」
水の中に音もなく入ってきたザフィアが、ツーショット用に寄り添い、問いかけてくる。一人で写るには心細いルークを察したかのようだった。ザフィアの肩に手を乗せて、顔を寄せる。魔界の技術力か、随分とこの世界のカメラは小さい。
「……なんとか。勘の鋭い、人事の人にはバレてしまって……」
「そういう人、いますわねぇ。うちの執事頭もなかなかなんですけども。で、どうしてバレたんです?」
説明を求めるザフィアと、他ふたりの目が、ルークに向く。心配げにこちらを見つめるアウゲの、ネオンブルーの瞳に、隠し事はできない。
「人事のイリヤくんとは、元々親しくしてたんです。仕事上の付き合いもあるので……ただ、その、僕がイリヤくんと話しているのを見るたび、ルーシアスの目つきが変わってたらしく……」
「「「お、お、男の子の嫉妬〜〜〜」」」
三人の美女が、見ていられないというように悲鳴を上げた。場が盛り上がり、謎に乾杯が入る。
「それに気づいたイリヤくんが、で、突然『あいつの何がよくて付き合ってるんです?』って聞いてきて、誤魔化しきれずに……」
イリヤは、相手の反応を見るため、わざと目の前でルークと話したりしたらしい。人事のイリヤとしては、色恋沙汰の揉め事、そしてそこからの懲戒手続きを心配したようだった。片方が留学生ともなれば、厄介だ。
その後、イリヤと密室で話し込んでいたことがルーシアスに知れ、激しめの仲直りと相成ったことは、ルークは語らずにいた。
思い出しついで、ひとりでに顔を赤くしたルークは、話をグラナートに振る。
「でも、まだ、イリヤくんにしかバレてない……と思うので……それより、グラナート嬢こそ、どうなんですか? 職場内恋愛、周りの目って気になりませんか?」
「ずっと両片思いみたいな感じで続いてたから、むしろ周りから温い目で見られてる気がするんだ……休暇も勝手に合わせられてるし」
手で頬を包みこんだグラナートが、顔を冷やす仕草をする。冥府との戦後処理も概ね軌道に乗り、近衛にもそろそろめでたいニュースを、と期待されているらしい。
高嶺の花のグラナートと、羆かくもやというオルドの婚礼は、近衛にとって希望の星なのだろう。
「グラナート嬢なら、さぞかし美しい花嫁姿になるでしょう。女性のファンの方々も、嘆息するでしょうね」
「で、でも、私は姉に認めてもらってから結婚したいんだ……! だから、すぐじゃない」
ぶんぶんと手を振るグラナートが、耳まで赤らめた。ルークは勝手に、わかります、と何度も頷く。
「大丈夫よ、グラナート。言ったじゃない。あなたがどうしようと、私はその決断に怒ったりはしないし、勝手に心配し続けるわよ」
すっかり空は暗くなっていた。水面に、淡い色の照明が映え、いずれ劣らぬ美女たちの水着姿が浮かび上がる。アルコールが、場の空気を徐々に緩めてきていた。ルークは、気になっていたことを口にする。
「それで……水着は、オルド隊長に選んでもらったんですか? 大人っぽくてシンプルな水着もお似合いかとは思ったんですが、かわいい水着だと小悪魔的っぽくて、ドキドキしちゃいますね」
グラナートに投げかけた問いに、またしても黄色い悲鳴が上がる。「あらぁそうなの!?」と口に手を当てるザフィアが、青色の目を見開いた。オルドが、彼女に着させる水着の趣味は、意外と愛らしいらしい。
男たちの歓声と、女たちの黄色い声に、夜が更けていく。
「皇族・王族は結婚生活をいかに維持するか」「配偶者と、自分以外の異性の社会的関わりをいかにして受け入れるか」という話題から、「女性からエンゲージリングを渡すのは有りか」という攻めたトピックスまで、おしゃべりは続いたのである。
*
男だらけの腕力比べ大会は、異様な盛り上がりの末、ほぼ全員が上半身裸になるという様相を見せた。
多くの近衛兵が酒と眠気で倒れたあと、ルーシアスは、オルドに誘われてプールへと向かっていた。すっかり火照った身体を冷やすためである。
別荘の庭へと抜ける道の灯りはほぼ落とされ、防犯のためかランプだけがぽつぽつと灯っている。水着を借り、山の冷涼な空気を浴びると、それだけで気持ちがよかった。
「僕は、キスが一番きもちいいな」
プールへと向かう直前の角で、ルーシアスは聞き慣れた声を聞いて、立ち止まった。「そうなのか?」と問い返すのは、恐らく近衛のグラナートだろう。
先を歩くオルドが、様子を伺うようにそっと向こうを見る。
「気持ちが通じてる気がするから」
――なんの話をしているんだ、なんの。
オルドが咳払いをして、わざと明るく声をかける。果たして、ルークとグラナートはそこにいた。いつもの生真面目な雰囲気とは対照的に、洒落た猫のような佇まいのグラナート。冷えたからか、大判のタオルで身体を覆っている。
そしてルークは、明らかに驚いた顔で立ち尽くしていた。見慣れた白い肢体は、ギリギリながらも隠すべきところを隠されて――そしてそれ故に、剥ぎ取りたいと思わせる。胸と鼠径部だけを黒塗りにしたかのような水着に、ルーシアスは目を白黒させた。
肉体的反応は避けられない。だが、ここでそれを衆目に晒すわけにはいかない。一応は、貴族の子である。
手にしていたタオルで、さりげなく下半身を隠す。ルークの耳にかかっていた百合の生花が、山肌から滑り落ちてきた風で鼻をくすぐった。いつもと違い、唇には淡い色の艶が乗せられている。
ルークが歩み寄ってきて、冷たそうな身体が視野いっぱいに広がった。思わず凝視してしまったルーシアスは、気持ちをおちつけようと天を仰いで息を吸った。目の前で、ルークが慣れないサンダルに転び、ルーシアスはそれを思わず受け止める。
濡れた水着の感触、そして肌の生々しい冷たさ、胸が潰れる質感が、ルーシアスの五感を刺激する。――もうダメだ、俺のが勃った、ここまでだ。ルーシアスは、辞世の句を詠む。
「あっごめんルーシアス……ルーシアス!?」
ルーシアスの顔を見たルークが、目を皿のようにする。ルーシアスは、体の内側に迸る熱を感じた。硬い繊維のようなものが内側で膨らんで、皮膚を突き破る。手足は細く、ことに指先が伸び、爪が鋭くなっていく。
「大丈夫!?ルーシアス!?」
察したオルドが、駆け寄ろうとするルークを制止する。獣の形状になったことは、以前にもある。大きな赤毛の野干――それが、化性へと変化したルーシアスの姿だった。
四本の足が、地面につく。理性はぎりぎり残っているが、この嗅覚でルークの匂いをかぎ続ければ、いずれ襲いかかってしまう。さしものルーシアスも、人前で獣姦ショーをしたいとはおもっていなかった。国の恥である。
理性が遠ざかる中、ルーシアスは考えた。
何かで気をそらさなければならない。例えば――尻尾。ルーシアスは、背に腹は代えられないとばかにり、それを激しく追う。本能と理性の拮抗で、鼻が激しくピーピーと鳴った。このまま永遠にスピンしているわけにもいかない。ルーシアスは、頭を冷やせという、いつかの兄の言葉を思い出した。
「あっルーシアス!」
薔薇の生け垣を飛び越えて、ルーシアスはプールへと水を引き込む水路を辿る。大きな岩が見えた。
そして、ルーシアスは、夜の渓流の深みへと、盛大な水音を立てて飛びこんだのであった。
*
「男だからな、俺は分かるよ。お前は頑張った」
濡れそぼったルーシアスは、大岩の上に寝そべり、毛皮を舐めていた。その隣で、オルドがタオルを取り出し、ガシガシとルーシアスを拭く。しょげた、クゥンという声でルーシアスは返事をする。
「本当にお嬢ちゃんが好きなんだな! 結婚式呼べよ! な!」
控え目なルーシアスの遠吠えが、満ちる月まで届く。
オルドは、笑いながらばんばんとルーシアスの肩を叩いた。
その後、誰もが寝静まった頃、離れから「ちょっ……水着に鼻を捩じ込まないで! 咥えてずらしてもダメ! ス、スケベ犬!」という叱責が響いた。
イリヤが「あれは君の番犬? 愛玩動物? それとも恋人?」と訪ねたルーシアスは、「彼は僕の半分だよ」と答えたルークによって、新たに『スケベ犬』という称号を得たのであった。