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    Naked_MIKAN

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    Naked_MIKAN

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    「鏡像の夜を破れ」と、有馬 礼さんの「蠱毒姫」世界とのクロスオーバー2作目です。
    時系列的には「鏡像~」52話くらいの話です。

    転がる宝玉と透けてる下着と吠える犬「そう…ここは、布地が少なくて透けている下着を強制的に着せることができる部屋」
    「布地が少なくて透けている下着を強制的に着せることができる部屋」

     布地が少なくて透けている下着を強制的に着させられたルークは、衝撃のあまり相手の言葉を復唱し、もはや隠れているとも言えない胸元を両腕で隠してしゃがみ込んだ。癖のある、首筋で整えられたしろがねの髪、それに中性的な四肢は、辱めのようにいかがわしいレースで飾られている。
     黒い天鵞絨(ビロード)をふんだんに使い、金縁のレースで飾られた広い部屋で、その内装に勝るとも劣らない豪奢な女がルークを見下ろす。
     肩口まである淡い金色の髪をコテで巻き、胸元と太股まで深い切れ込みが入った黒いドレスの女は、指先ひとつをくるりと動かす。細かな光がぱっとルークに集まり、今度は紐の集まりといった方が正しい下着になる。

    「どうしてこうなった」
    「白々しくてよ、侵入者さん。裸より恥ずかしい格好にしてあげましょうか」
    「もうなってるじゃないか!」

     ルークには、心当たりなどなかった。ほんの数分前までは、ジェムアンドミラーの持つ帝都の宝石商にいて、有力者の懐柔に使う宝石を選んでいたはずだ。卓上に並べられた首飾りや指輪、はたまた大粒の原石を比べているうちに、ふと見覚えのない化粧箱を見つけた。
     不思議に思い開けてみると、クッキーほどのサイズのオパールが目を引いた。見事な大きさ、それに白の中に神秘的な青い靄を持つそれは、誰がどう見ても逸品と分かる。菱形にカットされたオパールの周囲には、照りも巻きも均一な真珠が繋げられ、ぴったりと沿うような首飾りに仕立てられていた。
     これほどの逸品が、ただ協力者の買収に使われるなどあり得ない。こんな場所に置いておいていい品でもない。個別の金庫で保管してしかるべき代物だ。所有者の名前がどこかに刻まれているはずだった。手袋をして、オパールの台座の裏側を確認しようとしたとき、急に脳から血の気が引いた。
     座っていられないほどの貧血に、ルークは目の前が暗くなった。そして目が覚めたら、この怪しすぎる部屋にいた。黒い詰め襟を着ていたはずなのに、レースがひらひらと頼りなく揺れるだけの下着姿になっていた。レースカーテンよろしく、風や動きで頼りなくめくれるそれは、下着として必要最低限の機能さえ果たしていない。焦っているうちに部屋に女が入ってきて、告げられた。――ここは、布地が少なくて透けている下着を強制的に着させることができる部屋である。

    「待ってくれ、僕にも何が何だか…それにここはどこだ、帝都じゃないのいか」

     今度は、下着の枠組みといった方が正しい、紐のようなものを着たルークは、両手を頭の高さに上げて敵意がないことを示す。全裸より恥ずかしい紐が、身体のあちこちに擦れて赤面した。顔面蒼白になるような状況だが、恥ずかしさのほうが先に立つ。

    「いいわけにしてももう少しマシなことを言ったらどうなの。魔界いちの、このアマーリアの店に侵入するような愚か者さん?」
    「魔界?マカイ?」

     目を瞬かせたルークは、布地がなくて着ている意味のない下着のまま棒立ちした。悪い夢でも見ているのだろうか。だが、アマーリアと名乗った美女は「それが何か」という表情で片眉を上げるのみだ。妙に寒いこの部屋のせいか、背筋がぞわりとして、胸の頂点が凝った。

    「魔界などとそんな世迷い言を?下着の治安の悪さで言えば魔界かもしれないが」
    「不敬よ!魔界の治世は、人界や冥界よりよほどいい。比べないでいただきたいわね」

     また、アマーリアが扇子をパンと畳んで、指先を動かす。光の粉が散り、新たな形の、布地が少なくて透けている下着がルークの肌の上で形作られる。肩紐がふりふりと波打ったピンクのサテンで、形こそコルセット同様だが、肝心の部分が薄い生地で透けている。波のようなオーガンジーが胸元にふんわりとかかっているが、それは素肌を隠すには至らない。先ほどの、紐のような何かや短いカーテンのような代物より布面積は多いものの、いかにも少女趣味の形状が気恥ずかしさをあおる。
     表情を変え、ぐっと恥辱に耐える。そのさまを見て、ころころとアマーリアが笑った。

    「アマーリアの店の特別試着室に侵入したにしては、随分なお間抜けね。あなた魔力も感じられないし、一体何しにここに来たの?腹を決めて話しなさいな」
    「僕にも、何が何だか分からないうちにここにいるって言ってるじゃないか。それにさっきから、どうして僕に布地が少なくて透けている下着を強制的に着させるんだ」
    「黒い詰め襟に短い髪、野暮ったいったらない。あなた布地が少なくて透けている下着を着ている方がよっぽどいいわ」

     白い痩身を、薄桃色のオーガンジーが飾り立てる。下生えがきわどく隠れる程度の下履きは、スースーして落ち着かない。この姿を、侍女のアリナや姉のアレックスが見たら卒倒するだろう。男装して隠されているとはいえ、仮にも皇族の血を引く娘だ。侍女や、特別な関係にある護衛以外に、素肌を晒すことはない。

    「…僕は親衛連隊長であるイズマイロフ少将の預かりだ。その名に賭けて、女性の試着室に侵入するなど破廉恥なことはしない」
    「知らない名前ね。陛下の周囲には、そんな名前の方はいないはず。まあいいわ、あくまでここが何処かも分からないと言うなら、こちらはその発言が本心かどうか確かめさせてもらうだけ」

     アマーリアは、しなやかな手を打ち鳴らした。ルークの肌を、深い赤の、革製の拘束具が出現して、手足を戒める。革は安価な鉱石ではなく、植物でなめしたものだ。するりと音もなく入ってきた若い女性が、万事心得ているとばかりにルークに歩み寄った。こちらは、襟の詰まった服に長いスカートと慎ましげな装いだが、妙な迫力がある。

    「この娘が侵入者なら、何が狙いなのか探り当てなさい。もしそうでないのなら、何者なのか調べなさい」
    「かしこまりました」

     娘が、亜麻色の髪の頭をアマーリアに下げる。目の奥には、狐火のようなちらちらした光が揺れていた。不思議な凄みがある。自分が、何か幻覚剤のようなものを盛られたのではないかとルークは疑った。言葉の端に出てくる、魔界という言葉にはそれだけの違和感がある。

    「では」

     娘の、そばかすの散らばる顔が間近になる。革で拘束されたルークは、せめて怯える様など見せまいとその目を見据えた。小さな手がルークの頬を触り、静電気がバチッと爆ぜる。ここが魔界だというなら、ルークが侵入者ではないと理解してもらえるだろう。目の前に、光が爆ぜる。

    「うぁ?」

     頭の中に、透明な何かが流れ込んでくる。脳に直接触られているような、瞬く記憶を見られているような感覚が、平衡感覚を怪しくする。ルークは知らないうちに膝をついていた。薬物を盛られた経験はあるが、これほどに急激でしびれるようなものではない。雷に打たれたように崩れたルークは、気がついたら亜麻色の髪の娘のスカートに顔を埋めていた。たった数秒のことなのに、溺れた直後のように呼吸が荒れる。かろうじて開いた目の視界は、周辺が薄暗い。

    「マダム、この小っ恥ずかしい下着の娘、嘘は言っておりません」

     娘がルークをそっと床に寝かせ、横向きの楽な姿勢にさせる。

    「それと、この者はどうやら人界の者です。魔力も、記憶を見られることへの防御措置も何もない、ただの人間です」
    「ただの人間が、この布地が少なくて透けている下着を強制的に着せることができる部屋に突然現れたというの」

     アマーリアが、怒るように大声を出した。「はい、どれも記憶は人界のもの。身体の中に魔界の力もありません」と娘が答える。口元を扇で隠したアマーリアが、「に、人間…ただびとですって…」と顔色を変える。

    「ひらひらして透けている下着を着させる前に、僕の話を聞いてほしい」
    「マーシャ、今からこの部屋には誰も入れてはなりません。それと、お茶を持ってきなさい」

     マーシャと呼ばれた亜麻色の髪の娘は、その指示に黙って頭を下げた。さすがに顔色を変えたアマーリアが、寝転んだままのルークを横目で見下ろす。その目は、何か化け物を見るようで、眉根は寄せられていた。こめかみを揉み、自分を落ち着かせるようにふっと息を吐いたアマーリアが、小さくつぶやく。

    「…男の子みたいな女の子には、敢えてこういうのを着せるのがいいのよ」



     どうやらここが、ルークの知る帝都ではないというのは、本当らしい。アマーリアの店は、魔界でも選りすぐりの仕立屋兼小間物屋なのだという。「布地が少なくて透けている下着を強制的に着せることができる部屋」は、本来アマーリアの魔力によっていっときだけ想像通りの服を再現する部屋で、代金が払われると服が実体化するらしい。いかがわしい夜着ばかりが出てくる場所ではないが、いかがわいしい夜着も人気なので、アマーリアは自然とたくさんのバリエーションを持つようになっていたのだという。
     それはそうとして、只人が突然現れたことは、ルークの世界で言えば他国の軍艦が突然港湾に現れたに匹敵する脅威だろう。この、布地が少なくて透けている下着を強制的に着せることができる部屋からうかつにルークを出せば、魔界が大変な騒ぎになる。

    「王太子妃殿下のための注文で、この頃は少し立て込んでいましたの。王宮への献上品とあれば警備管理も必要で、わたくしもピリピリしておりました」

     首元に、詰め襟のデザインを模した金の首飾りをつけ、レースで覆われているだけの胸当ての姿で、ルークは茶を飲んでいた。下履きは骨盤の左右でリボン結びにされ、やはり布面積は小さい。詰め襟姿では、武器を隠し持つ心配があるのだろうと、ルークは無理矢理自分を納得させた。

    「その点については理解した。侵入者と思われるのも致し方ないだろう」

     王族の身につけるものを用意するとあれば、誰かが毒を仕込んだりするのは想定のうちだ。アマーリアの態度からして、ここの王族は大いに慕われているらしいので考えにくいが、それでも警戒はするのだろう。

    「さて、どうしましょうか…王宮の方…ザフィア様も、メーアメーア様も、下手に隠し立てすれば逆効果な方ばかり」
    「僕をどうするかは、あなたの手に余る。どうか隠し立てせず、国の保安部に取り次ぎを。あなたの仕立てた服について、高貴な身分の方に疑心を抱かせたくはない」

     何のために履いているのか分からない、指に引っかける形のレースの手袋を眺めながら、ルークは述べる。ルークが現れたことで、結果的に損をするのはおそらくアマーリアだ。宮殿に住まうものの疑心の深さを知らないルークではない。
     黒い天鵞絨の緞帳、それに合わせて用意された調度品、大きな白磁の花瓶に飾られた芍薬、そしてカーテンで閉ざされた大きな窓は、この試着室が特別な客のためのものだと示していた。ここまで店を大きくするには、魔界といえど苦労は絶えなかったはずだ。ドレスやご婦人の夜着のみならず、高額な宝飾品も合わせて注文できる店なのだろう。

    「…そうだ、首飾り」

     不意に思い出したルークは、思わず呟く。

    「首飾り?」
    「僕は、見慣れない首飾りの箱を開いた直後に失神して、気づいたらここにいた。見事で大きなオパールに真珠がつながっている、それこそ一国のあるじが贈るような…」

     茶に口をつけようとしていたアマーリアの動きが止まった。ルークは、自分が倒れていた辺りを振り向く。部屋の隅々まで見回し、やがて縦長の黒い化粧箱を見つけた。黒い天鵞絨のカーペットに紛れていたのだ。

    「これだ、間違いない。傷ついてなくてよかった…」

     箱を開けたルークが、いかにもほっとした顔をアマーリアに向ける。「…それには見覚えがありますわ」と吐き出したアマーリアが、立ち上がった。

    「このオパールは、王太子妃へと献上するためにご用意したもの。故に、万が一盗難に遭った際、触れたものごとこの部屋に転移して閉じ込めるようまじないがかけてありました」
    「僕はこれを宝石商の店で見た。だがこの世界から盗難するとは一体」
    「人界にも、魔界の者はおりますわ。オパールを繋ぐ真珠は、人界にて作らせたもの。それを保管するのに、都合のいい金庫としてそちらの宝飾店を使っていたようですわね…」

     眉間を揉んだアマーリアが、全ての現況を悟った顔で苦々しく呟く。首飾りに仕立てるために人界に出していたオパールが、魔界のものだったということらしい。

    「…この店、本当に、いかがわしくない商品の取り扱いもあるんだ」
    「だから、この試着室はあくまで透けている下着を強制的に着せることもできる部屋ってだけで、本当はどんな服でも再現できるって言っているでしょう」

     黒いドレスから衣擦れの音をさせて、アマーリアは肩をすくめる。王室につながりのある仕立屋で、夜伽の時しか着ないような下着を扱っているということは、姫君にもこういうものを献上しているのであろうかという不敬な考えを、ルークは頭から振り払った。

    「ちなみに聞いていい?なんで僕ずっと下着なの?」
    「あの黒の詰め襟、野暮ったいでしょ」
    「それだけの理由」
    「恥ずかしい格好のほうが、自尊心が揺さぶられて自白しやすいのもありますわ。でも今はわたくしの趣味ですわね」

     護衛であり婚約者であるルーシアスが、この姿を目にしたら激高するだろう。それほどの格好だ。ルーシアスは今、士官課程にいるはずで、万が一にも魔界に関わることはない。一緒にこちらに飛んでいたら、大変なことになっていた。

    「そういえばマーシャが、あなたには恋人がいらっしゃると。それならば、布地が少なくて透けている下着も必要になりますでしょ?」
    「その理屈はおかしい」
    「野暮ったい子が過激な下着を着てるっていうギャップがいいのですわ」

     人の頭の中を勝手に見たあげく、その内容を話さないでほしい。客が想像する服を正確に叶えるには、心を覗く能力は必要なのだろう。だが、只人からすると、見られたくない内容を透視から隠すすべがないのだった。 

    「さて、そろそろ内密に伝書鳩を飛ばします。武官や近衛の方々は、このところ討伐でお忙しいご様子。すぐに迎えがあるかは分かりませんが…」

     討伐とは穏やかでない。だがルークの国も似たようなものだ。革命や民族運動をそのうちに抱え、軍隊は疲弊している。魔界も大変だな、といかがわしい下着姿でひとり笑った。アクセサリーが、揺れてカチカチと音を立てる。笑うのをやめても、カチカチと音を立てる。随分揺れるな、とルークが思ったところで、紅茶の水面が震えていることに気づいた。

    「マダム・アマーリア、これは」

     不審に思い、向かいに座るアマーリアを見ると、彼女も怪訝な顔をしていた。彼女の魔術ではないらしい。やがて、カチカチという音はドスン、ドスンという何かがぶつかる音に変わり、天井から埃が落ちてくる。

    「討伐って言っていた?そんなにまずい相手なのか?」
    「そりゃあ手強い相手だけれど、殿下直々に討伐に出ているくらいだし、まさか城下町にまでまずいものが出るわけが、あ、っ」

     どん、と大きな音がして部屋が震える。これはまずい気がする、とルークは身を屈めた。突き上げてくるタイプの地震にも似ている。シャンデリアが、左右に揺れて軋んだ。
     
    「マダム、お願いだから上に何か着るものを―」

     そうルークが言いかけた瞬間、ひときわ大きな衝撃が店を揺らした。カーテンの向こうにあるはずの窓が破れ、赤茶色の塊が転がり込んでくる。赤毛の羆かと思い、ルークはひゅっと呼吸が止まる。この大きさでは、屠るのに兵士が十人は必要だろう。
     ガラスの破片がカーテンに突き刺さり、あるいは床に散乱した。自然光のもとで布地を見るためか、身の丈ほどの高さの窓があったのが災いした。羆かと思った獣は、首を振って牙を剥く。四つ足は細く、体毛は紅葉のように赤い。翻ったカーテンから差し込む光で、身体全体が燃えるように光っている。

    「うわっ、うわわ、早く、服!服着せて!」

     ルークは叫びながら尻餅をつき、身を隠そうとする。アマーリアは硬直しながらも、革の拘束具を獣の口に装着しようとした。対面してみると羆ではなく、大きな犬科の獣だ。それも、体高は人の身の丈ほど、体長となれば2メートルは超えるだろう。狼に似ているが、それにしては顔が細い。口を縛ろうとする革の拘束具を、それはたやすく顎の力で千切る。

    「この格好で死にたくない!」

     アマーリアに悲痛な声で懇願したルークを、獣が見た。牙を剥き出しにし、うなり声を上げている。突き破ったガラスがところどころに刺さっているが、厚い被毛のせいか動きを止めるには至らない。ぶるぶると身を震わせると、音を立てて床に破片が落ちる。

    「きゃああああああ」
    「マダム!大丈夫ですか」

     戦力にはなりそうにないマーシャが入ってくる。鋭く吠え立てる獣に、ルークはもはやこれまでという重い実感に支配され、力が抜けた。胸丸出しのこんな格好で死ねば、異界に飛ばされた挙げ句如何わしい格好で死んだ只人としていい笑いものにされるだろう。

    「ルーシアス…」

     その名前を呼び、心の中で語りかけた。
    ―済まない。僕もこんなエロ下着で死にたくなかった。
     ルークの頭の中に、走馬灯がよぎる。獣が毛を逆立たせ、飛びかかる予備動作に入る。人の頭などかみ砕いてしまう歯牙が、ぎらりと光った。部屋が、獣くさい。獣の足が、ふわりと跳躍する。しゃがみこんだルークの頭の上を、それは軽やかに飛び越える。すべてがゆっくりと過ぎていく。獣の顎、黒地に金色の装飾の首輪、波打つ腹毛の筋、雄の器官まが、明瞭に見えた。
     すんでのところでアマーリアに身を躱され、獣は壁に頭をぶつける。また、地鳴りのような音が響いた。
     赤毛に黒の首輪、そして榛色の瞳。ありえない、と思いながらも、ルークはその姿によく知った男の幻影を見た。どうせ死ぬのならば、悪あがきをしてからでも遅くない。立ち上がり、アマーリアに襲いかかろうとする獣に、ルークは花瓶を投げつけた。こんなものは傷にもならないが、注意を引ければそれでいい。
     獣の出現は不自然だった。そしておそらく、必然の出来事だ。それならば――

    「…予防接種ぅ!」

     ルークは大声で叫んだ。

    「マーカス殿!フェリックス!注射!えっと…懲罰房!」

     獣が、ぐっと動きを止める。ルーシアスが、抗えないもの、苦手なものの名前を思いつくままに叫ぶ。マーカスと注射を一緒にするのはいささか失礼だが、仕方ない。
     長く尖った獣の耳が、こちらに向いてピクピクと動いた。首輪の意匠には見覚えがあった。他ならぬ、ルークの恋人が着ている詰め襟とそっくりだ。
     透けている下着を強制的に着せることができる部屋が存在する世界なら、只人のかたちが獣になっていてもおかしくはない。
     興奮して、今にもアマーリアを食い殺しそうだった獣が、ふうふうと息をする。「おいで」と呼ぶと、しばし周囲の状況を確認した獣が、低く唸りながらも歩み寄ってくる。「触るよ、いい?」と聞いてから、ルークはその顎に手を伸ばした。黒く濡れた鼻先を寄せてくる獣が、ふんふんとルークの匂いを確かめる。そして、恭順を示すようにお手をした。
     呆気にとられたアマーリアと、アマーリアにしがみついたマーシャが、腰を抜かしてするすると床に滑り落ちる。これほどまでに大事になってしまっては、穏便には済ませられないだろう。既に外から、組織だったものを指揮する声が聞こえてくる。

    「マダム・アマーリア」

     ルークは、未だ腰をぬかしたままのアマーリアに声をかける。

    「…ほんとに、お願いだからマシな服着せて」



     どういうわけか、地上のいかなるイヌ科よりも大きい獣になったルーシアスが、ルークの膝の上に顎を乗せて周囲を横目で見ている。一見リラックスしているように見えるが、耳は周囲に向いて絶え間なく情報を集めていた。ルークは、黒い詰め襟の姿で獣ことルーシアスの頭を膝に載せながら、近衛兵らしき集団に囲まれていた。濃い色の制服、肩章の金刺繍に金ボタンと服飾が華美なので、ただの兵ではないのだろう。
     尤も、階級の高い者同士でなにやらもめ事が起きているようで、ルークはそっちのけだ。

    「だからおまえは軽率だというのだ」
    「精確な探知の術を使える奴は皆出払っている。こうするしかないではないか」

     魔界の近衛兵といえど、外見はほぼ人間に等しい。そして、こういう場面で揉めるのもまた、人界と同様らしかった。どうやらルークは、異物を検知する能力を持った者によって出現を知られていたらしい。話を聞く限り、それらは主に外向きに運用されているので、内側に出たルークを探し切れなかったのだろう。討伐とやらが行われている今、魔界ですら人手不足に陥っている。
     ルーシアスは四つ足を畳み、ルークの太股の上から横目で周囲を見る。

    「危うく死人を出すところだったではないか」
    「では、あの者が害意ある者や冥界の手先だったらどうするつもりだったのだ」

     言い争いをする、若い割に居丈高な恐らく下級士官、彼らとさほど見た目の変わらない、周辺封鎖の兵たちと、腰を抜かしたままのアマーリアとマーシャ。そして規格外の大きさの獣を膝に載せている只人。情報量が多すぎる。
     話を聞くに、突然出現した存在の居場所を探るため、対象とつながりのある存在を無理矢理人界から呼び出し、変貌させたらしい。獣のかたちになった人間は、人の姿の何倍も嗅覚が敏感になるだけでなく、精神的に深いつながりのある相手を探し出すことができる、のだという。
     ただ、欠点は理性が獣並みになる点で、これは致し方ない。なにかピンク色のものがルーシアスの股間から見えているが、見ないふりをした。

    「あのう、僕もう帰っていいかな。それと、彼を元に戻したいんだけど」

     喧々囂々とする近衛兵たちに話しかけるが、相手にもされない。部隊全体が随分若いが、古参が残らないほどに損耗の激しい部隊なのだろうかと首を傾げる。
     姉上なら、この状況で一喝して兵たちを黙らせるのだろうが、ルークにはそこまでのカリスマはない。黒い毛の混じった顔を上げ、ルーシアスがギャンと鋭く吠える。

    「ルーシアスもこう言ってるので」

     兵の扱いは、ルーシアスの方が慣れている。軍隊というところは、声量勝負なのだ。びくっとした兵たちが、困った顔を見合わせる。

    「責任者はどなたか」

     ルークは周囲を見回す。制服は随分古風だし、階級章のデザインも違うが、軍隊というものはおおよそ誰が偉いのか一目で分かる意匠を取り入れているものだ。言い争っていたうちの片方が、どうやらこの件に関する現場指揮官らしい。

    「僕にもルーシアスにも敵意はない。マダムの店は半壊させてしまったが、このボタンの中のダイヤを全て譲るので、それを売って修理費に充ててほしい」

     ルークの詰め襟のボタンは、中に真綿に包んだダイヤが隠されている。それは緊急時に備えて用意されたものだった。近衛兵たちが、今度はあきれたように顔を見合わせ、突然笑い出した。

    「ダイヤで現物払いなんて皇族か!只人は冗談がきついな!」

     どうやら冗談だと思われたらしい。非公式とはいえ皇族で私兵を抱えているのだが、と愛想笑いをするが、説明するのが難しい。困るルークを見て、ルーシアスが鼻に皺を寄せ始める。喉の奥から唸りを漏らし、牙を剥き始めた。

    「ルーシアス、だめ」

     落ち着かせるように頭を撫でてやる。どうやらルーシアスは、魔界に呼び出されたあと、ルークのほんとうの身分について話さなかったらしい。皇族などとは、信じられる話ではないだろう。大きな舌でべろりとルークの顔を舐め、ルーシアスは慰めるように振る舞う。

    「ルーシアス、くすぐったいよ」
    「クゥン」

     鼻を鳴らし、ルーシアスが額や口元を押しつけてくる。只人などひと咬みで殺める大きな顎だが、不思議と怖くはなかった。「巻き込んでごめんね」と、その鼻先に唇をつけてやる。ルーシアスが、ルークの柔らかな唇をぺろりと舐めた。
     そのとき、不意に異変が起きた。ルーシアスの被毛が溶け始め、体長が縮み始める。蝋人形が崩れるように、かたちが溶けていく。

    「ルーシアス?」

     驚いたルークは悲鳴を上げた。苦しそうなうめき声が、その口から漏れている。兵たちは遠巻きにするが、ルークは湯のような体温のルーシアスを必死に抱き寄せた。やがて完全に被毛は溶け、縮んだ身体がヒトの皮膚に戻った。見慣れた褐色の全裸が、ルークに頭を抱かれて横たわっていた。

    「でっか」
    「…でかいな、これ只人?」
    「けだものじゃね」

     近衛兵が口々に感想を漏らす。「何がだよ」とルーシアスが呟いて、全裸のまま起き上がった。

    「あーあ、獣の姿のままだったら膝枕され放題だったのに。キスで元に戻るとか聞いてないけど、まぁいいや」

     魔界の近衛兵と比べても長身のルーシアスが、隊長とおぼしき人物に全裸で歩み寄る。丸腰だが武器がむき身だ。アマーリアが、とっさにマーシャの目を隠した。裸の剣を持つ男に、兵たちの視線が釘付けになる。

    「で、どうするんだよ?いい加減俺達を帰すのか拘束するのか決めてくれ」

     全裸のまま、腰に手を当ててルーシアスは迫る。裸の只人に威圧され、魔界の兵がたじろぐ。後ろ姿を見、男の人のお尻って四角いんだな、とどうでもいいことを考えた。それにしても、背筋や腰回りの実用的な筋肉が美しい。
     堂々としたルーシアスを挑発ととった隊長格が、剣に手をかける。たちまち空気は一触即発になった。向こうも、ここで引いたら兵にしめしがつかない。しかも相手は本当の意味で丸腰だ。

    「え、あれ本当に只人?」
    「顔がカタギじゃない」
    「あの目つき、獣の姿が本性なのでは」

     兵が、剣に手をかけながらそうささやき合う。只人のなかでもルーシアスは少しばかり特別だ。まとう殺気が違う。

    「何だよ。素手の相手にビビってんのか?」
    「狂人を真似た丸出しの只人は即ち狂人であろう!」
    「戦うためなら狂人で結構」

     じり、と緊張感が高まる。
     見た目が皆粒ぞろいで、いかにもそれなりの家の子息らしい近衛の男たちは、無敵タイプには手を焼くらしい。
     切れるものなら切ってみろ、と言わんばかりのルーシアスは一歩も引かない。緊張が飽和すると、兵は耐えられなくなる。それが、いつ訪れるか。ルークは迂闊に身動きがとれない。
    ――そのときだった。汗ばむほど張り詰めた空気の中に、冷たい空気が流れ込んできた気がした。兵たちが、慌てて佇まいを正す。

    「何をしている」

     空間に、突然新たな人物が現れても、もう驚きはしなかった。兵たちが一斉に深く頭を下げる。黒い髪をオールバックにし、ぎょろりとつり上がった目がどことなくは虫類のような男が、側仕えとおぼしき者を連れて立っていた。少し高めの声が、鶴の一声とばかりに場を落ち着かせる。

    「メーアメーア様、貴方のような内勤の方がなぜここに。それにその姿は」
    「わたくしの姿は只人を驚かせるので、このようなかたちをとっているのです。そんなことより、あなた方を異界からの侵入者の対処に送ったのに、一向に報告が来ないではありませんか。王太子殿下が報告をお待ちです。陛下に奏上するのは殿下なのですよ」

     「申し訳ありません」と隊長格が頭を深く下げる。突然状況から取り残されたルーシアスは、全裸のまま腕を組んで立っていた。

    「ええとあなたは…ああ。アマーリア、この方にとりあえず服を。王太子殿下がもうじきいらっしゃいます。さすがに全裸で拝謁というわけにはいきません」
    「王太子殿下が!?は、はいっ、急いで」
    「このような服に」

     未だ目隠しをされたままのマーシャの手に触れ、メーアメーアと呼ばれた男が情報を渡す。その情報を読み取ったアマーリアが、服を無から紡ぎ出した。ルーシアスが、あっという間にいつもの服装になる。サーベルまで再現されているのには、ルークも驚いた。

    「布地が少なくて透けている下着以外も強制的に着せることができる部屋…!」

     そうこぼしたルークに、メーアメーアが怪訝な顔をする。「アマーリア、後で詳しく話を聞きますよ」と釘を刺され、美貌が引きつった。どうやらこのは虫類顔の男は、相当高い地位にいるらしい。

    「ここに王太子殿下が?」

     ひそっとメーアメーアに確認する隊長格に、メーアメーアが頷く。

    「ちょうど攻勢が一息ついたところですし、現場を直接見ておきたいのでしょう。ヴォルフさまには、警備とわたくしの苦労も考えてほしいものです」

     小声で答えたメーアメーアが、肩をすくめる。慌てて兵たちは整列し、王太子とやらを迎える準備がされる。ルークとルーシアスは、半壊した部屋の中央で、ひざまずいて頭を垂れ、待った。正当なる継嗣であれば、非公式の血族であるルークよりも位は上になる。
     やがて、破れたガラス窓の外から眩しい光が差し込んで、人の姿が現れた。王太子やその側近ともあれば、空間移動の術士を伴うのは普通であるらしかった。



    「久しぶり、と言うべきかな。顔を上げて。直答でいいよ、只人さん」

     気さくさの奥に、それでも統治者の風格を漂わせる。生まれながらに上位者だからこそ、口調に余裕があるのだ。ゆっくりと顔を上げ、ルークはそこに立つ若い男を見た。襟に刺繍を縫い込まれ、華美すぎないが最上質と分かる柄の剣を帯びている。少し飴色を帯びた髪や、よく手入れされた肌はひときわ輝かしい。優男風の容貌は装いに負けないくらいに整い、おとぎ話のなかの王太子そのものだ。暗めの色合いの上着には、青色の花のブローチが光っている。それは、こちらを見下ろす瞳と同じ色をしていた。
     自分には無縁の御方だ。そのはずなのに、頭の何処かで記憶が爆ぜる。強制的に忘れていたような、抜け落ちた記憶をルークは探る。だが、何かが邪魔をしてうまく繋がらなかった。

    「申し訳ありません、王太子殿下。わたくしは…」
    「ああ、思い出せなくても不敬じゃないよ。何せ暗示がよく効くほうだったよね、きみは」

     返答に窮する。ルーシアスを横目で見ると、顔に驚きの色を浮かべ、小さく「いや、あれはギーゼン伯爵だったはずでは」と呟いていた。そうだ、とルークは思い出す。あれは、薔薇の砂糖漬けを出すティールームで見かけた不思議な客で、とても美しい夫婦だった。まさか、魔界を統べる御方だったとは。ルークは改めて頭を下げ、化粧箱を手に取る。

    「王太子殿下、知らなかったとはいえ、近衛兵との諍い、そして首飾りに触れてしまったことをお許しください。どうか罰は、わたくしに。ルーシアスは、主を守ろうとしたゆえにしたことです」

     メーアメーアがルーシアスの服を知っていたのも、おそらくあの後に身辺を洗われたせいだろう。ルーシアスが異様にすんなりと魔界に引き込まれたのは、うっすらとした縁ができてしまったせいかもしれない。

    「罰を与えるつもりはないよ。おれはここで何も見なかったし、きみ達もここでのことは忘れる。近衛兵が済まなかったね。討伐での消耗で部隊が再編成されて、うまく回らなかったようだ」
    「滅相もございません…」

     今一度頭を下げ、それから一息ついて、ルークは化粧箱を差し出す。

    「こちらを、お返しいたします。どうか、首飾りを検めてくださいませ」

     王太子は微笑みを浮かべたまま、メーアメーアに首飾りを検めさせる。手袋をつけ、目を細めて首飾りをじっくりと見たメーアメーアが、王太子に報告する。

    「…確かに受け取りました。傷一つありません」
    「首飾りを、ここまで届けてくれてありがとう」

     そうはいっても、人界の宝石商の金庫室に王のものを預けた責任者は、あとで大変なお叱りを受けるだろう。それに、いくらなんでもジェムアンドミラーとかいう半分は戦争屋の宝石商に預けるのは如何なものだろうか。そう思ったが、もちろんルークは言わなかった。

    「これは妻へ贈るために用意したものでね。遊色が青い薔薇みたいで、首飾りにするなら絶対この石にしようと思ったんだ」
    「ヴォルフさま、異界からの客人にのろけてどうするのです」
    「いいじゃんちょっとくらい。…えーと、とにかく、これを無事に手元に戻してくれてありがとう。きみ達に害意はなかったし、ちょっとした事故の結果だとおれは分かっている。早急に元の世界に戻れるよう、手配するよ」

     その言葉に、ルークは重ねて頭を下げた。妻のことを話すときだけは、王太子は本当に心の底から幸せそうな笑みを見せる。そのさまに、ルークはふっと微笑ましい気分になった。いつかの日に見かけた美しい奥方が、息災そうであることに安堵する。

    「ああ、それときみ」

     王太子が、にやりとしてルーシアスのそばに膝をついた。慌てたルーシアスの横で、何かを耳打ちする。それが何か聞き取れないまま、ルークは頭を垂れていた。男たちは、すぐに会話を終わらせた。立ち上がった王太子が、側近のメーアメーアを引き連れて、その場を去ろうとする。

    「それでは、この辺で失礼する。きみたちに幸運がありますように」

     ルークは、「ありがとうございます」と答え、姿が見えなくなるまで頭を下げていた。



    「おーい、ルーシアス大丈夫?もうすぐ昼休み終わるけど」

     イリヤが肩を揺さぶってきて、ルーシアスは目を覚ました。昼食後、急に耐えられないほど眠くなり、近くにあった談話室に入って椅子に倒れ込んだ。

    「んぁ…すまんイリヤ」
    「椅子にうつ伏せになってビクビクしてるから、ぶっ倒れたかと思った」
    「うーん、なんか夢見てた気がする。顔、洗ってくるわ」

     ポケットの中にハンカチがあったよな、と確かめる。しかし、何か違和感があった。布は布だが、いつもとは違う感触がする。

    「何だっけこれ…」

     ポケットから引きずり出したものは、黒いレース生地の塊だった。不審に思い広げてみると、女性ものの、布地が少なくて透けている下着そのもので、ルーシアスは「何だよ!」と声を出す。イリヤが、「どう見ても下着じゃん?」と横から答えた。
     瞬間、誰かに言われたことが記憶の中に瞬く。

    『君、恋人の下着姿をゆっくり見たかったよね』
    『おれも気持ちは分かるからさ、お土産に持っていきなよ』

     それが誰の言葉か、いつ言われたのか、思い出せなかった。
     このままでは下着を手にした変態留学生になってしまう。

    「っと…ハンカチだから!」
    「布地が少なくて透けている下着じゃん!布地が少なくて透けている恋人の下着を携行する男じゃん」

     違うんだイリヤ、と弁明するも、信じてもらえる筈はなかった。その日からしばらく、ルーシアスはハンカチを取り出すのに慎重にならざるを得なかった。
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