春のほころび目次
三月 (パラドックスロイド設定)
四月 (魔法舎軸)
五月 (社会人ブラッドリー×料理屋店主ネロ)
三月
(パラドックスロイド設定)
「ぶえっくしゅん!」
室内に、大きなくしゃみが響き渡る。ネロはそれをちらりと見やってから、手元の端末に視線を戻した。
ここは署長室だ。署長であるブラッドリーと、右腕を務めるネロしかいない。だから無遠慮なそのくしゃみを咎める者はいなかった。
これが捜査方針を検討している会議室だったとして、気に留める者はいなかっただろうが。
ネロが昇任してから、ブラッドリーはネロを右腕と称して署長室に席を設けるようになった。実際ネロはほかの職員がやっているような巡回や通報対応、調書や報告書の作成に加えブラッドリーのスケジュールの調整や雑務まで行っているのだから表立って異を唱えられるものはいない。
フォルモーントシティポリスの中で一か月の勤務時間が一番長いのはブラッドリーだが、その次はネロだろう。
「今日、花粉やばくねえか」
「あー、本当だ。昨日より数値は高い」
ブラッドリーに問われ、ネロはインターネットに接続し公開されている数値を確認する。ここ一週間ずっと花粉の飛散量が多いとされていたが、今日はさらに特別だった。
「花粉の飛散量を知りたいなら、調べるよりあんたに体調聞く方が早いかもな」
「ふざけんじゃねえ」
眉根を寄せて吐き捨てるブラッドリーの声は鼻づまりのせいで通りが悪い。机の上の箱を引き寄せて鼻をかむ様子を見て、ネロは小さく笑った。
「何が面白い?」
「悪い悪い。天下のベイン署長も、花粉の前ではかたなしなんだよなあと思うとさ」
「人形遊びにかまけてばっかりでろくな薬も生み出せなきゃ花粉が飛ばない種の交配もできない科学者どもの敗北だろ」
そう言って、手元の白いごみを足元のごみ箱に落とす。昼もまだこれからだというのに、その箱はもういっぱいになり始めていた。
「ロボット工学も、薬学も、生物学も、みんな違う分野だろ。ひとくくりにして批判したってしょうがない」
「いや、そもそもお偉方が鉄くずの人形に依存して、それから花粉を憎む気持ちなんか持ち合わせていないのが悪い」
言っていることは政治的な不満だが、不機嫌そうな声で言われるとなんだか子供のわがままのように聞こえる。
「あんた薬合わないんだもんなあ」
だからつい、子供をなだめるような声色が出てしまった。
「薬も毒も効かねえんだろ」
目を閉じて首を振るブラッドリーはそれを気にする様子はなくネロは内心安心して会話を続ける。
「そもそも薬も毒も同じようなもんだしな」
人にとって良い効果があれば薬、悪い効果があれば毒だ。薬も大量に摂取すれば、毒も少量であれば薬になることもある。
そんな説明を聞きながら、ブラッドリーは端末に映った報告書をスワイプさせながらああ、と返した。
「酒とかな」
「そう。酒とか」
表示されているのは、飲酒による迷惑行為を働いた男の保護記録だ。昨晩、ワーキングクラスが住む町の中でも治安が悪い方の地域から酔っ払いが道に横たわっていて邪魔だと言う通報があったのだ。
「あのあたりは泥酔したやつが転がってんのなんて日常茶飯事なんだから、いちいち通報すんなよな……」
「こらこら、そう言うなよお巡りさん」
ネロはブラッドリーをなだめつつ、でも確かに面倒だったんだよな、と思い返した。カインが現場に向かった後、別の者からの通報が重なったのだ。『警察官と市民が喧嘩をしている』と。
「カインの野郎も、もう少し落ち着けばな」
「そこがあいつの魅力だろ。そういうところを可愛がってるくせに」
「せめてもう少しまともに文章が書ければ違うんだけどよ」
そう言いながら報告書をスワイプし、次のものに目を通す。ちまちました事件ばかりで、心が躍る大きなヤマはない。
「でも昨日のはよく書けてただろ」
「てめえが添削したからな」
「……」
ネロはさらっとフォローしたつもりだったが、いともたやすく見抜かれて言葉に詰まる。カインの今までの報告書から学習し、彼の文章が上達したらこうだろうな、という風に生成したつもりだったのに。
「人はそんな簡単に学習しねえんだよ。興味や意欲のないことなら余計にな」
カインは現場が好きだ。そして事務仕事が苦手だ。いつも事務職員から提出書類の訂正を受けては、あの人好きのする笑顔で誤魔化している。
「ネロだって、料理が一番学習速度早かったんだろ」
「それは、それが俺の仕事だったからだろ」
「最初はそうかもしれないが、今は好きなんだろ、料理」
「そうだけど……」
好きになったのは、ブラッドに拾われてからだ。そう言い出せずに口ごもる。記録にあるなかで一番近い感情は、恥じらいだろうか。
「あ? その顔はどんな顔だよ」
「その顔って、鏡もねえのにわかるかよ……」
ネロが料理を好きな理由は、自分の手料理を美味しそうに食べる人の顔を見るのが好きだからだ。そしてそう思うようになったのは、ほかでもないブラッドリーに初めて食事をふるまった時からだ。
自分の食事が、商談や密談の小道具としてではなく、ただ腹と心を満たすために使われ、満たされた笑みで「美味い」と言われる。それがネロにとってどれだけ心躍ることだったか。
正確には、心が躍ったのではなく、胸が光ったのだが。
「俺が教えてやろうか?」
「何を?」
「お前の顔。たぶんそれは、俺のこと好きって顔だぜ」
はっと顔をあげると、ブラッドリーが署長席を離れネロの席まで近寄っていた。堂々と机に腰を掛け、ブラッドリーの椅子の半分にも満たない値段の椅子に収まるネロを上から覗き込む。
「今頃制服の下で胸がピカピカしてんのか?」
「してねえよ!」
ハイネックの襟元を指でひっかけられてその手をはらう。見られて、本当に光っていたら恥ずかしいからだ。
「最近、表情がわかりやすくなったな」
「そんなこと言うのあんただけだって」
「そうか?」
くすぐるように頬をなぞられ、至近距離で赤い瞳と視線がかち合う。あ、この目は、いたずらしようとしているときの顔だ。今までのパターンからそう判断が付いたときにはもう遅い。
至近距離がゼロ距離に変わって、唇が触れあっていた。
「~~っ! てめえ、馬鹿! こんなところで!」
慌てて押しのけると、ブラッドリーはけらけらと笑いながら机から降りた。さっきまでの不機嫌が嘘のようだ。
「反応が押せえよ、処理落ちしてんじゃねえの?」
「うるせえ! キスごときで処理落ちすっかよ」
強がって見せたが、今度こそ胸の紋章が光っているだろうと見なくともわかった。そもそも反応が遅かったのは口づけの前で、処理落ちしていたとすれば原因はキスではない。
「そうかよ。……ぶえっくしょい!」
「俺で遊ぶのもいいけど、さっさと仕事を終わらせてくれよ。処理速度落ちてるぞ。終わらなそうなら本来見なくていい些末な報告書にまで目を通すのはやめてくれ」
「へいへい。終わらせるよ。はあ、花粉飛んでると、頭ぼーっとすんだよな」
それだけ判断能力が落ちているなら、どうか俺がキスをする前から処理落ちしかけていたことに気付かないでいてくれと祈りながら最低限のタスクリストをブラッドリーに送る。
近づいた瞳の色に目を奪われてしまい、たったそれだけのことが反応速度を遅らせたのだと気付かれるのは、負けたようで恥ずかしいから。
四月
(魔法舎軸)
市場を歩いているとカラフルな楕円が視界に入ってお、と思った。思わず立ち止まってしまい、すかさず店主に声をかけられる。
「どうもお客さん、サーティーエッグスが気になりますか?」
「ああ、もうそんな季節かと思って」
淡い色合いがカラフルなこの卵は、必ず三十個同時に生まれるという。この時期にだけ出回り、二十一人以上の食事を一度にまかなわなければならない魔法舎では大活躍だった。
「お客さん召し上がったことがおありで? この量をお使いになると言うことは料理屋さんか何かですかね」
「ああいや、今は違うよ。けど色んなやつと共同生活してて大所帯でさ、その中で料理番まかされてるんだ」
「なるほど。それでですね」
バラバラに売っても良さそうだが、なぜかこの卵はいつも三十個ひとまとまりで売られる。三十個でひとつという認識なのだろう。
「前に南の国から取ってきたこともあってさ」
「流石に南に比べると値は張りますが、今年はたくさん取れたそうで、この中央でも例年よりも安くお出ししてますよ」
「そうだよな」
かごの中に一緒に差し込まれている値札に書かれた数字は、確かにお買い得と言って差し支えのないものだ。できることなら売り切れてしまう前に買いたかったが。
「今日はもうなあ」
片腕にはもっちり銀河麦の入った紙袋が抱えられ、反対の腕には野菜がたくさん入った布袋をぶら下げている。
ここからさらに卵三十個は、いくら丁寧に梱包してもらったとしても難しいものがある。人前で魔法は使えないので。
「お住まいがお近くであれば、お戻りになるまでならお取り置きしておきますよ。すみません、一人でやってるもんでお届けができなくて」
「ああ気にしないでくれ、どうすっかな」
こんなことならば、手伝いを申し出てくれたお子ちゃまたちを断らなければよかった。でも、暖かくなってきたから外で遊ぶって言ってたし。思考が回り始める。俺の良くない癖だ。一度こうなるとなかなか物事を決められない。
困ったなあ、と思った時、幸運が降ってきた。文字通り、空から。
「きゃあっ! あなたどこから!」
「うっせえな、くそ」
遠くでざわめきが聞こえる。振り返ってその源を確認する。人の隙間から、白と黒のツートーンが覗いて見えた。
「ブラッド!」
「あ?」
こちらに気が付くように声を張る。きょろきょろした様子の後に、こちらを見つけたブラッドと目が合った。
「ネロじゃねえか。 じゃあここは中央か?」
「そうだよ、いつもの市場。ちょうどいいところに来たな」
人波をかき分けてやってきたブラッドは、くしゃみで飛ばされてきたのだろう。そばまでやってくると、ほこりをはたくような動作で身なりを整える。
「お知り合いですか?」
「まあな、さっき言った一緒に住んでるやつだよ」
「あれ、そういえば、お二人ともどこかで見たことが……」
「そうか? 気のせいだろ」
何かが引っ掛かったのであろう店主が思案し始める。まずいと思って適当にごまかした。そういえば俺はまだしもブラッドの容姿はかなり目立つものだ。
一度パレードか何かで見たのが記憶の片隅に残っていたのだろう。これは早めに退散するに限る。
「じゃあ、サーティーエッグスひとかごくれよ」
「ありがとうございます。じゃ、お代はこちらに……」
「はいよ」
「あ? なんだよ卵かよ肉買え肉」
「いいぜ」
手元を覗き込んだブラッドがつまらなそうに言うから笑って返してやる。目を瞬かせたブラッドを見てさらに笑ってしまう。普段買い出しの時には夕飯のメニューが決まっていることが多く、ついてきてもリクエストを聞いてやることは少ないから意外なのだろう。
「ほらこれ持てよ。両手埋まってて困ってたんだよ」
そう言ってもっちり銀河麦の袋を渡すと、されるがままに受け取ってからわずかに時間をおいて、なるほどな、と小さくため息をついた。
「てめえ、機嫌が良いと思ったら荷物持ち探してただけかよ……」
途端に唇を尖らせる。別に不機嫌になったわけではない。ただそういうポーズをしているだけだとわかる表情で、だから宥めてやることにした。
「拗ねるなって、あんたが来てよかったって思ってるんだぜ」
「だから荷物持ちが欲しかっただけだろ」
「ブラッドならなんでも気兼ねなく頼めるからさ」
「お待たせしました」
金を払ってから少し奥に引っ込んでいた店主が戻ってくる。ひも付きの箱に、緩衝材と共にサーティーエッグスが入っている。山盛りでカラフルなそれを見て思わず頬が緩む。
「……てめえはよ」
「どうした?」
いつの間にか機嫌が直っていたらしいブラッドは、仕方ないとでもいうように肩をすくめてから、それを寄越せと手を伸ばしてくる。
「割るなよ」
「誰に言ってんだ」
これで俺は片手が開くから、言った通り肉も買ってやれる。
「また来てくださいね」
「ありがとな」
店の前を離れて、精肉店が並ぶ場所へ向かう。半歩後ろからついてくるブラッドを顔だけで振り返った。
「肉、何がいい?」
「鶏」
「だよな」
魔法舎に来てからこの市場のいろんな店で肉を買ったが、宇宙鶏なら角から三軒手前の店が美味い。恰幅のいい女性が売り子をしていて、たまに香辛料をおまけしてくれるのもよかった。
「お前を喜ばせるのは難しいよな」
「なんだよいきなり」
聞かせるつもりで口にしたのか怪しい言葉だったが、耳に届いてしまったので半分振り返る。別に拗ねている様子でもなく、どちらかというと感心している様子でさえあった。
「簡単だろ? 今もこうして喜んでる」
「ネロがそれでいいならいいんだけどよ。ほら前向け」
ブラッドはたまに不思議なことを言う。そもそも、俺がブラッドの考えていることがわかった試しはないのだが。
それでもそのままついてきてくれる様子ではあったから、晩酌にフライドチキンを用意してやってもいいかもな、と思った。
五月 現パロ
(新社会人ブラッドリー×料理屋店主ネロ)
※ブラッドリーが年下です
ドアをくぐるときのベルの音が好きだ。からん、ころん、と控えめで綺麗なこの音が、この店にもこいつにも合うと思ったから。
「いらっしゃい、新卒くん」
「なんだよその呼び名は……」
「あんまりここ、あんたみたいなフレッシュなやつ来ないからさあ」
新鮮でいいんだよな、と店主がシトリンを細めて言う。
この店は、俺が気に行ってよく来ていた店だった。イタリアンのような、バーのような、酒が飲めて、美味い料理も食える店。バーなんて立派なもんじゃねえよと困ったように笑っていたが、ここの酒の品ぞろえは確かなものだ。
「久し振りだな」
「そうだな。あっという間にひと月過ぎちまって」
案内されるまでもなくカウンターの端に腰かけ、あたたかいおしぼりで手をぬぐう。疲れがほどけるようだった。
「流石のブラッドも、新しい環境は大変なんだなって思ってたよ」
「大変っつうか、物理的に時間がねえ」
「そういうのを大変って言うんだよ。飯はいつものでいいだろ。酒はどうする?」
笑ったネロが、カウンターと向かうように位置する狭い調理台の端にある冷蔵庫から保存容器を取り出しながら尋ねてくる。
「酒もいつもの」
「平気か? あんた疲れてるんだろ」
「疲れてねえ」
「はいはい」
子供を甘やかすように笑うからもう一言二言言い返したかったが、それこそガキ臭いと思って黙る。しかし結局口を開きかけていたことに気付かれたようで、こっそり笑われてしまった。
「はい、先に酒な」
しかも出されたのは、いつものウイスキーのロックではなく、銘柄さえも違う水割りで。
「おい」
「これは俺からのサービスってことで。二杯目に好きなの頼みな。久し振りに見たからかもしれねえけど、あんた自分が思ったより疲れた顔してるぜ?」
あまり素直な喋り方をする男ではなかったはずなのに、そんな風に言われてしまってはどうしようもなかった。
「ほらこれも、胃にはなんか入れときな」
「げ、野菜」
「こんなの野菜のうちに入らないだろ」
出されたのはポテトサラダのようなものだった。俺が知っているものとは少し具材が違うように見えるから、ネロのアレンジが効いているのだろう。
「俺もビールとかハイボールとか言われたらそのまま出すつもりだったけどさ、若くても体には気を遣えよ」
「わかったって……。いただきます」
「はいどうぞ」
しぶしぶ、薄いグラスに口をつける。氷で冷やされたグラスは口当たりから冷たく、すっと液体が入ってくる。いつもより滑らかな舌触りで馴染んでいき、鼻の奥にも優しく香りが広がった。
「美味い」
「だろ? 水割りならいつものよりそれのが美味いんだよ。ポテサラも、鴨のスモークとか混ぜてあるからあんたでも美味しく食えると思うよ」
「……うめえな」
「だろ?」
ネロが自慢げに、誇らしげに笑う。ようやく満足そうにして、料理を作るために背中を向けた。
「今更だけど、明日平日だよな? まだ早いとはいえ、平気か?」
「ああ、休日出勤してたから代休だ。ついでに早く帰れとさ」
早く帰ったところで仕事が勝手に片付くわけでもないのに、あまり残ると労務課にどやされるとくれば仕方がない。帰るよう上司から言い渡されたときに真っ先に思いついたのがここだった。
初めて見つけたのは、大学の飲み会の帰りだった。大学から一番近い繁華街から、駅をいくつかまたいだ先。いつもより早く解散してしまい飲みが足りず、そういえばこの辺に飲み屋があるらしいと思って降りた先だった。
あまり騒がしくないところで飲みたいとは思ったものの飲み屋で有名な駅の周りでは難しく、どうしたものかと一本裏道に入ったところにあった、小さな間口の店。
騒ぐような声が聞こえず入ってみると、実際中は小さく、しかし金曜日ということもあって中はほぼ満席で、客層もあきらかに当時の俺の年より一回りは上だった。
それでもネロは空いていた端の席に俺を案内した日から、今に至る。
酒の選び方が良く、何より本当に料理が美味かった。そして細かいところに気が利くネロのそばは居心地がよく、次第に大学の飲み会を早めに切り上げ、一人でここに立ち寄ることが増えた。
大学卒業の直前まで毎週のように来ていたというのに、ここ一か月は、一度も足を運べていなかった。会社の位置も悪い。もっとネロの店の近くにあればよかったものを。
「仕事、忙しいんだな」
「まあな。社会経験しろっつーから親父のとこの子会社受けて入ったのに、それとは別で親会社の方の仕事にも遠慮なく連れまわされる。もちろん勉強になるのはいいが……」
「流石に疲れるよな」
心配するみたいな目線が一瞬こちらに流される。すぐフライパンに目線は戻されたが、その目線を受けて、いや、違うと実感する。
入社先には身元を明かしていないからもちろん新卒として扱われ、それは実力を知りたい、実力をつけたいと思っていた俺には願ってもない環境だった。親会社の仕事に連れまわされるのも構わない。俺が望んでいた環境であることに違いはないし、時間がないこと、疲労がたまること自体は気にするようなことではなかった。
「俺が嫌なのは、ネロに会えねえことだよ」
「えっ? うわっ、あち、」
勢いよくネロが振り向き、菜箸を持っていた手がフライパンに触れたらしい。反射で手を跳ね上げて、手に持っていたものを取り落とす。
「おいおい大丈夫かよ」
「悪い、大丈夫大丈夫。本当に。別に、いつもならこれぐらいなんてことねえんだけど……」
落とした菜箸を流しに入れて、代わりにフライ返しを手にする。
「も、もうすぐできるから。フライパンひっくり返さなくてよかった」
平日の少し早い時間のおかげで、客が誰もいなくてよかった。
ネロはまたキッチンと向かい合ってしまい顔が見えないが、結んだ髪のおかげで赤い耳はよく見えた。炎を扱う熱気から色づいたわけではないだろう。これを独り占めできて、よかった。
「ほら、お待たせ」
チキンソテー。ネロが独自で調合を考えたというタレに一晩漬けこんだ俺が二番目に美味いと思う鶏肉だ。
それを差し出すネロを伺い見る。顔色や表情はすっかりいつも通りだが、目線はかち合わない。
「ありがとな」
カトラリー入れからフォークを取り出し、すでに切ってあるチキンの一切れを食べる。香ばしくカリカリの皮。、じゅわりと肉汁が広がっていくモモ。
余韻が消える前に水割りを飲む。
「美味い?」
「美味い美味い」
もう一口食べる。一口目と同じように水割りのグラスを口にして、いつもより味の主張が強くないことに気が付いた。水割りに合わせて味付けを変えたのだろう。
思わず頬が緩む。こういう、ネロ自身が言わないことに気付けたときの満足感は、何とも言えなかった。
「なあネロ、俺がフライドチキン食ったときのこと覚えてるか?」
「っ、え、あー、忘れた。ほらあの時、酔ってたし……」
「覚えてるな」
言葉より、声色や、目の動きや、ちょっとした所作のほうがよほど雄弁だ。俺にとって一番の料理はネロのフライドチキンなのだから、忘れられては困る。
「あの時ネロ、お子ちゃまだから無理、って言ったよな?」
大学を卒業し、四月を迎える前に店を訪れた際、ここはキッチンが狭いから作れないけど、あんたにいつか俺のフライドチキン食って欲しい、と言われた。学生からはもらわないと断られ続けていた酒を、ネロにごちそうした日だった。
家でなら作れると言われた。俺は、ネロはこの建物の二階を住居にしていることを今までの会話から知っていた。今日と同じように平日で、けれど今日とは違い閉店間際の時間で、店には俺以外いなかった。
何より俺は、どうにかしてネロを落としたくて仕方がなかった。
ほかの客よりひいきにされているのはわかっていたが、ほかの客にも同じように感じさせる振る舞いをするのもわかっていた。それでも俺を特別だと言わせたくて、しかし踏み込もうとすると客と店主の線を薄く引かれてしまうから、虎視眈々と時をはかっていたのだ。
どう考えてもこの時しかない、言いくるめて、料理を作らせ、俺の中の一番美味い料理が塗り替えられ、ネロもさらに酒が回って程よく酔い、気持ちよさそうになっているところを押し倒した。
どこから来る想像、いや妄想かはわからないが、体でまるめこむことができるような気がした。
しかし実際の結果としては、途端にネロが酔いを醒まし俺を押しのけ、年齢を盾にするという卑怯なことをしてのけたのだ。
「てめえはいつになったら俺がお子ちゃまとやらじゃなくなるのか言わなかったが、社会人になった俺はどうだ?」
「ま、まだ試用期間のひよっこだろ?」
カウンター越しに体を乗り出して聞くとネロは一歩下がる。狭いキッチンだ。大して下がることもできない。
「じゃあ試用期間が終われば? 一年目が終わったら? 後輩ができたら? 昇進したら? なあ、ネロ」
呼んでも顔は上がらない。口が閉じたり開いたりしていて、返す言葉を探しているのだろう。だから見つける前に追い打ちをかける。
「いつまで待ったっていいんだぜ。腹くくるまで待ってやる」
どうする? と尋ねると、ようやくゆっくりと顔が上がった。
「ブラッド……」
震える声は、揺れる瞳は、逃げ場を失った猫のようで。それだけでもう、どうしようもなく愛しかった。