夏のざわめき目次
六月(現パロ)
七月(シー・ローバー・スクアーマ設定)
八月(魔法舎軸)
六月
(現パロ)※大学生設定
「あ、これうめえ」
「当たり前だろ」
月曜日。大学の学食。まだ混み始める前の、二限の時間帯。一限から授業を受けていて二限が空きコマの俺は、いつもこの時間に昼食を食べていた。端っこのカウンター席に場所を取り、手作りの弁当を広げて。
「つーかあんた三限からだろ。なんでこんな時間に大学来てるんだよ」
今日はそのいつものルーティーンの中に、たまに現れるイレギュラーがあった。小学校から、なんだかんだと学部が違うとはいえ大学まで同じになってしまった腐れ縁の幼馴染が、ちょうど俺が弁当を広げたあたりでするりと隣に腰を掛けて、俺の弁当の中から鶏のてりやきを抜き取って食べている。
「目が覚めちまってよ。そういや月曜はてめえがいるなって」
「俺が大学にいたっててめえの分の飯はねえんだよ」
もう一つつまもうとする魔の手から、弁当箱を遠くへ離す。ブラッドはちぇ、と小さな舌打ちをしてから、指先についたタレを舐めていた。
「事前に言ってくれたら用意してくるのに」
こいつの分の弁当が無いからといって、隣で学食を食われるのも腹が立つ。なんでってそりゃ、俺の飯の方が絶対に美味いから。
「あ? 奪うのがいいんだろ」
「そうかよ……」
楽しそうに口角をあげる顔を見て、思案する。このまま弁当を奪わせて、俺は学食にするか、はたまた購買で何かを買ってくるか。それとも弁当は自分で食って、盗人の昼食など知ったこっちゃないと目を瞑るか。
悩んでいたのは、きっと十秒にも満たない時間だった。小さくため息をついて肩の力を抜き、投げやりな気持ちで弁当箱を押し付ける。
「お?」
「食ってろ」
「やりい」
代わりにブラッドのケツポケットから財布を掏る。こいつが気付いていないわけもないから、黙認されている。正直、これが初めてのことではないし。
コンビニに赴いても食指が動くものがないのはよく知っているから、食堂内の購買に立ち寄る。ちょうど並んだばかりの弁当がこちらを向いていた。コンビニよりも『手作りらしさ』があり、その方が好ましかった。
勝手知ったる人の財布から一枚クレジットカードを抜き取って会計を済ませる。タッチ式は楽でいいよな。
席に戻ると、ブラッドはもうほとんど弁当を食べ終えていた。残っているのはインゲンの胡麻和えだけ。
「人のもの盗るならちゃんと全部食えよ」
「野菜はいらねえ」
このやり取りも初めてではない。普段の食事からこうだからもう言っても無駄なのはわかっているのに、飽きもせず咎めてしまう。買ってきた弁当を開けるとすかさずハンバーグを大きな一口分に切り取っていくから、俺は可哀想に残されたインゲンの胡麻和えを食べるのだった。
「そうだ、一昨日の集まりなんだけどよ」
ブラッドは自分の食事を終えて、俺がハンバーグの下に引かれた味の薄いスパゲッティをつついているのを見下ろしながら口を開く。
「なんか変わったことあったか?」
ブラッドは、高校を卒業した今でも当時つるんでいたやつらと集まっているようだった。俺は三年の後半にはもう出入りを控えていたからその集まりにも顔を出していなかったが、ブラッドはその様子をことあるごとに聞かせてきた。
「ゴーマンと久し振りに顔合わせて」
「ああ、来るって言ってたな」
俺たちの集まりの中には高校を卒業してそのまま就職したやつもいて、そのうちの一人がゴーマンだった。土日もシフト制で勤務していてなかなか日程が合わないあいつが、久し振りに来るのだと聞いていた。
社会人になったやつらは、やっぱり少し俺たちとは雰囲気が違う。ゴーマンはどうなったのか気になってはいた。しかしブラッドの口から飛び出したのは、想像をはるかに超えるものだった。
「あいつ、結婚するって」
「……は?」
「式挙げるかどうかは別にして、今月中に籍入れるらしいぜ。ジューンブライドが彼女の夢だったんだっつってたな」
「籍入れるって、あの、役所に届け出すやつ?」
「おう。高校んときから女いただろ。そいつとだってよ」
「マジで言ってる?」
「マジで。信じられねえよな。俺たちの中から所帯持つやつが出るなんて」
開いた口が塞がらなかった。結婚。ぴんとこないどころの話じゃない。ずっと遠くの世界の話だと思っていた。でも、ゴーマンのごつごつした手にシンプルな指輪がはめられているのは、違和感なく理解できる。
「祝い贈ってやろうって話してんだけど、ネロどうする?」
「え、俺もいいの?」
「いいだろ。ゴーマンもだけど、あいつら喜ぶぜ」
「じゃあ、俺も混ぜて」
「ん。グループ入れるわ」
スマートフォンを開くと、メッセージアプリからグループ招待の通知が来ていてそれを開く。『結婚祝い』というシンプルな名前のグループに参加すると、すぐに『え、ネロさん!』と後輩からラインが飛んできてつい笑ってしまった。
「な? 喜んでるだろ」
「ん」
なぜか自慢げな表情を見せたブラッドを否定する気にはならなくて、小さく頷く。そのまま会話は途切れて、ブラッドがスマートフォンをいじる隣で食事を終えた。
空になったプラスチックの弁当箱の蓋を閉めて、ブラッドが食べ終えて蓋をした弁当箱を、広げられたままのバンダナにくるんで、リュックにしまう。
「ごっそさん。うまかったぜ」
「お粗末様」
手元の画面に集中していた目線がこちらを向いて、ばっちり目が合う。
そのわずかに緩んだ視線を浴びただけで、連絡もなしに弁当を横取りするのを許してしまうような気持ちになるから、それがいたたまれなくていつも目を逸らしてしまう。
ゴミを捨てて戻ると、ブラッドはパソコンを開いていた。プレゼンの準備をしているらしい画面に視線を落としながら、指はキーボードの上を動き回っている。忙しない手元をついじっと見てしまう。装飾だらけのその手元にも、いつかシンプルな銀色がはめられるのだろうか、なんて考えてしまっていたから。
「どうかしたか?」
隣に腰を落ち着かせず様子を見ていたことを不審に思ったのだろう。こちらを振り返ったブラッドには何でもないと首を振って、改めて椅子に座りなおした。明日の英語の課題を開く。荷物が増えるのは嫌だけど、今日はバイトで、家に帰ったら絶対にやらないから。
シャーペンを取り出して、くるりと回してペン先をテキストに落とす。長い文章を文字列としてしか受け入れられず、内容がうまく頭に入ってこない。
「……なに」
意趣返しだろうか、空いた方の手に、その隣にいたブラッドの指先が這わされる。
「てめえは指輪つけねえよな」
心臓が跳ねた。
「しねえよ。料理するのに邪魔だし」
動揺を気取られないように、その手を振り払う。しかしそれは失敗に終わって、手を握り取られた。俺の薬指を根元から撫で上げる親指に鳥肌が立つ。
「マジで何?」
できるだけ険しい声色になるように心がける。上ずっていないかどうかは、俺にはわからない。
ブラッドは何も言わず、顔色から俺の思考を読み取るようにこちらを覗き込んでくる。顔を背けようとしたところで、その動作こそが感情を表してしまうから、ぐっとこらえて眉間にしわを作った。
「なんでもないって首振ったところで、手元見てたのはバレバレだぜ」
「……、っ!」
つい一、二分前の話をしているのだとわかって顔に血が上る。
「いつか揃いのつけような。ネロにはチェーンも用意してやるから」
そうしたら首から下げられるだろ? とブラッドは笑う。違うとか、そんなんじゃないとか、そういうことを言い返してやりたいのに全然言葉が音にならなくて口を開閉させる。
「な?」
「……ん」
結局俺は、動揺をあらわにした俺に対して嬉しそうな顔を向けるブラッドに、小さく頷きながら手を握り返すことにした。
七月
(シー・ローバー・スクアーマ設定)
日差しの強い日だった。雲一つない快晴で、視界の果てでは海の青と空の青が混じりあっている。
「青にも、色んな青があるんすね」
「あ?」
独り言に等しいぽつりとこぼされた言葉を、しかしブラッドリーは聞き逃さなかった。
隣にいたネロの肩に肘を乗せ、輝く日の光と同じ色の瞳が見つめる先が水平線であることを認めてからネロの横顔にこっそり視線を送る。ぼやっとして見える表情は、わずかに感動の色を乗せている。
「そりゃあるだろうよ。絵描きが持っている絵の具の数より、この世の色の数の方が多いぜ」
ネロから遠い側の手で水色の髪をすくう。ちょうど今日のような、よく晴れた日の海面のような明るい色だ。けれどそれよりまぶしさは控えめな、ネロだけの色。
「くすぐったいっすよ」
はにかんだネロがこちらを向く。至近距離で目が合って、ほんのひとさじ混じった海の深いところの色がにじむ。ブラッドリーは頬に手を這わせて、わずかに顔を持ち上げさせた。
ぱちぱちと瞬いた目が、そっと閉じる。ネロの表情は、ブラッドリーを無防備に待っていた。
つい一か月ほど前、久しぶりに好みの美味い酒が手に入って機嫌よく酔いが回った日、うっかり肩を抱き寄せて口づけたその日から、ネロはふとブラッドリーとの距離が近付いたとき目を閉じるようになってしまった。
別に、からかったわけでもなければ戯れたわけでもない。ただ体のうちから湧き上がる高揚感がそうさせただけで、ブラッドリーとしては色欲よりも親愛の気持ちが近かった。いや、親愛があるからと言って他の野郎どもには間違っても口づけはしないのだが。
だからこそ団員に『ちゃんと責任取ってやってくださいよ』とはやし立てられ、その時はわかったよと笑って頷いたのだった。まさか、ここまでうぶな反応を見せられるとは思っていなかったのだ。
「……しないんすか?」
間が開いたことに気付いたネロが、瞼を持ち上げる。純粋に不思議そうにこてりと首を傾げるものだから、ブラッドリーはため息をこらえざるを得ない。首を傾げた先はブラッドリーの手のひらで、まるで懐くように擦り寄ってくるから。
「……あ?」
そこでブラッドリーは、手のひらに重なるその体温の高さに違和感を覚える。
「キャプテンの手、きもちい」
そう言うネロの頬は確かにいつもより熱かった。恥じらいを覚えたのだろうか、と考えた隙にネロはふらりと体を起こして視線を空に持ち上げる。
「暑い日の晴れってすごいっすね、なんだか空もいつもよりまぶしくて、なんだかチカチカする……」
まぶしそうに眼を細めて、ほう、とため息をつくその重たげな様子に、ブラッドリーは確信した。
「ネロてめえ」
「なんすか? キャプテン」
「そりゃ熱中症だ」
「ね……?」
聞き覚えのない言葉だったらしい。が、今はそれを説明している場合ではない。ブラッドリーが体を離すと、所在なさげにネロの体が揺れる。
「頭の調子は?」
「あたま? そういやガンガンするかも……」
「かもじゃねえだろ」
自分の体調もわからないようでは、年端も行かない子供よりもタチが悪い。歩くことは出来そうだったので手を引いて船内に向かうと、何も言わずについてくる。
「俺の部屋に水もってこい」
なんだどうしたと視線を送ってくる団員に命じて、どうせ大した距離ではないと、ブラッドリーは自身の部屋まで引っ張った。
「ここ座れ」
ハンモックに腰かけさせると、水を持った団員が後ろから声をかけて来る。どうやら流石にネロの様子に気付いたようだったが、水だけ受け取って下がらせた。
「これ飲め」
グラスに注いだ水を飲ませ、減った分を継ぎ足して、手に持たせておく。島に寄ったばかりだったのが幸いして、ネロは新鮮な水に口をつけることができた。継ぎ足した分のさらに半分ほど減ったころ、ブラッドリーは開いた足に肘をついて口を開く。
「暑い日に暑いとこにずっといると、頭が痛くなったり喉が渇きすぎたり、体温調節が馬鹿になったりするんだよ」
と、ネロの体調不良について説明する。
「喉が渇いたって頃にどうにかしようとしても遅えから、ちゃんと自分で管理しろよ」
団員に揶揄われてはいるが、ブラッドリーは何も幼児の親のようにネロについて回っているわけではない。どちらかと言うとネロが鳥の子の様にブラッドリーの周りをちょろちょろしているというのがブラッドリーの主観だが、それにしたって必ずそばにいるわけではなかった。
街に降りるとふらりとどこかに消えてしまうこともあるし、最低限の体調管理ぐらいは自らしてもらわねば立ち行かない。
しかしネロは、そんなブラッドリーの説明にも不思議そうに首を傾げている。なんだよ、と尋ねてやると疑問を零した。
「空がまぶしかったのは?」
「そりゃめまいだ。頭に血が足りなくなってんだよ」
「ふうん、そうなんすね……」
色素は薄くはかなげな見た目だが、これで案外体は丈夫だ。以前いた箱の中ではここよりよほど環境もよかったことだろうし、こういった体調不良をおこしたことも記憶になかったのだろう。
「じゃあ、俺、ずっとねっちゅうしょうなのかもしれないっす」
「はあ?」
ここまで自分の体に鈍感な理由を考えていると、とんでもないことを口にする。ネロの言った意味を反芻して、ブラッドリーは眉間にしわを浮かべた。
「最近めまいがするってことか? そりゃもっと早く言え。立っていられないようなことはあるか? 目の前が真っ暗になるとか、いやまぶしいなら真っ白か、」
「あ、いや、キャプテン、待ってくれ!」
まくし立てて尋ねるブラッドリーを慌ててネロは止める。普段はすっと喋れと言うブラッドリーも、今はネロが病人だからか、ネロの言う通りに続く言葉を待つ。
「空がっていうか、なんか、俺、キャプテン見るとまぶしくって……」
「……そりゃ、どういう意味だ」
一度飲み込んで解釈してみようとしたブラッドリーだが、理解できずに聞き返す。たまにネロはひどく曖昧で抽象的なことを言うことがある。知識量や語彙力、言語化能力に未熟な部分があるからだが、その度にブラッドリーは脳の中のいつもと違う部分を働かされていた。
「だから、えっと」
ネロも、言葉を探りながら続ける。
「前まではなんともなかったんすけど、最近、なんか、キャプテン見てると今日みたいに目の前がチカチカするようなことがあって。そうだ、それから、体が熱くなって、心臓が焦げたみたいな感じがすることもあって、それって、さっきキャプテンが言ってたやつだろ?」
ネロの目はまっすぐにブラッドリーを見つめてきて、それから自信なさげに逸らされる。間違っているのかもしれない、と思ったのだろう。ネロの耳にため息が届けば、なおさら居心地が悪そうにする。
「いつからだ」
「え?」
「その、……まぶしいやつはいつからだ」
言い換えが見当たらず、ネロが選んだ単語をそのまま使って尋ねる。ネロはあっと声をあげてそれにこたえる。
「先月くらいから? そうだ、あの、きす、したときぐらいからだ」
ネロはやたら満足気に一人納得している。ブラッドリーの質問にハッキリ答えられて喜ばしいのだろう。一方で、ブラッドリーは頭を抱えるのをこらえていた。
『口と口をくっつけるやつ』を『キス』だと教えたのはブラッドリーだ。しかしネロがその単語を使う機会は、今が初めてだった。
「なあ、これ、ねっちゅうしょうじゃないのか?」
「違う」
「じゃあなんなんだよ」
どんな病気だ、とネロが不安そうにする。頭の中にわらわらと団員が集まってくる。
――あ! 女も知らねえネロにそんなことして!
――ほら見ろ、ネロが目え回してますよ!
――キャプテン、ちゃんと責任取ってやってくださいよ!
一か月ほど前の宴のことだ。自分はなんと答えたのだったかと思い返す。はやし立てられ、それでも気分が良かった。ネロが腕の中でおとなしく肩を抱かれていると、自分の手の内に宝石があるような気になった。
『わかったよ! 最後まで責任取ってやる!』
自分の笑い声が頭の中で響く。
「キャプテン……?」
ブラッドリーは、頭を抱える代わりにネロを見つめていた。とはいえネロのことは視界に入っているのみで思考は過去に飛躍していたのだが、ネロからすれば見つめられていることに代わりはない。
キャプテンに見つめられた今のネロがすることと言えばひとつだ。
「あ、さっきしなかったから、しますか?」
そう言って瞳が閉じられる。ギシ、と鳴ったのはネロが座るハンモックではなく、ブラッドリーが腰かけていた椅子だ。
ブラッドリーはキスをするときには目を閉じるものだとは教えていない。だからこれは、どこかの馬鹿に愛情表現を含む揶揄いとして仕込まれたのだろう。そいつは見つけ次第ぶっ飛ばす。
そう決めつつも、ブラッドリーは立ち上がる。さて、なんと教えてやったものか。そう脳内で唱えながらも、思考はとっくに放棄していた。だから最初の責任として、求められた口づけを返すことにした。
八月
(魔法舎軸)
※1.5部前ぐらいです
雨が降っている。軒下に立っていても、ばらばらと雨音がぶつかってはじける音が耳を占める。雨は避けられているはずなのに、細かい水の粒が体に入り込んでくるようで気持ち悪い。
「はは、不機嫌そう」
対してネロは、至って機嫌が良さそうだった。湿気でいつもよりぺたりとボリュームを失った髪をなでつけながら、俺を見て笑っている。
ネロがハーブの手入れをしている畑の、すぐそばのカフェの軒先だった。任務や奉仕もなければ喧嘩をふっかけたいやつらはことごとく魔法舎を離れていて、暇を持て余した先でネロと相対したから、お前の行先に連れていけと言ってここまで来た。だからここに来たのは俺の意思だったのだが、こんな風に雨が降るとは思っていなかった。
だって、来たときは雨が降っていないどころか雲の隙間に晴れ間さえ見えて、俺はやっぱりついているな、と思ったほどだったのだ。だというのに、これではむしろいつもより雨が強い。
最初から雨を降っていれば、傘を手にしておいたのに。と思う。そんな考えもしょせん後の祭りだ。ため息をつくと、ネロはそれを相槌と認識して話を続けた。
「あんたはこういう天気苦手そうだもんな」
「いつだか来た時の霧みたいに細かい雨よりはましだけどな」
ああ、とまたネロが笑う。あれは本当に酷かった。雨が体を打ち付けるような感覚はほとんどないのに、気付いたら体がぐっしょり濡れている。おかげで風邪まで引きかけて最悪だった。
「でもさ、そういう天気のほうが、精霊は機嫌よさそうなんだよ」
声を潜めたのは、周りを配慮してのことだろう。この国では魔法使いというだけで、北の国とはまた違う奇異の目を向けられる。軒下に他に人はおらず、前を通ったところで雨音に紛れて会話など聞こえないだろうが、体に染みついたものがこいつをこうさせている。
「俺はここの精霊とは気が合わねえな」
膨らんだ髪をかき回す。げんなりとした気持ちだった。
「そりゃあそうだろうよ、あんたはな。つーか、ぼわぼわ」
俺の手を追いかけるようにネロの手が髪に潜り込む。口許をわずかに緩ませてなでつけてくる。笑うなよ、と思った。
「湿気払うような魔法が体あっためるみたいに使えたらいいんだけどな」
「この辺の水分全部蒸発させちまった方が早い」
「そりゃそーだ。っと、さて、そろそろ行くか」
「は?」
小さく手を打ったネロが空を見上げる。まだ降り続いている空を。
「魔法使って傘出して良いなんて言わないよな」
「駄目。でも、湿気でうだうだ言ってるより濡れちまった方が気持ち良いと思うぜ。今日は暑いし」
「暑いからうぜーんだろ」
「それもそうだけど」
ちら、とネロが後ろに目線を投げかける。中の店員の視線が時折こちらに投げかけられているのは、俺も気が付いていた。
「あんまりここにいるのも微妙なんだよな」
「法典的に?」
「そ。別に違反ってわけじゃねえけど、店を利用したわけでもないのに店の一部の恩恵に預かるっていうのもな」
店の一部、とは、今雨を避けている軒のことを指しているのだろう。なんてけち臭い話だ。
「それとも、なんか一杯飲んでく?」
「馬鹿言うな。バーならともかくカフェでお茶でも、なんてガラじゃねえだろ」
「だよな。じゃあ行こうぜ」
「あ、おい」
腕を頭の上に掲げたネロが一足先に軒を出る。慌てて追いかけようとしたが、それより先に魔法の気配に気づいた。ネロを見上げると、確かに雨に濡れているが、この雨量にしては濡れ方に少し違和感がある。
「んだよ、結局魔法使ってるんじゃねえか」
「こんぐらいはな。人目のないところまで走って、路地裏かどこかで傘出そうぜ」
口の端をあげて笑う表情に見覚えがあって、すとんと何かが胸に落ちてくる。ああ、悪い男の顔だ。
「じゃあさっさと行くか」
自分を薄い膜で守るような魔法をかける。防御的な意味を持たず、ただ水を避けるだけなら容易いものだ。
遅れて軒先から出ると、ネロが足を速め、次第に走り出す。いつ見ても軽やかな足取りだ。いつも気怠そうにしているくせに、走るときに踏み出す足は、普段の何倍も軽く見えた。
「こっち」
ネロが指で示した先に入る。建物と建物の間の狭い隙間で、確かにタイミングさえ見計らえば傘を取り出すくらいの魔法は使えるだろう。
人目を避けるように向かい合わせて呪文を唱え、傘を取り出す。ふとネロが小さく声に出して笑うから、気になって見上げた。
「本当に、今日は随分機嫌がよさそうだな」
「まあな。まさかあんたが俺と一緒にハーブの手入れに来るなんて思わなかったし」
「俺は何にもしてねえけど」
ネロの周りをウロチョロと回っていただけだ。よその畑に足を踏み入れようとして怒られたり、俺にはまったくわからない基準で葉っぱを間引いていく手元を覗き込んで迷惑がられたり。
けれどネロは手伝えとは言わなかったからそのままにしていた。広さを確かめて利益を計算するだとか、ここでは違法に違いない別の葉っぱの流通について考えるだとか、意外とすることはあったのだ。
「あんたも飽きずにそばにいたしさ。雨降っちまって先に帰るかと思ったら、不機嫌そうにしながらも一緒に雨宿りするし。今も、ほうきじゃなくて傘出すし」
「……なんだよ」
「だからなんか、慣れねえな、と思って」
そう言ってまた、笑って見せる。
はしゃいでいる無邪気なそれとは違うし湿っぽい表情だが、ネロは確かに、穏やかに笑っていた。
「笑うなよ」
今日思っていたことを、先ほどとは違う気持ちでようやく口に出す。それでもネロは、なんで? と首を傾げて口角をわずかにあげている。
「笑うならもっと楽しそうにしろ」
「へ」
きょとんとした顔をして、俺の顔をまじまじと見る。自分が今どんな顔をしているのかはわからなかったが、楽しそうではないだろう。
そう、笑っている割に楽しそうではないのだ。嬉しそうだが楽しそうではなく、だから笑みをそのまま喜べない。
違う、と言われている気がする。
俺とお前は違うのだと。
本来のお前の姿は違うのだと。
「ふっ、はは、あはは」
突然ネロが、控えめに、けれどしっかりと笑い出す。目を丸くした俺の向かいで、ネロは腹まで抱えだす。
「ちゃんと、楽しかったし。喜んでたよ」
じり、と足元の砂利が鳴った。ネロの体温が近くなる。
「アドノディス・オムニス」
俺にだけ届くように唱えられた呪文が熱を孕んで小さな風を起こし、俺の体をくすぐって逃げていく。なんだ、と思うと同時に、濡れた体が軽くなっていることに気が付いた。
「ありがとな」
言ったのはネロだ。魔法をかけられたのは俺なのに礼を言われて、前の言葉にかかっているとわかっても落ち着かない。
そもそも、かけられた魔法も落ち着かなかった。精霊がネロに味方をしていたからだ。ネロの魔法は繊細だが、それでもただ体温をあげるだけやただ風を起こすだけのものとは違う今のものを、こんな風にさりげなくするのは難しい。
「そんな居心地悪そうにするなよ」
「するだろ」
ネロは東の魔法使いだ。それを体でわからされたのだから。それでもネロは俺とは反対に落ち着いた笑みばかり見せるから、問い詰める気にも、これ以上の文句を言う気にもならなかった。
「なあブラッド、帰ろうぜ」
そう言ってネロが俺の横を通り過ぎて傘を差す。ほうきを出して飛んで行ってやろうかという考えが一瞬頭をよぎって、けれど結局、俺も傘を開いた。
雨はまだ、止みそうもなかった。