冬のきらめき目次
十二月(妖異譚設定)
一月(リーマンパロ)
二月(魔法舎軸)
十二月(妖異譚設定)
「外行こうぜ」
「は? 今から?」
思いついたかのようにブラッドが言い出したのは、夜も半分を過ぎた頃だった。
今日はブラッドの誕生日だったが、特別構うことはせず一日店を開けていた。するとどこから聞きつけたのかくる客くる客みんなブラッドの誕生日を祝い、時たまブラッドにフライドチキンを、とツケていくやつさえいた。
普段はきっちり会計しておくところを、貰い主のブラッドがそういうもんは貰っとこうぜと言うから受け取って、要望通り客が帰った後にたっぷりチキンを作ってやったのだ。
「これがあのねえちゃんからの分だろ。これがあそこのちっちゃいので、これはジジイから」
皿に乗った肉やおちょこに注がれた酒を順番に指さしていく。正直、今日の夜は客に出してもらったようなもんだ。
たっぷり食べて、飲んで、満足して、腹ごなしにぼんやりだらだら話していると、声が途切れたタイミングでブラッドが言う。外に行こうと。
「すぐ戻ってくりゃ明日に響くことはねえだろ。ほら行くぞ」
「別にいいけど、行くってどこに」
「ついてくりゃわかるって」
ブラッドは下駄を片手にひったくって、窓から空へ旅立つ。慌ててあとを追いかけると、ブラッドは嬉しそうに笑って何も言わずに先を飛んだ。
投げ渡された下駄を履いて、ブラッドの背中を見つめる。大きくて艶のある羽根は、いつだって格好いい。
盗賊団をやめて、大所帯での暮らしから一転、寂しくなるかと思ったがそんなのは杞憂だった。ブラッドはどこにいたってひとの目を惹きつけて、いつの間にか中心にいる。自ら誕生日をひけらかすようなことはしていなかったのに随分と賑やかな一日になったのがその証左だった。
しばらく飛んでいると、街を抜けて徐々に自然が増えてくる。立ち並んでいた家や店がポツポツと離れるようになり、次第に空からでは木々に隠れて見えづらくなった。これは、山に向かっている。
「ブラッド」
「あそこは星が綺麗だろ。てめえと久しぶりに見たくなった」
名前を呼んだだけで俺の言いたいことがわかったらしい。ちらりと流し目を送ってそう言い、視線を戻してそれ以上は語らない。だから俺もそれに倣って、ただ黙ってその後ろ姿を追った。
森に近づくと、上から降りるのは狭くて難しくなる。だから中腹で地面に降りて、それからは枯れ葉を踏みながら登った。
雲もなく、よく晴れた夜だ。かと思えば、この間まで秋だったのを忘れさせるように空気は澄んできていて、何より今日は新月だ。月明かりに邪魔されず、ただ星だけが光っている。
「この辺か」
この山で、一番空に近い場所だ。見上げると、おあつらえ向きにぽっかりと木々が穴を開けている。綺麗だな、と既にぼんやりしそうになっていると、どさっと音がして目線を下ろした。
ブラッドがどっかり腰を下ろしてあぐらをかき、懐から酒の入った瓢箪を取り出す。
「ほら」
「ん」
顎をしゃくって、目の前に座るように態度で示される。同じようにあぐらをかいて瓢箪を受け取ると、差し出された盃に酒を注いだ。
「よこせよ」
「いいって」
「いいから」
自分の盃に手酌をする前に、ブラッドに瓢箪を掴まれる。一度押し問答をしたが、結局断る方が時間がかかりそうで、おとなしく渡す。
「乾杯」
「乾杯」
軽く持ち上げて、くっと飲む。良い酒だ。ブラッドの好みの、特別気分がいい日に飲むやつ。
「あれ、やっぱり傷残ったな」
「え?」
「後ろ」
振り返ると、そこには幹に大きな傷痕を残した大木が立っていた。
「あー、悪いことしたな」
あの傷をつけたのは俺だ。正確にいうと、俺とブラッド。ここは店を開く前、俺とブラッドが三日三晩殴り合いの喧嘩をした場所だ。
「まあでも、そもそも倒しちまった木も多いしな」
そう。おあつらえ向きに空がよく見えるのは、俺たちの喧嘩に巻き込まれて木が倒れてしまったからだ。
「俺もネロもボロボロのクタクタでよお、もう駄目だって仰向けに転がって、そうしたら星空がすげえ綺麗で。覚えてるか?」
「忘れるわけねえだろ。俺があんたをあんなにボコボコにできたのは、あれが最初で最後だよ」
自嘲を交えて笑うと、ブラッドは声に出さず口元を緩めるだけの笑みを見せた。いつもはぎらっと光るその目が少し光を淡くして星を見つめている。だから俺は、ブラッドのその顔を見つめていた。
「この先、ネロが隣にいない生はありえねえって思った」
「っ、」
なんてことないように言われて息が詰まる。表情ひとつ変えやせずに、瞳で星々を繋いでいる。
そんなこと、あの時だって言ってなかった。
あの時は、じゃあ、二人で料理屋やるかって、ただそれだけ言われて。
燃える思いで殴り合いができていたのなんてほんのわずかな間だ。あとはもうずっと辛くて、苦しくて。でも俺はもう自分を曲げたくなくて、だけどブラッドに敵うわけもなくて。
だから早く終わりにしてくれねえかなって思いながら二人で倒れちまって、そんな状況で見た星があんまりにも綺麗だったから、それですっかり心が柔らかくなってしまって。そこにぐっさり、ブラッドがこぼした言葉が刺さってしまったのだ。
こっそり涙を流しながら、うんと頷くしかできなかった。
「こんな綺麗な星でも、てめえがいなけりゃうつろだろうなと思った。随分同じ時間を分かち合ってきて、だからもう、お前がいなくなるのは体を半分持っていかれるようなもんだなって、その時わかった」
「……お前は俺がいなくたって平気だよ」
ずっと空を見上げていたブラッドの視線が降りてくる気配がして、今度は俺が空を見上げる。
「ただ生きていけることを『平気』だっていうなら、それはそうだろうさ。そんなの、てめえの方がそうだろ」
「そうかな」
「そうだよ。でも、そんな状態は俺にとっちゃ平気じゃねえし、駄目なのはむしろ俺だっただろうなって、たまに考えた」
ブラッドの言葉が耳に届いて、頭に届いて、耐えきれずにブラッドの顔を見てしまった。ばち、と音がしそうに目が合う。先ほどと変わらず静かな瞳で、今は俺を映していた。
「そんなこと、一度も」
「言うわけねえだろ。かっこ悪い」
「じゃあなんで、今更」
問うた俺を焦らして、ブラッドは俺の盃に酒を注ぐ。呆然としてしまっていて、ブラッドには手酌させてしまった。
「二人きりで晩飯食ったろ。そんでゆっくり駄弁って。退屈するだろうと思ってたもんも、そう悪くねえなって、思ったからよ」
穏やかだった表情がニッと笑みを浮かべて、酒を煽る。俺の感情が昂っていくのを感じて、俺も慌てて酒を口にした。またここで泣くなんて、かっこ悪い。
「そうだろ。あんたは気付くのが遅いんだよ」
俺はずっとブラッドと、こんな生活がしたかったんだ。こうやって生きていきたかった。たまにこっそり抜け出すのは知ってるけど、それだって、こうやって帰ってきて俺の隣にいるのならいい。
「だな。ほら、星見酒と行こうぜ!」
「うわっ」
仕切り直すように勢いよく酒を注がれて、慌てて飲む。何度も手酌させるわけにはいかないと、すぐに瓢箪を奪い取って同じように注いだ。
「明日からもまた頼むぜ、相棒」
もう一度乾杯をする。酒を飲むために上げた顎をそのままに空を見る。
月のない空で、星だけが輝いていた。
一月(リーマンパロ)
一月五日。仕事始めの直後の、華の金曜日。繁華街のなかにある中華屋は、新年会で賑わっていた。
「ターナーさん、ベインさんの元同級生って本当ですか?」
「はは……それどこで聞いたの?」
「否定しないんだ! 本当なんですね!」
ネロの質問返しを華麗に無視してはしゃぐ女性社員に圧倒され、ネロは曖昧に笑う。
寒くないよう強めにかかった暖房と参加者の熱気で、手の中のグラスはすっかり汗をかいている。出てくるたびに濃さが違うウーロンハイをからりと回して氷を見つめていると、甲高い声がまたネロに疑問を投げかけた。
「いつ同級生だったんですか?」
「気になるなら本人に聞きなよ、きっと答えてくれる」
俺に聞くな、という気持ちを言外に滲ませたつもりだったが、酒のせいか本人の気質か、全く気に留める様子はない。
「だって、流石に全然接点ないですもん。私は有名人のベインさん知ってますけど、私なんて視界の端にも入ってないですよ」
そんなことはないだろうとネロは思う。一度でもやり取りをすれば、ブラッドリーはきっと同じ会社に勤めるもののことを忘れないだろう。
「今日は飲み会だし、あんだけ飲んでりゃ知り合いかどうかなんて関係ねえだろ」
離れた席で、大きなジョッキを掲げて同僚と肩を組むブラッドリーを、女性社員と並んで眺める。
見目から目立つ男なのに、声も大きくよく通るし、常に周りに人がいるから、どこにいてもよくわかるものだ。
「あとで席替えやるって言ってたし、隣になるかもよ?」
「え〜、そんな都合のいい話ありますか?」
「あるある」
乾杯から中盤までは、部署ごとにまとまって座っている。ブラッドリーのいる営業部と、ネロと女性社員のいる管理部は社内での物理的な位置関係と同様に席も離れている。
最初は同じ部署の人たちで、仕事中だけでは深まらない仲を深めよう、と言う計らいらしい。
やっぱり来なければよかったかな、と冷え始めたエビチリをつまみながら思う。あ、冷めても美味しい。
「ブラッド、……リーくんのこと、気になるの?」
「私はミーハーなだけです! 営業に友達いないから聞けないんですよねー。二年前に本部から鳴物入りで異動してきて、前評判の通り成績を叩き出すどころか、全体の成績まで上げちゃって」
「そのために飛ばされてきたんだろうからな」
「学校の成績も良かったんですか?」
「さあ。勉強はできたんじゃないかな。不真面目なやつだったけど」
「えー、不真面目なとこ想像できない!」
「真面目にも見えなくねえ?」
「それはそうですけどー」
女性社員はカラカラと笑う。ネロはエビチリの隣にあった酢豚にも手を伸ばす。これはまだ温かい。女性社員との会話と食事に夢中になっていたネロは、こちらを向いて話している女性社員の後ろから忍び寄る姿に気づかなかった。
「よう、噂話か?」
「きゃっ!」
「驚かせたか? 悪いな」
「ブラッドリーくんの学生時代の話。勉強はできたけど不真面目だったよって」
「想像できないって話をしてたんです」
女性社員の声がわずかに上ずる。ブラッドリーはそれを気にかける様子もなく、生ビールのジョッキを片手に話を続けた。
「教室で机に齧り付くより、ダチとつるむ方が楽しかったんだよな。なあネロ?」
「知らねえよ」
「冷てえこと言うなって」
ブラッドリーがしゃがんでネロの肩に手を回す。それを見て女性社員は、にこやかにいった。
「なんだターナーさん、ベインさんと仲良いんじゃないですか?」
「は? そう見える?」
「はい!」
躊躇いのない返事に、ネロの眉間に皺が寄る。対するブラッドリーは、至極楽しそうに抱いた肩を揺らした。
「まあな。じゃ俺はちょっと外出てくるわ」
満足いくまで揺らした後、ビールを飲み切ってジョッキを店員に渡し、その場を後にする。
「電話とかですかね?」
「タバコだろ」
「え、タバコ吸うんですか?」
「え? ああ、いや、どうかな……」
「そういえば外に灰皿ありましたもんね。そっか、タバコ吸うのか……」
すりガラスの入り口を見ると、ブラッドリーのスーツを纏った長身が透けて見える。女性社員がそれにがっかりしているのを見て、悪いことしたな、と思う。どちらに、と言うわけでは特にないが。
「俺、トイレ行ってくるわ」
すっかり落ち込んだ様子の女性社員を置いて、ネロはお手洗いへと向かう。用を足して出ると、そこにはブラッドリーが待ち伏せていた。
「ネロ」
「ブラッド」
ネロは特に驚いた様子もなく答える。ブラッドリーが外から戻るタイミングをはかって席を立ったのだから、驚きようもなかった。
「三次会までは行かねえだろ? ひとつ隣の駅に、外回りしてて見つけたバーがあんだよ。二次会の後酔い覚ましに歩いていこうぜ」
「あんたが三次会行かなかったらみんな残念がるだろ」
「知らねえよ。たまには残念がらせておいたほうが、俺様の価値も上がるだろ」
「またそんなこと言って……」
そう言いつつも、ネロは否定しない。代わりに軽く笑って、手の甲でブラッドリーの胸元を叩いた。
「本当は二次会行かずに帰るつもりだったんだけど。いつもそうしてるし」
「じゃあてめえは喜ばれるな」
「別に俺のことは喜ばねえだろ」
「そうでもねえよ」
ブラッドリーはそういうが、ネロは信じる様子もなく肩をすくめる。わかってねえなあと思うが、わかっていないことは別に構わなかった。
「場所送っとく」
ブラッドリーが持っていたスマートフォンを手早く操作をすると、ネロのポケットに中身が短く震える。位置情報だけが送られてきていたが、それで十分事足りた。
「じゃあな」
「ん、後で」
そう言って別れたネロが自分の席を覗くと、知らない社員が女性社員と話している。どうやら席に戻るところらしい。
「お帰りなさい」
「俺、邪魔しちゃった?」
「いえ! 仲良い同期の子で、ちょっと情報交換した程度です」
女性社員はいつの間にかグラスが新しくなっていた。さっきは確かジンジャーハイを頼んでいたが、今のグラスの中はオレンジ色だ。
「情報交換?」
「さっきの子の先輩が元々営業補佐で営業部にいて、その伝手で今営業にいる人から話を聞いたらしいんですけど」
「ああ、ブラッド?」
「はい、ベインさんのこと」
そう返されて、うっかり愛称で呼んでしまったことに気がつく。脳内で「リーくん」と付け足してももう遅い。しかし幸い女性社員は気付いていない様子で、代わりに別のことでネロを驚かせた。
「ベインさんたまに、彼女にお弁当作ってもらって持ってきてるんですって!」
「はっ!?」
思わず普段より少し大きい声が出る。飲み物を飲んでいたら吹き出していた自信がある。愛称に気付かなかったのと同様ネロが狼狽しているのにも気づかず、女性社員はグラスを口許に寄せながら続ける。
「普段外食ばっかりなのに、ちょうど去年ぐらいからたまにお弁当持ってくるようになったって。どんどんその頻度が高くなってるから半同棲なんじゃないかって噂らしいですよ」
「何それ、本人が彼女の弁当だって言ってんの?」
「実家は遠いらしいですし、自炊全くしないって言ってるからそうだろうって。あと、美味しそうって言ったらやらねえって言われたみたいです。相当好きなんだなーって……そりゃあれだけ格好良かったら恋人の一人や二人いますよねえ」
これが他人の話だったらネロは「二人いたら困るだろ」と突っ込んでいたところだが、今はそれどころではない。
噂の弁当は、他ならぬネロが作っているものだからだ。
しばらく疎遠にしていたブラッドリーとうっかり再会してしまい、しつこく絡まれるうちに気づいたら週の半分どちらかの家で寝泊まりし、弁当まで持たせるようになっていた。
転職先の社内報で名前見た時は驚いたけど、あいつが本部から出てくるなんて思わねえじゃん。
飯が食いたいって頼みこまれたら、うっかり家にあげちまうのも仕方ねえじゃん。
昼飯何食ってるか聞いちまったら、栄養のあるもの作ってやりたくなっちまうじゃん。
これまで何度も繰り返してきた言い訳が再度頭を巡るが、それを口に出すわけにはいかない。
「ただのミーハー心だったのでいいんですけど、そしたら今度は惚気とか聞きたいですよね〜」
ネロが驚いて体を硬くしている間に、女性社員はグラスを半分ほど開けている。頬は真っ赤だ。そんなに酒に強くないのだろう。赤くなりやすいだけならいいが、水をもらったほうがいいかもしれない。
「ベインさんの彼女のこと、何か知ってたら教えてくださいね!」
元気よく言われて、ネロは得意の曖昧な笑みで返す。
彼女じゃないけど弁当を作っているのは俺です。このあと雰囲気のいいバーで飲んで、多分そのまま家に泊まります。
そんなこと言えるはずもなく、ネロは代わりに店員に水を頼んだ。
二月(魔法舎軸)
チチチ、と鳥の鳴く声が聞こえて目が覚める。布団からはみ出した肩と顔に触れる空気がひんやりしていて、すっと息を吸うことで意識がはっきりと形を作っていった。
ちらりと窓に目をやると、カーテンの隙間から陽の光が優しく差していた。
足りないな、と思う。二月だと言うのに、鳥が朝から鳴いている。北ではこんな穏やかな鳥の囁き声は聞こえなかった。
防寒魔法をかけておかなければあらわにした肌には冷気が突き刺さる。肺に取り込んだ息は、そのまま肺を凍らせるようだった。太陽は分厚い雪雲が覆い隠して、いつも空は重たく、陽の光など感じられはしない。
ぬるい。
「ん、んん……」
腕の中で男が身じろぐ。普段は括られた髪が肌に当たってこそばゆい。
俺が目覚めた気配を感じ取って目を覚ましたかと思ったが、どうやらそうではないようだった。
ぎゅっと目を閉じて頭を擦り付けてくる。まるでこどものように無邪気な振る舞いだ。思わず笑みがこぼれてしまい、髪の毛をかき混ぜてやりたくなる。
そんなことをすれば流石に目を覚ますだろうから、まだ寝てろよ、と心の中でつぶやいた。
穏やかで、ぬるい。
空も、空気も、俺の心も。
腕の中のネロの表情を伺う。髪の隙間から覗く肌は白く、しかし健康的なハリがある。とろける蜂蜜のように甘い瞳は、今は繊細な睫毛が縁取る瞼に閉ざされていた。代わりに、薄く、俺に比べれば小さな唇がわずかに開いていた。
起きていようが気をぬけばぼんやり口が開く男だ。寝ている時に閉じているなんて土台無理な話だろう。
こいつの寝顔をこんなふうに見るのはいつぶりだろうか。そのあどけなさが俺の心をすっかり溶かしてしまったような気がして、腑抜けた気分だ。
一番良くないのは、そんな気分に不快さを感じていないことだ。悪くない。そう思ってしまっている。
どれほどそうしていただろうか、寝返りを打とうとしたネロに腕の力を強めると、一瞬力のこもった瞼がゆっくり持ち上がった。
「……んえ?」
ぼんやり瞬きをしたネロの視線の胸のなかだ。
「は? あれ?」
「ようネロ。目、覚めたか?」
声をかけると顔ごと視線が持ち上がる。あんぐりと口をあけ、目を見開いている。伏目がちなせいで見えない時もある滲んだ青が見えた。
「覚めた……」
「はよ」
「おはよ……あんた、帰らなかったんだ」
ふらりと視線が外れる。普段ちっとも目が合わないのはこいつの悪いところだ。昔はここまでではなかったような気がするが、東の魔法使いどもは大抵こうだから、東に馴染んだ結果なのかもしれない。
「帰るわけねえだろ。もったいねえ」
「はあ? 意味わかんねえ」
この温もりを、穏やかな寝顔を置いて、自分の部屋に帰るなんて馬鹿のすることだ。
「わかってるくせに」
額に口づけを落とすと、うめき声のようなものを上げて身を固くする。色気がなくて、可愛いやつ。
「つーか離せよ、う、さむ」
俺から離れようと押しやって、生まれた隙間に滑り込むぬるい冬の気配に顔を顰める。
「どうする?」
「ちくしょう……もう少し、このまんまで」
「おう」
恐る恐ると言うふうにもう一度体を寄せてくるから抱き寄せる。あたたかい体。
「ねむ……」
「寝ててもいいぜ、起こしてやるよ」
「いい。寝たら起きるの嫌になるし。……もったいないし」
「だろ?」
拗ねたように口を尖らせて言う姿が面白くて仕方がない。こういうところが、どうしようもなく胸の表面をざわざわとくすぐってくるのだ。
「布団から出たくない」
「出なきゃいいだろ」
「でも朝飯作らなきゃいけねえし。出たらぜってえ寒いよな……」
「こんな程度で寒いのかよ」
「寒いもんは寒いだろ」
「雪だってろくに降らねえだろこっちは。北じゃ今が一番雪すげえのに」
「ああ、そうだなあ」
ネロの目線が宙を彷徨う。昔を思い出しているのだろう。
「星屑糖もさ、キンキンに寒い時の方が降ってくるんだよなあ」
ネロの視線に合わせて窓を見る。変わらず、優しくてあたたかい陽の光がそこにある。
「こっちじゃ無理だもんなあ」
「東の冬はどうだった?」
「え?」
「東の国だよ」
「あー」
言いにくそうに口ごもる。別に俺は気にしないのに。嫌な思いをするなら聞いたりしない。俺の知らないお前が過ごした季節を知りたいだけだ。
「雪は降ったか?」
「降ったよ。北みたいなふわふわしたやつじゃねえけど」
「どんな?」
「半分雨みたいな。べちゃべちゃでさあ。全然つもらねえの。その癖中途半端に寒いから、朝になると凍っててさ」
雪のほうが安全だとさえ思ったのだと笑う。確かに氷の上を歩くのは厄介だ。
「店の前でお客さんが転んだらことだろ。必死にお湯沸かして溶かしたりしてさあ。隣の店の店主と目が合って、困ったなってお互い目で合図送ってさ」
だんだんと饒舌になっていく。面倒臭いというふうに話してはいるが、そう悪い記憶ではないのだろう。
「ここよりは、東の方が北に似てたかな」
そう言ってネロは深呼吸をした。いつの間にか、表情から微睡の気配が消え去っている。
「やっぱ、布団から出たくねえな。今日の朝飯当番代わってくれねえ?」
ちっとも代わる気はないくせに、ネロはそんなことを言う。意趣返しをしたくなって、鷹揚に頷いて見せた。
「いいぜ。何食う?」
「は? マジで言ってる?」
予想外の返事に声を裏返らせるネロに、にんまり笑って答えてやる。
「昨日は久しぶりに無理させたからな。文句言うやつがいたら俺のせいでまだベッドにいるって言ってやるよ」
「そういうことかよ馬鹿」
どん、と腕を叩かれる。振りかぶれない中でどのようにすれば力を込められるかわかっていて、普通に痛い。
「はは、そうじゃなくても、気分がいいから代わってやってもいいぜ。どうする?」
「……いいよ。俺がやる。てめえは手伝え」
こちらを睨む視線に怒りは全く乗っていない。その目を見つめ返してるとふっと解けて、はは、と笑った。
「そういや、あんたと二人で朝飯作るなんて、初めてかも」
そう言って、今度こそ躊躇いなく布団を剥いで体を起こす。確かに、そうだ。
「そりゃ、悪くねえな」
「だろ?」
ネロは閉じていたカーテンを勢いよく開ける。今度こそまっすぐ飛び込んできた朝の眩さが、ネロの笑顔に反射していた。