とまり木「じゃっ、俺っち帰るからちゃんとご飯食べるんだぞー」
まるで母親のようなことを言いながらも幻太郎を引き寄せて軽く口付けを残す、およそ母親とはかけ離れた行動をとって微笑みながら帰る一二三にひらひら手を振って送り出す。
自分もそろそろ寝るか、と明るくなってきた空を見ながらドアを閉めた。
目覚ましをかけてから布団に入り、目を閉じる。
締め切りがいくつか迫っているが進捗は順調で、特に問題はなさそうだ。
仕事のことを考えながら眠りたい、と思うが最近どうしても頭から離れないことがあり、それからは逃げられそうもなかった。
なんといっても、一二三が「また」帰ったからだ。
お付き合いが始まってからというもの、一二三が仕事帰りに幻太郎の家に寄って一緒に過ごすのが確立されていたが、その中で一つだけ幻太郎としては不可解に思うことがあった。
それは一二三が泊まっていかないことだった。
アフターがない日は一二三は日付が変わってから幻太郎の家にやってきて、お風呂に入りご飯を作って帰って行く。
アフターがあっても明け方には訪れてご飯を作って帰って行く。
時折やることはやっているが、その後でも一二三は絶対に幻太郎の家には泊まらず帰って行くのだった。
最初は自分が締め切り前で邪魔したくないとか、彼と同居している幼馴染の食事の準備がある、等真っ当らしいことを言っていた気がするのでさして気にしていなかったが、最近はそれも嘘なのでは、と思っている。
というのも、つい1週間前程に、幻太郎がふと目を覚ますと隣に温かい感触があり、見ればいつもはいない、もしくはいても起きて自分の寝顔を見ているはずの一二三が珍しく寝ていた。
今日はこのまま寝て行くのかな、と幻太郎もどこか夢うつつな状態で綺麗な寝顔を見つめていたのだが、ふとその長いまつ毛が震えてまぶたが開いた。このシチュエーションが初めてだったので幻太郎も眠気がどこかいってしまった。
「…あれ、」
「おはよう、ございます」
珍しいですね、と続けようとした瞬間、一二三は瞳をこれでもかと見開いた後、やばい!と叫んで飛び起き、一目散に幻太郎の家から出ていったのだ。
あまりの速さと勢いに、しばらく状況把握ができず、なんなら今まで隣にいた伊弉冉一二三は夢だったのでは、と思うくらいだった。
その次に会った時には特に変わった様子もなくいつも通りにご飯を作ってまた帰る、になっていたので幻太郎は狐につままれたような心地でいた。
しかし、あれから少し時が経って思うことは、やはりあの時の一二三の行動はおかしい、ということだった。
幻太郎の家に泊まることが何か都合が悪いのだろうか、だとしたらどうして?
同居人のことを優先している、が可能性が高いとも思うが、それはそれで釈然としないし、第一飛び起きて帰った時は時間的に余裕があったはずだ。それにあの慌てよう、何かある。
最初は本人に直接聞いてしまおうかと思ったし何気なく乱数に自分こととは言わず相談した時も「直接聞いちゃえば?」なんて言われたのでそれはそうだと思うが、いかんせん。
何か複雑な事情があるならそうっとしておいた方がいいのでは?
それに、聞いて自分がショックを受けるかもしれないと思うと二の足を踏んでしまうのだった。
「なに、考え事?」
こちらの気も知らないで、一二三は今日も美味しい料理を作って幻太郎に振る舞う。
「いえ。…さながらシンデレラみたいなものでしょうかね」
「え?次回作の話?」
乱数にも言われたその言葉。シンデレラにはシンデレラでいられるタイムリミットがあって、それを解放してあげられるのは王子様が本当の姿を見つけた時。
「うーん、役不足ですね」
「ほんとになに?」
怪訝な表情で、それでもご飯の支度をする一二三になんだか可笑しくも呆れもして、幻太郎は何でもないです、と箸を持った。
王子様なんて、きっと自分には務まらない。
「そいやさー、来週独歩が出張で何日かいないんだよね」
「ほお、そうなんですか」
「うん。で、それに合わせて俺っちも早く上がれるようにしようと思うから、幻太郎の家に早めに来るね!」
「早めに?」
「そそ、俺っちが一回帰ってー、ちょい寝てから午前中にここ来ればいっぱい一緒にいれるじゃん」
「……考えておきます」
「えー!?そこ考える!?もしかして忙しい?」
「来週はちょうどプロレスの試合があるんですよ、ゲスト枠で」
「うわ、変な嘘!」
「何をおっしゃいます、もうリングネームも決まっているんですよ。黄色い閃光、とね」
「黄色は俺っちのカラーだし!とらないで!」
「おや、誰が決めたんですか」
「俺っち見てたら分かるっしょ!てゆーかそれはどーでもよくて、とりあえず来週の水曜から空けといてね!」
「はいはい」
幻太郎とて一二三と一緒に過ごせる、と聞いて嬉しくないわけがない。何かリクエストある?とウキウキして聞いてくる一二三に、自分の好物を伝える。なるべく一緒にいられるように、自分も仕事を前倒ししよう。
※
そうして迎えた水曜日。
宣言通り一二三は午前中からやってきて買ってきた食材をいそいそと冷蔵庫にしまう。
「今日は幻太郎からリクエストもらったビーフシチューとパスタ!いいお肉も買ってきたから時間かけて美味しいもん作るね!」
「それはそれは、ありがとうございます。時間かけて、ってことは今日は時間あるんですか?」
「うん!!」
どうやら休みではないが、同伴もアフターもなく、かつ明日もそうなので時間がたくさんあるとのことだった。
これはチャンス。
「じゃあ仕事が終わったらこの家に帰ってこれますね」
「へっ、うーん、まあ…」
あんなにウキウキした様子が一転、幻太郎の言葉に戸惑いながら相槌を打つ一二三に、やはりこの家に泊まれない、幻太郎の前で寝られない理由がありそうだと確信する。
「こんな機会滅多にないじゃないですか。あなたも移動ばかりで大変でしょう」
「いや、俺っちは大変とかはないから大丈夫!それに着替えもないし!」
「それなら今日ご飯を食べたら取りに行ってもいいですよ。そのままあなたは出勤して、小生が預かって帰ります」
「え、いーよそんな手間じゃん」
「手間なんてそんなことないですよ。少しでも一緒に過ごしたいという可愛い恋人からの頼みじゃないですか」
「うっ……」
一二三に向けてわざと上目遣いに普段は言わない様なことを告げてみれば、かなり揺らいでいるようだった。
よし、このまま押してなんとしてもこの男が隠している何かを掴んでやる、と内心誓っていると、
「あーもう!可愛すぎ!」
「へ?」
これは我慢出来ない、予定変更だわ、などと言いながら幻太郎の手を引っ張りそのまま寝室に。
「ちょっと、待ってください!話はまだ終わってない、」
「無理無理、あんな可愛いこと言われたら止まらないでしょ」
ボン、といつの間にか敷いた布団に体を投げられて、覆い被さられる。
「料理はどうするんですかっ」
「んー、どうしよっかあ。時間はあるし、俺っち的には順番が変わっただけだから大丈夫っしょ」
淡々と返事はするが目がぎらついているのを見て、幻太郎はこれはダメだ、と体から力を抜いた。こうなった一二三は止まれないし、何より自分もそれを甘受してしまう。何せ先程一二三に伝えたことは嘘ではないので。
「ご飯食べる前に運動しよ」
「…親父くさいですね、あなた」
そうして二人白い海に沈んで、次に幻太郎が目を覚ましたのは夕方で、その時には一二三は宣言通り料理を作って幻太郎に振る舞ってそのまま出勤したのだった。
※
『しごおわ!また午前中に行くよん』
一二三からメッセージを受け取ったのは日付が変わってすぐ。幻太郎はおやすみ、と返信すると、そのまま区切りのいいところまで仕事を進めてから、いそいそと準備を始めた。
何って、今から一二三の家に突撃訪問しようと思い立ったのだ。
幸い昼間寝たのでまだ全然元気なのと、素直に理由を聞いてもかわされたりすることが目に見えているので実力行使といこうというわけだ。
時刻は午前3時を回ったところ。帰宅して風呂に入り寝支度は終わり、おそらく寝入ってる頃だろう。
とにかくタクシーでシンジュクまで行き、家の前で粘ってやる、と幻太郎は息巻いて外に出た。
ピンポーン。一二三(と独歩)の家のチャイムを鳴らす。さすがに一度目では音沙汰なしで、何度か鳴らしてみるが出ない。まあ、これについては折り込み済みなので、とりあえず幻太郎はマンションのエントランスで携帯を取り出し一二三にかけてみる。
一度目は出ないので、これは相当深く寝入ってるな、と自分の作戦がうまくいきそうだとほくそ笑んだ。そして何度目かの着信でようやく一二三が電話に出た。
「もしもし、ご機嫌うるわしゅう」
『……おはよう、どうしたの?』
「あ、ええと」
初めて聞く一二三の寝起きの声は、少し掠れた、いつもよりトーンダウンしたものだった。寝起きはこんな声をしているのか。早くその姿を見たい。自分の中に独占欲みたいなものを感じてしまい、それを打ち消していると、幻太郎?と再度声をかけられた。
「すいません。実は今、あなたの家のエントランスにいまして」
『へ?ああ…そうなの?』
「少し寝付きが悪くて」
『そっか…少し待てる?』
「ええ、それは待てますが」
『今寝てたから…すぐ準備して行くね』
「え、あの、そうじゃなくて」
『着替えるだけだからすぐ行くねー』
そうして切られる電話。最後の声のトーンはいつもと同じ感じだった気がする。というか、この流れは部屋に入れる、ではないのか?いやでも手厚い男だ、迎えに来てそれから部屋まで案内する、もあるかもしれない。もやもやしつつ幻太郎はエントランスで立っていると、すぐに一二三がやってきた。
「やっほー、珍しいね幻太郎から来るなんて」
「すいません、いきなり」
「ぜーんぜん!むしろ嬉しいよ!」
寝起きなはずなのに綺麗な顔で笑う一二三だったが、その後目元をこする仕草をした。
「眠いですよね?わざわざ来てもらわなくても良かったのに」
「幻太郎の姿見たら眠気吹っ飛んだ!それに俺っちも会いたかったし!」
「夜中なのに声が大きいですよ」
「あ、やべ」
笑いながら一二三は自然と幻太郎の手を取った。特に拒否もせず従っていると
「じゃあ行こっか」
と言って一二三はマンションのエントランスから外に出ようと一歩進んだ。それに驚いたのは幻太郎だ。ここまで来て家に入れてくれないのはあまりに不自然だ。一体どういうことなのだろう、そんなに自分には言いたくないことがあるのか。そう思うと胸が重くなって、自然と幻太郎の足も重くなった。
「ん、幻太郎?」
いつも通りの一二三の声。自分だけがこんな思いをしていると思うと我慢し切れなくなった。
「家には、」
「なに?」
「あなたの家には、入れてくれないのですか」
俯いたまま言うと、一二三の戸惑う空気が伝わってきた。
「アポ無しで一方的に来たのはこちらが悪いとは思いますが、それでもなんの説明もなくこの状況でまた小生の家に行くのは不自然なのでは」
「いや、まあ、…ごめん。今部屋も片付いてないし、一応同居人もいるから……」
「片付いてないのは嘘ですよね。同居人に関してはそうか、と返事をするしかないですが、それであれば共用部分は通りませんからあなたの部屋だけに通してください」
「……」
黙る一二三にますます感情が昂ってくる。
「あなた、家に通さないだけじゃなく頑なに小生の前で寝ないですよね。一体なんなんですか」
「……」
「肝心なところでダンマリですか」
話そうとしない一二三に我慢ならなくなり幻太郎は踵を返した。
いつも瑣末なことで言い合いになりしばらく連絡を取らなくなることはあって、ただその時は一二三が家に来て仲直り、というのがお決まりだった。だが、今回はなんとなくそうはならない気がして、幻太郎は胸が締め付けられる思いがした。
こうしてまた大切なものを一つ失くすのか、と悔しい気もした。
そこではたと気がつく。あくまで執着しない、ドライな関係でいようと思っていたのに、気がつけば自分の芯まで食い込むような関係だと自分自身がカウントしていたことに。
「……あの料理が食べられなくなるのは惜しい、ですね」
呟いてみるが、虚しくなるだけだった。
そうして大通りまで歩いてタクシーを捕まえよう、なんなら歩いてもいいな、と幻太郎がゆっくり進んでいると、自身を呼ぶ声がした。
「幻太郎!」
ここで振り返るべきか、否か。
こういうところで素直になれない自分が良くない気もするが、とりあえず黙って、でもゆっくり進む。
「幻太郎ってば!」
そうして腕を引かれた。
「……、なんですか、驚きますよ」
「ごめん!俺っちが悪かった!!」
「何がですか」
「せっかく幻太郎が来てくれたのに…無下にした」
「……」
「それだけじゃない。幻太郎が言ったように、俺っち幻太郎に言えてないことがある」
やはり。一二三が幻太郎の前で寝なかったり泊まらなかったりするのには何か理由がありそうだった。
「別に、いいです。人には言えないことの一つや二つ…もっとあるでしょう」
「ううん、それじゃよくないって、思ってるから。もし良ければ、今から家に来てくれない?」
ご主人に叱られた仔犬みたいな一二三に、幻太郎は断れなかった。
「リビングの…ソファ座って」
「はい」
初めて通される一二三の家はシンプルで片付いており、センスの良さが分かる家だった。片付いてないはやはり嘘だったようだ。
「はい、これ。まだ時間的にコーヒーって感じじゃないし」
「ありがとうございます」
渡されたのはホットミルクにジンジャーが入っている、一二三特製のドリンクだった。一口飲むと冷えた体に染み渡り落ち着くことが出来た。
「それでね、幻太郎」
「はい」
「今回のこと、本当にごめんね。せっかく家に来てくれたのに追い出すような真似してごめん。ほんとか、って思うかもだけど、嬉しかったよ」
「…そうですか」
一二三の顔を見れば嘘なんてついていないことくらい分かったが、理由を聞くまで絆されるわけにはいかない、と相槌を打つにとどめる。
「それで、あの。今回みたいに家に通せない、とか幻太郎の家に泊まらない、っていうのには俺っちなりの理由があって」
「……」
「まず、そもそも人前で寝るの得意じゃないっていうのがあって、じゃあなんでかっていうと」
いつもの一二三らしからぬ言い淀み方に、これは相当言いづらいことなのだ、と幻太郎も緊張が移る。
「……時々だけど、魘されることがあって。それを幻太郎に見られるのが嫌、っていう……」
「見られるのが、嫌?」
「うん。……結構酷く魘されるから、びっくりさせちゃうかなって…いや、違うわ。俺っちが、見られたくないの」
かっこ悪ぃからさ。そう言ってなんとか笑おうとする一二三がなんだかとても可哀想に見えて、幻太郎は思わず手を伸ばして一二三の手を取った。
それに少し驚き目を大きくして幻太郎を見た一二三は、先ほどより緊張が解けたようだった。
「で、魘されるのにも理由があって」
「……はい」
「夢を、見るんだよね」
「夢?」
「……うん。俺っちが、女性恐怖症になったきっかけの、昔の」
「分かりました」
言葉を続けようとする一二三にストップをかけて、幻太郎は息をついた。それを呆れのため息と受け取ったのか一二三はまた恐る恐るといったように幻太郎を見たが、それに応えるように幻太郎は握った手に力を込めた。
「ごめん、幻太郎……」
「それは何に対しての謝罪ですか」
「……俺っちの変な癖を、それを隠してたこと。多分、幻太郎気にしてるだろうなって思ってたんだけど、俺っちのエゴとかプライドで言いそびれちゃった」
「……それについては否定しません。さっさと言ってくれれば拗れもしなかったとは思います」
「……そうだよね……本当にごめん」
「ただ、それだけです。言いづらかったのも分かりますし、そもそも変な癖などとは思いませんよ」
「うん、ごめん」
気にさせないように軽く伝えるのに、一二三はしょげているのか沈んだままだ。
「…何をそんなに気にしてるんですか」
「……」
「この期に及んでまた話さないおつもりですか」
目線だけ幻太郎にやる一二三は、心なしか目が湿っているようにも見えた。
これ以上詰めるように聞こえる物言いは可哀想か、と幻太郎は握ったままの手にまた力を込めた。
「大丈夫ですよ。どんなことがあっても引いたり、嫌になったりしないです。それに、あなたのことは今回のことより納得いってないことだってあるんですから」
小生たちの出会い方、覚えてます?
おどけたように言うと、ふ、と少し一二三が笑ったのが聞こえた。
「それはそうかも。……あのね、俺っちのことで、幻太郎を傷付けたり、その上で気を遣わせたりしてることが、申し訳ないの。言ってもしょうがないけど、女性恐怖症じゃなかったらな、って久々に思った」
悔しさが滲む声だった。顔は伏せられて見えない。
この場合、正論は言っても仕方ないだろう。一二三は充分、分かりすぎているほど分かっているだろうから。
では、今自分がかけられる言葉は何だろう。小説家でもあり、今はラップバトルでディビジョン代表として活動しているのに、ここぞと言う場面で言葉が見つからない。
「……ありがと、幻太郎」
「え?」
「手が、安心する」
「手?」
「うん。幻太郎が本当に心配してくれてることも、もう気にしてないこともなんか伝わる」
ほんとありがとね。一二三が不器用に笑う。その姿を見て、幻太郎は思わず声を上げてしまった。
「あなたねぇ、小生を舐めないでください。元々敵同士で男同士で付き合うのでもハードル高いのに、今更何聞かされたって驚きませんよ」
「え、ああ……」
「それに、魘されるとか辛いとか、そんな状態だったあなたを知らずに一人押しかけて、こっちの方がひどいじゃないですか。俺が知らない間にもあなたは魘されていたってことですよね。そんなの想像するだけでゾッとします」
「……」
「すべてを、とはいいません。こっちもあなたにすべてをあげることはできないですから。ただ……辛いなら辛いと、言ってくれませんか」
「……幻太郎」
泣かないで、と目の下を涙を掬うように手をかざされた。実際には泣いていないし、泣くもんかと思っているが、心を見透かされた気がした。
言いづらかったことも分かるしプライドがあることも、こちらを心配させたくないことも分かる。しかし、その距離に寂しさを覚えてしまったのだ。少なくとも自分から追ってしまうくらいには。
いつの間にか一二三はこんなにも失くしたくないものになっていた。
「……泣かせたくないなら、泣かせないようにしろ」
「うん、うん……ありがと、幻太郎」
握っていた手を引っ張られて、腕の中におさまる。すぐに自分からも腕を回して、一二三の少し早い鼓動を聴いて目を瞑った。
ところで記憶は途切れていて、少し寒気がして目が覚める。
目の前は暗くて、身じろぎするも固定されていて動けなかった。
ゆっくり記憶を辿ってみると、一二三の家に来てソファに座り色々話したことを思い出した。
ということは、自身に回る腕は一二三のもので、目の前にあるのは一二三の胸か、と幻太郎はそっと体を動かし抜け出そうとした。
「ん…」
鼻から抜けた声を出しながら、一二三が幻太郎に回す腕の力を強めた。
これは抜け出すのは大変そうだ。
まあ、いいか。
幻太郎は肌寒いのを一二三で補おうと自分から擦り寄る。
一二三が目を覚ました時、自分がいなかったらきっと悲しむだろう。
それに、一二三の腕の中で眠り、こうして目を覚まして微睡むのは悪くない。
そういえば、一二三の寝顔をまともに見たことがなかったな、と幻太郎は首を伸ばす。以前一瞬見た時はさすが宝石級美形だと認めざるを得ない、精巧に整った人形のようだった。
「……ふっ、」
思わず声が漏れてしまった幻太郎は、慌てて手で口を抑える。
確かに綺麗な寝顔をしてはいる。してはいるが、眉毛も目尻も下がり切って全体的に緩んでいて、なんなら涎も垂れているような。
これがシンジュクナンバーワンホストの寝顔だとしたら、拍子抜けしてしまうものだった。
「んん、げんたろ……?」
ああ、いけない。先程自分が漏らした笑い声で一二三が眠りから覚めてしまうようだ。長いまつ毛が震えて、瞼が開く。
「……幻太郎だ……」
「ふふ。おはようございます、伊弉冉さん」
幻太郎の返事を聞いて、目が合う。その瞬間、たまらない顔をして自分を抱きしめる一二三に、幻太郎も腕を回して想いが伝わるように、応えるように腕を回した。
まだ少し寒くて、このままだと風邪を引いてしまうかもしれない。それなのに居心地ばかり良くて、どうしても離れたくなくなってしまった。
※※
「起きた時に幻太郎いるなんて最高だね」
こんなことならもっと早く言っていっぱい幻太郎と寝ればよかった、俺っちの馬鹿!
なんて本気で悔しがる一二三に笑みがこぼれる。そんな一二三に、今回ばかりは素直になってやるか、と幻太郎は口を開く。
「これからたくさん寝ればいいじゃないですか。今日だって小生のもとに帰ってきてくれるのでしょう?」
楽しみに待ってますよ。なんて告げると、一二三はわなわなと震えて幻太郎に飛びついた。
「うん!これからいっぱい寝よ!!今日も幻太郎のとこに帰る!!」
互いに譲れないもの、互い以外に大切にしているものがあるけれど、それでも互いの帰る場所になれる。いつもではないかもしれないけれど、とまり木になれたら。
少し先の、漠然とした未来の「これから」なんて柄にもなく使ってしまったなあ、と少し気恥ずかしくなったが、それでも嬉しそうに笑う一二三を見ればそんなことは瑣末なこと、と幻太郎も笑った。