モブお姉さん×少年蜜+蜜檸蜜「お腹空いたんだ?」
チャイムを鳴らす前にガチャリとドアが開き、出迎えられる。足音は忍ばせたはずなのに、どういう特殊能力なのだといつも思う。
数日前、貯金とも言えない貯金が底をついた。手元にあった食糧も無くなり、向かったのは女の住処だった。
「ああ。好きにしていい」
几帳面に爪先を揃えながら靴を脱ぐ。そんな少年を面白そうに眺めながら、女はくすくすと笑った。
「据え膳だね。どこで覚えたの、そんな台詞」
「別に覚えてない。金銭の代わりにあんたの趣味に付き合うという契約を、言葉にしただけだ」
「あーあー、だめだめ。今のナシ。さっきの台詞、言い直して」
まだ蜜柑ではなかった少年は、億劫そうに小さく溜息を吐く。
曇り空ゆえに薄暗いが、まだ太陽が真上にある時間だ。光から逃れるようにカーテンを閉め、電気を消してベッドに身を投げ出す。柔らかなクッションに身体が沈んだ。
「珍しく性急だね」
「目的以外にすることがない」
「つまらないなあ」
女は笑いながら、ベッドの縁に片膝を乗せる。髪ゴムを咥えながら、慣れた手付きで快楽の為の器具を装着した。
「あんた、たしか小説を読むでしょ。恋愛小説を読みなよ。女の口説き文句、いっぱい載ってるよ」
「恋愛小説はそういう本じゃない」
「読んだことあるんだ」
意外そうに声を上げる。少年は心外そうに眉を顰めた。
「ふだん何読んでるの」
「ジャンルの話か?知らない。なんでも読む。推理小説も、官能小説も」
「なるほどねえ。長生きしなよ」
「どうして小説から寿命の話になるんだ」
「あんたが本を読むから」
「おかしいか」
「おかしくはないけど。この業界は、本を読むやつと全く読まないやつにきっぱり分かれるんだ。傾向としてね」
「世の中には二種類の人間がいるってやつか。当たり前だろう」
「極端なんだよ。そして本を読むやつは長生きするけど、早死にだ」
「どっちなんだ」
答えず、女は静かに笑った。
「ねえあんた、仕事探してるんでしょ。雇ってあげるから、しばらくうちに居ればいいじゃん。私はお金なら持ってるし、あんたもちょっとは長生きできる」
「実のある同情だな」
「あんたのこと、気に入ってるから」
「でもあんたはいつか死ぬ」
「私の寿命は多分長いよ。そりゃ保証はできないけどさ」
「保証ができたら、考える」
女はちらりと目線を逸らす。目の端に、少年の着るシャツの袖口を捉えていた。付着した血痕は、最近のものではない。
「そうだな、例えばだけどさ」
ぎしり、とベッドが軋む。
「私を殺したりとか、できる?」
「何故、殺せないんだ」
簡潔な答えに、目を細める。
「長生きできそうだね。今日は私が殺すけど」
「La petite mort か」
「だから、そういうのどこで覚えるの。子供のくせに」
「誰のこと考えてたんだ?」
頬に触れた熱に、意識が引き戻される。
下から伸ばされた右手が、汗で頬に張りついた蜜柑の髪をやさしく払った。
「檸檬」
「どうした」
「なんでも」
「なんだよ。おまえ、たまにぼーっとするよな」
「しない」
そう答えながらも、まだ頭に霧が掛かったような感覚がある。曖昧な空気との境目に、自身が溶けてしまいそうで、蜜柑はゆるゆると頭を振った。
「昔の……パトロンと言うのか。ふと思い出した」
「へえ、俺も知ってるかな」
「知ってるわけないだろ」
「分かんねえぞ、この業界が案外狭いのは知ってるだろ」
「竿兄弟は笑えない」
「兄弟か。よく言われるし、俺たちにぴったりじゃねえか」
檸檬はからからと笑う。双子だ兄弟だと勘違いが広まっているのは事実で、蜜柑は顔を顰めた。
「冗談じゃない」
「まあ俺はトップの方が多かったけどな。檸檬くんみたいな子にあえて突かれるのがいいんだと。あえてってなんだろうな」
「さあな」
蜜柑と呼ばれた過去の記憶はない。檸檬だってそうだろう。あの頃の己は何者だったか。脳裏を飛び交う断片的な記憶は朧げで、早々に繋ぎ合わせることを諦める。
「着ながらやるのも、そいつらの趣味だったりするのか?汚れるっつって嫌がるなら、最初から脱ぎゃあいいのにって思ってたけどよ」
白い制服を着潰していたかつてとは違って、今はよく黒を好んで着ている。息苦しさを自覚して、首元まで留めていたシャツのボタンを一つ外した。
「別に癖でも、趣味でもない。こっちの方が落ち着くだけだ」
そっと息を吐く。
蜜柑のパトロンは窓辺に写真立てと指輪を飾っていたし、檸檬が相手にした女も、多分、檸檬じゃなくても良かった。
代替品ばかりだと思う。業界一番という称号だって、次々に張り替えられてなんの保証にもなりはしない。
見下ろすと、あちこちに跳ね放題の檸檬の髪も、今は穏やかにシーツに広がっている。首筋の髪を払って、そこに軽く唇を落とす。二度、三度と続けると檸檬は押し殺したようにくつくつと笑った。
「なんか、変な感じだ」
「くすぐったいか」
「なんだろうな。蜜柑のくせに、ばかにそうっとしてて」
「俺はいつも丁寧だろ」
どの口が、と笑いながら、蜜柑の首に手を回す。そのまま頭を引き寄せて、耳を喰んだ。
「蜜柑」
あまい声にびりびりと背筋が痺れる。目の奥がぶれそうになって、刹那、堪えるようにぎゅっと瞼を閉じた。喉から漏れ出そうになった声を殺して、なんとか返事をする。
「どうした」
「なんでもねえよ」
首を傾げて蜜柑を覗き込みながら、悪戯そうに口角を上げる。腹が立つのに、頭の中は冷えるどころかぐらぐらと沸いた。
「檸檬、次は……」
「ん、代わるか」
檸檬がゆっくりと身体を起こした。こんなときばかり察しが良いと、胸の内で悪態づく。
普段、倦みきったような目付きを振りまいているくせに、暗闇で覗き込む檸檬の目はどこかきらきらと輝いて見える。一重瞼の瞳の奥に、ぱちぱちと弾ける炭酸のような光を幻視した。
眩しくて、そっと目を伏せる。
「好きに、していい」
甘くて酸っぱい果実のジャムのように、どろどろに溶けて無くなってしまっても、それはそれで。
そんなの冗談じゃないと、片隅の理性だけが抵抗を示した。