◯果物 生存if()と警官まだ間に合う、まだ間に合うよ。お前を信じてる。数年前、俺にそう言って道を正してくれた先輩は、今コートを血に汚し地に伏している。助かる見込みの無い真っ赤な鮮血が床に広がっていた。
明日のニュースは警察の平和ボケがどうのと好き勝手に憂うかもしれないが、俺たちは日々訓練を怠らず、市民の安全を守っていた。だが、部隊はあっけなく壊滅させられ、建物全体が血に染まった。
男の動きは命を奪うことに慣れすぎていた。突如現れた黒い衣服を纏った影のような一人の男は、要求も何も口にせず、俺たちに銃口を向けた。
一発の銃声。静寂は一瞬で、男は長身をバネのようにしならせ、無駄なく人を殺めながら、八つ当たりでもするかのようにガラス窓を殴り、机を蹴り飛ばした。
俺を庇った先輩の頭部が目元にぶつかったのか眼前が暗くなる。視界がちかちかと眩しく全ての音が遠のいて、倒れたまま動けなかった。くぐもった耳に届くドアを破壊する音はあまりに暴力そのもので、これはたぶん怪獣が暴れているのだと思った。
怒声に怯まず、体勢を立て直す隙も与えず、応援を呼ぶ無線を飛ばそうとする警官を的確に撃ち抜いた男は、それでもまだ体力と技術には余裕がありそうな動きをしていたと気づいたのは部屋に静寂が戻ってからで、男はとっくに部屋を出ていた。纏う空気は余裕とは程遠く、触れる全てを切り裂くように鬼気迫り、喜怒哀楽を全て削ぎ落として殺意だけを飲み干したような横顔が、脳裏に焼き付いていた。
割れていた扉のガラスが重量に従って落ちる音に、引き伸ばされていた時間感覚が一気に戻ってがばりと身体を持ち上げる。追わなければと思った。ホルスターから拳銃を引き抜き、使命感にエンジンを掛けて廊下に飛び出した。黒い影はすぐそこにあった。壁を背にして佇んだ男と目が合う。僅かな乱れだけを見せる前髪の隙間から覗いた目は先程見せた獰猛さを潜め、代わりに黒く澱んでいた。
反射で標準を合わせ、遅れて回転を始めた脳が応援要請が必要だと警告し、焦って計算も何もなく咄嗟に無線に片手を掛ける。彼は動かなかった。拳銃を握っている右手も降ろしたままだった。俺が発する言葉を聴いているのかいないのかこちらの引き金のあたりに視線を向けていて、そのトリガーに引っ掛けた人差し指が強張った。俺一人に対処できる事態でないのは明らかで、このまま指示を仰ぎ続けたいが片手で拳銃を支えるプレッシャーに耐え切れず無線を肩に戻す。彼が細く息を吐く。人も物も壊し終えた建物に壊せる何かを補充をするためにいま俺に生存を許しているのかもしれない、そう思い付いて冷や汗が吹き出た。引き金に当たる指が震え、こつんと音を立てた気がして喉で息が詰まる。呼吸音が彼の耳に届いた瞬間俺は殺されるんじゃないかと思った。
しかし彼は俺に焦点を合わせることなくどこか遠くを見つめていた。その姿は途方に暮れているようにも見えた。がたごとと鼓膜を震わせる振動音はこの時間帯になると遠くから聞こえてくる電車の音か、もしくは幻聴か。その列車は終着駅を通り過ぎあてもなく走り続けて、いつかレールを外れ民家や人を巻き込み全てを薙ぎ倒す。だが目の前に立つ男は列車ではなく俺と同じ形をした人間で、俺は警官だから、彼を止める使命がある。
彼は緩慢な動作で少し首を傾げた。持っていた拳銃を仕舞うことはせず、もう片側の手で折り畳みナイフを取り出して刃を出す。近くで見る彼は薄着で防弾チョッキも何も身につけているようには見えず、無防備に心臓を晒しながらこちらへ歩み寄ろうとした。
コツンと軽い音を耳が拾う。男が足を止める。下を向いていた。目線を追うと何か落ちていて、数秒遅れてあっと自然に声が出る。俺のキーホルダーが落ちていた。姉の子供がくれたのでその場で携帯電話に着けてみせ、そのまま外していなかった機関車のキャラクターを模したキーホルダーである。鞄に仕舞っておいたと思うが、乱戦の中で飛び出して来たのだろうか。
彼は目を丸くした後、表情を緩めた。
「それはおまえではないし、復活には早い」
しゃがみ込んで、キーホルダーに触れる。
「なら、まだ間に合うだろうか」
過去に救われた己にとって希望そのものである言葉が聞こえ、俺は小さく息を呑む。先輩の姿を含む、この建物全体の惨状が俯瞰で脳裏に浮かんだ。不思議と怒りは湧かず、場違いにここにいるのは俺なのではないかという感覚を呼んだ。近い言葉で表すなら困惑だが、その困惑が地獄のような光景を生んでおいてそれを一切顧みない男の倫理観に対するものかと言えば少しピントはずれていて、かと言って合わせ方も分からない。
息を吸う。これは言うべき言葉ではないかもしれなかった。正義感や己の過去の祈りを裏切りたくはない。なにより感情よりも優先すべき法がある。男の言葉を肯定するべきかもしれない。だが、それでは届かない気がした。彼は俺と対峙してなおどこか遠くを見て違う世界で生きていた。浮世離れした雰囲気は、年齢も性別も分かりづらく彼の輪郭を曖昧にさせていたがいまそれを畏れてはいけない気がする。あなたと私は同じ形をしている。同じ世界で生きているのだと、言葉にしなければいけないと思った。先輩によって道を正され、世界に居場所を持った俺が俺の倫理で彼を見る。膝をついて視線を合わせる。
「間に合わない。あなたは」
震える自分の声に慣れず、言葉が切れた。彼はちらりとこちらを見た。
ナイフを落とし空いた左手で俺の握りっぱなしだった拳銃に手を添え、彼自身の胸に突きつける。数秒の間を置いて、彼はふっと息を吐いた。笑ったように聞こえた。
一瞬だった。
彼の背後からドアを開ける音、複数の足音、それが聞こえた時には彼は俺の拳銃から手を離していて、頭にごつんと衝撃があった。銃口が当てられたのだと遅れて理解する。乾いた発砲音が響いた。
「大丈夫か!」
頭蓋骨に穴は無く、俺は死んでいなかった。仲間の誰かが躊躇を塗り潰し俺の命を助けてくれた。
眼前に横たわった彼の虚な目と、床に広がっていく心臓を動かしていた赤をいつまでも眺めていた。