バイオレットバタフライケーキ「見てよマーク、スミレだって。いつまでも寒いままかと思ってたのに、もう春がきたんだね。」
3月のある日。
ガラスのショーウインドウに映ったスティーヴンの向こう側。クリスマスもバレンタインもすっかり終わったロンドンの小さなお菓子屋さんには、イギリスの遅い春を先駆けるようにルバーブのタルトやらイチゴのサンドイッチケーキが並んでいる。お店の外からも見えるように配置されたショーケースの片隅にスミレの砂糖漬けの乗ったバタフライケーキを見つけて、ふと何年も帰っていない故郷を思い出した。故郷の州花はスミレであったはず。扉の鐘の音でハッと気が付き、その時にはもうお店の中で。
「こんにちは!」
レジの隣で明るく笑う、マークよりずっと年下のエプロン姿のお嬢さんの声に、なにも買わずに出るのも気まずくて、小さなケーキを二つだけ買うとマークは店を後にした。
「マーク、二つも食べるの?」
しまった、思わず二つ買ってしまったが、このケーキはヴィーガンケーキじゃないじゃないか。ひとりで二つは多すぎるし、賞味期限は今日までと書かれていて、明日食べるのもなんだか戸惑ってしまう。
マークは少しだけ考えて、思いつくと携帯電話の履歴の一番上にあった番号へとリダイヤルした。何回かの着信音、すぐにレイラは出てくれた。片手に持つ小さな箱のことを彼女へあたふたと説明すると、
「ちょうど良かった。今日、お茶しないって、誘うつもりだったのよ。今からうちにいらっしゃいよ。」
なんて、示し合わせたかのようなお誘いが。
マークは嬉しくなって、真っ暗になった携帯電話の画面を鏡にスティーヴンへと結果報告をすると、彼は、知ってるよ聞いてたから、とおかしげ笑った。
「マーク、良かったね。ほら、行こうよ。」
スティーヴンの声はこの上ないくらいに明るくて、そういえば、レイラの声も明るくて柔らかかった。そんな二人から、マークはスミレよりもずっと春の陽気を感じていた。
「ようこそ。マーク、スティーヴン。
さぁ、入って。もう準備はできてるわ。」
招かれたレイラの家は、マークと二人で住んでいた家とはもう違っていたが、テーブルクロス、カーテン、ランプシェード、ふたりのお気に入りだったピーナッツバターの瓶だって、そのままで。懐かしくて、もうマークはレイラとは住んでなかったけど、ここだっていつ帰ってきてもいい"家"なんだと思わずにはいられなかった。
レイラの入れた紅茶に映ったスティーヴンは鼻歌でも歌っているんじゃないかと思うくらい上機嫌にニコニコとしている。
スティーヴンの映るティーカップの隣、カップとお揃いのケーキ皿に乗った小さなケーキは、白地のお皿の上で、スミレの砂糖漬けをちょこんと冠にして誇らしげに座っている。冠のスミレは花の形なんかすっかりなくしていたけど、それでも、淡くて深い青色はマークの知るスミレそのものだった。
「ねえマーク、今日がなんの日が知ってる?きっとあなたは意識してないって分かってるんだけど、この奇跡みたいな偶然に私はとても感謝してるの。」
だから言わせてね、と言うレイラの笑顔はマークの知る中でもとびきり素晴らしくて、マークは本当に今日が何の日か、彼女から言われるまで思いつけないのだった。
「誕生日おめでとう、マーク。」
笑顔のレイラがマークに言う。
「おめでとう。」
ティーカップの中からスティーヴンもマークに言う。今日は3月9日、3人にとって春の中でも、一年の中でも特別な日。
おしまい