僕は君の影踏むばかりパシ、と乾いた音。
姿も声も魂も同じ形をしたもう一人の『ミゲル』が目を丸くしてこちらを振り返った。
「どうしたんだ?」
「蜘蛛がいたから。」
手のひらに潰されて動かなくなった蜘蛛が乾いたように固まって俺の目の前に転がっている。『ミゲル』は死がいを指先でつまみ上げると小さなゴミ箱のポッカリと開いた丸い口へと落とした。
「普通の蜘蛛だったな。」
「珍しくもない蜘蛛だ。君も蜘蛛には詳しいだろ?」
「もちろんだ。俺も君と同じ分野を研究してるから。」
『ミゲル』がなぜ「普通の」と言ったのか俺にはわかりかねた。
「逃がしてあげればよかったのに。あの蜘蛛は別に悪さなんかしないんだし。」
日当たりのいいリビングの窓を指さした彼にそう言われて、何気ない彼の言葉に俺の胸の中心が針で刺されたかのようにうずいた。今まで室内に蜘蛛が這っていたら「普通」にそうしてきたという漫然な習慣に指をさされたようでやるせない。
「……悪いことをしたな。」
「次は俺が窓を開けるから、君が逃がしてやってくれ。」
そんなことを彼が言ったその日のことがずっと心に引っかかって忘れられずにいた。
腕の中にいる事切れた彼の体を抱きしめながらその日のことを俺は思い出していた。彼を助けたかっただとか、救えたんじゃないかとか、そんな事を考えながら、俺はあの日のことを思い出していた。
「俺もヒーローになれたらよかったのに。」
「君は君のままでいい。そのままでいてくれ。」
「君はそう言うと思ったよ。」
がっかりもせず最初からわかっていたという顔で『ミゲル』は笑った。
「……俺は君のようになりたい。」
「そんなのだめだ。君にはかっこいいヒーローでいてもらわないと。俺の夢なんだから。」
結婚生活も失敗して、…娘の成長を見守れるのはもちろん幸せだ、でも仕事もうまく成果をあげられなくて、最近は俺自身にいいことなんて何もないんだ、と彼は立て続けにやはり笑いながら言う。そんな俺にはきっと訪れない人生を語る彼が眩しくて彼のように笑うことができないでいた。
「悪くないじゃないか。俺は羨ましいよ、君が。」
「そうかな?俺は君が羨ましいのに。君は俺が羨ましいのか?」
「もし選べたら、俺はヒーローにならない道を選んでいたかも。」
「もったいない気がするけど。俺たち、同じなのに正反対のことを願ってて、変な感じだ。……でもだから気が合うのかも、ほらS極とN極みたいに。」
「……そうかもな。」
ちょうどその時、俺の右手の甲を蜘蛛が這った。俺はなんの感慨もなく左手で蜘蛛を叩いた。
パシ、と乾いた音。
あの日、笑顔だった『ミゲル』は失われてしまった。
もし君が俺で、俺が君だったらどれだけ良かったか。きっと君は俺より上手になんでもできてだろうし、俺がなれなかった本物のヒーローになれたんだろう。もうずいぶんと流していなかった涙の雫が頬を伝い、彼の青ざめた頬にハタハタと落ちていく。
「せめて君のそばにずっといられたらよかった。」
そうしたら守れたかもしれなかった。
「俺が変わりに撃たれてしまえばよかった。」
銃弾ひとつくらいこの体ならどうってことない。
「……。」
違う、と思った。それ以外のなにかが内側からミゲルの喉を、心臓を、無惨に破り裂いて外の世界に飛び出そうとしている。
「……。」
血と涙に濡れて一層に冷たくなった『ミゲル』の体を強く、強く掻き抱いた。こんな人生の終わり方をした彼がやはり俺は羨ましくてならなかった。
もし本当に君が俺で、俺が君だったら、君は俺を救えたんだろう。君に救われる俺は世界一の幸せ者になれるのだろうし、もし君に救われなかったとしてもこうして君の腕に抱きしめられるなら。
「……。」
彼の亡骸を抱えながらそんな事を考える自分自身を俺は心から軽蔑した。