君がそう呼ぶのならばモニターとスクリーンだらけのオフィスでミゲルは今日も仕事をしていた。オレンジ色に発光する光の粒子ばかりを見続けていると、太陽の陽の色を忘れてしまいそうになる。それが健全が不健全で言ったらもちろん後者なわけなのだけど、使命に駆り立てられているミゲルにとってはどうでもいいことだった。
あらゆる次元のスパイダーマンを観測できるようになってわかったことがある。
ひとつはあらゆる次元の『ミゲル・オハラ』を観測してみてもスーパーパワーを得るのはこのアース928の『ミゲル・オハラ』、つまり自分だけだということ。
ふたつめは蜘蛛から直接スーパーパワーを得ていないのは自分だけだということ。
無限に広がる数えることもバカバカしくなるの次元のすべてを見たわけではないのだから、本当にミゲルが一人きりであるとは言い切れないにしても、ミゲルに孤独感を感じさせるには十分だった。孤独は胸を押しつぶすような不安をミゲルに与え、安らぎから遠ざける。他の次元のスパイダーマンと関わるようになって少しは孤独感が薄れているかもと思うこともあったが、顔色は一向に悪いままだった。
「そもそもひとつの蜘蛛の巣に一匹以上蜘蛛がいることは正常な状態じゃないのかもね。」
スパイディたちを純粋な蜘蛛と比較するのもおかしなことだけど、と最も近しい電脳じかけの相棒であるライラがおどけた口調で言ってきた。彼女の光る指先はミゲルのためのメンタルクリニックのリストを作ろうとネットワークから情報引き出そうとしている。ライラの言ったこともしようとしてることもミゲルには、どこか他人事のように思えてならなかった。もしかしたら今まで自分のしてきたのことは間違っていたんじゃないのかと。定期的に発作のようにぶり返す消極的な考えに頭の内側から全身がゆっくりと鉛のように重たくなっていく。
「……少し外す。」
「……オーケー。ならついでに仮眠でもしてきなさい。」
「……できたら。」
「できたらね。」
オフィスの裏側にある自室とも寝室とも呼ぶには殺風景な部屋にある簡易ベッドにライラに言われた通りミゲルは横たわる。薄い毛布を頭までかぶり、目を閉じてみても眠りどころか睡魔の気配すら感じない。
眠らなくていい身体だとしても、元々は普通の人間だったのだ。1日や2日程度ならなんとも無いが眠れない日が何日も続けば当然どこかしらに不調が現れてしまう。ミゲルの頭の中にある重たい鉛の原因は単なる寝不足ではなかったが、それでも眠れたら少しは楽になれるはずだとミゲルは経験上わかっていたが、同時にこんなときだからこそ簡単に眠れないこともわかっていた。
こんなものは風邪と同じだ。しっかり休んで眠って食べれば治る。
念ずれば念じるほどミゲルの頭の中は重たくなっていく。
「スパイダーマンはいつだって皆を……。」
救ってきた。
自らを励ます言葉を呟いてみたが、かすれた声では言葉の形を最後まで保つことができない。
「……。」
眠れないまま横になり続けることもできなくでミゲルは緩慢にベッドから立ち上がる。うっすらと寒気を感じていたから、毛布を肩にかけたままオフィスに戻ってみると、そこにライラの姿はなかった。
「ライラ?」
ミゲルの呼びかけに返事はなく、オフィスは完全に無人であった。つけっぱなしになっているモニターやスクリーンに付属している機械に内蔵されたモーターの音があちこちから聞こえきて、その音はまるでミゲルを呼んでいるようだった。肩からずり落ちた毛布を引きずりながら、ミゲルはさっきまでいたモニター前まで歩いていく。
ぼんやりとモニターとスクリーンを順番に眺めていると、あるモニターに映し出されていた光景に目が止まった。
モニターの中で異常な炎が上がっていた。
「何だこれは、どうしたんだ。」
爆発の火の手が上がり、粉塵が舞い散っている。緊急事態の警報が鳴らないことから異次元のヴィランが現れたわけではなく、その次元にいるヴィランが暴れまわっているようだった。
モニターの中で人々は逃げ惑い、その中には最近ミゲルが見つけた『ミゲル・オハラ』の姿があった。家族がいて、平穏で、ミゲルの持ち得ないものを持っている、ミゲルから最も遠い運命を辿る『ミゲル・オハラ』。一目彼を見たときから彼のように生きられたらと何度思ったか。そんな『ミゲル』が今、危機に陥っている。あの『ミゲル』はスーパーパワーもないただの一般人でもしかしたらこの騒ぎの中で命をつなぐ落としてしまうかもしれない。
ミゲルはそう思い至った。そして。
行かなければ。
そう思った。
遠くからサイレンの音が近づいてきていた。爆発は収まり、粉塵もゆっくりと風にさらわれていく。透明になりゆく空気が目の前にいる彼の無事をミゲルに教えくれた。
「……君。」
初めて聞く『ミゲル』の声。語尾に疑問符がついているようにミゲルには聞こえた。それはそうだ。この世界にスパイダーマンはいなかったし、この『ミゲル』の住む地域で活動しているヒーローがいないこともミゲルは知っていた。不気味なスーツに身を包んだ男が目の前に立っていたら困惑するのも当然のことだった。
「君、なんなんだ?何者なんだ?」
「俺は……。」
言い淀んでしまう。勢いだけでここに来て、ヴィランを制圧してしまった後のことなどミゲルは少しも考えいなかった。スパイダーマンだ、別次元の君だ、君のことを知っている、どれを言うべきなのかミゲルは迷ってしまってどれひとつとしてまともに言葉にできない。
言い出しそうで何も言わないミゲルの姿が面白かったのか『ミゲル』は破顔する。
「言えないなら言わなくていいさ。ヒーロー。助かったよ。」
握手を求めて手を差し出した『ミゲル』が言った「ヒーロー」の言葉にミゲルの心臓は跳ねる。握手を返すと伝わってくる『ミゲル』手のひらの温かさにさらに心臓が跳ねてしまう。
「ヒーロー。なのか。」
「そうじゃないのか?俺を助けてくれただろ?」
「……そう、だ。」
そう言う『ミゲル』の屈託のない笑顔に、ミゲルの頭の中の重たい鉛が溶けていく。
「ありがとう。」
とどめを刺すように彼がそういったものだから、ミゲルは顔を隠すマスクの下で静かに涙を流してしまうのだった。