【ブラネロ】時告蝶のたより「……ハハ、てめえどこから来た。ここは俺の氷雪鷲ですら入り込めねえっつうのに」
目の前に立ったその幼子の姿に、思わず笑みがこぼれる。
小さな口がぱくぱくと動くと、シャリン、シャリン、と鈴の音が重なったように耳に響く。
「……ああ、なるほど。てめえがそうか。……まあ、どうせ届かねえ声だ。いちかばちかの賭けも悪くねえ」
それは、誰も知らない夜のこと。
儀式のために雨の街に行こう、という日の朝の事だった。
食堂の窓の外を眩しそうに眺めていたスノウとホワイトが、あ、と声を弾ませたのは。
「そんな時期か」
「もう百年か! 早いのう」
「早いのう」
ミルクと蜂蜜たっぷりのコーヒーを二つ運んできたネロは、思わずん? と彼らの視線を辿り外を見た。
「なんの話?」
「おおっ、ネロちゃんコーヒーありがとう!」
「んー甘い蜂蜜の香りっ」
「俺も気になってました。何か、見えます?」
彼らに挟まれるように座っていた晶がネロと同じく不思議そうに窓の外を眺める。
窓の外は青空が広がっているだけだ。……と。
「あ、なんかヒラヒラって光りました?」
「それじゃそれじゃ。賢者ちゃんにも見えた? あれは蝶」
「蝶、ですか」
青空に小さく、チカッチカッと何かが光を反射するように時々光るものが見えるのだ。なるほど、言われて目を凝らせば、それは蝶の姿に似ていた。
スノウが、そうじゃ、と深く頷いた。
「時告蝶、という」
「ときつげちょう」
「さなぎになって約百年後に羽化する、不思議の蝶じゃ」
時告蝶。聞いたことがない。食材の名前なら割と覚えてるんだけどな、とネロは首を捻る。だが、この二人が知っているということは北にもいる蝶だろう。
彼らは元々北を本拠地として、滅多に外の国を回らなかったから、ほんの少し知識が偏っているはずなのだ。
ネロちゃんも知らない?とホワイトが首をかしげて、それからコーヒーを嬉しそうにこくん、とひと口嚥下した。
「ん、おいしい。……時告蝶は、不思議な性質を持っておる」
「さなぎになる直前に偶然が重なれば、羽化した時に奇跡を起こす」
スノウがホワイトの言葉を継いで続けた。
奇跡。
ミチルやリケが聞くと目を輝かせて身を乗り出しそうな響きだ。
あいにく歳を長く重ねた自分は、苦笑しか浮かばないけれど。
「どんな奇跡が起こるんだ?」
尋ねたネロを見上げてから、双子は顔を見合わせてくすくすと笑った。
「朝の夢、これかの」
「これじゃの!」
「ネロや、我らが今教えずとも、きっと、わかるじゃろう」
「我ら、夢に見た」
「ねー」
「ねー」
「えぇ?いやどういう……」
夢に見た、というのは予言か。多くを語らず、二人の話題は昨日のオズとミスラの諍いに移っていった。
夜。
儀式を終えて、ハーブ園から店へ移動して、シノとラスティカとブラッドリーに料理を振る舞っていたネロは、裏口へ出る扉に手をかけた。
「? ネロ、どうしました?」
シノの隣から晶が伸びあがって声をかけてくる。
ネロは笑って軽く手をふった。
「ハーブ、もうちょっと取って来るよ」
「手伝いましょうか?」
「いい、いい。すぐ戻るからさ」
外は少し湿り気を帯びた風が吹いていた。
心地よい夜だ。
ハーブ園まで少し大股で歩きながら、ネロは頬が緩むのを抑えられない。
ラスティカはともかく、シノやブラッドリーが、あんなに良い言葉を贈ってくれるとは思っても見なかった。
「記録しときたかったな……」
晶の世界には、映像と音を手元に残せる掌サイズのからくりがあるらしい。
今宵は、それが羨ましいと思った。
どれだけ鮮やかに記憶に刻み込まれても、いつかは掠れて、忘れてしまうから。
ブラッドの言葉。
……背中を押されたような、今の自分を肯定、されたような、そんな心地がした。
都合のいい解釈かもしれねえけど。
「ネロ」
「ブラッド? 何だよ、ついてきてもハーブしかないからな」
「わかってるよ。畑で肉が成るかよ」
ブラッドリーが笑って、ネロよりさらに大股の(長い脚の成せるわざだ)数歩で隣に並んだ。
「良い夜だからな、風にあたりたかった」
「あー、確かに雨も降らなかったし気持ちいい夜だよな」
心がほぐれて、声が和らぐ。
他人同士のふりに互いに慣れてきて、それと比例するように、二人きりの時に穏やかな時間が増えてきた。
まだいろいろとしこりはあるけれど、見て見ぬふりをして、刹那的な穏やかさについ甘えてしまう。
「さっきの干し肉のやつ美味かったな」
「中央だとちょっと気候が違うから乾燥しすぎるんだよな……でも今度やってみようかな」
「お、いいじゃねえか。……っ」
「? ブラッド?」
ハーブ園に足を踏み入れ、目当てのハーブを摘み始めていたネロはブラッドリーの纏う空気が一瞬で変じたことに気付いて顔を上げた。
「……? 蝶? あ」
ブラッドリーの視線の先。
光をまとう蝶がひらひらと飛んでいた。
昼間の会話を思い出す。
時告蝶か?
そういえば、双子が言っていたなと思い出す。
言わずともわかるだろう、と。
「珍しい蝶なんだろ、それ。……ブラッド?」
「チッ、ネロ、さっさと店に戻れ」
「は? おい待て物騒なもん出すな!ここでそれぶっぱなしてみろ、マジで許さねえぞ!」
手に長銃を出現させたブラッドリーに、ネロは慌ててその銃身を掴んだ。
「放せ、てめえは聞かなくていい……ッ」
「え」
聞かなくていい?
その言葉に思考を止めた、その時だ。
蝶がじわりと姿を変えた。
「……っ!」
ひゅ、と、喉が鳴る。
目の前に、ブラッドリーが座り込んでいた。
両手、両足首に枷をされ、薄汚れた姿だ。
傍に、手をつけられていない粗末な食事が置かれている。
彼は、こちらを見て、笑った。
どこか、疲れた笑みだった。
「……ハハ、てめえどこから来た。ここは俺の氷雪鷲ですら入り込めねえっつうのに」
「……ああ、なるほど。てめえがそうか。……まあ、どうせ届かねえ声だ。いちかばちかの賭けも悪くねえ」
目を伏せた彼は、じゃあ、叶うならあの男へ、と、囁いた。
「見るな、おい、もういいだろ、ネロ!」
ブラッドリーがいつになく焦りを帯びた声で何かを打ち消すように怒鳴って、次の瞬間、目と耳を塞がれる。
夜鳴きしている虫の音も、風音すらも聞こえなくなったというのに、周囲の光景は闇に消えたというのに、それでも声は耳に響いて、その姿は闇の中に鮮やかに浮かび上がった。
百年先だったか?まあ、確か届く確率も奇跡レベルっつってたか。
……まあ、北は抜けてるだろうな。生きているか?
ここの飯は食えたもんじゃねえ。もうぶち込まれて五十年、まともに食ってねえ。
「っ」
ここは退屈で時間を持て余して困る。
余計な事を、じっくり冷静に考える余裕があって、困るよ。
なあ、どうすりゃてめえと笑って生きていられたんだろうな。
よく考えりゃあ、てめえの全開の笑顔は随分若い時のもんばっかりでよ……気付きたくなかったなあ。
「……」
ぐ、と、目を覆う手に力がこもる。痛いほどに。
一度離れた線が、また重なることはねえかもしれないが、まあ、俺がこういうのもなんだけど。
せめて達者で暮らせてたらいい。
俺もせいぜい、お前がどこかで泣かねえように、何があっても生き残ってやるからよ。
……あー、そうか、今日は誕生日じゃねえか。
まともに祝いの言葉も最近はくれてやったことなかったな。当たり前になってて、もうすっかり忘れちまってたなあ……。
誕生日、おめでとう、ネロ。
何があっても、愛してるぜ、俺にとって、唯一の相棒。
どうか、どこかで、幸せに。
そこに俺がいりゃあ、最高だけどよ。
「……は、……ッ」
ぶわ、と。
激情が溢れて、闇の中見開いた目から零れた。
びく、と震えた手が離れて、少し乱暴に目元を擦られて、直後に、映像はふ、っと途切れる。
「ブラ、ブラッド、これ、」
「くそ、……っ」
ブラッドリーの顔は見れなかった。見上げるより先に、拒むように抱きすくめられたからだ。
言葉にならない、熱の塊で、息がつまる。
ただ、抱き締める身体が僅かに震えているのを感じて、ネロは背中に手を回した。
重なった線の行く先は、同じ方向を向いていたらいい。
唯一絶対の男の匂いと熱を感じながら、ただ、それだけを強く思った。