てめえは記憶喪失か!「よおネロ、飯食わせろよ」
出入口の扉を開け、ブラッドリーが店に入ってきた。挨拶もないのはいつものことだ。
どう見てもカタギには見えないが、異様に似合っている柄物のシャツとスーツに身を包んだ長身を屈め、昼休憩中で内側に仕舞ってあった暖簾を慣れた様子で潜り、勝手にカウンターのど真ん中のスツールに座る。
「あー、腹減った。飯大盛りな」
そう言いながら長い足を組み、隅に置いてある新聞の束を手に取ってまず広げるのはスポーツ面だ。しかし、ゲームの内容に興味があるわけではない。チームの勝敗だけを確認し、満足そうに頷くと、スマートフォンを取り出して何者かに暗号みたいな数字と記号の羅列を送る。意味は分からないが、どうせ一般人には関係無いろくでもない内容だろう事くらいは分かる。
あとは適当にページをめくり、真剣な顔で政治経済面を読んでいたと思ったら、アダルト面では「なあ、この女のおっぱい、てめえは本物と偽物どっちだと思う?」と楽しそうに見せてくる。
そんないつも通りの男の姿をネロは呆然と眺めながら言った。
「……てめえ記憶喪失にでもなったのか? 俺ら、昨日別れたよな?」
もう無理だ。こんな自己中と一緒にいたら自分が駄目になる。もう耐えられない。
そんな想いをネロが恋人であるブラッドリーにぶちまけたのは、昨夜の事だ。
それまでにも、耐えられなくなった事は何度もあった。その度に危ない仕事をするのは止めて欲しいと何度も言った。
ネロだって昔はブラッドリーと組んでろくでもない事をやっていた時期もある。だが、いい加減そんな綱渡りな生活に嫌気がさし、好きな料理で生計を立てたいと一念発起して店を出したのは数年前のことだ。幸いすぐに常連が付いて、なんとか今までやってこられている。
だから、今まで何度もブラッドリーを誘ってきた。一緒に店をやろうと。
「確かに今みてえな派手な生活はできねえよ。でもさ、サツに追われることもねえし、どっかの組にタマ狙われることもなくなるんだ。──そうだ、てめえの商才がありゃ、今より店もデカくして稼げるようになるかもしれねえ。そしたら、多少金にも余裕が出来るようになるよ。──だからさ、俺と一緒にやろうぜ。てめえの好きな食いもん毎日作るからさ」
ネロとしては、毎回が一生に一度の告白の気分だった。だが、ブラッドリーの返事は毎回つれないものだった。ネロの真剣な気持ちは分かってくれて茶化すことはしなかったが、最後には「俺にはそんな生活向いてねえよ」と言われておしまいだ。それでも、ネロは本気で願っていた。愛する者の命がいつか消えてしまうのではないかと精神を擦り減らす生活が、いつか終わりを告げることを。
だから昨夜、顔中を血だらけにして閉店作業をしていた店に転がり込んできたブラッドリーを手当しながら言った言葉は、いわば最後通告のようなものだったのだ。
「てめえが今後も変わるつもりはねえって言うなら、俺が離れるしかねえよ」
もう、心臓が凍り付くような想いをしたくなかった。病院には行けねえと言われ、一晩中恋人の身体に空いた穴を布で押さえて止血しながら、青ざめていく顔を絶望的な気分で眺めるのは、もううんざりだ。
今回の頭の傷は血が派手に出ただけで大したことはなかったが、いつ頭をカチ割られて脳ミソを垂れ流す事になるか分かったもんじゃない。そんな恋人を看取るなんてごめんだ。
そんな気分で覚悟を決めて言ったのに、頭にガーゼを貼ったこの馬鹿な男は、「おい、ネロ。どうしたんだよ。こんな傷いつもの事だろ」とネロの頬を手の平で軽く叩き、「そんな顔すんなよ」と血がこびりついたままの唇で誤魔化すようなキスをしてきたから、いい加減ブチ切れてついに言ってしまった。
「もう無理だ。てめえとは別れる」と。
「別れた次の日に、元恋人の飯屋に食いに来る馬鹿がいるか!?」
入り口に現れた姿を見た時は、一瞬本気で幽霊かと思った。ついに奴は死に、それでも生前の習慣を忘れられずに店にやって来たのかと。
しかし、スツールに座った男から、血の匂いが混じったいつもの香水が鼻先をくすぐった瞬間わかった。ああ、幽霊じゃなくてただの馬鹿が来ただけだ、と。
「うるせえな。良いから飯よこせ。こっちは昨日の夜からなんも食ってねえんだよ」
「そんなてめえの事情なんか知らねえよ!」
そんな事を言ったら、こっちだって昨日は一晩中眠れなかった。
別れると言った直後、ブラッドリーは本気とは思わなかったようで寧ろネロを床に押し倒し、「サービスするから機嫌直せって」と服を脱がせようとしてきた。だが、そのがら空きの腹を拳で殴りつけてやったらやっと真剣だと気付いたらしく、舌打ちをしながら夜の街へと消えていった。
そこからは、腹立たしいやら悔しいやら、果てはこの期に及んで男の怪我を心配している自身への怒りなどで到底寝付けるわけもなく、結局空が白む時間に起き出して店の仕込みを始めたのだ。
「てめえとは昨日すっきりきっぱり別れたんだ。食わす飯はねえよ」
「なんだよ。客を選ぶのか? ちっせえのにご立派な店だなあ」
「んなの当たり前だろうが! こっちだって商売してんだ。客くらい選ばせろ!」
自分が出した大声で、寝不足の頭がジンジンと痛む。それもこれも全部、この目の前で仏頂面をしている男のせいだ。
「クソ、頭は痛えし……」
指先でこめかみを抑えながら溜め息を付く。そこに男の手が伸びてきた。なんだよと言う前に、そっとネロの手を大きな手が覆う。
「具合わりいのか? 大丈夫かよ」
本気で心配しているらしい優しい声に、心臓が締め付けられたように痛む。「──平気。片頭痛みたいなやつだから」と男の手を振り払ったが、本当は手の温もりをもっと感じていたくて、更にそんな事を考えてしまう自分に腹が立ち、ネロは天を仰いだ。
「──なあ、頼むからさ、出てってくんない? そういうわけで夜営業までちょっと寝てえんだよ」
「……わかったよ。ゆっくり休め」
ブラッドリーは、今度は素直に席を立った。そうだ、こいつはそういう男なのだ。自分こそが第一だと公言する自己中な癖に、こういう時は意外な程の優しさを見せる。だから周りには人が集まるし、自分もそんな男に惹かれて側にいた。
ブラッドリーは「薬飲んどけよ」と振り返りもせず手を振り、出入り口へと歩いていく。何十人も入れない小さな店だから、彼の長い足なら数歩程度だ。その手が扉に掛かった所で、ネロはたまらず男の背中に声を掛けた。
「なあ、ブラッド。サンドイッチでよければ持ってけよ。日替わりで残ったチキンカツ挟んだだけのやつだけどさ」
「まじかよ!」
振り返りざまの笑顔を見た瞬間思う。やっぱり自分は、この男に心底惚れていたのだと。
すぐに用意するから待ってろ、と自分のランチ用に作っておいたサンドイッチを取り出し、テイクアウト用の紙箱を組み立てていると、いつの間にか戻って来た男の手が伸びてサンドイッチの一番端を素早くかっさらっていった。
「うめえ! 何かソース付いてねえ? 挟んだだけじゃねえじゃん」
「全くてめえは……、こんなちょっとの間も待てねえのかよ……」
呆れながら、もうここで食ってけよ、と皿を渡してやると、ブラッドリーは先程まで座っていたスツールに座り直し、うまいうまいと言いながら食べ始めた。そんな顔を呆れて眺めながら、珈琲も淹れてその横に置いてやる。
「まるで飢えた野良の犬っころだな」
「だから言っただろうが。昨日の夜、ここ出てから何も食ってねえんだよ。ここ数年はてめえのとこでしか飯は食ってねえから、家に食いもんなんてねえしよ」
「……そうかよ。どっかの姉ちゃんのとこにでも行ったのかと思ってたよ」
「──そんな相手、てめえと寝るようになってから作ってねえよ。そんなんてめえが一番よく知ってんだろうが」
「……そうかよ」
(──そうだよ。知ってたよ。どんだけイイ女に言い寄られても靡かねえって、夜の街で噂になってたのも、信頼できる奴ら以外にこの店の存在がバレないように、来る時も用心してくれてるのもさ……)
何だか泣きたくなってきた。だが、ここで絆されるわけにはいかない。もう、決めたのだ。
「あー、食った食った。ごちそうさん。美味かったぜ」
「……そりゃよかったよ」
皿を流しに置く音で鼻をすする音を誤魔化し、ネロはさり気なく腕で目を拭った。もう、これで本当に終わりだ。
「──なあ、これ店のメニューに入れろよ。絶対受けるぜ。いつだったかてめえ俺に商才あるって言ってただろ。その俺様が言うんだから間違いねえよ」
「ああ、そうだな。考えておくよ」
絶対だぞ、と言いながら、男が今度こそ店を後にする。扉に手をかけ、振り返る顔は落ちかけの太陽を背にしているからか、いつになく感傷的に見える。
「頭のガーゼ、ちゃんと替えろよ」という小言に「へいへい」と軽い返事が返って来た所で扉は閉まり、「……元気でな」というネロの言葉は誰にも届かず宙に消えた。
(……わかってんだよ。未練タラタラなのは俺の方だって)
本当なら、今すぐにでも男の背中を追いかけていきたい。そして背中に縋りついて別れるなんて嘘だと喚きたい。
(だけどさ、そんな勇気も俺にはねえんだよ)
こんなうじうじした男なんか、あの男には似合わない。だから、別れるべきなのだ。
(……でもさ、それでも、あの笑顔をすぐに思い出せなくなるくらい時間が経てば、また飯を一緒に食う程度の友人に戻れるかもな──)
こんな呟きを聞かれたら、「ポエムかよ」と笑われただろう。男に出した最後の食事の皿を洗いながら、ネロは瞳に涙を滲ませながら想像して小さく笑った。
(多分、この恋を忘れることは一生出来ないんだろうな)
「よおネロ、腹減ったー。昨日のチキンカツサンドまた作ってくれよ。ってか、メニューにまだ載せてねえじゃん。てめえはさ、そういう尻が重いとこあるから駄目なんだよ。もっとこういう時は商機逃さねえようにさっさと動かねえと──」
「なあ! てめえはさあ! やっぱり記憶喪失なんじゃねえかなあ!?」