やっと見つけた私の蒼「まさかそんな先輩が失敗するなんて」
「シッッ!」
街のとある酒場にて。最近春が来たと言われており、季節外れではと何も事情を知らない部外者が突っ込みを入れればラグヴィンドに春が来たんだよ!と言われる始末。酒場のオーナーも否定せずにカウンターに立つのだからこれは秒読みだとお祝いムードが流れていた……はずだったとジンは記憶している。少なくとも数日前は。しかし、今日酒場に来れば何やらお通夜ムード満載であり、いつもは元気な先輩のピョロ毛も全く元気は無く萎れてしまっているのである。せっかくだから気が早いが祝辞でも思えば何事か?と思ってこっそり周りに聞けばまさかの展開であったのだ。
「もしかして例の青髪セクシー美人というやつか。三つ編みが可愛らしい異国の」
「でも金を巻き上げたわけでもないし、ハニトラでもなさそうだぞ」
「まさかまだ何も無かったのか!?じゃあむしろなんでディルック様が逃げられるんだ?相手が迫ってきたとかではなく?」
「過去の見合いじゃないんだぞ?まああれはあれで酷かったんだが……」
「ご注文はこちらでよろしいですか?」
好き勝手言う客にそれ以上は許さないとばかりにジョッキをドン!と大量に置くバーテンもとい、オーナーのディルック。酒の席というのは話の肴に噂話をするものではある。しかし、あまりにも琴線に触れるものは全て燃やし尽くすのではないかと思えるほどに瞳に業火を灯したディルックに怯えた客がバタバタと逃げてゆく。慌てた後輩のジンが声をかけようとしてもかけられず、代金だけ置いてお辞儀をして出て行くのを見届ければほとんど客がいなくなっていることに気がつき、店員のチャールズにも今日は店じまいをした方がいいと進言されるまで、ディルックは自分の不調に気が付かなかったくらいなのである。
「……何がいけなかったんだ」
仕事は仕事であるし、自分はバーテンでもある。むしろ急遽休んでもして弱みを見せるわけにもいかない。そう考えていたと言うのに心身共に参っていたらしく、顔が暗いとまで言われる始末。正直なところ身体に力が入らない。そう言えばあまり食べていなかったなと思ってカウンターに手をついていれば、怒った顔をした屋敷のメイド長がバーの出入り口に立っていたのである。
◇◇◇
『信じられないわ!ガイア!どうして断るような真似をしているのよ!今ならまだ間に合うから!』
怪我が治り、陸からようやく戻って事情を話せばリサには必死に考え直すように言われたが、今は1人にしてくれと自分の貝殻の家に引っ込んでしまった青髪美人もとい、人魚のガイアの姿。部屋の隅に体育座りをしていじけていれば海の魔女からの言葉がリフレインしてくる。
『何が不満なのよ!!貴方のことこんなに考えてくれる人なんていないわよ!?』
「……だからダメなんだよ……」
ぐすっと鼻をすするガイア。そう。こんなにも隣にいて安心できる男性など居なかった。まず幼い頃から身寄りがなく、独り身であったガイアを一人の人間として接し、何よりも丁重に扱った。嬉しくないわけがない。舞い上がっていたと言われても過言ではなかったかもしれない。自分のことを身寄りのない人魚だからと邪険にしない。むしろ何処へ行くのにも寄り添ってくれるし気もつかってくれる。怪我をする前からとても大事にしてくれているのは行動の端々でわかってはいた。
『これでワイナリーの将来も安泰だな』
『そういえばあそこの貴族のお嬢さんとはどうなったのかしら』
『ガイア様がいらっしゃるのだから話はなしだろう?』
『じゃあ取引は?』
『それはディルック様が判断されることだから……』
『ガイア様がせめて女性なら良かったんだが……』
『滅多なことを言うな!このままだと本当に結婚もしそうにないディルック様が前向きになったんだぞ!』
『そうそう。見合いだって千切っては捨てみたいなディルック様がだよ!?』
そもそも冷静に考えて、あの年頃なら同じような条件の貴族の女性を迎えて後継、という話をしなければいけない。いけないのである。
従業員の会話が聞こえ、ハッとしてしまったのだ。街の人間はガイアのことを完全に女性だと思って察して居たのかもしれない。街の人から聞こえてきた会話だってそうだったのだから。
『あの方は何処のご家庭の方なの?アルベリヒなんて貴族は聞いたことなかったけど……』
『まあまあ。ディルック様が連れてきた女性なのだから……』
『別にこれが普通の家庭だったら口出ししないけれど、ラグヴィンドがどこの貴族と契約を結ぶかでこの街が安泰か決まるでしょう?』
ディルックには立場があるし、守るべきものは沢山ある。この時点ですぐ引き返すべきだったのだ。ディルックという男に相応しいかどうか。それを考えれば良かった。よかったのにガイアは自分と一緒になれるディルックの姿しか想像していなかった。自分にだけ優しいなどつけ上がってもいけなかった。できた人間が周りの人間に優しいなど当たり前の話なのだから。
「……俺は、ディルックに相応しくない」
遠くから眺められればいい。きっとディルックは相応の素敵な女性と結婚して、将来的に赤毛の可愛い子どもと手を繋いでいるのだ。自分は隣を歩けるわけではない。ディルックの幸せだけを願えれば良いのだ。
そもそも人と人魚が交る話など聞いたことがなかったのだから。
「願うだけなら……見るだけなら良いよな……」
結局姿だけならと我慢できず、海沿いにまた来てしまったガイア。そっと窓辺を確認できれば良いと思ってしまったのである。街へ遊びに行った時にディルックが手配してくれたルートは覚えていたので街側から様子を覗かないかと考えたが、ちらりと覗いた所、屋敷の正門は記者を締め出しているのが確認できたので、結局海側……いつもの入江から確認するしか無く、仕方なしにウロウロしていたのである。そういうことをするならどうして黙って出てきてしまったのだと言われそうな話なのだが、入江に向かう洞窟の前で迷っていれば、そこに新聞のはしきれのようなものが流れてくる。
『ワイナリーのオーナー、重病か?』
「……え?」
ガイアが手にした雑誌の切れ端のようなものには衝撃的なことが書かれていたのである。
◇◇◇
一方屋敷ではというと……
「はぁ……」
食欲はわかないし、体力も落ちがちな気がする。いつも肉や乳製品をもりもり食べていたというのに全く食べる気が起きず、余計に身体の調子が悪くなるばかりなのである。それでもガイアが寝泊まりしていた部屋で寝込もうとすれば、まずそもそもディルックの体調不良は精神的なものがあり、流石に余計に酷くなるからやめるように言われて自室で寝ていることしかできない状態になっていた。
あの後、酒場でフラフラになってしまったところ、そんな状態では無理だ!休め!と周りの部下たちに屋敷に担ぎ込まれ、事前に連絡がいっていた執事とメイド長にしこたま怒られつつ、一応医者には疲労とは言われたが、周りも原因がわかっているためにそっとされていると言うのが現状である。内外の広報の対応はしてくれているらしいのでもう何もかもまかせて安静にしているしかできないオーナーという図が出来上がってしまった。
しかし、いくらなんでも恋煩いとも言えず、体調不良ということにはしているが、噂好きの狭い業界もとい街である。酒場であんな話もされていたのだから街中に広がっているだろうと察知しつつ、また考えれば具合が悪くなるとばかりにベッドに潜り込むのである。
「信じられない……」
気分が悪くなりつつも眠ることができずにベッドで寝返りを打つのだが、正直ここまで自分が弱いなどとは思っても見なかったし、こんなに弱ったのはいつぶりだっただろうか。下手をすれば父親が亡くなった時でさえここまで落ち込んだが怪しい気がしていた。
「僕は薄情かな……」
父の葬式でも泣かないと言われていたのは知っている。だが残された家のものが自分しか居なかった時点で自分が取り乱すわけにはいかなかった現状がある。
それに……どこか実感が湧かない。男手一人で育ててくれてよく家を留守にすることも多かった。朝起きたら出張などざらだった。だからある日ひょっこりとまた玄関から帰ってきたと顔を出しそうな気がしているのかもしれない。
それに、母がいない分、周りに迷惑をかけてはいけないと思っていたのも大きかっただろう。感情を口に出すことは大人になるにつれ、あまりしないようにもなった。貴族の社会は情報を軽々しく渡してはいけないために大人の付き合いはするが、表情がどんどん死んでいっていたことは自覚していた。それにつれて感情が動くはずもなく、また見合い等も幼い頃から下心のある人間というのは多く近づいてくるもので感情が動かなくなっているというのは自覚していた。
それに、すぐに亡くなってしまった母に対してもラグヴィンドの奥方はやはり短命なのだというジンクスが付き纏っていたのは知っている。
もしガイアが毒殺でもされたら?不審死を遂げたら??
そう考えるだけでゾッとする。もし自分に巻き込まれて政敵に狙われたり、殺されでもしたらと思うと正気ではいられない。
『……僕にはどうしてお母さんがいないの?』
幼い頃、父に尋ね、抱きしめられた記憶が蘇る。ディルックの母はディルックを産んだ後すぐに亡くなったらしいが、人為的なものかもしれないという話さえ出ていたのだ。ガイアは子どもを産めるとは思えない。時々中性的な言動をするのが気になる……というより一人称は俺だがどうにも女性っぽい行動を取るのはそれはそれで気になってはいる。が、それはともかく……色々考えれば、どこかで幸せに暮らしている方がガイアの為なのかもしれない。そう。きっと自分は家族というものをもう失いたくはない。ならば作らなければとも思っているのかもしれない。見合いにも伴侶の話にも前向きではなかった自分はきっとそうなのだ……と、ここ数日そう言い聞かせていた。
『ディルック!』
でも、そんなことは全く無かったのだ。何も計算もせず、無邪気に飛び込んでくる人魚が愛くるしくて堪らなかった。建国の狼がいたかもしれないという丘の入江近くで優雅に泳いでいたあの光が差し込めば虹色に光る鱗が美しい人魚。命が生まれ育まれたとされる場所での必然的な出会いだったのか。それとも幻だったのかもしれない。でも己にとっては幻でもなんでもなく確かにそこにいた現実だったのだ。
月の光のベールを被ったガイアは美しかった。まるで青い身体に白いドレスを着ているかのようでいて、自由で優雅に泳いで微笑んでいた。きっとドレスを着ても美しいし、ガイアには白が似合うとも思った。本人は謙遜するが、入江近くの遺跡の大理石に腰掛けていたとき不思議と調和が取れていたというか、雰囲気があっていたのである。神殿の前に佇むガイアは何処か神秘的でいて、それでいてこちらに顔を向ければ笑顔で微笑んで。政略やら財産目当てで笑う女達とは違っていた。
「……本当に困ったな。君のことが忘れられない」
大理石に囲まれているガイアも美しいが、海の水面から顔を出すガイアを見ると今日はどんな料理にするか、酒は何を持って行くかと考えながら料理をしていた日々が懐かしい。なによりも誰かのことを考えながら準備をするというのがこんなに楽しいとは思わなかった。あれを持っていけば喜んでくれるだろうか。味付けはこちらが好みだろうか。あの入江からぴちょん!という可愛らしい音がすればガイアがいそいそと餌付けというわけではないが、今日はどんなご馳走があるだろうかと期待を隠せない顔をして、尾鰭をパタパタ振ってやってくるのが微笑ましかった。一時夜明けまで語り尽くしてしまい、帰ってから片付けもそこそこに寝てしまった記憶もある。それを人に言えば絶対にどうして手を出さなかったのだと言われるので人には言えない。
「……あんな美しい人魚を穢せるわけがなかった。あの時の僕はそう思っていたんだ。逃げるなんて考えもしなかったから」
そう。あの時の夜明けは、こんな乳白色が水平線から顔を出しているような綺麗な海だった。朝ぼらけの薄桃の空がみるみる明るくなり、海岸は白い砂浜にエメラルドグリーンの波が小さな泡を立てて打ちつけてくる。時々珊瑚のかけらが人魚の体重に負ける音がしつつ、人魚が頑張って陸に上がろうとしているところをよく手伝ったものである。人魚は下半身は魚でも成人男性の身体なのだから重くて当然なので音がなるのだ!と必死に言っていたが、男性的な重さというよりも全体的に肉つきが良く、むしろ安産体型なのでは?とも思ったことが余計にガイアを中性的に思わせた。
真珠と珊瑚のアクセサリーを見に纏い、シースルーの衣装を着て長い尾鰭を優雅に揺蕩わせながら泳いでくる姿もやはり印象的だった。そのままどうにかして捕まえていたかったが、騙して手元に置いておくなど密猟者のようだとも思ったし、彼の嫌がる顔は見たく無かったから自由にさせたのだ。やはりあの人魚はなんの束縛もなく、空気を纏うかのように水を纏っている姿が美しいのだから。そう、あんなふうに顔を出して、愛くるしい顔とその海の色の瞳と真珠のような柔らかい輝きを添えて……
「……??」
見間違えるはずもなかった。どう見ても覚えがある青い髪が不安そうに波打ち際に揺蕩っている。今にも瞳から涙がこぼれ落ちそうな顔をしつつも、ぎゅっと手を胸の前で合わせてオロオロと入江の前で泳ぐ人魚など一人しか心当たりがない。そう思った瞬間、ディルックは屋敷を飛び出していた。
◇◇◇
「ガイア!!」
「でぃ、るっ……!?」
夜明けならバレないだろうと早朝に入江の近くに来たのが間違いだったのかもしれない。体調が悪いからきっと寝ているだろうと。それに別邸にいる保証などない。無事な様子され見られればすぐに尾鰭を返して海の底へ戻ればいい。あの静かで暗くて深海魚が泳いでいる場所へ。
彼の幸せを願えるだけで自分だって幸せになれる。そう思っていたはずだったのに。
なのに、目の前の梟……いや、これはもう獰猛な鷹かもしれない。逃がさないとばかりに眼光だけは鋭くガイアを捉えた瞬間、逃げればよかったのにガイアは固まって動けなくなってしまった。人魚がたちすくむというのはおかしい話だが、水に身体を果たしていれば逃げるチャンスもあったのに、本当に動けなかったのだ。
ディルックはというと頬はこけていたが周りの海を焼き尽くすのではないかと思うほどミスマッチな赤はザバザバと音を立てて、自分がびしょ濡れになるのも構わず、ガイアが『具合が悪かったのは誤報だったのか?』と思うほど俊敏にディルックは海の中へ入ってガイアの腕を掴み、身体を抱きしめて離さなかったのだ。ガイアがされるがままに固まっていれば耳元で押し殺したような声が響いてきた。
「ガイア……どうして消えてしまったんだ……」
「ごめんなさい……俺……」
将来のこととか、伴侶とか、後継とか街のこととか、言いたいことは沢山あったはずだった。だというのにいざ目の前にしたらこの男のことしか考えられなかった。
「君がいなかったら僕は無理なんだ。もう知らない頃になんて戻れない」
「ごめん……ごめんディルック、俺は、お前の荷物になりたくはない。でも……
俺だって嫌だ。お前と離れるなんてやっぱり無理なんだ……」
「全く……君と出会ってから振り回されてばかりだよ。僕の台詞だと言うのに」
「旦那様は仕方ないなぁ。大きな子供みたいだ」
「君だって泣いているくせに……」
二人でびしょ濡れになって、原因のガイアは泣きながらディルックの胸に潜り込むし、本当にこの小悪魔はと言わんばかりにガイアを体全体で包み込むディルック。仕立てのいいシャツは海水でヨレヨレだし、濡れ鼠と言わんばかりだが、それでも惚れた弱みなのか、慣れていてもカッコいいと思い、屋敷の香りなのか、本人がいつもつけているコロンのうつり香なのか、何処か木と香水の香りがディルックだと認識して擦り寄っていればおもむろにディルックは真面目な顔をした。
「……ガイア、僕の話を聞いてくれるか?」
「???」
「……」
砂浜の方にガイアを誘導すると、綺麗な岩礁にガイアを座らせる。一体どういうことだ?と不思議そうな顔をする人魚を落ち着かせて安定して座らせると、ディルックは今までの顔色とは打って変わって厳しい表情をしつつ、ポケットから小さな箱を取り出した。それは傷がつかないように防水やらしっかり加工がされて、二重の箱に包まれており、ディルックが跪いた時点でガイアはまさかと狼狽えたが、逃げないでくれ、と顔だけは柔和な貴公子の縋るような目にタジタジになってしまい、苦しそうな声を必死に出すことしか出来なかったのである。
「ディルック……それは……」
「ガイア、僕と結婚してほしい」
外側の箱は濡れていたが、外せばベルベットの美しい赤に青のレースが添えられた美しい小箱。そしてその小箱を開けばアメジストが光る指輪があったのだ。
「……ディルック。なんで今これが出てくるんだ……用意が良すぎないか……」
「ずっと渡したかったんだ。君を絶対逃したくない。今しかないと思って手に取って走ったんだ」
「だからと言って俺を見かけてそれを引っ掴んで出てきたのか?」
いつから用意していたのか、普段のガイアなら手にするのも震えそうな宝石のついた指輪。しかし、今この状況で渡されることが何を意味するのかわからないガイアではない。
「よく考えろ……まず本当に俺でいいのか」
「言ったはずだ。君じゃなきゃ嫌だ」
「……俺はそもそも人間じゃないし、貴族のお嬢さんみたいに後ろ盾があるわけじゃない。子どもとか……」
「失踪はそれが原因か……僕の伴侶は僕が選ぶ。他の誰にも文句は言わせない。そもそも現の婚姻は個人の問題だ」
「この国は離婚がしにくいって聞いたけど……」
「君を容易に手放す手段がないことに何か問題が?僕と一緒にいるのは嫌なのか?
プロポーズは一回しか言わない。僕は君とずっと一緒にいたいんだ。
ガイア、選んでくれ」
人生でも一番大事であろう瞬間に二人らしいというか引きすぎのガイアに、絶対に譲れないと頑ななディルック。しかし、本当に嫌なら顔さえも出さないわけであり。
「嬉しいに決まってるだろ……!!」
ついには泣きじゃくりながら愛する人の胸に縋り、お姫様抱っこで屋敷に運ばれていく人魚の胸と手には赤いネックレスと青い指輪が光っていたのであった。