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    ON6969

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    ON6969

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    周年前から書いてたIFのショタグラシス
    pixivにもあげてます。

    シンクちゃんの夏休み(四季)~ザンクティンゼル谷~注意・前書き
    あの男からショタグランくんへの産地直送コース
    引っ越しなどで半年以上時間かけていたら周年イベントがきました。
    本家のショタグラシスつっっよ
    これは虐殺事件後の設定なので許してクレメンス。
    演算世界とか滅びとか因果はちょっと横に置いて忘れてください。
    これはショタグランくんとシンクちゃんのぼくのなつやすみ(冬)~ザンクティンゼル谷です。
    ザンクティンゼルはムーミン谷
    自我と名前のある村人、捏造の村の農業、行事がたくさんあります。





    ◆◆◆◆◆





    その子、誰。
    父親の背中に隠れて、ぎゅっとしがみついている子供。
    離れたら死んでしまうとでもいうように、父の服の端を必死に掴んでいる。
    食い込む指と服のしわをみてムッとする。
    なんなの。
    グランの様子に気づくことなく、大好きなお父さんはにかっと笑う。今日は天気がいいから、歯がきらっとひかって見える。

    三人で仲良く暮らしてくれ。

    グランは紛れもなく、本気で怒った。
    頬を膨らませる姿は小動物のように愛らしくても。
    グランの心は寂しさと優しさでできていた。そんな彼の滅多にない、もしかしたら初めてかもしれない他者への怒り。
    自分に怒りを抱くことはあっても他人……ビィや村人たちに本気の怒りを抱いたことはない。
    喉の奥がカッと熱くなる。眩暈がする。怒っているのに涙が出そうになる。
    それが悔しくて泣くものかと耐えるために叫んだ。
    「いやっ」
    心地よい風が通り過ぎるザンクティンゼルのなだらかな丘の上
    グランの拒否の声が大きく響いた。

    絶対に仲良くしない
    お父さんなんて知らない


    ◆◆◆


    春が終わり、夏がはじまる前。
    春の訪れとともに色づいていた花は散り、木々の葉が力強い新緑になった頃。
    グランが物心つく頃に旅に出たきりだった父親が帰ってきた。

    早朝のこと。
    鶏が鳴くよりも早くグランとビィはお世話になっているおばあちゃんに起こされた。
    とっとと起きんしゃい。お父さんがね、戻ってくるってよ。
    そう言われても信じられず、まだ夢の中かとグランは自分の頬をつねって、それからビィのほっぺもつねった。
    二人して痛い!と声をあげて、見つめあって……やったぁ!と手を叩きあった。
    喜び勇んで家を飛び出ようとしておばあちゃんに首根っこを掴まれて連れ戻される。村の中では厳しさ担当のおばあちゃんは、着替えと朝ごはん!さ!顔を洗ってくる!と幼いグランに言いつけた。

    「ねぇ、おばあちゃん。いつお父さんが帰ってくるってわかったの?お手紙が来てたなら早く教えてほしかったな」
    朝食はパンとチーズとハムと少しの果実。おばあちゃんがお家から持ってきたあったかいスープを飲みながら椅子に座ったグランは床に届かない足を揺らした。
    「ふぇっふぇっふぇ、手紙なんざ来てないよ」
    「え、どういうこと?」
    「親父さんが手紙で知らせてくれたんじゃねぇのか?」
    「あたしゃ嘘はつかないよ。あんたの親父さんは今日戻ってくる。それだけさ」
    「そりゃ婆ちゃんはなんでもお見通しだけどよ……」
    「わかった。おばあちゃんが言うなら間違いないよ、ビィ。きっとお父さんは帰ってくるんだ」
    おばあちゃんへの信頼半分、帰ってくると信じたい気持ち半分でグランはぎゅっとスプーンを握る。スープ皿の中身は空になっていた。
    「ほら、食べ終わったなら早くいきな」
    「おばあちゃんは?一緒に行く?」
    「遠慮しとくよ、村の連中にも話して準備させないといけないしね」
    おばあちゃんはいつの間にか自分用に真っ黒な珈琲を淹れていて美味しそうに啜っている。
    「うん、わかった!」
    「いよし、行こうぜ!」
    おばあちゃんはこれから起きる小さな嵐を予感しながら二人を見送った。
    嵐は……こりゃ長く続きそうだね。まぁ夏くらいまでかね。


    島のはずれ、碧空の門へ続く草原へグランは走り、ビィは飛ぶ。外からの艇は必ずここに着陸する。
    ザンクティンゼルは険しい山脈に囲まれているが碧空の門と呼ばれるこの場所は周囲に比べて標高が低いからだ。
    草原にはすでに小さな騎空艇が停泊していた。閉ざされた島では珍しい光景だ。
    肩で息をしながらグランはドアがあいて人が下りてくるのを今か今かと待ちわびた。

    そうしてグランの父はある日帰ってきた。
    旅だった時と同じく、何の前触れもなく突然に。

    グランは父親の顔をもう覚えていない。うっすらと靄がかかっている。でも頭を撫でてくれる手と背中の大きさだけはよく覚えている。艇から降りてきた大きな人影をみて、この人だと分かった瞬間、グランは勢いよく走りだした。
    大きな影、つまりお父さんは両手を広げて飛びついてきたグランをしっかりと受け止めた。
    幼少期を過ぎて村の働き手になり成長した自信のあったグランの背はまだ父の腰にも届いていない。
    ぎゅっと抱きしめられた後、地面におろされて、グランは父の顔を見上げた。逆光でよく見えないが、口元は笑っている。
    父に会えたら言いたいこと、一緒にやりたいことをたくさん考えてきたはずなのに、なにも言葉にできなかった。
    帰ってくると思っていなかった。
    どうして父親が旅に出ているのか、その理由さえグランは知らない。

    どうして旅に出たの?
    また旅に出るの?
    今度は連れて行ってくれる?

    ……ねぇ、お母さんってどこにいるの?

    ぐるぐる考えながら見上げていると、父親の服を握る小さな指が見えた。色あせたズボンの太もものあたりに皺ができている。

    そこでようやく気づいた。
    父親の後ろに知らない子がいる。

    誰だろう、この子。
    グランは父親から視線をずらして、その子を見た。
    父の後ろに完全に隠れていて、服を握りしめる白い指しか見えない。
    グランの視線に気づいた父親は腕を後ろに回して隠れている子供の肩を掴んだ。前に引っ張り出そうとするが、子供も強く抵抗する。地面に足を縫い付けたようにびくとも動こうとしない。ので、子供の両脇の下に手をいれてぐいっと持ち上げる。
    まるで捕まえてきた小動物を見せるかのようにグランの前に子供を差し出した。
    特徴的な獣耳が左右に広がるように垂れている。エルーンの子供だ。
    手足がビクッと跳ねて、バタバタ動くが宙にいて意味はない。諦めたのか次第に借りてきた猫のようにおとなしくなり、されるがまま足をプラプラ揺らしている。
    エルーンの子供が世にも恐ろしい形相の仮面をつけていてグランはびっくりした。それに反応して、エルーンの子供は細い手足を竦ませる。
    足の浮いていたその子を地面に降ろすと、グランの父はエルーンの子供の頭を力強く撫でる。ぐしゃぐしゃと力強く、獣耳を潰すように。撫でるたびに、エルーンの子供から緊張が抜けていくのが見ていてわかった。
    撫で終わった頃、灰色の髪はぐしゃぐしゃになったが垂れていた耳はピンっと立っていた。

    ……今、なんでその子の頭、撫でたの?
    その子は……
    どうしてお父さんと一緒にいるの?

    急に、グランは胸の中は靄がかかったように苦しくなった。
    さっきまで胸いっぱいにあった嬉しい気持ちは嘘のように萎んでシワシワになってしまった。
    「……あのよぉ、その子はどうしたんだ」
    黙り込んでしまうグランと流れる気まずい雰囲気を察して、親子の再会に水を差さないように黙っていたビィが聞いた。
    グランの父が話すには。
    その子供の名前はシンクといい、親友の子供だが身寄りがなくなってしまいしばらく世話をしていた。
    これからの旅には連れていけないので、ザンクティンゼルに連れてきた。
    仲良く一緒に暮らしてほしい。


    お父さんがそう言うから、ビィは天を仰いだ。
    グランの気持ちを考えて、親父さんに文句を言おうとして耐えた。グランの気持ちもわかるし親父さんの言うことも正しい。
    グランがどれだけ寂しい思いをしてきたか、流した涙も弱音もビィは知っている。
    こいつのこと放っておいて、よその子供の面倒を見てたのかよ!
    けれど、共に暮らす家族も面倒をみてくれる人もいない孤独な子供がいれば、優しい親父さんが面倒をみるのは当然だ。
    親父さんの旅は、目的も旅路もわからないけれど危険なことだけはわかる。だからザンクティンゼルに連れてくるのも正しい。
    エルーンの子供はグランよりいくらか年上に見える。それでも子供が頼る者もなく、共同体である村さえ頼れずに生きていくのは困難で、途方もなく孤独だ。
    ビィには反対できない。
    エルーンの子供の、表情は仮面のせいでわからなくても。震える細い手足をみればどんな気持ちで立っているのか想像がつく。
    子供たちを置いて再び旅に出る、親父さんは言った。連れて行ってくれないのだ。
    グランはまた寂しがってしまう。数年前の別れの再来だ。さみしくて心細くて泣くだろう。
    親父さんを止めることも、連れて行ってもらうよう説得することもビィにはできない。
    天を仰いでいたビィは今度は己の無力さに項垂れた。


    グランはムムムっと小さな頬を膨らませた。
    グランは紛れもなく、本気で怒った。
    頬を膨らませる姿は小動物のように愛らしくみえても人生で一番怒っている。
    グランの心は寂しさと穏やかな優しさでできている。
    今や心は烈火のごとく燃えはじめた。その炎が目の後ろを熱くさせる。
    喉の奥がカッと熱くなる。眩暈がする。怒っているのに涙が出そうになる。
    それが悔しくて泣くものかと耐えるために叫んだ。
    「いやっ」
    心地よい風が通り過ぎるザンクティンゼルのなだらかな丘の上
    グランの拒否の声が大きく響いた。




    グランが拒否しようと何を言おうと、父親は再び空の向こうへと旅立った。
    ザンクティンゼルで一晩を過ごすことなく、グランとビィと連れてきたエルーンの子供を村に送り届けて、村人たちと少しだけ話をしたらすぐに踵を返して待たせていた小型の騎空艇に乗って去っていった。
    グランは父親の背中を見送らなかった。


    丸一日、グランは機嫌が悪かった。
    すっかり不貞腐れて、自分の部屋に閉じこもった。涙でシーツを濡らしては父親への八つ当たりで枕を叩いた。村の手伝いもしなかったが、村人たちは事情を知っているので何も言わずにそっとしていた。
    そのうち窓の外はすっかり暗くなっていた。隣に住むおばあさんがいつものように夕飯を持ってきてくれたのはビィが受け取った。
    「夕めしは食えそうか?」
    「食欲ない」
    「なら明日食べてようぜ。せっかく作ってくれたんだしな」
    「ん……」
    ビィに八つ当たりしたくない。不貞腐れた態度が直らない自分にも嫌になってグランは無意識に唇を尖らせた。
    「なぁ、今日はもう寝ちまおう。色々あったから疲れてんだ」
    「……そうする」
    「家のことはおいらがやっておくからそのまま寝ていいぞ。あ、着替えだけしてくれ」
    ビィは小さな体で宙を飛び、タンスを開けて着替えを出した。グランが着替えている間に窓をしめて、カーテンを閉める。脱いだ服を階下へ持って行こうとして、気づいた。
    「なぁ、あいつはどうすんだ?」
    「え、誰?」
    「だからよぉ、あの」
    「あ、……」
    父親が連れてきたエルーンの子供はこの家に連れてこられたときから一階の部屋の隅に座り込んでいた。
    ビィは何度か様子を見に行ったが、少しも動いている素振りがなかった。
    そうなるよな……歓迎されてない上に親父さんに置いてかれたらよ……
    先の見えない不安に押しつぶされているに違いない。居心地が悪くて申し訳ない。でもビィにはグランの面倒で手いっぱいだ。少しでも離れて不安にさせたらまずいとグランのそばにいたから、林檎と水の入ったコップを差し入れるのが精一杯だった。

    夜が来て、寝るとなったら現実的な問題がたくさん出てくる。
    「あいつよぉ、どこで寝るんだ?」
    「それは……そこらへん……」
    「そこらへんもなにもないだろ。ベッドはこの寝室にしかねぇし……あ、いや親父さんの部屋にあったか?でも急にきたから掃除もなにもしてねぇ」
    「………」
    「なぁ、グラン。気が進まねぇのはわかるぜ。でもな」
    「やだよ。父さんの言うことはきかない。仲良くしない、ぜったい」
    グランはビィからぷいっと顔をそむけた。
    シンクと仲良く暮らしてくれ。
    そう言ってグランの頭を撫でた父がひどく恨めしい。
    ほかの子供を撫でた後、グランを撫でた。いうとおりになんて絶対になるもんか。
    「あんまりだよな。お前のこと放っておいてほかの子供の世話してよ。そんでいきなり連れてきて一緒に暮らしてくれだもんな。やだって思うのは当たり前だ。お前がどんな気持ちでずっと待っていたかとか聞きやしねぇし」
    相棒が的確に自分の心を理解してくれるのでグランは泣きそうになりながらこくんと頷いた。
    「親父さん何も言わずにすぐ行っちまうしよ。今日くらい泊っていけばいいのにな」
    「うん……」
    せめて一晩、一緒にいてくれたなら。
    もしかしたらグランは説得されていたかもしれない。結局聞きたいことは何一つ聞けないまま、言いたいことも言えないまま父は再度、空へと旅立ってしまった。
    「親父さんさあ、あの子はひとりぼっちだって」
    「……いってた」
    「あいつがいたとこ、この村みたいに誰かが面倒みてくれる所じゃねぇんだろ。だから親父さんが連れてきたんだ」
    「うん……」
    「お前にはおいらがいる、村の皆がいる。けど、あいつには誰もいない。今は世話してくれてた親父さんだっていねぇ。心細いだろうな、わかるか?」
    ビィが彼の様子を見に行った時、林檎にも水にも手を付けた様子はなかった。
    それに文句はない、気も悪くしないが、このまま放ってはおけない。
    自分が力を尽くして二人の仲を取りもたなければ。そんな使命感がビィに中にうまれていた。
    グランもビィに説得されて、一階にいる彼のことをちゃんと考えてみた。
    両親はいなくても、グランにはビィがいる。赤ん坊のころから一緒に暮らしている。村では日々、手の空いた者たちが面倒みてくれている。薪が割れず火も起こせないグランとビィの食事は交代で用意してくれている。服も裁縫刺繍が趣味のおばさんから貰った。風邪をひいたときはお見舞いにおかゆや果物を持ってきてくれる。一緒に遊ぶ友達もいる。優しい人たちに囲まれている。
    もしも話だ。
    突然、ほかの島に引っ越すことになったのにビィが一緒に来られなかったら……
    故郷から遠く離れた誰一人知る人のいない村にひとりぼっちで置き去りにされたら。
    遠くにある小さな島から想像しようとしたが、頭の中には暗闇が無限に広がっていく。
    ……村の景色とか地理とか関係ないんだ。
    端なんて見えない真っ暗で恐ろしい場所。音さえ沈んでいくような暗闇。
    孤独とはそういう場所で。あの子は今まさにそこにいる。
    「……わかったよ、ビィ」
    「放っておくのはあんまりだろ?身寄りがないから親父さんが世話してたのも……って、え、いいのか?」
    「ビィが言ったんじゃない。あの子のせいじゃない……もんね」
    「グラン、お前は本当にいい子だな~」
    ビィはグランの頭に飛び乗った。手で撫でるにはグランが大きくなってしまったので体全体でくっついて褒めるのだ。
    「……言っておくけどベッドを貸すだけだよ……まだ仲良くは、できないと思うし」
    「へへ、いいんだ、いいんだ。仲良くしろなんてな、言わねぇよ」
    ベッドから降りる。あの子は悪くない。けれど素直に仲良くなることもできない。
    グランはまだまだ幼い子供だ、父親とあの子を完全に切り離して考えられない。



    グランがやってくると、座り込んでいる少年の獣耳がぴくんと大きく動いた。
    グランが歩くたびに音を拾うように耳は小さく動く。ふわふわした髪の毛と同じ色をした耳が動くのは珍しかった。
    この村にエルーンはいない。たまにくる商人たちにエルーンやハーヴィン、この島にはいない種族を見ることはあっても大人の用事で来ている彼らを近くで観察したことはない。
    灰色の髪から生える獣耳はやわらかそうだ。
    グランが近づいても、少年は俯いたまま顔をあげなかった。
    何かに耐えているようにじっとしている。
    「ねぇ、もう寝る時間」
    「…………………っ」
    グランがそばに来て話しかけると肩を大きく跳ねさせる。
    返事はなかった。息を吸い込む音がひゅっと聞こえた。
    ……もしかして声のかけ方間違えたかな?
    物心ついた頃から顔見知りばかりの村で育ってきたから、子供同士で初めましてはグランは未経験だ。
    「あの、だから寝る時間だよ」
    「…………」
    「ろうそく消しちゃうから真っ暗になるよ」
    「……わかった」
    顔をあげないままグランに答えるが、それだけだ。彼は動こうとしない。
    そうだ、そもそも部屋の案内もしてない。
    案内するほど大きな家ではないがこの子からしたら知らないよその家だから動きようがないんだ。
    「えっと」
    今日一日、あいつとかあの子と呼んでいた。
    この子の名前は
    「シンク」
    グランは右手を差し出した。座っていた少年、シンクが顔を上げた。
    会った時と変わらず恐ろしい形相の仮面のせいでどんな表情かわからない。
    仮面の奥、赤い目の向こう側から確かに視線を感じる。怖い仮面とは裏腹にぼんやりしているような、ほうけているような雰囲気がある。
    「シンク。今日は僕のベッド使っていいよ」
    行こう、と手を差しだしたが。
    見上げてくるだけでシンクは手を取ることも立ち上がることもない。
    グランの手は掴まれることないままだ。
    仕方なくグランは屈んでシンクの手に触れた。
    触れた瞬間にビクッと大きく震えられたが拒まれなかったので、自分よりも大きなシンクの手を掴んだ。
    グランの力では立たせることはできないので、手を引いて促せばシンクは恐る恐るというようにゆっくり立ち上がる。いくつ年上なのだろう。グランの頭はシンクの胸のあたりまでだ。
    「ほら、いこう」
    手を離したら立ち尽くして動かなくなってしまう気がして、シンクの手を引いて階段を上る。シンクの手は大きく、硬い。小さくて柔らかい自分の手ととても違った。
    「ここが僕の部屋」
    「わ」
    「わ?」
    「わかったからっは、離して」
    「?うん」
    部屋まで案内したので言われたとおりに手を離す。途端、シンクは手を隠すように腕を組んだ。姿勢がとてもいいので胸を張るそのポーズはなんだか偉そうに見える。
    「お~い、準備できたか」
    下の階の蝋燭を消し、脱いだ服を片付け終えたビィが戻ってきた。
    グランは寝間着に着替えたが、隣にいるシンクはこの島にきた時の恰好のままだ。
    「ねぇ着替えは?」
    「持ってない」
    「そういえば親父さん、荷物もなんも置いてかなかったな。ま、何とかするから今日はそのままでいいな。ほら枕代わりに」
    「ありがとう」
    ビィが爪で器用に摘まんで持ってきたクッションを受け取り、自分の枕の横に並べる。
    グランの寝ているベッドは大人用だ。すぐに大きくなるからと村が大きなサイズで用意してくれた。
    子供が一人増えたところで狭くはならない。
    布団をめくってベッドの上に寝転がる。ベッドの半分をシンクのためにあけたが彼はあがってこない。
    「ここ、きていいよ」
    グランは小さな手でポンポンとベッドを叩く。
    シンクはゆっくりと警戒するようにベッドに近づいた。招かれているのは本当に自分なのか確認するようにキョロキョロしている。
    直前で立ち止まり、首を振った。
    「い、いい。……床でいい」
    「なんでだ?固くてつめてぇぞ」
    「どうせ、ねむれないから……」
    「枕も違うし、初めての家だしな。でも横にはなったほうがいいぜ。長旅で疲れてんだろ」
    シンクは黙って首を横に振った。
    自分で自分を抱くように体を小さくしてしまう。
    「いやいや……床で寝させた方が気になって眠れねぇよ」
    「床で平気だから。俺のことは……気にしないで」
    「いやできねぇよ」
    「いいから」
    「なぁにいってんだ――」
    と終わらない応酬に我慢できないグランは大きな声を出した。
    「ね!もう寝よう!」
    そこまで言ってもシンクはベッドに上がろうとしない。
    グランがシンクの腕を掴んで引っ張ろうとする。が、シンクは微動だにしない。
    体は揺れず、踵も浮かない。
    お父さんは掴んで持ち上げてみせたのに、もう!
    「……ね、一緒に寝るのがいやなの?」
    「違う、俺は……」
    「俺は?」
    「……だって、あのっ俺は……俺なんかが隣にいたらきっと落ち着かない」
    「いや?別に問題ねぇよ。なぁグラン」
    「うん、村の子供たちと一緒に昼寝するときもあるし、気にしないよ。嫌だったら呼びにいかないもん、ほら」
    グランはベッドの上で膝立ちになってシンクの腕を引く。びくともしない。
    全部の体重をかけて倒れるくらいの勢いでひっぱるがダメだった。
    少し年上なだけなのに、こんなに力が違うの
    しかし諦めが悪いのがグランの長所だ。
    「い・い・から、観念してベッドで寝て!」
    振り子のように体を左右に揺らしながらシンクの名前を呼ぶと観念したのか。
    さっきまでの抵抗が嘘のように、シンクはベッドにあがってくれた。グランは反動で後ろにひっくり返ったが布団のおかげで痛くもない。
    「あ、寝るんだからそれ外してくれよ」
    ビィは仮面を指した。
    「だめだ」
    取られないようにシンクは両手で仮面の端を抑える。
    聞く機会がなかったがその仮面は何だろう。
    お父さんも何も言ってなかった。
    「汚れてるかもしんねぇだろ」
    「ちゃんとに拭いてる」
    「汚れてなくてもよ、寝てるときに壊れたらどうすんだ。眼鏡だって寝るとき外すだろ?」
    「……………」
    仮面は眼鏡のかわからないが。
    ビィのいい分に納得したのか、シンクは無言のままゆっくりと仮面を外した。
    露になった顔は、仮面とは似ても似つかない、恐ろしさのかけらもない少年の顔だ。
    困惑しているのか、ただの癖なのか。眉が八の字にさがっている。
    もっと怖い顔をしていると思ったが正反対だった。
    「仮面と目の色、違うんだ」
    野に咲く花のような色だ。額についた飾りも気になった。エルーンの子供にはみんなついているのかな?
    ずっと隠されていたものが露になった。その珍しさからグランはシンクを見つめた。
    「み、見るなよぉ……」
    恥ずかしいのか、シンクは顔を手で覆って隠してしまう。そのままグランとビィに背を向けてベッドの端の端にいった。落ちないぎりぎりをせめているせいでグランとの間にもう一人眠れるくらいスペースがあいた。
    「あ、待った。上着は皺になっちまうから脱いでくれ」
    「…………」
    「ハンガーにかけるから貸してくれ」
    「……はい……」
    シンクは素早く上着を脱いで、背を向けたままビィに渡してそのまま丸まった。
    露になった白い背中にグランとビィは声こそあげなかったがびっくりした。
    背中ががら空きで丸見えだ。はじめて見るファッションセンスに驚き、腰のあたりに走る三本の爪痕のような傷に息をのんだ。
    外の島には危険な魔物がいると教わっていたが……
    覆い隠すようにビィはシンクに布団をかける。
    「じゃ、消すぞ」
    「うん、おやすみ」
    「…………」
    ビィが息を吹きかけて蝋燭を消す。
    カーテンから漏れる月明かりを頼りにビィはグランのベッドの隣、自分用の籠でできた小さなベッドにおさまった。
    「そうだ、シンク」
    「な、なに……」
    「グラン、僕の名前ね。ちゃんと挨拶できてなかったから」
    「っ…………」
    「じゃあね、おやすみ」
    「…………」
    返事はなかったけれど、別にいいと思った。
    朝早くに起きて父を迎えに行き、昼寝もしなかったのでグランはすぐに眠りに落ちた。


    ◆◆◆



    シンクはとても不安で悲しかった。心が青ざめてしまうほどに。
    ゴウゴウ鳴くエンジン音を聞きながら、うつむいて足元を見る。
    雲が流れていく窓の外から目を背けて、俯くシンクの背を隣に座る男が励ますように撫でる。
    大きくて逞しい大人の腕。殴打されることはなかったけど優しく撫でられたこともなかった。ぬくもりを与えてくれたのは、この男だけだった。
    いつも心を癒してくれる大きな手のひらも今日ばかりは効果がない。
    もうすぐ、この男はいなくなる。いなくなってしまう。
    すぐそばにまでやってきた別れの足音に、涙が浮かぶ。目じりから溢れしまい、拭った。拭い損ねた涙がひとしずく、膝の上で握りしめる仮面の上に落ちた。
    もうすぐ着くぞっと声をかけられて、このまま騎空艇が引き返すか止まってしまえばいいと悪いことを願う。
    「ね、本当についていってはだめ?」
    シンクはこの男のそばにいたかった。ついていきたかった。


    数日前、男はシンクに別れを告げた。この先も旅を続ける、だから一緒にはいられないと。その時からシンクはどうしてもついていきたいと何度も言い続けた。
    その度、危険だからと断られている。
    すまない、連れていけない。
    悲しそうに眉を下げて言われればシンクは言い返せない。それでもわずかな本心が漏れた。
    ひとりは、いや……
    彼はしばらく黙った。
    何か重大な決断をするために黙り込み、考えて、考えて……一晩中悩んでいた。
    次の日の朝。
    一睡もしていない様子でシンクに目線を合わせるために屈んで……

    俺の故郷に連れて行く、と言った。

    男の生まれ育った故郷はファータ・グランデ空域でも知る人間のほとんどいない島だという。
    閉ざされているかのように人の往来は少ないが、一つしかない村で暮らす人々の人柄はおおらかで明るい。
    そこに男の息子がいる。シンクよりも年下だが子供同士気が合うだろう。
    今は村の人間に面倒を見てもらっている。そこで一緒に暮らしてくれ、と。

    そうしてシンクは生まれて初めて騎空艇に乗って、カルムの郷の島を出た。窓の外から見れば島はあっという間に小さくなっていく。やがてゴマ粒よりも小さくなり消えてしまった。
    出ることは叶わないと思っていた場所をこんなにも簡単に抜け出せるとは思わなかった。
    けれど解放感よりも胸を占めるのは、先の分からない不安と男と共にあれない寂しさだった。
    そこから足の速い乗合便でポート・ブリーズ群島まで向かい、そこから小型の騎空艇をチャーターして男の故郷、ザンクティンゼルへと向かった。


    「だれも俺を受け入れないと思う……受け入れるはずない……」
    浮かない表情で、シンクは隣に座る男の手を縋るように掴んだ。
    「どうしてもダメ?」
    懇願しても危険な旅だから駄目だと断られる。
    もう何度もこのやり取りを繰り返した。
    「危ない目にあってもいい……それに」
    一族を皆殺しにした己こそ危険そのものだ。
    自分の中に制御できない、有り余る力がある。
    もしかしたら、また同じことを繰り返すかもしれない。
    一族でさえ受け入れなかったシンクをよその集落が受け入れるはずがない。
    忌み嫌われて一人になって……もしかしたらまた、暴走してしまうかもしれない。
    「俺が、また暴走すると思わないの?カルムの郷、み、みたいに……」
    男の故郷を滅ぼすかもしれない。
    そう言うと男は否定する。
    そんなことにはならない、俺の息子がいる。お前は一人にはならないと。
    「どんな子?」
    はじめて、彼の子供について聞いた。

    いい子だ、たぶんな。

    男の答えは珍しいことに、曖昧で歯切れが悪かった。
    たぶん、ってなんだろう。
    シンクは追及しなかったが、大きくなった自分の息子がどんな風に成長しているのか。会ったことがない男はそう答えるしかなかった。
    窓の外、そこにはカルムの郷がある島よりも遥かに小さな島が見えた。


    ◆◆◆


    眠れない。
    見知らぬ壁を見つめながらシンクは目を開けていた。隣に人がいるだけで神経が高ぶって眠れそうにない。
    そばにシンクがいるのにこの子はよく眠れるものだと感心する。
    ベッドに行こうと誘われた時も平然と手を触ってくるものだから驚いた。暗殺術を教え込まれ染みついているシンクは条件反射で振り払わないように精一杯だった。
    眠ろうと目を閉じれば、真っ暗な闇が広がっていて嫌なことを思い出してしまいそうで、見知らぬ家の家具や壁の木目をただ眺めた。
    打ち解けられるはずがない。
    最初に会った時、あの子供の友好的とは言い難い視線がすべてを物語っている。
    シンク自身、あの子と仲良くしたいかと聞かれたら、首を横に振る。
    嫌いなのではない。
    嫌悪の感情よりも誰かに拒絶されるのが怖い。

    やはり無理だ。
    心の中で、あの男の姿形を強く、強く思い浮かべる。
    ねぇ、どうしたらいいか、わからないよ。
    ……自分がどうしたいのかもわからない。
    シンクの望みはあの男と、自分を見つけて救ってくれた光と共にあることだ。
    それが叶わないならどうしたいのか、シンクの中には見つからない。
    ただ先のない暗い身の上しかない。
    ここを、出ていった方がいい。だがどこに行けばいいかわからない。
    ならカルムの郷か。でも戻りたくない。ほかに行きたい場所もない。カルムの郷に戻らずに空の世界をさまようか。どう考えても虚しいだけだ。
    そもそも、騎空艇がなければ別の島にも行けない。
    定期便はあるのか考えていると背中側で人がもぞもぞ動く気配がした。
    あの子供の寝相か。

    シンクの背中に柔らかな手が触れてくる。
    「ひっ…ぁ…!」
    悲鳴が漏れる。
    小さな手はもぞもぞ動きながらわき腹を撫でてシンクのお腹へと伸びてきた。背中もわき腹もあいている服のせいで素手が直接撫でてくる。
    払いのけそうになるのを必死に耐える。目をぎゅっと瞑り、幼い子供の姿を浮かべる。
    小さな子供だ、柔らかくてもろい。
    触れてはダメ。動いてはダメ。
    生まれてこのかた、自分よりも小さい子供に触られたことなどない。
    忌み子に自分の子供を近づけたいと思う親などいない。ましてや驚異的な身体能力を持つ忌み子に。
    郷の大人たちの顔を思い出すと、水をかけられたように心と頭が冷えていく。
    は、離れなきゃ……
    背中から抱きつかれているからいったん腕を外して、向きを変えさせよう。
    もしかしたら途中で起きるかもしれない。
    目が覚めれば、自分になど抱きつこうとしない。
    シンクはゆっくりと小さな腕を自分から剥がした。腕は細くて、シンクの指が沈み込んでしまうほどやわらかい。
    「はぅ……」
    シンクはゆっくりと体勢を変えて相手と向かい合う。子供に起きる気配はない。反対側へ寝返りを打たせようとする。が、初めて触れる子供の柔らかさに戸惑って、うまくできない。
    「んん~」
    寝言と共に幼子の目が少し開く。

    ちなみに、グランは逃げるぬいぐるみを追いかける夢を見ていた。
    ぬいぐるみに向かってジャンプして抱きついたところで薄く目を開ける。
    夢と現実の区別がつかないままのグランはビィではない誰かの、自分よりも大きな体のぬくもりに気づいた。
    普段はない大きなぬくもりに惹かれてもっと抱きつきにいった。


    真正面から抱きつかれてシンクは固まった。
    傷つけないようにシンクは指先を丸めるように握りこんだ。足の指先も丸めて、ひたすら耐えるよう。
    どうしよう、こわしちゃう
    こんなに小さくて、やわらかくて、さわったらだめなんだ、きっと……
    「ん~トイレ……」
    ベッドの端から小さな影が音もなく飛び立つ。
    浮遊する小さなトカゲ……ドラゴンは夜闇の中シンクと目が合った。
    じいっとお互い見つめあう。
    ビィはシンクをみて、グランをみて、もう一度、シンクを見た。
    ぼんやり見える困り眉のシンクの姿に、そういえば今夜はグランに抱きしめられていないことにようやく気づいた。
    寂しい夜、グランはビィを抱き枕にしているのだが、今日は選手交代のようだ。
    グランを起こさないようにジェスチャーでよろしく頼むと伝えて、ビィは部屋を出た。
    数分後には戻ってくるのが、同じ姿勢でずっと固まっているシンクにウィンクを飛ばすと無言でそのまま寝てしまった。ビィも眠いのだ。

    怖く、ないのか、
    俺が殺してしまわないかと疑わないのか。
    シンクは抱きつかれたまま、パニックになっていた。
    柔らかくて温かい体がほほをすりよせてくる。
    壊さないように、殺さないようにしなきゃ。
    俺は、化け物なんだから……
    シンクは一晩中眠らないよう努めた
    意識をなくして眠りに落ちて、この子を絞め殺さないように。
    数日間眠れなくても支障はない訓練が役に立った。

    うぅ、あったかい。
    壊してしまう。そんな恐怖と、涙の出そうなくらいの心地よさがある。
    シンクの初めての他者のぬくもりはあの男だ。
    背丈も大きくて逞しくて、シンクを軽々と持ち上げた。抱きしめられたときの胸板は心地よかった。
    今の、人生二度目のぬくもりはそれと正反対に柔らかく、脆い。
    ふわふわしたそれはシンクの背中に腕を回して弱弱しい力でしがみついてくる。
    けれど同じくらい。
    あの男と同じくらいあたたかい。
    初めて見たときは幼い子供とあの男が似ているかどうかわからなかったが。
    このぬくもりは、よく似ている。




    朝、カーテンの隙間から朝日が差し始め、部屋の中が明るくなり、グランとビィは夢の世界から目覚めた。夜が明ける前にシンクは枕元においた仮面を身に着けた。
    グランは自分がビィではない誰かに抱きついていることに(いつもと大きさも感触も違い過ぎた)気がつき、それが昨日会ったばかりのシンクであると数回瞬きをして気づいて、じと……とシンクを見つめた。
    「僕のことだっこしたの?」
    疑問の形だがグランの中ではシンクが抱きついてきた、で決定である。
    だって自分から抱きつきに行くはずがないので。
    健やかに眠れたビィは呆れたため息をついた。
    「違うぞ。お前が抱きついたんだ」



    ◆◆◆


    シンクは一睡もできなかったが体調に問題はない。
    井戸で顔を洗うと気分がよくなった。
    あの男とその息子……力強く自分を闇から引き上げてくれた男と幼すぎる子供。
    グラン、心の中で呟いてみる。
    一晩中感じていたぬくもりがまだ体の中に残っている。

    「お~いシンク、ちょっといいか」
    「あ、うん。なに?」
    借りたタオルで水滴を拭って井戸の縁に置いていた仮面をつける。
    仮面をつけると相手の視線が遮られるので落ち着く。
    「朝飯の前にな、寄るところがあるんだ。案内するから一緒に行こうぜ」
    「どうして」
    「なんでって昨日は村を案内できなかったからな。本当は昨日のうちにやっておけばよかったよな」
    「いい、平気だから……」
    「え?それじゃどこにもいけないだろ。……昨日はよ、気まずくて悪かったな。グランは部屋に引きこもるし、おいらもそっちについてたからな」
    小さく首を横に振る。
    シンクは一日何もせずじっとしていることには慣れている。
    暗殺の訓練の一部であり、なにより誰も訪れない屋敷の一室でおとなしくしているのが日常だった。
    「グランは悪気があって意地悪してやろうってわけじゃねぇんだ。ずっと帰ってこなかった親父さんが帰ってきたのにまたすぐ行っちまうしよ。もうちょっといてくれてもいいもんだよな」
    「俺は……気にしていないから平気」
    「そうか?ならいいんだけどよ。グランもそのうち落ち着いて話しかけるようになるから待っててくれ」
    「じゃあ、あの、抱きつかれたあれは?」
    「人肌が恋しいんだろうな。普段はおいらが抱き枕やってんだけど昨日はお前のおかげでよく眠れたぜ」
    そういったビィが空中で気持ちよさそうに大きく体を伸ばした。


    ビィに案内されて緑に囲まれた村の中を進む。
    降り注ぐ日差しに色とりどりの野花が咲いている。
    煉瓦の壁の向こう側で黄金の小麦畑が風にゆれて波立っている。見たことのない葉の作物畑が広がる。。
    涼しさを感じる用水路が光を反射してキラキラと光っていて、穏やかで美しい村だ。
    森の奥深い場所にあり泉と薬草に囲まれた故郷と異なる風景が物珍しく、シンクの足取りは自然と緩やかになった。
    「シンクのいた村はなに飼ってたんだ?」
    「飼う?」
    「ほら、牛とか鶏とか」
    小さな赤い竜、ビィに聞かれてシンクは記憶の中のカルムの郷を思い返した。
    日当たりのいい場所では子供たちが遊ぶ、静寂のみの場所ではなかったが畜産や農耕は行われていなかった。
    一族の営みに関わっていないので推測だが、暗殺で生計を立てていたから農耕はせず、食料や娯楽の品、生活用品は街の市場で賄っていただろう。弓矢の手入れ姿を見かけたことがあるから、狩猟は嗜んでいたか。
    「何もいなかった、と思う」
    「じゃあ交易が盛んなんだな。ここはたまに商船がくるけど基本は自給自足だぜ」
    何件かの家を通り過ぎた先に、白い柵で囲まれた草原と赤い屋根の風通しのよさそうな窓のついた水平方向に長い家屋が見えてきた。
    草を食むヤギが数頭、放し飼いにされている。
    「んで、ここが村唯一の牧場だ。ヤギと牛、豚と揃ってんだぜ、すげぇだろ。数が多いからヤギ乳のがよくとれんだけど平気か?」
    「たぶん……」
    「ならよかった。鶏もいるから卵も食えるぞ」
    言葉を理解しているように鶏が力強い鳴いた。
    ヤギの他、赤いトサカの鶏も放し飼いにされている。
    緑の草原のかなたに見える白と黒の塊は牛か。
    草と家畜の匂いの合わさった独特な匂いの混じる空気に、仮面の中で眉間に皺が寄る。
    郷里では嗅いだことがない。
    「あらビィ、おはよう。その子が新しい子?」
    白い柵越しにヤギたちを眺めていると、日焼けした中年の女性が鍬を持って近づいてきた。
    頭にバンダナを巻いて首にタオルをかけた、一仕事を終えてきた格好だ。
    なら夜が明ける前から働いていたのか。
    「おう、シンクっていうんだ」
    「知ってるよ。あいつによろしく頼まれてるから安心しなよ。よろしくねシンクちゃん」
    そういって女性の目がシンクに向けられ、優しげに細められる。
    シンクちゃん……シンクちゃん?
    あの男にもされたことのない、生まれて初めての呼び方が頭の中でこだまする。
    にこにこ笑う女性はエルーンの住民は初めてだねぇとシンクの頭の上、灰色の獣耳を見つめている。
    よろしく、と言葉にする勇気が出てこず、シンクは会釈を返した。
    気を悪くした様子もなく、ちょっと待ってなと女性は畜舎へと向かって、すぐに銀色の円筒缶を持って出てきた。
    「ほら今日の分。三人分だからいつもより重たいよ」
    そういってそれをシンクに渡そうとするので、状況がよくわからずビィと女性の顔を交互に見上げた。
    「悪いなシンク、おいらだと重くて持てねぇからそれも目的で一緒に来てもらったんだ」
    頷いて受け取ると、中で液体が揺れ動く感覚がした。
    「おいらたちここでヤギのミルクをもらってくんだ」
    「容器は取りに行くから家の前に出しておいてくれればいいよ」
    「おばちゃん、いつもありがとうな。じゃあシンク、明日からよろしくな」
    にっこり両目を閉じて笑うビィに見つめられる。
    「よろしくって、なにが」
    「三人分は重くてもてねぇからよ。毎朝お前にここにミルクをもらいにいってほしいんだ」
    「いつも決まった場所に用意しておくから、勝手に持っていっていいからね」
    「ま、まって、そんないきなり言われても、」
    「遠慮することないよ。村のみんなはうちのヤギミルクを飲んで大きくなったからね」
    「え、あの男も?」
    「グランの父親かい?赤ん坊の時から飲んでたね!いつも二人分飲んでおなかを壊してたんだけどね。幼馴染の女の子がだめっていっても聞きやしないのよ」
    女性の笑い声を聴きながら、かつてこの村で暮らしていた男の姿を思い描く。豪快にふるまい、どこか抜けているところがあるのはシンクの知る今と変わらない。
    あの男はこの島に確かにいた。
    目の前の女性は、ちょうどあの男と同世代に見える。この島で共に過ごした者から聞くあの男の話はシンクには興味深かった。
    腕に持つミルク缶があの男につながる絆に思えてしっかりと抱えなおした。
    「あとミルクをもらう代わりにコユキにごはんをあげてちょうだいね」
    「朝飯のために頼むぜ」
    「………コユキってだ、だれ?」
    「子ヤギのことさ。ほら入っておいで」
    柵の入り口をあけた女性の手招きに従い畜舎の中に案内される。敷き詰められている藁を踏む。まだ数匹の大きなヤギが残っている畜舎のすみに子ヤギが繋がれていた。
    「この子が子ヤギのコユキさ」
    女性が子ヤギの頭を撫でてやると、嬉しそうに鳴く。はじめてヤギを見たシンクでもわかるくらい女性に懐いている。
    「村の子供はよ、牛や山羊たちにご飯をやったり手が空いたときは散歩させたりもすんだ」
    「そこのタンクにミルクが入ってるからバケツに汲んで飲ませてやってね」
    指さした先には『子ヤギ用 栓をしっかり閉める』の張り紙のある銀色のタンク、その真下にバケツが置いてある。
    「それじゃシンクちゃん、よろしくね。生き物だから毎日忘れずにお願いね」
    「じゃあさっそく今日の分やってこうぜ!」
    大変なことになった。
    シンクはタンクと子ヤギを交互に見て途方に暮れる。
    ビィと女性のパワーは強くて断る隙も無い。すでにミルクを受け取っている以上、今日の分のミルクを上げなくてはならない。
    ヤギ乳入りの缶を机に置いたシンクはバケツを手にした。真横で浮くビィのいう通りにタンクの栓を開け、バケツにためる。子ヤギの口元まで運び、ミルクを飲ませた。
    飲みやすいようにバケツを斜めにしてやると子ヤギは最後の一滴まで飲み干した。


    ミルク缶を持ってあの家に戻るとテーブルの上にはすでに三人分、朝食が並べられていた。
    パンとハム、野菜のサラダとシチューの入った鍋がテーブルの真ん中に置いてある。
    焼きたての香りがするのにこの家の煙突から煙は出ていなかった。石窯も使った形跡がない。
    「隣のばあちゃんによ、焼いてもらってんだ」
    「……僕が薪を割れないから火は使えないんだ」
    グランは唇を尖らせて不服そうな表情だ。
    「シンクの席はそこだな」
    ビィが指さした木製の椅子にミルク缶を持ったまま座る。どこに置けばいいのかわからず聞くタイミングを逃していた。どうしよう……仮面の奥で眉が八の字になる。
    「カップに注いでくれ。余ったらおかわりしていいぞ」
    「僕、おかわりするから残しておいて!」
    「二杯飲むとお腹を壊すだろ、だめだ」
    「ちぇ~」
    ミルクを注ぐ、それだけとはいえシンクが給仕をやったのは初めてで。
    なるべき均等になるように注ぐのは難しかった。
    三つの木製のコップにミルクを注ぎ終えても缶の中身はまだある。牧場の女性は多めに入れてくれたらしい。
    「いただきます」
    「いただきます」
    「……いただきます」
    ザンクティンゼル。
    あの男に連れられて、そして置いていかれた島での初めての朝は搾りたてのヤギのミルクからはじまった。




    朝食を終えると、グランは昨日できなかった分、村の手伝いをしてくると出かけて行った。
    何をすればいいかわからないシンクにビィが村とそして島を案内してくれるという。
    ザンクティンゼルは一日歩けば端から端まで行き帰りのできる小さな島だ。
    外縁が険しい山脈に囲まれているせいで外との繋がりは薄い。
    シンクは昨日乗ってきた小型の騎空艇から見たこの島の外縁を思い出す。あの男が手配したチャーター艇の操縦士は乗り越えるのに苦労していた。
    「商船に特産品を売って、代わりに島じゃ手に入らないものを買ってんだ。塩とか金属とかよ、あとは本とかな。シンクは欲しいもんあるか?おいらが村の皆に言っておくぜ」
    「欲しいものなんて……ない」
    「ふーん無欲なんだな……ま、いつくるかわからねぇからよ、それまでに欲しいもんができるかもしれねぇな」
    向かい側からロバが荷車を引いて歩いてきたので端によける。
    荷台に乗る親子が手を振って通り過ぎていく。今朝は早い時間に歩いたため人影はなかったが、今は活動時間らしい。女たちが二本の木の間に渡したロープに服を干しており、塀の向こう側の畑には数人の村人の姿がある。黄金色の小麦のほかにも作物が育てられている。畑によって葉や茎が違う。
    崩れた塀に腰かけた老人がパイプを吸い煙を吐いた。数羽の鳩が頭上を飛んでいく。
    子供達が木の棒を持って笑いながら畑を走り回っている。
    川のほとりで、ドラフの大男が釣り竿を傾けている。
    やがて二人は村のはずれ、木製の壁と門へと着いた。
    「ここから先が森だ。おいらたちは金露森林って呼んでる」
    ビィの小さな手が扉を押すと、あっけなく開いた。
    「こんな壁で大丈夫なのか」
    魔物はこんな壁などすぐに壊せる。
    鉄かそれがだめならせめて石造りにすべきだ。
    「この島には人を殺しちまう魔物はいないぜ。小せぇ魔物がいるから森に入るときは気をつけなきゃなんねぇ。ほら、行こうぜ」
    扉を開け、先に行くビィについてシンクも森へ進んだ。
    「森は出入り自由だけどな、あっちの奥の方は立ち入り禁止だから気をつけろよ」
    「なにかあるの?」
    「巫女本人か巫女の許可がないと入っちゃだめらしい。詳しいことはおいらにもわからねぇ」
    「わからないのに禁止?」
    「巫女に会ったことねぇんだ。どこの家なのか誰も教えてくれなくてよ」
    それからもビィは島の特徴や特産の説明をしてくれた。
    森を抜けた先には心地よい風の吹く草原があり、雲に覆われた険しい山脈がそびえたっていた。
    「もう端にきたのか」
    「おう小さい島だからな」
    空の上から見たときも小さいと思ったが、自分の足で歩くとより実感できた。
    囲むようにそびえる山脈と雲海のせいで、果てまで続く空を見ることができない
    閉ざされている島。この島の別称はまさにそのとおりだったが、不思議と息苦しさはない。
    閉塞的な空気はここにはない、それがあったのは……


    行きもあっという間ならば帰りもすぐだった。
    木の門をくぐり村に帰ってきたシンクにビィは
    「あとは好きに散策しててくれ。夕飯の時間になったら戻ってきてくれよ」
    と言って村の方へと飛んでいった。
    残されたシンクは舗装された道をさけてなるべく人に会わないように歩いた。
    人気のない場所の木陰を見つけて仮面を外す。ふぅっと息はいて座り込んだ。
    朝からいろんなことがあった。
    今日だけで三人の人間に名前を呼ばれた。
    軟禁されていたころ、名前で呼ばれることはほとんどなかった。
    おい、とかお前がほとんどで、シンクの噂をする人たちは忌み子と吐き捨てていた。
    名前、あの男以外にもたくさん呼ばれたな。
    自分に似合わない意味を持つ名前。多くの人に呼ばれる日が来るとは。
    やることもないので生えている草木の種類を観察する。カルムの郷にあったような特殊な薬草毒草はない。
    スズランやアサガオなど一般的に毒を持っていると知られている草花ばかりだ。
    シンクの見ている花に蝶が止まる。毒蝶ではないただのモンシロチョウだ。
    風に揺れながらも花にとまる蝶を見つめてシンクは仰向けに寝転がった。
    心地よい木陰で目を閉じる。
    昨日眠れなかった分、ここで体を休めていこう。
    たぶん今夜もあの家で眠ることになるから。




    夕飯までに戻ってこい。
    そう言われていたのでシンクは夕暮れの頃には家の前にいた。
    しかしノックをしても返事がない。鍵はかかっていないがドアを開けることができず困っていた。
    勝手にドアを開けて入ったのか、家を歩き回ったのか。そんな風に怒られることを想像してしまい何もできない。
    真っ赤な夕日を浴びて玄関前に立ち尽くしていると、一人の女性が敷地に入ってきた。
    「あら、どうしたの?鍵かかってる?」
    「ううん、かかってない」
    「ならよかった。両手が塞がってるの、開けてもらえる?」
    女性がほらっと突き出した鍋から美味しそうな香りの湯気がたっている。
    村の人間に言われたなら、あの二人も気を悪くしないだろう。シンクが思いきってドアを開けると女性は勝手知ったる様子で中に入っていく。
    ドンっと重たい音をたててテーブルの中心に鍋を置くと女性は部屋を見回した。
    「グランはまだ帰ってきてないのね」
    話しかけられて、こくんと頷く。
    また新しい大人だ。平気でシンクに話しかけてきた。
    「そういえばあなた、食べられないものはある?今日はいつもどおり作ってきちゃったんだけど」
    「匂いの強い食べ物は……」
    「あらにんにくとかダメ?」
    「いや、ない。大丈夫」
    匂いの強い食べ物は食べてはいけないと躾けられてきた。けれどシンクが何を食べても怒る人間はもういない。あの男と共に過ごした時もにんにくや香辛料を口にした。
    暗殺者として生きていくならタブーだが……
    「ただいまー!」
    「あ、おばさん!こんばんわ」
    グランとビィが帰ってきた。
    畑仕事をしていたのか服が汚れている。
    「あらグラン、ビィ、遅かったじゃない」
    「昨日の分もお手伝いしてたら遅くなっちゃった」
    「はやく手を洗ってきなさい。鍋はあとで持ってきてね」
    「はーい」
    女性はそのまま二人が開けたドアから出ていった。
    朝は隣に住むという老婆が、夜はさきほどの女性が食事の世話をしているのか。
    グランはまだかまどの台に背が届かず、薪も割れないと言っていた。
    ビィは……なんだか今日一日率先してシンクを気にしてくれた。年長者のような振る舞いだったが、あの小さな体で料理ができるとも思えない。



    夕食を終えるとまた穏やかな時間に戻った。
    ランプに明かりがついて、ゆらゆら揺れる。
    昨日は部屋の隅に座り込んだが、今日のシンクは椅子に座っている。
    また何をすればいいかわからない時間になった。
    グランとビィが二階にあがり、タオルと着替えを持って降りてきたのをぼんやりと眺めた。
    どこかにいくのか?
    「おし、シンク。風呂にいくぞ」
    「風呂?」
    「まだ火が使えねぇからよ、入らせてもらってんだ」
    薪が使えないのだから、風呂もこの家では使えない。
    当たり前のことにすぐに気づかなかった。
    「さっきのおばちゃんのところにいくから鍋忘れんなよ」
    「持ったよ!」
    グランが借りた鍋を掲げてみせる。タオルと着替えを持ってさらに鍋を持つと、脇に挟んだ荷物が滑り落ちそうになっている。
    「鍋、落ちそうだから、持つ」
    「あ、うん……ありがとう」
    「風呂は、俺はいい。川で水浴びでもする」
    他人の家の風呂を借りるなどできない。
    ましてや仮面を外して裸になって誰かと一緒にお風呂に入るなど。
    考えるまでもなく無理だ。
    「もう夜だから危ないよ」
    「それに冷たてぇだろ、やめとけ」
    グランが信じられないと目を丸くして、ビィは首を横に振る。
    「暗いのも冷たいのも平気。ダメなら朝浴びてくる」
    暗くても訓練しているから見える。
    冷たいのも平気だ。本当に嫌なのは一人ぼっちの寒さだけだ。
    「ダメダメ、昨日入れなかったんだから行くぞ」
    ビィがせかすように飛び回る。
    シンクの手を小さな手が掴んできてぎょっとする。
    「今日も一緒に寝るんだよ、入ろうよ」
    「まっ待て、俺は……」
    「あ、シンクの着替えは?僕のを貸す?」
    「いや、入んねぇだろ。ジェーンおばさんのとこで貰ってきておいた」
    「じゃあ行こう」
    二人ともシンクの話を聞かない。
    グランがシンクを引っ張っていく。弱い力だ。足に力を入れれば、びくともしない。突き飛ばすのも簡単だ。
    でもグランに怪我をさせるわけにはいかない。
    シンクはなすがままグランに手を引かれて、村人の家に連れていかれた。




    「なぁ、親父さんが連れてきた子供ってそいつ?」
    二人に連れてこられた村人の家、先ほどの女性の家には、グランと同じ背丈の子供がいた。
    くつろぎながら皮の剥かれた林檎を食べている。
    自分の家にやってきた見慣れない子供、シンクを珍しそうに見てきた。
    「そうだよ、シンクっていうんだ」
    「ふーん。思ったよりでかいな」
    同い年の子供だと思ってた。少年はそういうとまた林檎を食べ始めた。
    ビィが近くにきたので一切れわけてやっている。
    「こいつはアーロン、ちょうどグランと同い年だ」
    「この島で同い年は俺とグランだけであとはちびたちだけだ。お前いくつだ?」
    「わからない」
    「え、なんでだ、数えてないのか?」
    数えてないも何も。誰も教えてくれたことがない。
    カルムの郷を探せば出生届くらいあるだろうが、わざわざ探そうとは思わなかった。
    「ま、いいか。これからよろしく。うちの風呂はあっちな」
    「ほら、いこうシンク」
    グランがシンクの手を引き勝手知ったるアーロン家の風呂場へ向かう。
    仕方なくついていくシンクのつける仮面をアーロンが見つめていて
    「っていうかその仮面な」
    「こら、いつまで喋ってるんだい。お湯が冷めちまうよ!」
    薪を足して温めていたがなかなかやってこない子供たちにしびれを切らせたこの家の女主人がやってきた。
    シンクは持っていた鍋をモゴモゴしながら差し出した。
    「あ、鍋ありがとうね。ほら、行っておいで」
    「ありがとなおばさん、今日もおいしかったぜ!」


    三人が浴室へ向かったことを確認して、アーロンの母は息子の額にデコピンを食らわせた。
    「いった!!」
    「仮面のことは聞いたりからかったりしちゃだめって言ったでしょ」
    「だって気になるよ。なんで聞いちゃだめなんだよ」
    「グランのお父さんに、そっとしておいてくれって頼まれたからだよ」




    震える手で仮面を外す。タオルと着替えの上になくさないように置く。
    視界を遮るものがなにもない。
    何もしていないのに体温があがってきて頬が照ってくる。
    あの男と水浴びをしたことはある。それがお湯に変わるだけ。
    そう言い聞かせても言いようのない不安がわいてくる。
    どうしようもなくて、小さなタオルを頭に巻いた。目が隠れるくらい、深く巻く。
    少しだけ呼吸と気分が楽になった。
    蒸し暑いけれど、なにもないよりマシだ。

    シンクが覚悟を決めたころには既にグランとビィはたっぷりのお湯の風呂釜の中にいた。
    視線を感じた気がして振り返る。けれど二人ともシンクを見ていない。
    体を洗い、泡で汚れを落としただけでも心地よかった。湯で流すだけで済ませられないかな。
    そう思って風呂釜の二人をちらりと見る。
    視線に気づいた二人は端によってスペースを開けた。
    「早くこいよ、気持ちいいぜ」
    「……………」
    二人から目をそらして壁のタイルを見ながら空いたスペースに滑りこむように湯につかった。熱い湯がじんわりと染み込んでくる。
    少しだけタオルを緩めて顔をだしてみると、蒸すような熱さがなくなり心地よくなった。
    少し熱めの湯に耳をぴくぴく動かした。
    「耳」
    「な、なんだ」
    後ろにいるグランから話しかけられて、反射的に体が動いてばしゃんと水音を立てた。
    「濡れると耳も髪もぺったんこになるんだ」
    タオルを緩めたから隙間からシンクの獣耳がぴょこんとのぞいている。
    真後ろから見るそれがグランにはかわいく思えたのだ。
    シンクはぺたんと風呂釜の縁にもたれかかる。相手が大人ではなく、竜と小さな子供だからか。気負っていたが思ったよりは寛げている。
    「明日もここにくるの?」
    「違うよ、村の人たちが交代で入らせてくれるんだ」
    「明日はミゲルおじさんのところだな」
    知らない名前が出て、シンクは身を起こした。
    「毎日、違うの……?」
    「うん」
    グランの元気のいい答えにシンクはのぼせていないのにくらりと目眩がした。
    毎日、順番に誰かの家に日替わりでお風呂に行く。
    今まで限られた人間関係しか築いてこなかったシンクにはついていけない。
    「薪……」
    シンクは意を決して二人に話しかける。
    「薪、割れる。火もおこせるから……」
    「できるの⁉︎」
    「うん、だからお風呂は……借りなくてもいいように……」
    「ねぇ、ビィ聞いた?うちで火が使えるようになるよね」
    「おお、おう。わかったから。掃除とかあるから明日いきなりは無理だぞ。村のみんなに頼まないとな。そろそろあがるか、のぼせちまう」


    ビィが用意してくれた着替えはサイズこそシンクには合っていたがヒューマン用のものだった。脇も背中もあいておらず、布に覆われる感覚に慣れなかった。

    その夜。
    寝ているとまたグランが抱き着いてきた。
    昨日と変わらず柔らかくてあたたかい。
    俺のこと好きじゃないのにどうしてくっつくのだろう。
    ビィは優しいけれどグランはシンクには積極的に関わってこない。
    無視しているのではなく、避けているわけでもない。
    自分の父親がほかの子供を可愛がっているのは気に入らないだろう。
    もしシンクの、自分の父が自分の知らないところでほかの子供を可愛がっていたら。
    シンクは冷たい座敷に閉じ込められて暗い闇の中にいて、外では実の父親がよその子供と一緒に遊んで夜には一緒に寝てやるのだ。
    ……俺には会いに来てくれないのに、どうしてほかの子と一緒にいるの
    本当の子供は俺なのに……
    もうこの世にいない父にさえそう思うのだから。
    グランはもっと……
    慣れないベッドと慣れない体温にシンクは目だけつぶって寝ているふりをした。



    ◆◆◆



    風呂やかまどを使えるようにするからと、シンクは薪をもらいにいくようにビィから頼まれた。
    数少ないドラフの住人が薪や材木を加工しているそうだ。
    午後には家の大掃除の予定だ。
    グランの父が旅に出て数年、幼い子供と小さな竜しかいない家では火は厳禁だった。
    子供は7つまで火と水から守れ。
    この村での言い伝えであり、村人たちは忠実にこれを守ってきた。
    なので数年間使われていないグランたちの家のかまどや炉には立派な蜘蛛の巣が張り、煙突には渡り鳥の放棄した巣が詰まっている。


    薪をもらいにいくと、ドラフの男はシンクにルピを求めず、家の手伝いを頼んだ。牧場の時からうすうす気づいていたが、この村ではルピはほとんど使われないようだ。
    村人達の家より一回り大きいドラフのサイズの家に入り、女性、おそらく妻だろう。抱っこ紐で赤子を背負っている彼女に言われるまま掃除をした。喋るのが好きなのか、掃除の最中に村の出来事やこれと言って話題のないとりとめのない話を振ってきた。シンクは相槌しか打てなかったが、そうして無事に薪を手に入れた。



    庭先で薪を割り始めると、人の気配を感じて振り返る。
    じっと見つめてくる視線の主はグランだ。
    グランから近寄ってきたので少し驚いた。
    「ほんとにできるんだ」
    感心したようにグランがシンクの割った薪を見つめる。
    シンクにとっては薪を割るのは軽い労働だ。
    片手で斧を持ち上げる。両手で持って振りかぶって一気に振り下ろすと薪は真っ二つに割れた。
    それを何度も繰り返すだけ。
    薪割りもあの男に教わった生きる術のひとつだ。
    郷にいたころは掃除や洗濯、料理……薪を割っての燃料の確保、生きるための行いをする必要はなく、シンクはそうした仕事の存在自体知らなかった。
    いつも誰かが料理を運んできた。掃除も鍛錬のために外に出ている間に行われていた。
    あの頃は何もしなくてよかった。
    けれど、あの男がやってきて、彼と共にその日一日を生きていく仕事をするのは比べ物にならないほど楽しかった。

    グランは薪をすべて割り終えるまで近くで見ていた。
    「ねぇさわっていい?」
    どこをと返事を聞かないうちにシンクの体、ちょうど胸筋あたりにグランが手を伸ばした。ぺち、小さな手が叩くように触れてきた。探るように小さな手が指を動かす。
    「え、まって、ん……!」
    「へぇ、固くない。筋肉って柔らかいんだ」
    そのまま二の腕に手を伸ばしてくるので、シンクは両腕をあげる。バンザイの姿勢をとってもグランは背伸びをして腕に触れ続けた。
    ヒューマン用の服を着ているので、直接触られないがくすぐったい。
    「やめっ、やめて、言って、、ひゃっ……」
    ひと際甲高い声が出たところでグランがパッと手を離した。
    胸の前でバツ印を作るように腕を組んで、シンクは数歩後ずさった。
    幼い子供が何を考えてこんなことしたのかまったく思い当たらない。
    「シンクのこと若様とか跡取りだと思ってた」
    「?」
    「ミルク注ぐのに緊張して真剣で、お皿洗うのに慣れてなかった」
    「はじめたのは最近だから……」
    嘘ではない。
    あの男と過ごしたわずかな安寧の時間にだけそうした人間らしいことをしていた。
    「ねぇいつから薪割りできるようになった?僕も早くできるようになりたい」
    グランは早く一人前になりたかった。
    自分によくしてくれて面倒をみてくれる村人たちの負担を少しでも早く減らしたかった。自分のことは自分でやれるようになり、村の助けになりたい。
    まだ十にもなっていないグランには遠すぎる理想だ。
    「薪割りも教わったのも最近……」
    「………それって父さんに?」
    しまった。そう思った時には遅かった。
    温度が下がった気さえする。あたたかな日差しの日に。
    グランの表情を見るのが怖くてシンクは目をそらした。頭の中に郷の子供たちの、顔はぼんやりしているのに冷めた目だけははっきり覚えている。
    またあの目を向けられたら……肯定も否定もできないままシンクの時間は凍り付いて止まってしまった。
    「やっぱそうなんだ」
    グランの、冷たさと硬さがある声にびくりとする。
    気配が遠のいていき、ゆっくり振り返るとグランは村の方へと向かったのか姿は見えなくなった。
    黙って見送るしかできないシンクの脳裏に郷の子供たちの姿がよみがえる。
    郷の子供たちはいつも自分を避けていた。
    大人たちを見倣ってそうしていたと今ならわかる。当時のシンクはいつか輪の中に入れてくれるかもしれない、そんな叶わない夢をみていた。
    あの男が望むようにグランと共に仲良くこの島で暮らしていく。
    それはかつてのシンクの夢と同じく叶うことのない夢だ。
    薪割りを終えたシンクはその場を離れ、あてのないまま村外れに向かった。

    やはりここは自分がいるべき場所ではない。
    父親との思い出を奪った。
    シンクにその気がなくてもグランはそう思っている。
    だからシンクに冷たくしていいし優しくする義務もない。
    けれどカルムの郷の冷たい視線と氷みたいな声がだんだんグランに重なってきて手足が震え始める。
    人の視線が恐ろしい。自分が物凄く惨めな存在に思える。
    自分を見て人々が漏らすため息の重さにいつも押しつぶされてきた。
    頭の中に冷たい水を流し込まれたような気持ちだ。


    村のはずれで、膝を抱えて座り込んでいると気配が近づいてくる。
    足音から子供、それもグランくらいの背格好だ。この狭い村で誰が来たのか振り返らなくてもわかる。
    グランよりも濃い茶色の髪の少年、アーロンだ
    「なぁ、迷子になって家わからなくなった?」
    この島にやってきてすぐ、シンクが村を出ていこうとして、島のあまりの小ささに諦めた事件は村人の中では迷子事件になっていた。
    行商人の騎空艇がくるまで森の中で一人生きていこうとしたのだ。シンクはザンクティンゼルの小ささを舐めていた。どれだけ気配を殺しても、森に採集で訪れた村人と出くわす。
    消えたところで騒ぎにはならないだろうと書置きもしなかった。それが仇となり、日が暮れてすぐ、シンクの名前を連呼しながら村人たちが森に押し寄せてきて、シンクは仮面の奥で顔を真っ赤にしながら木陰から出ていくしかなかった。
    ちなみだが迷子事件はこの先何年も、アーロンとビィの口からことあるごとに揶揄われることになる。
    「あれは迷ったんじゃない」
    「迷子になる奴は必ずそういうよ。グランもそうだった」
    グラン、と聞いてつい先ほどの冷たい声と目を思い出す。
    少し体が震える。
    「あの小さな森でよく迷子にな……」
    少年、アーロンは何も言わずにシンクの隣に腰を下ろしてきた。
    びっくりする。この村の人間は警戒心がないのか。
    「……もしかしてだけどグランとなにかあった?」
    「ん……」
    さらにフードを強く引っ張る。ぐいぐい引っ張って視線を遮って頷いた。
    その通りだ。
    「俺、グランのお父さんとお前のことはよく知らない。けどグランの事はよく知ってるぜ。グランは優しいからさ、他人を嫌うことができないんだ。そのうち限界が来て仲良くなってくから安心しろよ」
    「そうなるかな」
    「なるって!」
    アーロンは断言するが、そんな時が来るとは信じられない。
    きっと、彼は気休めでも励まそうとしてくれているのだ。


    アーロンからの励ましもあり、シンクは家に戻った。
    今日はかまどと風呂を使えるように村人を集めて大掃除を行う。
    ビィがかけあって予定を調整してくれた大事な日だ。
    汚れがつかないようにとビィからバンダナが渡される。
    グランも同じく雑巾を手にして準備万端な様子だが、気まずいからかシンクと離れた場所にいる。
    大掃除は未経験、戦力になるだろうか。悩んでいると玄関から騒がしい声が聞こえてきた。複数人の大人たちがやってきたのだ。
    「お、揃ってるな」
    「じゃあみんな、片付けと掃除始めるよ」
    数日しか村にいないシンクでも何名かはもう知っている。
    牧場の夫婦、アーロンの両親、村の中では珍しいドラフの夫妻……
    「ビィ、部屋はどこにするの?」
    「そこだ。今は物置代わりに使ってんだ」
    「なら一回全部運び出すか」
    「風呂の窯は外か?」
    「うん、こっち」
    「親父さんの部屋も空気を入れ替えておくか」
    「そうね、埃もはいておきましょう」
    ビィとグランは村人たちに応えてあっちこっち走り回っている。
    何をすればいいかわからず、けれど立っているわけにはいかない。
    不安になっていると牧場の女性がシンクの肩を叩いた
    「シンクちゃんはおばさんの手伝いしてちょうだい」
    「うん……」
    そのまま家中をひっくり返すような大掃除が行われた。
    物置だった部屋から不要なものを運び出して女たちが箒と雑巾を片手に突入していった。
    長く使われていなかった竈や窯が点検されて、煙突から煙が立ち上る。
    大勢でとりかかったので日が暮れる前には全て終わっていた。

    物置だった部屋には村人たちがどこからか運んできた机や椅子、棚が運び込まれていく。
    綺麗な模様の絨毯、新しいカーテンを取り付けたそこは埃だらけのガラクタ小屋から様変わりしていた。
    作業した大人たちは部屋の中を見て満足そうに頷きあった。
    「でもベッドがないわね」
    「ほかにもいろいろ足りないな」
    「まて、そもそも服がないぞ」
    「ジェーンが作るだろ」
    「布団はうちにあるからベッドフレームが必要ね」
    「次の商船に取り寄せを頼んでもだいぶかかるぞ」
    「材木の乾燥に時間がかかってな。製材された板があればすぐにできるんだが」
    「ねぇ、あの人はなにも持ってこなかったの?よろず屋に配送を頼むとか」
    「着の身着のままで連れてきたんだ。あいつらしい」
    「細かな気配りはあいつには無理だろ」
    大人たちは輪になって何やら盛り上がっている。話の内容はわからない。
    グランとビィは家中の大掃除に疲れたのかテーブルに突っ伏している。

    「まだ時間もあるし、隣のおばあちゃんのとこにもいきましょう」
    「そうね、庭の雑草も伸びてきたみたいだし」
    大人たちは子供だけの暮らしも、老人一人だけの暮らしも同じくらい心配している。
    村の大人たちは持ち寄った掃除道具片手に今度はおばあちゃんの家に行くようだ。
    「じゃあビィ、かまどは使っていいけど気をつけてね。グランは火にはまだ近寄っちゃだめよ」
    「えー」
    「火と水は8歳から!」
    「あとちょっとだよ」
    「ちょっともダメ」
    「はーい」
    「茶を飲むのにばあちゃん家にいかなくてもよくなったな」
    「わざわざ温め直しもしてもらってたもんね」
    「シンク、火を使う時はそばから離れないでね。お風呂の時も、グランが遊んで溺れないように目を離さないでね」
    そう、家のお風呂が使えるようになっても監視のためにグランとは一緒に入らなくてはいけない。
    自分はグランより年上なのだ。自覚したせいなのか。
    お風呂も一緒に入るのは気まずいはずなのに、つい反射で頷いてしまった。
    「みんな今日はありがとう」
    「助かったぜ」
    「待って、それから……」
    お礼を伝えて大人たちを見送ったが心配性なおばさんは、なかなかで出ていかなかった。


    「ここシンクの部屋ね」
    グランは昼のことなど覚えていないようにけろりとしていた。
    シンクはそう思いたい願望でそう見えるだけかもしれないが、少し安心した。

    ま、アーロンの言うことは実は正解で、グランはあの直後、切り株の上で1人反省会を開いていた。あの態度はよくない……と反省はするも、父親に関しては素直に謝れない子供である。なるたけ気にしていないように振る舞おうとしているのだ。

    「お、俺の部屋……?」
    「あぁ、親父さん何の連絡も寄こさなかったみてぇでよ。何の準備もできてなくて、不便だったろ?」
    「……じゃあさっきの話は」
    「ベッドの話か?作るのに時間かかるって言ってたからもうしばらく寝るのは一緒だな」
    「……それ、あ、グランはいいの?」
    「えっ、あ〜〜、夜寝るときあったかいからねいいよ」
    扉を開けて自分の部屋といわれた小部屋を見回す。
    机と椅子とちいさな棚、真新しいカーテン。棚には何も入っていない。
    植物もなく殺風景にもみえる。
    けれど不思議といつまでも眺めていたい気持ちになった。



    夜、グランはいつものようにシンクに抱きついてきた。
    数日間、毎日のことなので慣れてきた。柔らかさに怯えることはなく、頭の中ではグランの声で「シンクの部屋ね」が何度も繰り返されていた。
    じゃあ村の大人たちは掃除だけじゃなくて、シンクの部屋を作りにも来たのか。
    あんなにたくさんのひとたちが。どこからか家具を持ち寄ってきて。
    恥ずかしいような照れ臭い気持ちになって、シンクは布団の中に潜り込んだ。



    ◆◆◆



    シンクの一日。
    かつては屋敷の一室に軟禁され、暗殺のための格闘術や毒の基礎を学ぶことだった。
    ……新たな島でのシンクの一日は毎朝、村で一つしかない牧場に行き子ヤギにミルクをあげることから始まる。
    ヤギ乳と卵を貰って帰り、朝食のあとは薪割りを行う。
    そのあとは畑や果樹園、牧場など村の施設の手伝いだ。
    関わっていく人の数は目まぐるしいほどにどんどん増えていく。
    何をしたいかはわからないけれど、何をすればいいかわからなくて途方に暮れることはなくなった。
    通りがかる村人たちは必ずシンクに声をかける。
    ただの挨拶から、お菓子を貰うこともあれば、頼まれごともある。
    隣に住む老婆からうちの薪もお願いしていいかしらと頼まれれば頷いた。
    空いた時間は眠れない夜に代わって休憩をとる。
    やっていることは毎日同じでも単調さや退屈を感じることはなかった。

    子ヤギにミルクをあげるのは簡単ではない。
    タンクからミルクをだしてバケツに注いでそれを子ヤギのもとへ運ぶだけ。最初はそう思っていたし実際、うまくいっていた。
    今日はシンクの足元に猫たち数匹がずっとまとわりついてくる。村で面倒みている野良猫だ。牧場は猫たちにとって溢れたミルク飲み放題、つまりたまり場だ。
    にゃーにゃー鳴きながら頭をぶつけるようにして脛にこすりつけてくるので歩きづらい。
    外に連れて行こうと、バケツを置いて猫を捕まえようとするシンクの手を猫たちはするりとかわした。
    そのままバケツに首をつっこんで中のミルクを飲み始めてしまった。
    隠れていた猫たちも押し寄せてきてあっという間に猫の輪ができた。
    狙いはこれだった。
    「だめ、これはお前たちのじゃな…ながっ」
    触ってどかそうとしたら胴だけがみょーんと伸びたのでシンクは怖くなって手を離してしまった。
    猫に言葉がわかるはずもなく、満足するまでミルクを飲まれてしまった。
    バケツは量が減ってしまいミルクの膜がふちについている。
    「ごめん、邪魔が入った」
    コユキに声をかけて飲みやすいようにバケツを口元へ運んで傾ける。
    取り分が減ってしまったせいでコユキはメエエエと鳴いた。
    毎日、顔を合わせていれば、それが飲み足りないのだとわかるほどにはなった。
    しかしタンクのなかにはもうミルクが入ってない。
    それを伝えに家畜が放し飼いにされている草原に向かう。
    女主人は藁みたいな飼料の山の前にいた。旦那も一緒だ。家の大掃除とシンクの部屋を作るときにきてくれた男たちの一人。
    「お、グランちゃんところのシンクちゃんか、どうしたんだい」
    グランちゃんとこのシンクちゃん!?
    家主はグランになりシンクは居候だから合っているが、また初めての新鮮な呼び方だ。実感が湧かない。
    「ミルクが、途中で猫に飲まれたちゃって、足りなくて」
    「あー、新しく絞るしかないわね。あんた、乳の絞り方教えてやって」
    「ほいほいお安い御用だよ」

    乳房の大きくふくらんだメスのヤギがシンクの前に連れてこられた。
    じっとおとなしくしている。はじめにこうやるのだと見本をみせてもらっていざシンクはヤギの乳頭を掴んだ。
    毛が無く、あたたかな感触ははじめてだ。生きている生き物のあたたかさだ。
    「そうそう、根元を抑えて逆流しないようにして上から順番に指を閉じていくんだ」
    「こ、こう?」
    「下に引っ張るようにして絞って」
    「痛くないかな」
    「まだまだ全然。もっと強く」
    二つの乳房を両手で掴んで交互に絞る。下に置いたバケツに少しずつミルクが溜まっていく。
    「もっと強くてもいいかな」
    「む、難しい」
    力加減は苦手だ。鍛錬ではいつも相手に怪我をさせていた。
    強く掴んではよくないと忌避してシンクはかなり力を抜いていた。
    「もっとこう、斜めに引っ張るんだ」
    おじさんの手がシンクの手を上から包んで乳を搾る。バケツの底に向かって乳が噴射の勢いで出た。
    「そんなに」
    まねて、力を籠めて強く引く。10分ほど続けていくとようやくバケツの三分の一くらいミルクがたまった。
    いつもはタンクのコックをひねるだけで手にしていたミルクがこんなに苦労するとは。
    ヤギだって、こんなにたくさんのミルクが入っていて、乳房はとても重かっただろう。
    この村に来てから生命の神秘を感じてばかりだ。
    「こんなもんでいいな、さ、コユキにやってきてくれ」
    「わかった」
    コユキの元に向かう途中、背後から乳を搾る音が聞こえた。バケツに強く当たる音とその速さは自分のものとは全然違った。


    ◆◆◆


    四季の移ろう風光明媚な島には夏が訪れていた。
    緑の牧草地には白、黄色、紫の豆科の小さな花がたくさん咲く。仕事に駆り出されない幼い子供たちが蝶々を追いかけて笑い声をあげる。
    ザンクティンゼルの恒例の夏風景だ。
    村人たちは熱中症に注意して畑仕事はできるだけ午前中に済ませる。
    さて、仮面をつけての夏の農作業は「地獄」まさにそれである。カルムの郷の亡霊も「仮面は農作業を想定して作られてないんだが」とドン引き間違いなし。仮面の下は汗でびっしょり、前髪も額に張り付いている。
    服も貰い物、ヒューマン用のため背中と脇が布に覆われて違和感がある。シンクが着の身着のままで連れてこられたせいだ。
    「……シンクちゃん、大丈夫かい」
    大丈夫ではないが外すことはできない。仮面の下を汗まみれにしながらシンクは首を頷いた。痩せ我慢だ。
    村の住人たちは仮面を外したら。とは言わない。あまりにも辛そうな時は水を飲ませて休ませる。大人たちはシンクに畑以外の仕事を振ってやりたいがこの時期は無理だ。春に種を蒔いた作物は収穫になり、青々としげる草は家畜のための干し草にする、繁忙期なのだ。
    青草や牧草を午前中に刈り、最も日差しの強い時間になる前に広げて乾燥させなくてはいけない。
    エルーンのふわふわの髪と耳は夏の日差しの前では散々だ。
    シンクは仮面を少しずらして汗をぬぐう。目に染みてきた。ついでに自分の耳に触って、あまりにも熱っぽくて手を離した。ふぅとはいたため息も熱が籠っている。
    仮面の下でひぃひぃ汗をかいているシンクを、同じ畑にいるグランはじっと見ていた。



    無事に干し草作りを終えた畑からの帰り道、シンクは反対方向から歩いてきたグランくらいの背丈の子供、アーロンと会った。彼は別の畑に行っていたのか今朝は姿を見なかった。
    「おーい!」
    迷って左右を見るが誰もいない。じゃあこれは自分への挨拶なのか。
    気さくに話しかけられたことがなくてシンクは自信がなかった。
    「俺に?」
    「え、シンク以外いないよな」
    「……何か、用か?」
    「そ、ちょうどよかった」
    アーロンは木で編まれた籠をシンクに向かって突き出した。
    「これうちの母ちゃんから、アップルパイな」
    「アップルパイ……?」
    首をかしげるシンクのリアクションに、アーロンはアップルパイを初めて見た人の物真似でもしてくれてるのかな?と思った。嘘偽りなく、シンクは見たことも聞いたこともないのである。単語の組み合わせからお菓子かな?と想像はつくが。
    「……受け取って?」
    「えっ?」
    「えぇっ?……持って帰ってグラン達と食べなってこと!」
    「わかった、渡しておく」
    「渡しておくんじゃなくて、シンクも食べろよ!母ちゃんのうまいんだからな!」
    受け取ったシンクにアーロンは指を一本、ビシッとさす。
    シンクは菓子の香りがするので二人にあげればいいのだなと思ったのだ。
    「わ、わかった」
    ちゃんとグランに切り出せるだろうか、できなかったらビィに言おう。
    挨拶もするしご飯も一緒に食べる。避けて、無視するなんてこともない。
    でも仲良し、とはきっとグランとアーロンのことを言うのだ。一緒に遊んで、肩を組んで笑うような。
    だから自分とグランは仲良くない、話しかけるときだってドキドキする。ま、シンクにとって他人全てに対してなのだが。

    「あ、おーいグラン!」
    アーロンが手を大きく振った。
    横道からグランがとてとてと出てきたからだ。
    干草の束を抱えている。さきほどの牧草の干し草ではなく、麦わら……乾燥させた麦の茎だ。
    「なんだそれ?」
    「これ?麦の茎だよ」
    「見ればわかるよ……なんで持ってんだってこと」
    「それは、あー」
    グランは一瞬シンクをちらりと見た。麦稈の束を見て
    「秘密」
    「麦の茎が?」
    どういうことだ?アーロンの顔にはそう書いてある。
    「いいでしょ、もう」
    「あ、どこ行くんだよ?もう仕事終わったんだし、遊ぼうぜ」
    一緒にさ、と付け足してシンクとグランを交互に見た。アーロンは1/3が気遣いでできているのだ。
    「母さんがアップルパイ焼いてくれたから食べてもいいしさ!」
    「ごめん、ナンシーおばあちゃんのとこ行ってくる」
    「ナンシーおばあちゃんのところか……わかった。でも麦わらってロバの餌だろ?」
    「それ以外にも使うでしょ……じゃあね」
    グランは自宅でもない別の方向へと歩いていくので、シンクとアーロンは小さな背中を見送った。
    「……なぁあいつとうまくやってる?」
    シンクは首を振った。
    「ったくガキだなぁ」
    呆れたように言うアーロンはどうみてもグランと同じくらいの小さな子供だった。


    ◆◆◆


    グランが朝起きると真っ先に見るのはシンクの顔だ。
    灰色の髪の毛と獣耳、眉を八の字にしてグランを見ているシンクの顔や、寝相によっては彼の鎖骨になる。
    起きた時にはシンクは仮面をつけてる。グランがホールドしているときも、離れるとすぐに仮面をつけてしまうので、素顔を見れるのは寝る前後の短い間だけだ。
    今まではビィが隣で寝てくれていた。彼用の籠で作った小さなベッドがあるけど、グランが抱きしめて寝ることが多かった。シンクが来てからはほとんどなくなった。
    僕のお父さんを取ったわけじゃない。
    けど、僕が会えないときに一緒にいた子。
    ずるいな、いいな。……お父さんとどんな話をしてたのかな。
    そう思っているのに夜中に少しだけ目覚めたとき、半分は夢の世界にいるけど。グランはシンクに抱き着いてしまう。
    自分を抱きしめてくれる大きなぬくもりを求めている。グランは自分の行動をなんとなくでも理解していた。ビィは小さく、指先はやわらかいけれど、鱗のせいでひんやりしている。


    常に仮面をつけていることを差し引いてもシンクは変わっている。
    寝るときはいつもベッドの端に行く。
    いつもグランより後に寝て、先に起きているから彼の寝ている顔を見たことがない。
    グランがどう頑張っても持ち上げられない斧を軽々と扱い、薪もどんどん割れる。
    ハイペースでも息切れもしない。
    でも、掃除やお皿洗いはへたっぴだ。牧場のお手伝いの日、乳しぼりはグランの方がうまかった。

    シンクは僕と暮らすのが嫌じゃないのかな。
    嫌いなわけじゃないけど素直になれない時はたくさんあった。
    でもシンクが怒るも不貞腐れることも、声を荒げることもない。
    グランが抱き着いていても迷惑そうな嫌がっている顔をしない。

    そんな気持ちがゆっくり積み重なって、グランはシンクをよく見るようになった。


    日差しが強まるザンクティンゼルの夏。
    ヒューマン用の服を着て、汗をたくさんかいてシンクの肌は赤くなっていた。
    そういえばシンクは何も持ってきていない、帽子もない。
    着てきた服はフード付きの一着だけで、洗濯中の時に着るヒューマンの服は窮屈そうだ。
    だからグランは畑仕事が終わった後、麦わらをもって、ナンシーおばあさんにお願いしにいった。
    ナンシーおばあさんは編み細工が得意だ。ビィの寝床も村で収穫に使う籠やバスケットはすべて彼女のお手製だ。
    おばあさんの手にかかれば麦わら帽子は一晩でできあがる。
    次の日。畑仕事の前にと、朝も早くにグランが受け取りに行けば、綺麗なピカピカの麦わら帽子が完成していた。
    でもそれをグランに渡す前におばあさんは、あらっと口に手を当てる。
    受け取ろうとしたグランからさっと取り上げてしまった。
    「やってしまったわ」
    「なにが?」
    「つい、いつもの調子で……村の子供にと思って。あぁ、やだわ。ボケがはじまったのかしら」
    ナンシーおばあさんは自分に呆れたみたいにため息をついた。
    「あの子、エルーンなのに」
    ナンシーおばあさんは麦わら帽子をくるくる回す。
    帽子のてっぺんは綺麗に丁寧に編み込まれている。
    「あ!」
    シンクの頭上でたまに動くあの灰色の耳のことをすっかり忘れていた。
    「ごめんねぇ、すぐに作り直すから。悪いけどまた麦わらを持ってきてちょうだい」
    「いいけど、かかりそう?」
    「今日中には完成させるわ」
    今日中かぁ……昨日のシンクを思い出すと頷けない。慣れない農作業、厳しい直射日光とデバフにしかならない仮面をつけていたから。やっぱり今日にでも帽子を渡したい。
    「大丈夫、耳の穴は僕があけたげる!」
    グランは持たされているナイフをみせた。
    刃の小さい、ザンクティンゼルに出てくる魔物用……ではなく森や畑の邪魔な枝を切るためのナイフだ。
    「いいわ。壊れたらまたおばあちゃんのとこ持ってきなさい」
    「ありがとう!」


    早くこの麦わら帽子を渡したくて、グランは走って汗だくになった。もうお手伝いの時間は始まっている。
    畑の合間の細い道を夏の風と一緒に走る。
    黄色い花畑の中に灰色の頭を見つけた。ハニースターの畑にしゃがんで雑草を抜き取っているシンクだ。
    同じ髪の色の村人はいないので目立って見つけやすい。
    今日も昨日に負けない、じりじり焼けるような日差しだ。
    早く渡したい、シンク!と呼ぼうとして立ち止まる。
    心の中にある苦い部分が仲良くなんてしない!と邪魔をしてくる。
    でも、だけどさ。
    「シンク!!」
    名前を呼ぶのって意外と勇気がいるんだな。


    声変わり前の子供の声で名前を呼ばれて、地面を見ていたシンクは顔をあげて立ち上がった。
    つばに青い紐が巻かれた麦わら帽子をかぶったグランが手を振っている。
    グランが自分を呼んだのか?しかもグランはニコニコ笑っている、信じられなかった。
    呼んだのは自分ではなく、近くで同じ仕事をしているアーロンか?でも確かにシンクとそう呼ばれた。聞き間違えるはずはない。
    グランは畑の柵を跨ごうとして失敗して、近くにいた大人が脇の下から持ち上げて中にいれてやった。
    「あのね、シンク」
    上目遣いで見上げられる。グランって目が大きくてくりくりしている。
    「ちょっとしゃがんで」
    「なぜだ」
    「しゃがんで、お願い!」
    自分の胸のあたりに届くか届かないかの子供にお願いされて、理由はわからないがシンクはしゃがんであげた。
    するとグランに頭に何かを被せられた。耳が何かに潰されてしまいとても窮屈だ
    「う、な、なに……?」
    情けない声が出た。まったく聞こえないわけではないが、周りの音が一気に小さくなってぼんやりと遠くなった。
    バサッと頭の上にあった物がなくなる。みるとグランが麦わら帽子を持っていた。
    麦わら帽子を被っているのに手にも持っていたな。それを被せてきたのか。
    「う~ん……ここらへんかな」
    グランは村の子供はみんな持っている(シンクもアーロンの父親から貰った)小さなナイフの刃を出すと、麦わら帽子にさくりと刺した。そのままサクサク手を動かして穴を開ける。
    帽子の左右に穴を開け終えると
    「シンク、しゃがんで」
    「ま、またか?」
    「そうだよ、位置を調整するからお願い」
    言われたとおりに屈むとまた帽子を被せられる。位置はいいが穴の大きさが足りず、耳は折れた状態になる。
    グランはすぐに帽子を取るとまたナイフで少しずつ穴を広げ始めた。
    「な、なぜ穴をあける?」
    「ヒューマン用に間違えちゃったんだって。よし、これでどう?被ってみて?」
    今度はシンクに渡してきた。
    受け取った麦わら帽子を上下にひっくり返して眺めて、自分の頭にかぶせる。耳の先端をつまんで引っ張り出すと、今度はシンクの耳のサイズにぴったりだった。
    大きすぎず、小さすぎずちょうどよい
    「どう?まだ窮屈?」
    「ううん、ちょうどいい」
    「耳引っ張ってたけど?」
    「エルーンは帽子やフードを被るときはこうする」
    「よかった。これシンクのだから、これから出かけるときは被るんだよ」
    「お……」
    グランはじゃあねといって踵を返そうとしたので、シンクは反射的にその腕を掴んだ
    掴んで、その細さにびっくりしてすぐに手を離した。
    「俺の?」
    「そうだよ、暑くなってきたから必要でしょ」
    「あぁ……」
    日差しが遮られるので、体感の温度がマシになった。
    「……グラン」
    「うん」
    「あ、ありがとう……」
    「ううん、作ったのは僕じゃなくて、ナンシーおばあちゃんだだから……ねぇ、今日のお手伝い終わったら時間ある?」
    「ある、けど……」
    普段は休息をとっている時間だが、そもそも夜だって目を閉じて横になれば回復する。
    グランからの問いに問題はなかった。
    「じゃあ水浴びした後、丘トンネルのところに集合ね」
    グランは別の畑の手伝いがあるといってそのまま行ってしまった。ハニースターの畑から出るときは来た時と同じように近くの大人に抱えられて柵を乗り越えて、行ってしまった。
    その日の畑仕事は、麦わら帽子のおかげでいつもよりもマシだった。
    汗だくになったので一度、川で水浴びをしてから村に戻る。
    丘トンネルは数少ない待ち合わせスポットだ。キハイゼル村の中心近くに、小さな丘とその下にあるトンネルがある。トンネルといっても2メートルもない、人が一人通れるくらいの幅しかない。何のために誰が作ったのかわからない、迂回して回ったほうが早いように思える丘トンネルは村で一番のお年寄りが生まれたころにはもうあった。


    待ち合わせしたグランと合流し、彼の後に続いて村の中を歩く。
    「どこにいくんだ?」
    「まずジェーンおばさんのところ、そのあとナンシーおばあちゃんのところ」
    どこかで聞いたことのある名前だ。後に行くおばあちゃんは帽子を作ってくれた人で……
    「おばさんがね、そろそろシンクを呼んできなさいって」
    グランはジェーンおばさんのことを説明した。
    ジェーンおばさん。
    村の子供たちがそう呼ぶ彼女は裁縫が得意だ。村で唯一の仕立て屋一家であり、商人から古着や布を買ってはチクチク針仕事を進めている。
    「服をくれた人だ」
    「うん。それは急ぎだったからそのままもらってきたけど、本当はエルーン用にちゃんと仕上げたかったんだって。でも家族が風邪になってお仕事がたまっちゃったからできなかったんだ」
    「忙しいんだな」
    「うん、でもようやく落ち着いたから採寸したいって」
    グランの後に続いてやってきたのは村でおなじみの様式の家。
    グランはノックをするが返事はない。しかしそのまま開けて入ってしまった。
    「ジェーンおばさーん!」
    「え、ダメだよ」
    「?、なんで?」
    「だって鍵、かけ忘れただけかもしれない……出かけてるかもしれないし、勝手に入るのはよくないよ」
    「え、鍵って入ってほしくないときにするよね?」
    「ち、違う。家にいるときも出かけるときもかける……」
    シンクの知っている常識ではそのはず。
    グランの家ではグランかビィが鍵を管理していると思って気にしなかった。
    「島の外ではそうなんだ」
    言い返そうとして、この村の平穏さを思い知った。
    この島に部外者は滅多にこない。そびえたつ鋭利な山脈を超えてわざわざ賊が来ることもなく全員が顔見知りで助け合っていく村だ。
    この村の解放的な風土なら鍵などいらない。それが当たり前なのだ。
    家に入ると女性がソファに座り、針仕事にいそしんでいた。声は聞こえていたはずだが集中していたのか。
    「あら、グラン。どうしたのさ」
    「おばさん、シンクを連れてきたよ」
    二人の視線が自分に集まる。
    居心地が悪くて部屋の隅に移動した。
    「まぁ!その子が!!」
    始めた出会った大人が自分を見て嬉しそうに笑う。
    そんな未知の経験はいつの間にか既知になっていた。
    「連れてきてくれたのね!」
    持っていたやりかけをいったん端において女性は裁縫箱からメジャーを取り出した。
    「ほら。こっちにきて立って頂戴」
    「ほらシンク」
    二人に促されてシンクは彼女の前に進んだ。
    見知らぬ大人には未だに恐怖がある。
    手足が少し震えてしまう。ここの人間は暴力を振わないとわかっているのに、怖かった。
    おばさんはシンクの身長と腕の長さ、肩幅などを図っていきメモしていく。
    「お耳の長さ!」
    「それっているの?」
    「最も重要よ」
    「そうなんだ……」
    「あぁ!楽しみだわ、エルーンの洋服づくり……膨らませていたデザインがいくつもあるの!」
    洋服を山ほど作り上げてきたおばさんでもエルーンの衣服は初めての挑戦だ。
    教科書や型紙があるわけでもない、遠目から目にする商船のエルーンや若い頃の旅行で見かけたエルーンの服装を思い出してはイメージを思い描いていた。
    戸棚からいくつか服を取り出して眺めていく。
    「ん~うちの息子と色の趣味が合わないかしら」
    まぁみんなのところにもらいにいけばいいか。
    おばさんは息子のお古を眺めて、ぶつぶつ呟いてから手にしたハサミで服の脇の部分を思いきり切り落とした。
    布を切る豪快な音を聞いてグランは
    「なんで切っちゃうの?」
    「エルーンの服は背中や脇が出ているでしょ」
    「あ、シンクが着てきた服もそんな感じだった」
    「でしょ……シンクちゃん、何かリクエストある?こういうのが好き!みたいな」
    「あ、わからな……フードをつけてほしい……」
    服の趣味、は聞かれてもわからないが、フードは、少しでも顔を隠せるのであったら嬉しい。
    「フードね。ほら、やっぱり耳の採寸は重要でしょ」
    「まぁ耳の穴は大事だったけど……」
    「あ、ごめんねシンクちゃん。自己紹介がまだだったわね。おばさんはジェーンよ。聞いているかもしれないけどこの村で唯一の仕立て屋!まぁ私の母もまだ現役だけど今ちょうど出かけているの。ま、洋服のことならうちに相談してね。子供ってすぐに大きくなるからね、服が小さくなったら教えてね。採寸も暇な時に来てね、こないとおばちゃん押しかけちゃうわよ!あ、シンクちゃん、いくつ?グランよりも4つくらいかしら。でもシンクちゃんのお洋服はお下がりにはできないわね、ヒューマンには着こなすセンスが……ねぇ。すぐに洋服作ってあげられなくてごめんなさいね。上の子が熱だして、治ったと思ったら次は下の子。その次は夫……で終わったら仕事が山積みよ、もう……あ、一着は仕上げるからそこのおやつ食べて待ってて」
    ガンガンに喋ってきたおばさんは、ピタ……と口を閉じるとそのまま針仕事を進めていく。
    グランはテーブルの上の白いお皿の上にある焼き菓子をぱくりとほおばった。
    小動物のように頬を膨らませるグランを眺めているとシンクにもと、差し出してきたのでおずおずと受け取った。



    「どう?」
    「すっきりする」
    「見てるだけで涼しそう。おばさん、僕も夏服これがいいな」
    「お腹冷やすから大きくなったね」
    出来立ての一着を試着すると、これまで布に覆われていた背中や脇が阻まれることなく露出する。動くと空気が流れ込む懐かしい心地がする。服の布がこすれる感覚には慣れなかった。
    「よかった。そしたらそのまま着ていって、この服も洗ってエルーン用に仕立て直していくから」
    「あ、ありがとう……」
    「いくつか作ったら届けにいくわね。丈が合わなくなってきたら教えてね、グランもよ」
    「はーい」
    「冬服は期待しててね!」
    おばさんはグランとシンクにお菓子も持たせて見送ってくれた。
    陽が出ている時間の長い夏、外はまだ陽が出ている。地面には二人の長い影ができていた。
    麦わら帽子をかぶった二人の影、ひとつはぴょんと三角の影二つ頭から飛び出ている。
    シンクはそっと麦わら帽子を触った。
    植物の茎で編んだ帽子、薄紫色の紐が巻いてあって目印になっている。
    グランが昨日持っていた麦わらがこの帽子になった。
    「グ、グラン……」
    「なぁに?」
    「これを作ってくれたおばあさんのところ……」
    「遅くなるかもしれないけど行く?」
    「うん……お願い」
    夏の夕暮れ、暑さは得意ではないが、エルーンのデザインの服で出歩けば過ごしやすい。
    一着しかなかったエルーンの服はこうしてどんどん増えていった。




    帽子を貰った夜、夏の夜はまだ昼間の熱が残っているのにグランはまだまだひっついてくる。慣れとは恐ろしいもので、シンクはグランに向き直った後、いつものようにグランの顔を眺めて壁の木目や染みを眺めて飽きると目を閉じた。
    ぎゅっと抱き着いてくる幼いけれどあの男と同じぬくもり、この平穏で危険な魔物も人間もいない村。
    シンクは自分が今までになくリラックスしていることに気づいた、それに抵抗しようと思わない
    ゆっくり、ゆっくりと意識の端が闇に侵されていく。蕩け落ちるような感覚が心地よい。
    ダメだと叫けぶいつもの警戒心はなぜか今日は静かだ。
    …………………………………………………
    ハッとする。
    俺は寝ていたのか?
    ほんの短い間だが完全に意識をなくして寝入っていた。
    ベッドの上で他人が隣にいるのに?
    夢さえ見ないほどの短い時間だったが、確かに。



    ◆◆◆


    日課を終えたシンクは森の中に来ていた。ふと、この島の植物を観察したくなった。カルム一族の習性だろうか。村の人間が知らない有毒な草木があるかもしれない、あるいは有用な薬草をそうと知らずに通り過ぎているかも。嫌な思い出と共にある知識だが役に立つかもしれない。
    麦わら帽子と仕立ててもらった服を撫でる。洗濯物が乾く心配がいらない。シンクが好む落ち着いた色合いで、エルーンの好むデザインで、薄手の上着には必ずフードがついた服が何着もある。

    カルムの郷よりもこの島は歴史が深いのか巨大な樹木ばかりだ。大木の幹や根本は苔が覆っていて深緑の絨毯が広がっている。
    耳をすませば小さな渓流の流れる音が聞こえる。気配を感じて様子を探れば、兎に似た小型の魔物の群れが伸び伸びと草を食んでいる。天敵になる大型の魔物がいないからだ。
    どこもかしこもカルムの郷にある森とは違う。あそこはどこか陰鬱な森だったがここは自然豊かで美しく、生命の気配があちらこちらにある。外部からの立ち入りを禁じて罠だらけの森と、村と共存し大いなる恵みを与えてくれる森が違うのは当たり前か。
    大木の枝の下に森の蜜蜂が巣を作っていたので迂回する。木の幹に印がつけられているからもっと巣が大きくなったら収穫するのだろう。
    森の中には、巫女の許可なく踏み入れてはいけない祠がある。
    シンクには駆られるような好奇心はない。事件も起こしたくないから心惹かれないので近づくことはしないが気にならないといえば嘘だ。
    何が祀られているのだろう。
    木を観察しながら森の中を進んでいったシンクがそれを見かけたのは偶然だった。

    森の中で一番、高い木がある。
    その木を青い何かがのぼっているのが見えてシンクは矢のように駆けだした。
    木の根がはり凸凹の森道を物ともせずに疾走する。
    シンクは地面など見ない。視線はしっかり木を登る青い……服を着た子供から外さない。
    手足が判別できる距離になる。小さな手が細い枝を掴む。当たり前だが木の枝は上に行けば行くほど細く脆くなる。
    折れなくてもバランスが崩れやすくなる。
    掴んだ枝が折れたのか、小さな手が宙を統べる。
    小さな体がぐらりと揺れてそのまま下へと落ちてくる。

    「グラン!!」
    シンクは大きな、もはや生まれた初めてではないか。そのくらい大きな声を出した。
    目に見える全て……視界だけではない、音も思考さえもすべてが停止に近い速度まで引き伸ばされる中で、グランの元へ大きく地を蹴り跳躍した。


    村の中も森の中もグランには変わらない遊び場だ。
    祠のある鎮守の森に近寄らなければ大人たちも森で遊ぶのを許していた。
    今日、グランは一人で森の中に来ていた。ビィは家族であり一緒に遊ぶけど、グランの保護者としての用事も多い。
    歩いているうちに、森の中で一番高いとグランが思っている木のところにきた。
    偶然だったがふと思った。
    すごく高い木に登れば、旅をしているお父さんが見えるんじゃないか。
    姿が見えなくても乗っている騎空艇くらいは、もしかしたら。
    先ほどまで思いつきもしなかったのに、グランはあの木の上からならきっと見えるに違いないと信じた。幼さと無知ゆえの思い込みだ。
    グランはすぐに実行できる行動力の持ち主であり、今に限ってお目付け役のビィもおらず近くに村人もいない。
    木登りはもっと小さなころからしてきたグランは自分が落ちるはずないと、何の道具も準備することなくそのまま登り始めてしまった。

    木のてっぺんに近づき、幹と枝はどんどん細まっていく。のぼりづらくなってきた頃。
    危ないからやめようと警告する理性より、あと少しでお父さんの姿が見える期待からさらに腕を伸ばして……
    ふわっと体が浮いた、……枝から転げ降りて宙に投げ出される。
    視界いっぱいに青い空が広がる。夏の突き抜けるような青い空と白い雲……見ほれる前に風を切る音が聞こえてきた。
    一瞬の浮遊感の直後、重力に従って落ちていく。
    バキバキと背中越しに枝を折りながら下へ、下へ。
    あ、待って。死んじゃうかも、どうしよう。
    恐いまでいかない。怖いと感じるほどの高さと時間がないせいだ。
    「グラン!!」
    目をつぶった時と誰かに呼ばれたときはほぼ同時だった。


    お腹に響く衝撃は一瞬だった。
    けど閉じた目をすぐに開けられない。痛いのは枝にぶつかった背中だけでそこ以外は痛くなくてグランはゆっくり目を開けた。
    「シンク……」
    仮面のない素顔のシンクがいた。
    どれだけ薪を割っても息切れ一つしなかったシンクが、今は口を開けてはぁはぁと肩で息をしている。
    シンクの腕が背中に回って、しっかりと抱きとめられていた。
    寝てる時と逆だ。そんな能天気なことを思った。
    地面にはシンクが踏み込んだ足跡と滑りこんできた跡がくっきりと残っている。彼の服は胸からお腹にかけて苔と土で汚れていた。
    あ、そうだお礼言わなきゃ。
    危ないことをした自覚と罪悪感とまだ夢でも見ているように頭がふわふわする。
    助けてくれたんだから言わなくちゃ。
    「あ、ありがと……」
    「なぜ……」
    息をきらすシンクの、薄紫の瞳はゆらゆら水の幕が張っていてうるんでいる。
    「なんでこんな危険なことを……」
    ぽろっとシンクの右目から一滴だけ涙がこぼれた。
    怒られている気はしない。彼の感情の高ぶりが察せられた。
    「高い木……登れば父さんか乗ってる艇が見えるかと思って……」
    「そ、れは……」
    シンクは本当に泣きそうな顔になった。
    そしてグランから目をそらして右を左をみて、意を決したようにもう一度向き直った。
    「あの男は、」
    「うん」
    「お前が怪我をしたと、それも自分に関わる理由で怪我をしたならきっと悲しむ……たとえ知らせる方法がないとしても」
    シンクは悩みながら言葉を選んでいる。どうしたら相手に伝わるか。自分の中にある感情や思考にぴったりな言葉はなにか……
    「そうかな?」
    「そうだ」
    「……前から聞きたかったんだけど、なんでお父さんのことあの男っていうの?」
    「名前を知らない……騎空士だってことしか」
    「なにそれ、変なの」
    「俺にとっては名前よりもっと多くの大切なことを教わった。だからいいんだ」
    「なんだ、聞いてくれればよかったのに。話すときにさ、あの男、あの男って言いにくいでしょ」
    「え、でも……嫌じゃないか。俺がお前の父親の話をするのは、俺は……」
    シンクは黙ってしまう。言いたいことがあってもなかなか言い出せない性質だ。
    「僕ね、お父さんの顔覚えてなかったんだ。夢に出てくるときはのっぺらぼうで悲しかった」
    「………………」
    「でもシンクを連れて少しだけ帰ってきてくれたから、次の夢からはちゃんとお父さんに顔がついてた。……つまり、そのくらいお父さんとは一緒にいたことはなかったんだ」
    えへへとグランは笑った。笑うしかない笑い方だった。
    「俺も……父親とは関わったことがない。同じ郷……村に住んでいたのに話したこともあんまりない」
    「え、一緒の村にいるのに?」
    グランには信じられなかった、けれどシンクは頷いている。
    想像もできなかった。
    「全てを失くして、もうどうしたらいいかわからない絶望の中であの男が……俺に初めて寄り添ってくれた。もう大丈夫だと言われた時、とても安心した」
    シンクは記憶を探るように目を閉じる。
    「ひとのぬくもりも薪の割り方も、街での買い物の仕方……生きていく術を教えてくれた」
    なによりも彼の存在そのものがシンクの生きる希望の光になった。
    「俺は、お前が寂しい時、あの男と共にいた。けれどその時だけが俺の唯一の……安寧なんだ。だから、その、ごめん。あの時を譲ることは、できない……」
    あの時だけは、あの日々だけは誰にも渡せない。例えあの男の本当の息子でも。
    盗人っと蔑まれても構わない。
    「うん、それでいいよ」
    グランの父は、一人の人間を救った。哀しみ苦しんでいる誰かを救う。
    それが騎空士だ。だから僕はお父さんのことを誇りに思って胸を張れる。
    シンクは父さんが大好きなんだな。きっと僕と同じくらい。
    「会いたい?」
    「うん」
    「僕たち、一番会いたい人が一緒なんだ」
    「そうだな」
    「あとでお父さんの話、聞かせて。シンクが話したいとこだけでいいから」
    「うん、わかった」
    「……ところで、仮面」
    「仮面?」
    「そこ、落ちてるよ」
    グランが指さした先、だいぶ遠いところに仮面が落ちている。
    麦わら帽子は耳のおかげで飛ばずに済んだが、仮面はグランが落ちてきた衝撃で吹き飛んでいたらしい。
    グランを下ろして取りにいこうかと思ったら、枝が折れる音が聞こえてきた。誰かが走ってきた。
    「誰か木から落ちたと思ったら、お前かグラン」
    「怪我はないか」
    猟銃を担いだ男と、採集に来ていた親子だろう、三人組が駆けつけてきた。慌てていたのか、彼らの歩いてきた道にはきのこが間隔をあけて落ちている。
    グランが落ちる際の枝が折れる音を聞きつけたのか。彼らはシンクに遅れて到着した。父親に連れられた少女ははぁはぁと息を切らしている。
    「うん、大丈夫。シンクが受け止めてくれたんだ」
    「シンクが腕をみせなさい、折れているかもしれない!」
    「大丈夫、ほら」
    痣すらない両腕をみせる。受け身もうまくとれたのでシンクはまったくの無傷だ。
    猟師の村人が腕にふれて異常がないか触診をする。
    無傷のシンクに大人たちは頷きあって安心した。
    「大丈夫みたいだ」
    「よかった。ありがとうなシンク……グラン、お前自分が何をしたかわかっているのか」
    シンクに向けていた笑みから一転、大人たちの眉は吊り上がる。
    「ご、ごめんなさい……」
    大人たちのグランへの説教がはじまった。
    それを眺めるシンクの服が下から引っ張られる。
    「ねぇ、シンク」
    話したことのない小さな女の子が自分の顔を指さして
    「仮面ないお顔きれいね」
    仮面はまだ地面に落ちたままだ。
    いつもなら喉奥から悲鳴をあげるのに。顔が熱くなってしまうのに。
    そうだ、仮面を拾わなきゃ。と慌てることもなく冷静なまま仮面を拾った
    仮面をつけると、女の子は残念そうに口を曲げた。
    グランはこっぴどく怒られて、猟師のドラフに背負ってもらい村に帰って背中の手当てを受けた。落ちる途中に何度もぶつかった枝のせいで痣だらけになっていた。そのおかげで落下の速度と衝撃が和らいだので悪いことばかりではない。
    その夜、シンクは背を向けずにグランの方を向いて、目を閉じた。グランは背中が痛いのでうつぶせに寝たが今夜もシンクへ身を寄せてきた。

    ……………………………………

    シンクはカーテンの隙間から差し込むわずかな光に反応して目を覚ました。
    え、寝ていたのか?
    自分が一番驚いた。
    一瞬ではなくずいぶんと長く、眠っていた。
    最近はまどろむようになってはいたが。
    寝ていた、完全に無防備な状態をさらけ出していた。
    ショックではない。本当に驚いたのだ。他人が近くにいるのに、熟睡できる日がもう一度くるとシンクが一番信じていなかった。


    ◆◆◆



    その日は朝から、慌ただしく村人たちが走り回っている。
    事件や事故ではない、商人たちが騎空艇でやってきたからだ。
    定期便がなく、不定期にやってくる商船がこの島唯一の外との繋がりだ。
    塩をはじめとした調味料、本や茶葉などの娯楽品。薬などの必需品や外の世界のニュースはこの時にしか手に入らない。足りないものや欲しい商品の注文もこのときしかできない。
    そのために朝から村人総出で商人たちを招いている。
    商船の降り立った草原には布が敷かれてまるで露店のように多くの商品が並べられている。

    シンクは村の大人たちに欲しいものがあるなら買って来いとルピを渡された。
    村ではルピは流通していない。お小遣いだと渡されて、はじめてこの村でルピを見た。

    ルピを握りしめ、中型サイズだがこの島にとっては大きな騎空艇を見つめる。
    あの艇に乗れば、この島から出ていける。
    生唾を飲み込む。
    少し前まで、この島から出ていこうと考えていた。
    ここは自分にはあまりにも……不似合いだと。自分の居場所ではない。どこへ行けばいいのかわからないなりにそう考えていた。
    あの男に連れてこられたこの島、みんなはシンクがどういう人間か知らないから優しくしてくれる。とってもとっても、優しく。
    生まれてきてから多くの人たちにこんなに優しくされたことはない。
    もはや、あの男に教えて貰った知識、生きる術よりこの村で学び経験したものが多い。
    …突然シンクがいなくなれば、毎朝ミルクをあげているコユキが。今はシンクが畜舎の入り口に来るだけで呼びかけるように鳴いてくれる。彼女はどうなるんだろう、俺のことすぐに忘れちゃうかな……
    ……ここを出てもシンクに帰る場所はない。ないならカルムの郷に帰って、あの静寂の中、廃墟の中で暮らしていくしかない。それしかない。
    シンクは頭にかぶった麦わら帽子をぎゅっと掴んだ
    グラン。
    あんなに柔らかくて幼い子供。一緒にいてはいつか壊してしまうんじゃないかと怖かった。
    俺のことを嫌ったままだと思っていた。
    たぶん、だけど。昨日からグランと自分の関係は変わった。
    少しずつ変わってきていたけど、きっかけのような、最後の一押しがあった。
    ベッドの上で彼の父親の話をした。シンクの方が話す内容は多かったが、グランとビィからも話が聞けた。あの男の名前とファミリーネームも教えてもらった。
    ここで島を出ていけば……グランはどう思うだろう。夜ずっと感じていたあのぬくもりはもうなくなるのだ。

    考えて、たくさん考えて。
    その日、シンクは仮面を外した。 

    いつから人の視線が怖くなったのか覚えていない。
    郷に閉じ込められている時は仮面がないと息ができないほどじゃなかった。常に監視するような人々の視線に刺されて、遮るようにフードを深くかぶって息を殺していた。
    きっかけは、あの事件の後、あの男と共に初めて足を踏み入れた市街地だ。
    そこは郷の人口よりもはるかに多い人間があふれていた。ヒューマン、ドラフ、ハーヴィン……生まれてはじめて見る種族への好奇心よりも行き交う人々が恐ろしかった。
    カルム一族の忌子がそこにいると気づいた多数の目が一斉に向けられる。そんな想像をしてビクビクしながらあの男の手にしがみついた。
    仮面をつけると視線が遮れて安心できる。そう気づいてからは仮面を手離せなくなっていた。


    商売を終えてザンクティンゼルから旅立って商船を見送って……シンクは仮面を外した。
    こんな日が来ると思っていなかった。
    ひらけた視界、自分の顔がさらけ出されているのが恥ずかしくてフードを深くかぶった。
    一大決心だったが……
    世界はたいして変わらなかった。人の態度も言葉もなにも。おどけて指摘する人も仰々しく喜ぶ人もいない。
    視界がひらけて、ザンクティンゼルの美しい自然がよく見えるようになった。
    それと、ヤギのコユキに直接顔を舐められるようになった。
    ザラザラした舌で頬を舐めてくるのでかなり痛い。
    困ったことはこのくらい。
    いつも怯えていた人々の視線、そんなものはどこにもなかった。



    ◆◆◆




    「シンク、お手伝い終わった?」
    グランからよく、というか毎回だ。手伝いの仕事が終われば遊びに誘われるようになった。
    「うん……」
    遊んだ経験のないシンクを誘ってグランは楽しいのだろうか。
    自分が嬉しい分、グランがつまらなかったら嫌だ。
    なにしたい?と聞かれて答えられない自分も。
    グランと遊べるなら本当に、なんだっていいのだ。
    「シンク泳げる?暑いから川行こうよ」
    「うん」
    村の中には田畑用の用水路が通っていて、外を流れる川から引き込んでいる。清流は心地よいが、浸かりすぎると青ざめてしまうほど冷たい。
    その用水路をさかのぼり川に行く途中の木陰でシンクがはじめて会うおじさんが寝ていた。
    「あ、トムおじさんが落ちてる」
    「落ちてる」
    「トムおじさんはね、植物のお医者さんで、お酒を造るおうちの人なんだ」
    「兼任なのか」
    「小さい村だからね、兼任多いよ」
    不作や作物の伝染病が起きたらこの村は一発でアウトだ。
    「お酒が大好きだからね、ほら」
    おじさんのそばには空き瓶が転がっている。昼から飲んでいたのか。
    「おじさん家の仕事は秋から冬にかけてだから、今はちょっと暇なんだ」
    「起こさなくて大丈夫?」
    「そのうち奥さんか娘さんが探しにくるから……シンクの故郷ではどうだった?こういうおじさんって村に一人はいるってトムおじさんが言ってた」
    「いなかった、……」

    グランのいうとおり、すぐに女性の怒鳴り声が聞こえて、おじさんはたたき起こされた。
    まだまだシンクの知らない住民もいる。
    秋の手伝いの酒造りで出会えるだろうか。

    小さな用水路の上をまたぐ直前、グランがいきなりしゃがみこんだ。
    「シンクに秘密教えてあげる」
    「秘密?」
    「そう秘密」
    突拍子もない、がグランはまだ幼いし好奇心旺盛で興味があっちこっちに移る。
    歩いているうちに目的を忘れてしまうこともよくあった。
    「ここの板をめくるとね」
    大人の一歩で軽くまたげる幅の水路にかけられた板をグランが片手でもちあげてめくる。
    あいた片方の手を用水路に差し入れると
    「見て、カニがいるんだ!!」
    子供の手でも持てる大きさのカニが握られていた。
    グランは意気揚々と自慢するように捕まえたカニを見せてくる。
    グランが大事な秘密を教えてくれたことと、その内容がほほえましい。
    板の下には数匹のカニが身を寄せあうようにしている。鳥から隠れてこの場所にいるのか。
    「釣りやる?」
    「やったことない」
    「猟師のおじさんはね、ここのカニを餌にして釣りをするんだって」
    「猟師なのに?」
    「釣りが趣味なんだよ」
    「ここはグランの秘密じゃないの?」
    「おじさんから教えてもらった秘密なの!」
    たぶん村の子供たちみんなが知っている秘密だな。
    グランは満足したのか、カニを用水路に戻してどぶ板を元に戻した。

    そんな風にたくさんの寄り道をしながら、村の近くの川についた。
    岸辺の草原にはドラフの男が、顔の上に大きな麦わら帽子をのせて昼寝をしている。傍に立てられた釣竿から川へと糸が伸びている。近くにある木に古い型の猟銃が立てかけてある。
    「おじさーん」
    「おーグランに、シンクか」
    大きな手が麦わら帽子をどかして、男はのっそりと起きあがる。
    「川で遊ぶのか?」
    「うん、泳ごうと思って」
    「ん……シンクがいるならいいか。深いところにはいくなよ」
    しっかりグランを見ておくように。
    おじさんに目つきで伝えられ、シンクは力強く頷き返した。
    「おじさん、お仕事は?」
    「おじさんは休憩中さ」
    「いつも休憩してるよね」
    グランが木から落ちたときに駆けつけてきたこの男、シンクがはじめてザンクティンゼルの村を歩いたとき見かけた。川のほとりで自然の光を謳歌するように釣り糸を垂らしていたドラフである。
    「小さな島だから狩りすぎるとすぐにいなくなっちまう。この休憩が大事なんだ」
    「魚はいいの?」
    「キャッチ&リリースだ」
    「シンク、おじさんね、魚釣る方が上手なんだよ」
    グランがこっそり教えるように耳打ちしてくれた。
    が、位置がヒューマンの耳の位置だ。
    「くくく。シンク、グランに教えてやった方がいいぞ」
    「聞こえたから大丈夫」
    「え、なに?何の話?」
    「エルーンの耳の位置」
    「え……あ~」
    「あはははは」
    ドラフの笑い声は豪快だった。
    あまりにも大きく響くから、これじゃあ魚も逃げ出す。
    「二人して川遊びなら釣竿もってくか?」
    「いいの!」
    グランが顔を輝かせて喜んだ。
    子供だけの釣りは用水路のカニ釣りしかやらせてもらえなかった。薪割りと同じく、もう少し大きくなったら一人でも魚釣りをしていいと口酸っぱく言われている。
    「いいさいいさ、シンクがいるなら竿もなくさんだろう」
    「僕だってなくさないよ!」
    「ははは。どんなに釣れても魚は食べる分だけにして、後は戻してやるんだぞ」
    「うん!」
    そうして男は近くにある狩猟小屋の中から木製の釣竿と魚籠をシンクに渡した。グランがすぐに持ちたがったのでシンクは釣竿を渡してやった。
    「餌もいるか?」
    「おやつのパンがあるから平気!」
    「じゃあ、流れに気をつけろよ。夏の間にたくさん遊んどけ」
    「……?どうして夏に」
    「秋はね、収穫と冬への準備ですごく忙しいからだよ」
    農村歴数年目のグランは遠い目をして秋を語った。
    二か月もたたないうちにシンクはその意味を体感するのであるがそれは後の話である。

    手を振って別れた後、グランは喜んで釣り竿を振り回しながら歩くので、シンクはn何度も躱している。
    「魚は滅多に食べないんだけど、シンクはお魚好き?」
    「わからない」
    「食べたことない?」
    「あるけど好き嫌いで考えたことないから」
    「お祝いの時にしか食べないけど、僕は好き」
    「あまり食べないの?」
    「おじさんも言ってたけど、みんなで毎日釣るとすぐいなくなっちゃうからね」

    上流に向かう途中、コトンコトンと音を立てる水車小屋を通り過ぎる。深い色味をした木製の水車がゆっくりと回っている。
    「これって何の音」
    「小麦を挽いているんだよ。歯車がぐるぐる回って杵を持ち上げるの」
    グランは何度か水車小屋を見学したことがある。水の力で水車をまわして大きな臼みたいな機械をまわしていた。
    「挽く……」
    「僕らが食べるパンになるんだ」
    小麦がパンになる。その当たり前の中にある過程を目の当たりにして、シンクの中にまた一つ新しい知識が加わった。
    話し声が聞こえたのか、水車小屋から当番の男が顔を出して手を振ってきた。


    透明な川の底は転がる石がはっきりと見える。力強い緑の木々が水底まで映って、魚たちが森の中を泳いでいるようだ。
    「ここの魚はね、釣り人がほとんどいないから警戒心がなくて釣りやすいっておじさんが言ってた」
    「なら……餌にカニを捕まえようか」
    浅瀬を覗き込めば、岩の下にうごめくカニの姿がはっきり見える。
    いつも釣りをしているおじさんがいうなら、餌はカニがいいのでは?
    「いいよ……針に刺すのができないんだよね」
    「そっか……そうだな」
    「だからパンでやる」
    グランが懐からおやつ用のパンを取り出すとちぎって釣り針に刺した。
    そして勢いをつけて釣竿を振りかぶって遠くへ投げ……ようと頑張った。
    魚が集まる水深の深いポイントへは届かず、その手前あたりに着水した。
    それでもグランは楽しそうだ。自分がやれば遠く飛ばせるけれど、シンクは自分から言いださなかった。
    が、あまりにも魚が食いついてこない。
    生餌のカニならもしかしたら近づいてきたかな。パンでは難しいのか。
    「ボウズだ」
    「坊主?」
    「魚が釣れないこと。おじさんに投げてもらうと釣れるんだけど」
    僕だと難しいなとグランが少し落ち込んでしまった。
    釣竿を使ったことはない。
    シンクが竿を持っても遠くへ投げられるだけ。テクニックなどはない。
    グランを喜ばせたい、なら自分にできることは……
    「潜ってとってくる」
    「えっ」
    「いつもやっていたからできると思う」
    シンクはあの男と暮らしている時、素潜りで魚を獲っていた。
    あの男の真似をしているうちにいつの間にかできるようになっていた。
    体を伸ばし準備運動をして、できるだけ静かに川の中に入る。
    ゆっくりと波を立てないように滑るように進んでいき、水深が深くなるところでシンクは川に潜った。
    水面は青く、水底に近づくと緑色に見える。水面を見上げるとキラキラと日差しが光っている。
    美しい水中の世界を進んでいくと、警戒心のない川魚たちが見えてきた。
    銀色に光る魚の中から手ごろな大きさの一匹に狙いを定める。
    グランの言う通り、警戒心のない魚は簡単にとらえられた。
    ザパッと水面を割るように顔を出す。
    泳いでいるうちに遠くへきたようでグランのいる川岸が小さく見えた。
    手を振るグランに魚を掴んでいない片手を振り返す。
    「すごい、素手で本当に……!シンクすごいね!」
    「あ、これは、……教えてもらったんだ」
    「え、お父さんに?」
    「うん」
    「素手で捕まえてたの、絵本の熊みたい……」
    「くまっ、……お、俺も熊みたいか?」
    「シンクは猫ちゃんかな」
    「猫ちゃん……グラン、あっちの方が魚の数が多かった。いってみよう」
    「あっち?」
    「うん、静かに……影に反応するから川から離れて行こう」
    二人はいったん、川から距離をとって静かに移動する。ちょうどシンクが魚を捕まえたあたりにくると、水面がキラキラ光っている。魚の鱗が反射しているのだ。
    せっかくだから今日の夕飯分を思い、シンクは二回ほど潜り三人分の魚を見事に捕まえてきた。
    グランも一匹だけ小さめな川魚が釣れたので喜んだ。食べる部分も少ないのですぐに川に帰してやった。
    釣りをして、飽きたら泳いで、カニを探して沢遊びをして。
    二人は日暮れまで遊ぶだろう、用事を終わらせたビィが探しに来て加わるかもしれない。

    そんな二人を遠くから眺める老婆が一人。
    大きな岩に腰かけて、いつの間にかやってきて二人を眺めていた。
    「はぁーやれやれ。ようやくちいさな嵐はおさまったね」
    村の外れに住む少し不思議なお婆ちゃんである。

    ◆◆◆



    「シンク、シンク!」
    突然グランが興奮した様子で立ち止まりシンクの腕を引っ張る。
    森の中のいくつもある巨木の一つを指さしておおげさにはしゃいでいる。
    「見て!木!あれクワガタ」
    「え、どれ……」
    グランの興奮がシンクにはわからなかった。
    逆にグランもなぜシンクがクールなままでいるのかわからなかった。
    恐竜の時代から男の子はカブトムシとクワガタが好きなのに。
    商人の艇の積み荷に交じってきたのか。
    ザンクティンゼルにはいない大きなクワガタが大木の真ん中あたりにとまっている。グランは身振り手振りを交えてシンクに説明したが熱意はあまり伝わらなかった。
    シンクはクワガタが何かわからない。
    グランが指さす木に止まる黒い虫の名前なのはわかったがそれだけだ。
    虫は虫である。嫌いでも苦手でもないが好きでもない。
    そんなシンクにグランが甘えた声を出した。
    「シンク、ね、捕まえてきて」
    「えっ」
    正気か?
    虫だぞ?捕まえてどうするんだ?
    しかしグランの目はキラキラと興奮して光り輝いていた。
    グランに上目遣いで見つめられ甘えた声を出されて抵抗できる者などいない。
    「お願い、僕は木登り禁止にされちゃたから」
    グランが頼むものだから、シンクは虫など触るどころか捕獲したこともないのに頷いた。
    グランはよほどあの虫が好きなんだ。
    グランの望みなら自分にできることは叶えてやりたい。
    幼く大きな瞳にうつる期待に答えたい。
    木登りは簡単にできる、虫が飛ぶ前に捕まえることもできるはずだ。
    頷いたシンクは聳え立つ大木に器用に登りはじめた。

    シンク自身は気がついていないが。
    生まれてこのかた虫取り、虫相撲など子供たちの遊びに興じたことがなく、虫に触れる機会さえなかった。
    毒虫は毒にも薬にもなり、扱う家系がカルム一族にもあったが、長の家系ゆえに座学で済まされていた。
    虫の儚さなどまったく知らないシンク。
    常人にはない運動能力と膂力で、グランのために絶対に捕まえてやると意気込んでクワガタに手を伸ばして握りこんだ。
    ので。
    シンクの握った拳から、ぐしゃっと潰れる音と白い液体があふれ漏れる。
    ちぎれた黒い節足がピクピク痙攣しながら地に落ちた。
    おそるおそる拳を開く。
    黒い甲殻の破片と白い綿のような液体だけがシンクの手のひらに残った。
    木の下にいたグランは落下してきた残骸をみて何が起きたかを悟り、声も出なかった。

    自分の手のひらで小刻みに動いていた節足がやがて力を失っていくのを見ながらシンクの目からも光が失われた。
    またやってしまった。
    どうして自分はこうなのだ。
    壊すこと、殺すことしかできない。グランが欲しいと思ったものを手に入れることができない。
    自分のことを受け入れてくれる人たちに出会って、自分の足で歩きだしたと思っても本質は何も変わらない。

    シンクがどんより灰色のオーラで落ちこみながら降りてきたのでグランは心配になった。
    クワガタは残念だったけど、シンクの折れるように垂れ下がる耳を見て、地面の残骸は……見なかったことにした。
    「シンク大丈夫?井戸で洗おう」
    「すまない……」
    ベタベタの手を拭うこともせず、ぼんやりと手のひらを見つめるシンクが心配でグランは遊びに行くのをやめて村に戻ることにした。
    シンクはトボトボとグランの後をついてきている。
    グランは歩く速度を落としてシンクと並んだ。たぶん、こうした方がいいと思った。
    「虫の形は覚えた、今度はうまく捕まえるから……」
    人は落ち込むとどうして下を見るのだろう。
    シンクは背中を丸めて力なく歩いていた。
    グランに捕まえてきてやると言って失敗した。失望されたらどうしよう。
    もうシンクには頼まない、優しいグランはけっして口にはしないけれど心の中で思ってしまうかも。
    シンクは奈落の底へと沈んでいくようにぐるぐる考え込んだ。
    「やっぱりシンク、クワガタ知らなかったんだ。カブトは?」
    「わからない」
    首を振る。カルムの郷には薬草や毒草が生えており虫の数は少ない。
    虫自体、幽閉された座敷の窓の外やたまに許される外出の時に姿を見ただけだ。
    毒虫以外に詳しくなる必要はない、だからクワガタ、カブト、蝉、バッタ、カマキリ……虫が苦手でなければ外遊びで触れるそれらに触れたことはない。あの男と共にいるときも虫について学ぶ機会がなかった。
    「……ミ、ミヤマは……?ヘラクレスは?この島にはいないんだけど」
    「……誰かの名前か?」
    グランはショックだった。たとえこの島には生息していなくても図鑑の中にいる大きなクワガタや立派な角を持つヘラクレスオオカブトは子供ならだれもが憧れると信じていた。
    「お、オオクワ……」
    「大きなクワガタだな」
    そうだけど、そうじゃない。
    シンクは大切なことを学んでこなかった。それはグランの父親も教えていない。
    大問題だ。
    「シンク、僕の部屋に図鑑があるから今夜見ようね!」
    「あぁ。クワブトの姿も覚えたい」
    違うよ!と叫んでしまいそうだった。しかしこらえる。
    シンクはとても重症だ。それをどうにかできるのは自分しかいない。その使命感がグランを奮い立たせた。
    よくわからないがグランは落ち込んだし失望していない様子で、シンクも安心した。


    定期的に掃除をしているグランの父の部屋には大きな本棚にぎっしり本が詰まっている。
    書斎も兼ねているのだ。
    グランは持ってきた踏み台に乗った。
    「昆虫図鑑はね、これ」
    ランプを棚に置いてグランが分厚い本を取る。
    隣には植物、動物、魚、鳥……一通りのラインナップが並んでいる。
    色あせていて端がボロボロの本は、代々受け継がれてきた本か。
    図鑑のほかにも背表紙のタイトルを読んでいくと小説や農業に関する書籍、空図などいろいろな本がある。シンクは思わず目で追っていく。
    「たくさんあるね」
    「うん、お父さんが集めたのかな?よくわからないけど」
    「あの男の……」
    「お父さんって本を読む人だった?」
    「俺の前ではなかったかな」
    「じゃあおじいちゃんのかな?会ったことないんだけど……あ、これね、僕のお気に入りなんだ」
    グランは本棚の中から一冊の本を取り出した。
    図鑑よりも薄いが十分な厚さがある。表紙には騎空艇を背景に古めかしい格好の男がポーズを取っている。
    小説か絵本のようだ。
    グランは図鑑の上にお気に入りの本を重ねて持つ。
    「図鑑は読まないのか?」
    「読むよ。でもこれ読みたい」


    その日の夜はグランによって早めにベッドに連れていかれた。
    ランプに火をともして二人でベッドの上に寝転がる。
    ビィはまだベッドに行く気はないと、1階にいる。
    二人は体をくっつけあって昆虫図鑑をめくっていく。
    「クワブトはどれだ?」
    「うーん、いないかな……」
    グランはページをめくっては虫の名前とそのかっこよさや、積み荷に交じってこの島に来たことがある種を熱心に語った。残念ながらザンクティンゼルの冬を乗り越えられる虫は少なく、他の島からきた虫はだいたい死んでしまう。
    「シスも見られるといいね」
    「あぁ……」
    「これ!これがミヤマだよ。たまにね、積み荷とかに乗ってくるんだ」
    グランが指さした先に茶色のクワガタの絵が載っている。
    「それでね、これがヘラクレス実際に見たことないけどかっこいいよね」
    グランは数ページを一気にめくった。胴体が黄緑色の長くて鋭い角をもつカブトムシが描かれている。グランの興奮はマックスだ。
    黒い角がカッコいい。全空で最大の大きさに育つ。そう熱弁した。
    でもシンクには全部同じに見えた。
    それよりもグランの顔が近くにあって、枕の上に本を置いて身を寄せている今の体勢がこの上なく好きだと思った。
    グランが自分の好きなことを教えてくれる。
    肩をぴったりとつけて、すぐ横にグランの顔があって。
    布団の中でぬくもりを感じながらのこの時間が好きだと思った。


    「ね、ぼくのお気に入りの本、一話だけ読んでいい?」
    「うん」
    いつもだたらもうすぐ眠る頃。眠気の自覚はあるがあまりにもこの時間が幸せで終わってほしくない。
    グランのお気に入りは空の蒼が印象的な絵本だ。
    1ページごとに主人公の男が艇に乗り冒険する姿が描かれている。
    グランはご機嫌に鼻歌交じりでページをめくっていく。
    それは心の羅針盤にしたがって旅をする騎空士の御伽噺だ。
    第一話は主人公が周囲に応援されながら旅立つ話だった、宝石や黄金よりも価値のある宝が空の向こうにまっている。そう語りながら青い空に騎空艇で旅立っていった。
    第二話を見ようとしたところでビィが下の階から上がってきた。
    「おい、そろそろ寝るぞ」
    「もう一話だけ~」
    「明日起きれなくなるだろ、寝ろ」
    「は~い……次の話は明日にしようね」
    「あ、あぁ」
    明日もあるのか。
    またこんな風にベッドの上で眠ることなく本を読む。そんな時間がこれからもあることが嬉しい。
    「父さんもさ、こんな冒険をしているのかな」
    グランが無邪気に問いながら名残惜しそうにページをペラペラめくって本を閉じた。
    一瞬見えた挿絵には大きな鳥や檻に入れられた巨人の姿があった。この物語の主人公の冒険もさぞ危険に溢れているのだろう。だがあくまでも創作だ。

    「シンクの頭のつむじ」
    「押すな」
    グランが背の高いシンクの頭の上を見られるのは椅子かベッドの上くらいだ。
    寝るときはベッドに入ってすぐに寝てしまうから、グランはシンクの耳がこの島に来た頃よりも大きくなっていることにたった今気がついた。
    「耳って大きくなる?」
    「そう?自分ではわからない」
    「お風呂上りは少し小さいかも」
    「濡れてるせいだな」
    グランはシンクの獣耳をじ~っと見て、そっと両手を伸ばした。
    耳を触ろうとしている。抵抗する気はなく、シンクは触りやすいように顔を傾けて耳を差し出した。
    「やわらかくてあったかい」
    「耳だからな」
    「ふわふわしてる」
    「お前が言うならそうなのだろう」
    自分で触ることがないからわからないが。
    この村にきて、安心して眠れる場所に辿り着いた。
    カルムの郷やあの男と過ごしてきたときに比べて、栄養のある食事のおかげだろう。シンクの耳はどんどんつややかになった。べしょべしょに薄かった耳もしっかり肉厚になってきている。
    「ほら、話は明日にしとけ」
    「は~い」
    ビィがランプの明かりを消した。部屋の中に夜のとばりが訪れる。
    シンクのベッドは秋にはできるらしい。この間の、商船に必要なものを注文して届くのは秋になるそうだ。
    シンクの部屋にベッドがきたらもうグランのベッドでこんなふうに眠ることがなくなるのか。1階のシンクに与えらえた自室。
    そこの小さな棚には本が増え、部屋の中には植物や村人たちからもらった不思議な置物が増えている。
    居心地がよくてその部屋でゆっくりと、一人で過ごすことはある。
    けれど一人で寝たいかと問われると。
    自分だけ一階のベッドで眠るのを想像すると嫌だなと思った。
    村の皆がシンクの部屋の家具を考えて用意してくれるのは嬉しい。なのに寂しいと思う気持ちがでてくる。
    両立してしまうのだ。



    ◆◆◆




    夏の日は巡る。
    シンクは何度もクワブトを見かける機会に恵まれた。
    その度に彼の掌は白い体液と黒い残骸で汚れてしまう。
    手加減ができないのだ。
    その日もまた、グランを喜ばせようと内緒で虫を取ろうとして、木っ端みじんに粉砕した。
    「虫って木を蹴ると落ちてくるぜ」
    しょんぼりと縮んでしまったシンクを通りすがりのアーロンは哀れに思った。
    アーロンの助言は王道であるが、彼はシンクがカルムの神狼だと露知らず。
    アドバイスに従い、シンクは力をこめて木の幹に蹴りを叩きこんだ。
    ドゴン!と大きな音と振動が響く。
    バサバサバサ……天変地異の前触れのように周囲から鳥たちが飛び去る。
    昆虫どころか、寝ていた梟も驚いて飛ぶことを忘れて落ちてきた。地面に衝突する前にシンクがキャッチしたが、梟はジト目でシンクを睨んでいる。
    大きな音と騒ぎに近くの畑からは大人たちも駆けつけてきた。
    「なんだ今の音は?」
    「まるでカバの屁だ」
    「バカが、カバなんぞおらん、こりゃイノシシだ」
    「イノシシが木にぶつかったんか?」
    農具を担いだおじさんおばさんたちがやってきたのでシンクは真っ赤っかになった。
    哀れに思ったアーロンは今自分が見たことを誰にも言わず墓までもっていくことを誓った。
    一年後、畑を荒らすイノシシを一撃で倒すシンクの姿を彼は見ることになるのだが。

    めそめそと落ち込んで泣いてるシンクを見かねたアーロンは家にいくつもあるからと虫取り網をやった。
    麦わら帽子に虫取り網を装備したシンクは世が世なら立派な夏休みの少年の姿であった。
    少し未来予知をすると、次の夏がくる前、シンクは虫によって麦わら帽子を穴だらけにされて大泣きする。虫の復讐である。


    ◆◆◆


    キハイゼル村は二十世帯ほどで子供の人数は両手で足りる。
    シンクより年上の子は青年に一歩踏み出した年齢……村の労働力として一人前になっている。今や村の子供たちの中ではシンクが一番の年上だ。そのあとにグランとアーロンが続いている。
    村の幼い子供たちは時々、年上の三人組に突撃してきた。
    「グラン兄ちゃん、シンク兄ちゃんあそぼー」
    「アーロンもあそぼう」
    「おい、なんで俺は呼び捨てなんだよ」
    「いいじゃん」
    「よかねぇよ!」
    生意気な口のちびっこの両脇をがっちり掴んだアーロンはその小さい体を持ち上げる。うぉりゃあああ!叫びながらアーロンがその場で回りだせば楽しいのか、きゃあきゃあ笑い声が響く。
    それを見て羨ましくなり、ちびっこたちはぼくも、わたしも!と手を挙げておねだりしはじめる。
    シンクはちびっこ相手がうまいアーロンをすごい、と羨望の心で見つめていた。
    この子たちはグランよりもうんと小さく、柔らかい。躊躇もなく持ち上げられないし、抱えて振り回すことも無理だ。シンクはいつもはわはわしながら持ち上げている。

    子供たちと初めて出会った時は、まさしく戦いだった。
    シンクは村で唯一のエルーン。たった一人の獣耳をもつ。好奇心の塊がその耳を触りたがらないはずはない。
    今でこそ村に慣れたシンクだが、来たばかりの頃に突撃されかけたときは死を覚悟した。
    あの時は、ビィが「ここはおいらに任せて先に行け!」と自らを子供たちに差し出すことによって事なきを得たのだった……


    小さな子たちが一緒なのでかくれんぼや鬼ごっこはお預けだ。年齢差と体格がバラバラだし、幼い子供たちは危険な魔物が出なくとも森への出入りが禁止されている。
    だいたいがごっこ遊びになる
    当たり前の家族を知らないからちゃんとできるか不安で、誰にも言っていないがシンクはおままごとが苦手だ。幸いにしてお父さんとかお母さんの役は幼い子供の人気役だからシンクは黙っているとお兄さんの役かお隣さんの役に収まった。
    ごはんのかわりに木の実をとり、泥団子を作り始め、葉を皿に代わりにする。
    日が暮れる頃には全員が泥だらけになっていた。夏の真っ盛りを過ぎて、日が暮れる時間が徐々に早くなってきた。
    少し冷たい風に揺れる緑色の葉は、その先端を黄金色に染めはじめている。
    子供たちを家に送り届け、アーロンと別れて、ビィの待つ家にグランと向かう。
    歩きなれたあぜ道。真っ赤な夕日にのばされた二人の影が並んでいる。
    爪の中を土で汚してこうしてグランと家に帰る時間がシンクは好きだ。遊ぶ時間が終わってしまった少しの寂しさとたくさん遊んだ充実感に満たされる。
    遊びの輪に入れた。もう一人ぼっちでみんなが遊んでいる輪を眺めていることはない。幼い頃に思い描いた夢、郷で遊ぶこと、子供たちの輪の中に入ること。生まれ故郷では叶わなかったが、この島では叶った。

    のんきにそう考えたとき心の奥底から声がした。

    当たり前だ、自分で壊しただろう。

    びくっとする。
    冷たくてまっ平らな声だった。
    頭の中で血の気が引く音がザーと聞こえた。冷たい水を流し込まれたように体温が急に冷たくなる。
    あまりにも幸福で、静かに穏やかに暮らせているから。
    自分の有り余る力が災厄にならない、平和な村で暮らしているから。
    忘れていた。
    忘れて気づかないふりをしていた。
    自分が罪にまみれていることに。

    「どうしたの、シンク」
    帰り道の途中、シンクは立ち止まってしまう。
    見上げてくるグランの真っすぐな目からシンクは目そらした。グランの大きな目に映る自分の姿が泥ではなく血に汚れているように思えて、怖くてしかたなかった。
    日の暮れた畑にはもう誰の姿もない。大人たちは家に帰り、料理を作って帰ってくる子供たちを待っている。
    小さな畦道にはシンクとグランしかいないのに、大勢の人たちがシンクを見ている。舌を出して笑っている。ため息をついて蔑んでいる。真っ黒な目がいくつも、いくつもシンクを見ている。
    もちろん幻だ。現実の世界では真っ赤な夕日に照らされたグランとシンクの二人しかいない。
    けれどシンクの中で出来上がったイメージ……記憶の奥に沈んでいたかつてのカルムの郷の住人たちは色鮮やかに蘇りシンクを脅迫している。
    フードを被ろうとして、泥だらけの指を思い出して躊躇する。
    大丈夫。目の前にいるのはグランだ。
    グラン、だけなんだから……
    目をぎゅっと閉じて、呪文のように自分に言い聞かせる。
    仮面もフードも必要ない。なにも恐ろしいことはない。
    耳をすませば、秋の虫たちが鳴きだしている。笑い声も悲鳴も、そんなものはない。
    「大丈夫、なんでもない」
    心配させまいと、虚勢をはって家路を急いだ。指先は少し震えている。



    そんなことがあったからだろう。
    シンクはこの穏やかな村ではなく、針に刺される筵のように冷たくて居心地の悪いカルムの郷の夢を見た。
    「えっ」
    土の中のような暗い部屋、湿った空気と鉄格子のついた窓。
    そこはシンクのかつての居場所。
    長の屋敷の外れにある離れ屋敷の一室だった。
    心臓がぎゅっと掴まれたように縮こまる。体がびくりと跳ねる。白くなった皮膚の下で筋肉が痙攣する。
    暗い、暗い。地下でもないのに薄暗い。最低限の家具はあるけど、それだけ。遊ぶ道具も本棚も、無聊を慰めるものなどない。部屋の隅に座り込んでじっとしているか、窓の外を眺めるだけだった。
    居たくない場所だ。ザンクティンゼルにきてはじめてそういう気持ちが分かった。
    自分のいる場所といたい場所。
    ザンクティンゼルと全てが正反対。複数の街や村があり人口も桁違いの島、そのうちの一つの集落。閉ざされた島よりも閉塞的で排他的で……シンクの罪が起きた島。
    どうしてここにいるんだろう。
    戻されたのか?
    鉄格子の感触はリアルでサビた匂いさえする。
    戻りたくない帰りたくない。
    鉄格子の隙間から外を見れば、殺したはずの一族が暮らしていた。
    洋服やシーツを干す使用人、庭木の剪定をする職人。
    どこかに食事を運ぶ女たち。……使用人たちの子供の笑い声まで聞こえてくる。
    惨劇が起こる前、窓から見ていた世界がそのまま続いている。
    「 、ヒ」
    恐ろしさに息をのむ。唇がからからに乾く。
    もしかして全てが夢だったのだろうか。
    いつか本で読んだ、蝶の夢の話。
    シンクは長い、長い夢を見ていた。
    惨劇は起きていない。シンクを助けてくれたあの男も存在しない。草原に寝転んで、満天の星を見ながらシンクの名前の意味を教えてくれたことも。
    ザンクティンゼルに連れて行ってくれたことも。キハイゼル村での暮らしも。
    グランも。
    最初はシンクのことを嫌おうとしていた。でも夜は寂しくて嫌いなはずのシンクに抱きついてきた。あたたかくて柔らかくて壊しそうで怖かった。
    穏やかで優しいグランは結局シンクのことを嫌いになれず、暮らしに不慣れなシンクのめんどうをみてくれた。
    自分よりも小さいグランに、シンクは包み込まれるような安らぎを覚えていた。
    そんな彼らは孤独に苛まれるシンクが見た夢の住人たちだった。
    現実ではシンクは閉じ込められていて、何も変わっていない。
    「は、…ハッ、ハッ……」
    パニックになって呼吸が乱れる。
    外の住人たちが窓から覗いているシンクに気づいた。ぐるん、と一斉に首が回転してこちらに向く。
    舌を出して笑う。忌々しそうに舌打ちするくせに真っ黒な目はシンクをじぃと見てくる。地面に転がる汚くて不愉快なもの。邪魔でしょうがないけど、処分するために触るのも嫌。それがこの郷でのシンクの扱い。
    人々の視線が肌に突き刺さる。薄氷が心を覆ってくる。
    「ヒッ、や、やだっ……」
    やめて。
    そんな目で見ないで。
    獣耳をぐしゃぐしゃにして、髪を搔きむしって、蹲った。顔を手で覆って泣きさけんでしまおうとして、自分の綺麗に切り揃えられた爪に気づいた。爪の角はやすりがかけられて整えられている。おかしかった。誰かに爪を切ってもらってやすりをかけられたことはない。自分でもそんなことしない。
    ……………そうだ。
    農作業で邪魔だからつめの手入れをしっかりするよう言われたのだ。やすりはグランと一緒にやってもらった。
    視界の端から光がじわじわと満ちていき、すべてが真っ白になった瞬間、シンクは目を覚ませた。



    夜中にぎゅっと体を捕まえられて締めつけられてグランは夢の世界から覚醒した。
    頭の中にはまだ夢がぎゅうぎゅうにつまっている。瞼をとろとろ閉じて、ねごこちよく丸まろうとして……ギュッと締めつけられてグランの頭から夢の名残は吹っ飛んで消えた。
    「んん……」
    眠りを邪魔されれば当たり前だが、グランは不機嫌に唸った。
    シンクが腕ですっぽりグランを囲んでいて、だんだん体を丸め始めるからどんどん閉じ込められていく。
    シンクの眉間に大きな皺が寄り、苦しそうに顔がゆがんでいる。
    「うぅ……」
    食いしばった牙が口の隙間からみえる。
    悪い夢を見ているのか。グランも怖い本を見た夜など、この島にはいない大きな魔物に襲われる夢を見る。
    苦しそう……早く起こしてあげなくちゃ。
    シンクの柔らかなほっぺにさわる。でも何も変わらない。
    ぺちぺち軽く叩くとシンクの眉間の皺が深くなってしまった。
    閉じられた目じりから涙がどんどん零れ落ちていく。
    どうしよう、逆効果だった。
    グランは一生懸命、手を伸ばしてシンクの頭を撫でる。
    不安な時や怖い時は父親にこうしてもらった……気がする。よく覚えていない。
    でもビィは小さい手でよく撫でてくれた。その時はやっぱり嬉しかったし寂しさも怖さも少しだけ和らいだ。
    シンクの髪はふわふわとしていた。何度も撫でていくうちにシンクの顔から険しさが薄れていき、穏やかな寝顔に変わっていく。
    よしやったぞと満足しているとシンクが薄く目を開いた。
    ぱちぱち瞬きして左右を見渡している。
    ゆっくり上体を起こして、自分の枕をもぎゅもぎゅと捏ねるように潰しだした。
    「怖い夢見た?」
    「……うん」
    「また眠れる?」
    「………」
    シンクは頷こうとして、頷けなかったようだ。
    ずっと枕や布団をこねている。
    ふむ……どうしよう。眠れないときは本を読んでもらっていたが……ん~……悪い夢を見たとき、何をしてもらってたかな。
    他愛ないおしゃべりをして気を紛らわせてあげたいが、騒いでいると小さなベッドで寝ているビィが起きてしまう。
    シンクの薄い紫色の目は、充血して赤くなっていた。泣いたせいもある。
    目だけがキョロキョロと動いている、天井を眺めて、家具を見つめて、グランをしばらく見つめてまた天井に行く。手元の揉みこまれている枕は見ない。
    獣のように落ち着かない様子だ。興奮して眠れないのかもしれない。
    「しばらく撫でてあげるよ」
    シンクの手を枕から離れさせる。中身の綿を均一に戻るよう真ん中を叩いて四隅のバランスを調整する。
    ぽんぽん枕を叩く。
    喉の奥からウッ……と嫌そうな、声にならない声を出しながらシンクはゆっくり布団にもぐった。体はグランの方を向いて、目は爛々と輝いてグランを映している。
    差し出された灰色の頭をグランの小さな手が撫でていく。
    眠いのを我慢しているグランの弱弱しい力だったが、撫でるごとにシンクの顔から険しさは抜けていく。ゆっくりと瞳が閉じていくのをグランは見届ける。
    撫でにくいのでシンクの胸の中にすっぽり収まった。シンクはゆっくりと腕を回してきたが、今度はとてもやわっこい力でグランは苦しくなかった。




    翌朝
    シンクはいつもより遅い時間に起きた。
    それでもグランよりは早いが。
    昨夜は、現実なのか夢なのか区別ができなかった。胡蝶の夢の檻の中に入っていないと誰が断言できよう。
    室内、ビィの寝息、グランのぬくもり。それらを確認してシンクはようやく目を閉じることができた。

    朝から自分自身でも驚くくらいシンクは憂鬱だ。村に出て、誰かと話をして、端から端まで歩き回って、ここはカルムの郷ではないと確かめればいいのに。
    どこにもいかずに家の中で、ただじっとグランと二人でありたかった。ゆっくりと過ごしたかった。
    けれど、そうもいかない。
    夏は終わり秋になった。
    農耕を行うこの村で、秋は刈り入れの大切な時期だ。
    普段は不定期にやってくる行商人たちだが、秋は絶対に訪れる。
    ポートブリーズから寄ってくれる顔見知りの地元の商人のほか、遠くの島からも特産品を求めて商船が訪れる。
    リンゴやハニースター、モヒバ草は重要な特産品だ。それらを売り、冬に備えて備蓄食品を買い込む。服や布団を仕立てるために布を買い込む。島内では手に入らない金属工具を新調する。
    採取したリンゴをジャムやジュースに加工し、冬用の備蓄にして、余った分は売る。
    森にいってキノコや木の実、ベリー類を集めなくてはいけない。来年のために冬小麦の種まきもある。
    秋にどれだけ収穫し、冬に備えられるかが鍵。
    そう教えられたばかりなのだ。
    この村のために働きたい。怖い夢を見ただけで、休みたくない。
    朝ごはんをどうにか詰め込んで、シンクはグランと共に畑へと出向いた。



    村の果樹園の前にはアーロンも父親に連れられてきていた。今日はリンゴの収穫の最盛期でとにかく人手がいる。
    「俺たちは手が届かないからあっちだな」
    「わかった。じゃあシンク、後でね」
    アーロンとグランは大人たちに言われなくても自分の仕事が分かっている。
    背が届かない彼らはもがれたリンゴの選別……果実として売るか、ジャムやジュースに加工する分を判別する。それぞれを籠に詰め替えるのが仕事だ。
    シンクは背も届くので、大人たちに交じってリンゴをもいでいく係、つまり別行動だ。
    畑仕事でグランと別行動になることは夏ごろからよくあった。
    遊ぶわけではない、大事な仕事だからグランと離れても大丈夫だ。
    そのはずなのに。
    「えっ……」
    か細い声がもれる。去っていく小さな背中を見送る。
    背中を見るのは嫌だ。遠ざかって振り返りもしないあの男の背中と、小さいグランの背が重なった。
    「…ぐ。……うっ、ウ」
    お腹を押されたように苦しい。胸も締めつけられているみたいだ。
    グランが、シンクから離れて行ってしまうのが苦しくて悲しい。
    この村が好きだ。自分にとてもよくしてくれた。古着をエルーン用に仕立て直してくれた。
    だから村のために働きたい。
    でもグランに行ってほしくない。
    あんなに怖い夢を見た。
    ここにいるのだと強く強く思いたい、思わせてほしい。
    「えっ、ちょっと」
    気づけば、グランを後ろからぎゅっと抱きしめていた。
    涙でにじんだ視界で、目を閉じて、開けたら遠ざかっていたグランの背中が近くにあって、シンクは茶色くて丸いかわいい頭を見下ろしていた。
    なにをしているんだ。
    シンクには自分の行動が理解できなかった。
    「え、なに、え?」
    アーロンにはシンクが瞬間移動したように見えた。
    音もなく気配もなく一瞬で距離を詰めたのだ。
    グランのおなかの前に手を回して、そのまま抱き上げて、ぎゅっとしがみついた。
    「え、なに、僕っ浮いてない?」
    「浮いてる、浮いてる」
    グランの足が宙にプラプラ揺れる。
    隣にいるアーロンはグランを見て、グランの後頭部に顔を埋めているシンクを交互に見るしかできなかった。
    キハイゼル村では誰かがなにか突拍子のない、とてもおかしなことをしても特に止めたりしない。危険でない限りは。
    そんな村でのびのび育ったアーロンは変に揶揄うことも無理やり止めることも(そもそも体格が違いすぎてできない)せずに二人を見守った。
    グランも暴れたりせずなすがままに任せた。
    「なぁに、シンクはどうしちゃったの?」
    とても恐ろしい夢を見て。まだ心が落ち着かないので一緒にいてほしい。
    頭の中では冷静に答えられるのに、現実のシンクはいやいやと首を振って、行かないでくれとしがみつくだけ。
    グランの首元にぐりぐり顔をこすりつける。
    自分は罪だらけだ。でもここでは誰もそれを知らない。
    美しく穏やかな村。生を実感できる営みがあり、大好きな人がいる。
    いつか罰が下ると怯えている。(罰が下されれば罪は許される?)それはこの暮らしの終わりを意味する
    だからお父さんに会いに行こうとグランにはいえない。
    外に出てしまうと、すべてがばれてしまう。
    そうしたらシンクはここで得たすべてを失ってしまう。
    嫌なことばかり考えていく。
    止まらなくて止めてほしくてグランをぎゅっとした。

    「だめかも」
    グランは自分の襟や背中が生暖かく湿ってきた……それはシスの目から溢れる涙のせいだ。服は諦めた。
    ぬいぐるみのように抱き上げられて足をプラプラさせるしかできない。
    「今日ね、夢見が悪かったみたい」
    「大丈夫か?俺のぬいぐるみ持ってこようか?」
    「今、ぼくがぬいぐるみやってる」
    「ならグランが抱っこしてそれをシンクが抱っこするのは?」
    グランは黙って首を振る。もう埒が明かないのでアーロンは父親に報告に行った。
    シンクの調子がよくないようだからグランと二人で家に帰って休ませたほうがいい。ついでに二人が心配なので俺を看病につけたほうがいい。
    アーロンの父親は二人に家に帰って休むようにいい、自分の息子には「お前は働け」「えー!」「元気じゃねぇか」と言い返した。

    家に帰ると落ち着いたのか、シンクはグランを下ろしてくれた。
    「シンク大丈夫?朝から顔色悪かったのに……気づけばよかったね」
    「ごめん。手伝わなきゃいけないのに」
    「ビィが頑張ってくれてるから」
    小さくても空を飛べてリンゴの鑑識眼が一流のビィは、この季節のエースだ。
    グランとシンクよりも先に行って、飛び回りながらリンゴをもいで、つまみ食いをしている。
    グランは絵本を読み聞かせ、一緒に搾りたての林檎ジュースを飲んで昼寝をして……ゆっくりと穏やかにシンクに過ごさせた。
    夕方くらいには落ち着いたのか、掴むのをグランの服の裾にしてくれた。





    夜、ベッドの上にはくまとうさぎのぬいぐるみが鎮座していた。
    アーロンは律義にも自分のぬいぐるみをシンクに貸しにきたのだ。グランのはくまで、アーロンはうさぎだ。
    グランはもう卒業したとしまっていたぬいぐるみを取り出していた。
    グランにはビィがいるので、ぬいぐるみ卒業はアーロンより早かった。これは自慢である。

    グランはにこにことくまとうさぎのぬいぐるみをベッドに並べた。これならシンクも悪夢を見ないだろう。
    ……久しぶりにぬいぐるみを見たらなんだか寂しくなってきた。
    今日は久しぶりにこのままビィをだっこして寝ようかと思っているとシンクがじっと自分を見てきている。
    グランはもちろん、気前よく貸してあげるつもりだ。
    「ほら、シンク。抱っこしたいでしょ?」
    気分は弟におもちゃを貸してあげるお兄ちゃんである。
    「い、いいのか」
    ぱっと輝いたシンクの笑顔をみればグランもいい気分になる。
    シンクはグランのおなかの前で腕を組んだ。横たわってグランの頭の上に自分の顎をおいた。
    もぞもぞ動いて寝心地のいいポジションを探して、満足したのか目を瞑った(と、思う。なにせグランにシンクの顔は見えない。見えるのは鎖骨である)
    あっという間に抱き枕になってしまった。
    僕だったのか……
    用意したくまとうさぎはベッドの端に追いやられている。
    まぁ、いいか。
    ビィが蝋燭を消して、室内はカーテンの隙間から漏れる月明かりだけになった。
    あたたかくて、グランは抵抗せず、そのまま眠った。


    シンクは数日かけて持ち直した。
    秋、収穫期を迎えて冬の備えのために一番働くときだったのも幸いした。落ち込んでいる余裕はなかった。己の内面に埋没するとネガティブになるシンクにとっては功を奏した。
    あまりにも忙しくて、シンクは朝ごはんを食べて……気づいたらお風呂に入ってベッドに寝ていたこともあった。
    陽が沈むのがだんだん早くなってきて、遊べる時間は夏に比べて短すぎた。
    「もうそんな時間か」と呟く声色が自分でも驚くくらいがっかりしていた。
    『夏のうちにたくさん遊んでおけよ』そういった大人たちの心遣いがわかった。




    ◆◆◆



    「ひゃわっ!」
    島の者ではない、遠くの島から買い付けにきた商人に話しかけられてシンクは飛びあがった。
    ワインやジュース、酵母をつくるためにブドウを潰して、手が綺麗な紫色に染まったのを井戸で洗い落としてきた帰りだった。
    ちょうどみんな出払っていて、村の通りにはシンクしかいない。時期が時期なのでよそ者がいるのは当たり前だがシンクはドキドキして足早に通りすぎようとしていたのに。
    「え、驚かせてごめんね」
    「あっ、や……」
    大丈夫……と言いながらフードを深くかぶって、商人たちの足元、品のいい皮のブーツを見つめた。商人たちは商談にきているので身なりがとてもいい。
    シンクはちらっと相手をみては目を逸らした。目を見ようとすると顔から火が出るみたいに熱くなって恥ずかしくなって無理だった。
    「私たち、村長さんのところに行きたくて」
    「ジャムがね、とっても美味しくて。もう少し量が欲しいんだ」
    この島の噂をきいてはじめてきたのだと商人たちが説明しても。
    シンクはあ、とか、はい…しか言えなかった。喋ろうとしても言葉が口の中でもごもごと詰まって出て来やしない。
    商人たちはシンクを人見知りで恥ずかしがりやな子だと思った。
    こういう子は村に必ず一人はいる。うまく喋れなくて、フードを深くかぶって俯いいても気にしない。
    いつも手も口も、癖も悪い最悪の三拍子が揃った同業者や客を相手にしているので、恥ずかしがり屋の子供くらい気長に対応できる。ので温和に微笑んで見守っていた。
    「あ、えっと、あっち……」
    と指さしても初めて村にやってきた者が村長の家がわかるはずがない。
    キハイゼル村の村長の家は特別大きくも豪華でもない。
    大切なお客様だから案内しなくてはいけない。わかっているのにシンクの顔がかぁっと熱くなる。
    喉と唇が乾いていくようだ。
    見ず知らずの大人。怖いのと恥ずかさが押し寄せてくる。
    シンクがはわはわしていると、同じく指先を紫色にしたグランとビィがやってくるのが視界の端に見えた。
    ダン、力強く地面を蹴って、一瞬、シンクはグランの背中にさっと隠れた。この半年で身長は伸びており、グランの後ろに隠れきれるはずもない。シンクってもっとかくれんぼ上手だろうとビィは思ったが何も言わなかった。
    「あれ、お客さん?」
    商人たちは新しく来た子供に、リンゴジャムが美味しくてもっと欲しいとおんなじことを嫌な顔せずに説明した。
    「今年はリンゴがたくさんとれたからジャムもまだあるぜ」
    リンゴのジャムを褒められて、山のようなリンゴを一日中剥いた苦労が報われてグランとビィはにこにこしながら村長の家へと商人たちを案内した。
    シンクは道中ずっとグランの後ろにちょこんと隠れ続けた。
    気づかなかった。
    シンクはフードも仮面もいらないと、自分は情緒的に成長したと思っていたがそれはこの村の中だけの話だった。
    自分の洋服にフードをつけて仕立ててくれたジェーンおばさん、ありがとう……
    もちろん外の商人が来て嫌なことばかりではない。
    リンゴジャムのほかにもジュースとシードルも素晴らしいとたくさん買い付けていった。
    子供はすぐに大きくなるからと、大人たちは何足かの靴を買った。シンクとグランは今のサイズと一つ大きなサイズの靴を買ってもらった。
    さらに注文していた製材板を購入できたので、シンクのベッドフレームができた。今はグランと一緒に寝られるが二人とも大きくなればそれもできなくなる。
    本来はシンクの部屋へと運ばれるはずだったが、寝室へと運ばれてグランのベッドの隣に並べられた。




    ◆◆◆




    秋も深まった頃、シンクにしかできない仕事もできた。
    気配。
    そこにいるのだとわかるもの。それは人間だけではなく生き物なら当たり前に持っている。郷では気配を消す訓練と探る訓練を同時に行った。
    暗殺のための技術はこの自然豊かなザンクティンゼルでも役に立った。
    畑を荒らすイノシシや魔物は気配が大きく強い。リスやウサギは気配が小さく弱い。

    小さな気配を探って屋根裏を巡ってシンクは両手にネズミを捕まえて降りてきた。
    ちゅう、ちゅうちゅう。右に二匹、左に一匹。
    彼らは猫よりも恐ろしい存在に見つかってしまった。
    「まぁ、三匹も捕まえたのね!すごいわ!」
    ここはアーロンの家。
    屋根裏から降りてきたシンクにおばさんが笑顔で駆け寄る。
    「ありがとう、シンク。……さ、こいつらをここに……」
    お礼を言うときのおばさんはいつもどおりの目元に少し皺のある優しい顔つきなのに、鼠を見下ろすときの形相たるや恐ろしい。口元はニコッとしたまま瞳は真っ黒で、瞳孔には一切の光がない。
    親の仇を見る目、鼠に村を焼かれた。そんな恨みでもあるような……
    あながち間違いでもない。秋の穀物を食らい、保管してある果実を齧りまるまると太った鼠は農民たちの敵である。
    穏やかで開放的なキハイゼル村の住民でさえ、鼠の存在を許さない。村全体で面倒を見ている猫たちも元々、鼠対策で飼われている。
    「は、はひ……」
    ビビりながらシンクは捕まえた鼠をおばさんの持つ麻袋にいれた。
    麻袋の中は今日の成果がちゅうちゅう無限に鳴いている。
    「ふふふ、こんなにたくさん……よくもまぁ」
    「気配、探ったけどもういないから。全部捕まえたと思う」
    「さすがね。……さ、手を洗ってきたらそこのお菓子食べてっていいからね」
    麻袋を抱えて外へ出たとおばさんの背中をシンクは見送った。
    「あれさ」
    先にテーブルについてお菓子を頬張っているのはアーロンとグランだ。
    ここはアーロンの家なので彼がいるのは当たり前で、グランはシンクにくっついて遊びに来ている。
    「このあとどうなると思う?」
    「どうって……」
    「捕まえたネズミだよ。かわいそうに、森に帰りなさい……って顔じゃないだろ」
    「う、うん」
    「棒で叩くか、水に沈める」
    「えっ」
    「だから早く手を洗ってきた方がいい……井戸で鉢合わせするぜ」
    ゾッと悪寒が背中を駆け抜ける。言われたとおりにシンクはすぐに井戸へ向かった。運よく鉢合わせしなかったが、別の井戸から水音が聞こえてきたら怖いのですぐに戻った。
    グランの隣に座ってクッキーを齧る。
    「シンク、かわいそうって思ったでしょ」
    「うん……」
    「……僕ね、ずっと前にかわいそうだと思って逃がしちゃったことがあるの」
    「それは……怒られただろ」
    「すっっごく怒られたよ!お尻も叩かれた。みんな目が吊り上がって……こわかった……」
    グランは当時を鮮明に思い出してぶるりと震えた。
    「え、そんなに」
    「ネズミに食べられちゃうとね、来年の僕たちが飢えるんだって」
    冬に蒔く小麦に手を出されたらおしまいである。
    百害あって一利なし。
    ネズミを捕まえるのは大事な仕事だと実感したシンクはアーロンの家から次の家へと向かう。
    役に立てて嬉しい。
    つい先日の堆肥作り、農作業をおもな産業にするザンクティンゼルにとって重大な仕事にシンクは参加できなかった。
    家畜たちの糞が発酵するあの独特の臭いは、嗅覚の優れたエルーンには拷問である。
    暗殺者の郷では絶対に経験しない臭い、鼻を抑えても息ができない激臭にシンクはダウンした。耳がぴたりと伏せられ、鼻を抑えて蹲ることしかできなかった。生理的な涙さえ出てしまい恥ずかしくて悔しかった。
    あの悔しさを晴らすため、シンクは村中の家や倉庫を回って不届きな鼠を捕まえた。


    ◆◆◆


    真っ赤に熟した木苺、真っ青なブルーベリー。
    森の恵みを集めることが今日のシンクたちの仕事だ。
    秋の森は野生のブドウやリンゴが実り、動物たちは人と同じく冬ごもりのためにあくせく働く。リスが一匹、地面に穴を掘ってドングリを埋めている。
    紅葉ほど紅には染まらないが、黄色やオレンジに染まる紅葉の森は美しい。
    小さな獣たちの足音がして、振り返ると何頭もの豚が走りながらシンクとグランの足元を駆けて行った。
    豚たちは落ちている木の実をおいしそうに食べ始める。豚の後を追いかけるようにして牧場主のアニタおばさんがやってきた。
    「あら今日はベリー集め?」
    「うん、木苺とブルーベリー」
    「冬の間、リンゴジャムとジュースだけだと途中で飽きちゃうからね、頑張って」
    特産品のリンゴは島外への輸出用にも育てているが、ベリー類やきのこは村人たちの冬の食糧だ
    「?美味しいのに飽きるの?」
    「シンク、冬はね、いろいろと厳しいんだよ」
    グランがしみじみという。
    農村育ちのグランは冬の厳しさをよく知っていた。
    「川も凍ってしまうから魚が獲れないの。動物は冬眠しちゃうから狩猟もお休み。畑もお休みになるから、限られた食べ物しかなくてレパートリーが少ないのよ」
    「畑仕事はないの?」
    「ほとんどしないわ。家の中で編み物したり工芸品を作ったりはするけど……子供たちは雪で遊ぶしかやることがないわね。ね、グラン」
    「うん、雪合戦して雪だるま作って……凍った川でスケートかな。あとはアーロンの家でトランプしたり」
    「スケート?」
    「知らない?木の靴に動物の骨で作ったブレードをつけると、氷の上で滑れるのよ。今年はシンクの分も作らないとね」
    氷の上で滑って遊ぶ。シンクには川が凍る光景さえ思い浮かばないので頭上に???が点滅していた。
    「豚たちもね、ご飯がなくなるからこうして、どんぐりを食べさせにきたの」
    冬は家畜の餌がなくなる。
    夏の間に干し草を作るが、それは村では乳を搾るヤギや牛、数少ないロバのためのもの。ロバは今、大きな鋤を引いて畑を耕している。
    豚はこうして森に放牧してドングリや木の実、苔、とにかくなんでも食べさせる。
    「豚はなんでも食べるからいいわ」
    雑食の豚はなんでも食べるのでこの時期はころころと丸くなる。
    牧場に通うシンクは日ごとに大きくなる豚たちの成長速度に驚いていた。通いだした頃は小さな子ブタだったのだ。
    森の中に放たれた豚たちは落ち葉の中に顔を突っ込んでドングリを食べている。
    グランは太った豚を見ながら
    「今年もおいしくなりそうだね」
    と恐ろしいことを呟いた。
    「っ……グラン、それって」
    「豚さんはペットじゃないから……」
    シンクの衝撃を数年前に経験しているグランは遠い目をした。
    ロバは貴重な労働力、山羊と牛はミルク、羊は羊毛のためにいる。ではこの豚は……
    「この間、アウギュステの塩とポートブリーズのハーブが手に入ったのよ……シンクはソーセージとハムは好き?」
    おばさんに聞かれて、ポトフの中のあつあつのソーセージと毎日のパンに乗せているハムを思ってシンクは目を閉じた。
    「……好き」
    「ふふ、今年は期待しててね」
    さようなら豚さん。
    シンクは惜しむ心をそっと奥にしまって、ベリーの群生地に向かった。


    ベリー類を積むと指先が紫に染まる。
    赤く熟した木苺は宝石のように低木に実っている。
    ブルーベリーと一緒に籠に入れると色鮮やかな宝石を詰めたようになる。
    ぱくっと一粒を口に放り込んで歯で潰す。じゅわっと酸味が広がった。
    指先をぺろりと舐めると甘い。隣を見るとグランも同じことをしている。
    まだ柔らかい子供の手が赤い果実を摘まむ。果汁のついた指先を赤い舌がぺろりと舐める。
    子供らしい仕草のはずなのに、見てるとなぜかどきりと胸が高鳴った。



    グランとビィにおやすみと言い合ってシンクは布団をかぶる。二人に知られないように太ももをすり合わせる。最近、シンクの体がおかしい。

    痛いのではない。落ち着かない。体の中で小さな火が燻ぶりながらも熱をもっていくような。
    じりじりと焦がされるように、何かを欲して落ち着かない。
    同時にどうしようもなく、気持ちいいと感じることが多くなった。
    夜にそうなることが多い。
    肌をつたない動きの舌になめられているような。舐められたことなどないし想像すれば気持ち悪いと思うのに、なぜか気持ちいい。
    汗が出て服が湿ってくる。異常だ。どうなってしまったんだろう。
    怪我をしたわけでもない。熱もない。奇妙な病気になったかもしれない。
    くうくう寝息を立てているグランを見て、移してはいけないと思ってベッドの端に身を寄せる。
    必死に目をつぶれば、いつもよりも時間はかかったが眠ることはできた。

    明け方。窓から陽の光が差し込んできて部屋の中がはっきり見える。
    グランの、首。
    うなじだ。寝相のせいではっきりと見える。
    美味しそう。
    なぜかそう思った。肉食獣のように静かに音もたてずに近づく。
    気配を殺して、赤い舌を突き出した。ひとなめすると汗のしょっぱさと若い瑞々しさを味わう。
    口をあける。限界まで。顎が外れるのではと思うほど大きく。
    熱にうなされているように今のシンクには正常な意識はない。
    鋭い犬歯から唾液が滴る。銀色の糸みたいに。
    そのまま大好物をぱくりと食べるように、グランの首筋にかみついた。
    「……⁉い、イッタぁぁえ、な、なに、いた、痛い」
    グランの絶叫で、頭が冷たい水が流し込まれたようにキンと冷える。
    血の気がざぁっと引いていく音が頭の中からする。
    おそるおそる口に手を当てるとあたたかい液体でぬめっている。


    グランは突然のびっくりして起きた。首の後ろがやたらと痛くて触ると、指先と袖が赤く汚れた。
    さらに口から血を垂らしたシンクが呆然としている。
    「あ、アッ、あぁ……」
    シンクはひきつったように息を吸って吐くことができないようだ。
    「うぉい、どうしたんだよ」
    グランの悲鳴でビィも飛び起きる。
    見回しても二人とも口をきけないまま時が止まったように停止している。
    だからまず赤い血に目がいった。
    「あ!グラン怪我したのか大丈夫か?」
    怪我
    その言葉で息を吸うことしかできなかったシンクの精神が崩壊した。
    「うっ、グズっ、……」
    ボロ、と見開いた目から涙が零れ落ちる。
    一つ、二つ、とうとう濁流のように涙が流れだした。
    「……、ズっ、うぅっ、う」
    鼻をすすって耐えようとしてダメだった。
    「えっ、シンク大丈夫だよ、全然痛くないよ」
    「ゔ……ううぇ、ズッ…うっ。う"ぅ"あ…」
    「大丈夫、大丈夫だから」
    怪我をしたグランの方が冷静だった。痛みと驚きはあったが、自分よりもひどい状態のシンクを見て、一周回って冷静になった。
    大丈夫だと繰り返してシンクを落ちつけようとする。
    苦しそうな呼吸をあげて、シンクは耐え忍ぶように鳴きながらベッドに蹲ってしまった。



    シンクはビィが連れて医者のところへいった。
    怪我をしたのはグランだが、血が出ている割に傷は浅くてすぐに治るといわれて手当てはすぐに終わった。
    怪我もあるので今日のお手伝いは軽くなった。ジャムづくりのベリーを洗うことだ。クランベリーには一粒一粒に針で穴をあける。地道だが味を美味しくする大事な仕事だ。
    村を見渡せる小高い丘の上に座り込んで、ぷちぷち穴を開けているとアーロンがやってきた。
    「珍しいな、ひとりか」
    「まぁね」
    「シンクはどうした?朝から見ないぞ」
    「シンクはね……」
    グランは明け方のことを話した。それはグランの視点からになるので、シンクが寝ぼけて噛んだと話した。痛かったのはグランだがびっくりしたのか、シンクが大泣きして慰めるのが大変だったと。
    そう話せばアーロンは神妙な顔つきをして
    「シンク、もしかしてあれになったんじゃね?」
    「あれって?」
    「ゾンビ」
    「ゾンビィ?」
    「肌の色はどうだった、緑になってなかったか」
    「いつもどおり白いよ」
    「白いのもゾンビっぽいな。きっとグランがおいしそうで噛んだんだ」
    「僕が?美味しそう?」
    「ほっぺぷにぷにじゃん」
    アーロンがグランのほっぺを指でつつくと柔らかい弾力とともにぷにっと指先が埋まる。
    「は?アーロンもぷにぷにでしょ。じゃあ僕も噛まれたからゾンビだね。よし、アーロン噛も、がぶっ」
    「うわー!だめだ、もう俺もゾンビになった。家に帰ったらみんな噛んでゾンビにしよ」
    「全滅じゃん」
    「あ、待てよ、まずシンクを噛んでゾンビにしたやつがこの村にいるぞ」
    「じゃあビィだね。うちも全滅だ」
    「逃げ場のない島、孤立した村(そもそも一つしかない)、一人また一人と噛まれていく村人たち」
    「そして最後の一人が噛まれた時……どうなるの?」
    「そりゃあお前、またいつも通りの日常が帰ってくるだろ。みんなゾンビなら争う必要もない」
    グランとアーロンは二人揃って、平和で腐ったザンクティンゼルを思い浮かべた。
    バカな会話だ。先週の金曜日の夜のお泊りの時、夜更かしして読んだホラーストーリーのせいだ。タイトルはもう忘れている。
    つまり、寝ぼけて噛まれたという事実はグランたちの中ではバカな会話のネタにしかならない。
    バカな会話をしながらもグランとアーロンはクランベリーにちゃんと針を刺して穴を開け続けて仕事を終わらせた。
    後ほど付き添ったビィから話を聞くと、シンクが噛んだのはエルーン特有の季節的な衝動らしい。
    シンクは数日の間は落ち込んでいたが、グランが励まし続け、処方された薬を飲んでいくうちに精神的にも回復した。



    ◆◆◆




    冬の直前、キハイゼル村では村人全員で集まってごちそうを食べる。
    冬になれば春まで肉を断つ。その前に最後の贅沢をしようという昔からの風習だ。
    もっとも数十年前の交易がない時代の話、今は秋の貿易で干し肉をはじめ、保存食、香辛料を買えるようになった。質のいい香辛料のおかげで美味しいソーセージやハムが作れるようになり、冬の食生活は改善されている。
    昔からの習慣ではあるが、冬は家に閉じこもりがちになる。その前にみんなで食べて飲んで歌って騒ごう!が一番の理由である。

    村の名物を紹介しよう。
    グランと!シンクの!
    ふたりでできるもん!
    ~七面鳥のシードル風味編~

    シンクの目の前にドン!と大きな七面鳥が横たわっている。むろん血抜きをして羽をむしってある完全にお肉の状態だ。
    釣りが趣味の猟師であるおじさんがごちそうのために各家庭に獲ってきてくれたものだ。
    「おじさんありがとう~!」
    「あ、ありがとう……」
    窓の外、おじさんがいるだろ方向にお礼を言うグランとシンク。さて小さなエプロンをつけて腕まくりをして、料理スタートである。
    「材料はたくさんあるけど、一番大事なのはこれ、ザンクティンゼル産シードル!」
    グランは林檎の絵柄のついた瓶を掲げて見せた。
    特産品の一つであり、瓶のラベルも手作りのシードル。子供たちそれぞれがリンゴを描くので一つとして同じラベルはない。
    「エルーンってお酒造りが上手なんだっけ?」
    「トムおじさんにも言われたけど、郷や村による……と思う」
    リンゴのような綺麗な薄い黄金色のシードルを大きな鍋に注いでいく。
    「いつか、飲んでみたいな……」
    「シンクは僕より先に飲めるよね、うらやましいな」
    「なら俺はお前の成人を待とう。グランと一緒が、いいから」
    「じゃあ約束だよ」
    指切りをして約束しあう二人。
    シードルと同じく今年収穫したブドウから作った白ワインと大きな鍋に七面鳥をいれる。野菜と香辛料などを入れて作ったブライン液を上からかける。全体が液に浸るようにして……
    「それで、この後、1日寝かせるんだよ」
    「え……では今日はここで終わりなのか?」
    「うん!」
    困惑するシンク、笑顔で言い切ったグラン。
    だって祭りは明日の夜である。
    「じゃあ、はやく遊びに行こう!」
    「まって片付けてから……」
    ……………………………………………………………

    グランと!シンクの!
    ふたりでできるもん!
    ~七面鳥のシードル風味編~ 2日目

    「というわけで2日目だよ、シンク」
    「続きからだな」
    「でもすぐに中断になるよ」
    「えっ」
    というのも七面鳥をブライン液から取り出た後、今度は皮が完全に乾くように最低でも8時間は寝かせないといけない。
    「だからこんなに朝早く始まったのか……」
    「焼き上げる一時間前にまた再開だよ、それまではお祭りのお手伝いに行こう!」

    ~中断~
    そして~再開~

    「七面鳥のお腹にね、色々詰め込むんだ。タマネギとかタイムとか……忘れちゃいけないのがリンゴ」
    「リンゴ?」
    「リンゴ失くしてこの料理はできないよ……あ、シンクここ縛って」
    「わかった」
    中にたくさんの具を詰めて、タコ糸でしっかりと七面鳥の足先を縛る。
    「あとはね、これで焼くだけだよ。でも僕たちは石窯を使っちゃだめだから、おばさんにお願いしようね」
    そうして七面鳥はアーロンの家の石窯まで運ばれ、焼きあがった。
    美味しく焼きあがった七面鳥のシードル風味はお祭りのごちそうとして村人たちのおなかにおさまるのだ。
    なお遠い未来、空へと旅立ったグランは、ザンクティンゼル産のシードルとリンゴを使えないなら七面鳥に意味なし、とこのレシピは封印する。


    このお祭りから2日後、ザンクティンゼルに最初の雪が降った。
    冬がやってきたのだ。




    ◆◆◆




    冬の間、農作業は休みになる。
    大人たちは、狩猟や農耕の道具の手入れを行い、文房具を作り、村の子供たちの成長に合わせて洋服を仕立て直す。手先の器用な者は工芸品を作って、春先の取引の足しにする。
    子供たちにできる手伝いは少ない。
    晴れた日には枯れ木を集めて薪にするくらいだ。
    明るくて開放的なキハイゼル村も、しんしんと降り続ける雪によって色のない無音の世界に閉ざされる。

    この冬、シンクも初めての雪合戦に挑戦だ。
    カルムの郷自体、雪がはふれども積もる気候の島ではなかった。新雪に一歩踏み出せば、膝まで埋まる。雪で埋もれるのもシンクの初体験だ。
    シンクはグランに当たっても痛くないようにとふわふわな雪玉を作ったが、シンクの強肩に耐えられず、記念すべき初球は空中分解してしまった。
    適度な雪玉を作れるようになった頃、アーロンもやってきたのでビィと四人で雪合戦をした。なるべく公平な戦力になるようシンクはビィとチームだ。グランとアーロンも頑張ったがビィは的として小さく、シンクの被弾はゼロだった。
    一戦後、チームの再編が行われたのは言うまでもない。

    作ってもらった手袋も濡らして、指先がジンジンと冷たくなったが、心は温かかった。
    楽しい思い出になったがその後、グランが風邪を引いてしまったのは大きな失態だった。



    冬のある日
    秋のうちに作っておいた薪を取りに行くためにシンクは暖かな家から出た。シンクが来るまで火は厳禁の家だったが、さすがに冬の暖炉は解禁されていた。大人たちは当番を決めてグランの家に朝晩訪れて暖炉の様子を見て、時に薪をたした。
    今年からは、薪の継ぎ足し、火の管理がシンクの冬の仕事だ。

    外は、ちょうど風はなく雪も降っていない、絶好の瞬間だ。
    グランもついてきたがったが、雪の道で時間がかかる上、歩幅が違うので一緒に行くとかえって時間がかかるとビィの言葉に納得した。
    降り積もった雪のせいで、いつもより視線が高い。村の主要な道は人々が真ん中ばかり歩くので、すり鉢のように窪んで、道の端は積まれた雪で盛り上がっている。その下には畑の柵がある。雪の重みに耐えきれるだろうか。
    「あれ?」
    薪小屋の中身は一昨日に来た時に比べて驚くほど減っていた。村の共有財産だから自分たち以外の世帯も使っているが、それにしたって……
    「泥炭も減ってる……」
    泥炭は柔らかく燃えるので薪のようにバチバチと爆ぜる危険がない。子供たちだけの家なら薪もいいがこっちも使うようにと村の大人たちに言いつけられている。
    小屋の周囲には大人たちの足跡が何人分も残っている。それらは村の中ではなく、なぜか村の外へと向かっている。
    冬場は森へは滅多に行かない。木の上に積もった雪の下敷きになれば命取りになる。動物たちは冬眠し、採集できる果実もない。

    何かが起こっている?
    誰か、それも複数人のしわざだ。
     
    気になる。
    生まれ故郷では冷遇され、自由に出歩くことも許されなかったシンクの中で生まれては消えていった知的探求心。
    好奇心、理論的ではない目先の快楽を追いかける衝動は、この島にやってきてから愛情と肯定と安定した生活によってシンクの中で年相応に生まれ育っていた。
    シンクは手にした薪をいったん小屋の中に戻してその足跡を追うことにした。村の外へ向かった足跡はやはり境界線である壁を越えて森の中へと続いていく。
    冬の森へ行くことは禁止されていない。寒い森にわざわざ遊びに行く者はいないからだ。
    シンクは冬の森へと足を踏み出した。

    意図せずに耳が左右に小さく動く。
    暖かなコートのおかげで肌は露出していないが、空気の違いを感じる。
    秋までたくさん遊んだ森は不思議な気配で満ちている。
    森の生き物は魔物も含めて冬は眠りについているはず……なのに生き物たちの気配がする。
    小さくてよくよく注意しないとわからない。すべての気配が死に絶える冬の季節でなければシンクでも気づけないほど。
    木の洞、積み重なる岩と岩の隙間、冬場は閉じられている作業小屋のなかにじ……としている生き物の気配がする。
    シンクが気配を殺して近づいて覗いてみても、何もいやしない。でもたしかな気配を、息遣いを感じる。
    まるで姿の見えない小さな生き物でもいるようだ。
    進んでいくうちに、シンクの追う足跡は轍からそれだした。雪を踏みしめて近づけば、高く、山のように高く積まれた薪の山が森の中、開けた場所にできていた。薪小屋の中身はここにあった。泥炭の入った袋や壊れた農具の柄や足の折れた椅子なども混じっている。
    薪の山は平屋の屋根よりも高く積みあがっている。
    村の共有の財産がなぜ屋外に大量に積み上げられているのか。検討がつかないでシンクは見上げ続けた。
    大勢の人間がやったことだ。一人の人間のいたずらではできない。
    「そのままだと冷えるわよ」
    白い息を吐いて見上げていると、村の女が一人、歩いてきた。手にした枝を薪の山へと継ぎ足す彼女は、たしか小さな子供たちの母親の一人だ。
    「これはなにをしてるの?」
    「お祭りの準備よ。そうかシンクは初めてだったわね。大きな焚火をして、冬にお別れして太陽をお迎えするの」
    「もう冬にお別れを言うの?」
    「暦の上ではね。今夜は一番夜が長い日よ。明日からはお日様がでる時間が増えていくわ」
    「明日から?」
    見上げた空は灰色の分厚い雲に覆われている。
    本当に日が出るようになるのか。
    「ちょっとだけよ。針の先っぽくらい」
    「焚火の他には」
    「うーん、踊ったりはするみたいだけど、焚火だけよ」
    「言ってくれたら手伝ったのに……」
    これだけの薪を抱えて、雪の上を歩く。
    子供のシンクではろくな助けにならないかもしれないが……手伝いたかった。
    しゅんっと下に傾いた耳を見て、ちびっこのお母さんはきゅんとときめいた。
    なにせエルーンのいない村だ。
    感情に合わせてゆれ動くお耳はとってもかわいい。今は冬用の帽子をかぶっていて耳用の穴から灰色の耳がでている。
    「あ、私たちのお祭りじゃないのよ。薪の用意と火の始末をするだけなの」
    「え、村のお祭りじゃないの?じゃあ誰の?」
    「それは、う~ん……」
    説明に困った。この村で生まれた子供たちにとっては生まれた時からある当たり前のお祭りだ。
    疑問に思うことなく、そういうものの一言で説明できるし納得してる。
    「う~ん、まずここに私たち以外に生き物がいるのってわかる?」
    「!おばさんも気配が分かるの?」
    「おばさんはあんまりわからないの。ただいるって知識があるだけよ」
    「やっぱりなにかいるんだ……」
    「シンクはわかるのね。グランも少し気づいているけど……こ森には冬にだけ出てくる小さな生き物たちがいるの。森の薄暗いところに気配があるでしょう」
    「でも木の洞を覗いても何もいなかった」
    「あぁ、彼らはね、姿が見えないのよ」
    「えっ、見えない、透明ってこと?」
    そうよ、と叔母さんは頷くけれどにわかには信じられなかった。
    この間読んだ図鑑にいたカメレオンみたいに保護色で隠れることとは違うのだろうな。
    「その子たちのお祭りよ」
    「透明なリスとかウサギたちのお祭り……?」
    「ウサギやリスかどうかはわからないわ、だって姿が見えないんだもの」
    「どうして見えないの?」
    「冬の生き物ってシャイでしょう?だから姿が見えないのよ」
    そういうものなのか。
    カルムの郷にもいなかった。そんな生き物。グランと読んだ図鑑にも載っていない。
    「冬にだけひっそり暮らす内気な変わり者たち。これは彼らの冬のお祭りなの」
    「だから薪を用意してあげるの?」
    「えぇ、あとは火の始末のために不寝の番をするわ……シンク、気配を感じても探しちゃだめよ、あなたは恥ずかしがり屋だから彼らの気持ちがわかるわね」
    「そっとしておけばいい……?」
    「えぇ……ここは神秘を祀る島だから、少し不思議なことがあるわ」
    「はぁ……」
    感嘆のため息がでる。空の世界は広い。頭ではわかっていたけど自分の中にあった常識の及ばない存在を目の当たりにするとそれしかできない。
    「さぁ、冷えちゃうから村に戻りましょう」
    促されてシンクは彼女と村に戻って薪小屋から薪を持ち帰った。帰り道、畑の近くの使われていない納屋の中からも小さな小さな気配を感じた。


    「ただいま」
    「おかえり、シンク。遅かったね」
    暖炉の様子を見ていたグランが出迎える。
    オレンジ色の炎のおかげで室内はとても暖かい。
    「冷えちまうぞ、ほら」
    ビィがスープの入ったカップを渡してくれる。長い寄り道のおかげで体はすっかり冷えていた。
    「森の中に行ったら大きな薪の山があった」
    「あ、そっか。今日はお祭りの日だもんね」
    やっぱりグランは知っていた。この村では姿の見えない冬の生き物たちも彼らのお祭りも自分たちのすぐ隣にある自然の一部として受け入れているのか。
    「こういうお祭りは、俺の島にはなかった」
    「冬のお祭りってないの?」
    「冬にやるのは新年の祝い、くらいだったか」
    郷にいた記憶を思い出す。
    窓の外から聞こえてくる音楽や笑い声から、あぁ今日はお祝いをしているんだなと。
    「新年のお祝い?うちではやらないかな。ねぇビィ」
    「まぁ、外とやりとりするまでは冬に死者が出るくらい厳しかったからなぁ……聞いた話だけどよぉ」
    村の中でも年老いた者たちの、子供の頃の話だ。
    外の世界とのやり取りがなかった。塩と香辛料がないので、保存のきく干し肉や塩漬けが多くできなかった。肉を食べ終えたら木の根やそら豆を食べてしのぐ。そのせいで冬を乗り越えた時、村では世帯数が減るのが恒例だった。
    何人死んで何人生き残れるか、それくらい厳しい時期があった。
    「冬の生き物って都会ではどうしてるの?流しの下とか戸棚の奥に隠れてる?」
    「いない。冬の生き物なんて見たことない」
    「え、シャイだから隠れてるんじゃなくて?」
    シンクは首を振る。
    グラン達は衝撃だった。生まれたときからあるこのお祭りや風習をすべての島にあると思っていた。
    姿の見えない冬の生き物たちは、不思議だけど自分たちの日常世界の一部なのに……外の世界にはいないのだ。
    「いねぇのか」
    「じゃあ凍り姫はいる?」
    「知らない……誰?」
    「冬のお姫様だよ、彼女がいると冬が終わらなくて春が来ないから、雪と氷の馬をお供えして次の島に冬を運んでもらうんだ」
    「初めて聞いた。彼女は姿が見えるの?」
    「すごく綺麗だって話だよ。氷みたいな美人だって」
    「ま、誰も見たことねぇんだけどな」
    「お姫様の顔を見ると凍って死んでしまうんだって。だから誰も顔をみたことがないんだ」
    「なのに美人なのか?」
    「うん、そういう言い伝えだよ」 
    冬の寒波を氷姫と呼んでいるのかな。土着の信仰というのか。
    閉ざされているからこそ、外から文化や祝祭が流入することなく、島の自然に基づいた祝祭や行事がうまれたのか。
    あたたかいスープを飲みながら、シンクの心は大きな薪の山から離れなかった。



    グランを起こさないように、シンクはこっそりとベッドから抜け出した。冬の夜は寒いので、シンクはグランと同じベッドで寝ているのだ。グランを起こそうか迷ったが気持ちよさそうに寝ている。無理に起こすのは寒いし可哀想なのでやめた。
    コートをしっかりと着込んで静かに扉を開ける。
    外は明るい。
    村の壁の向こう、大きな焚火の明かりが村の中まで照らしているからだ。
    村から出て森の中を進んでいくと、オレンジと黄色の炎が大きくたちのぼっていう。薪の燃える音はまるで百獣の咆哮のようだ。
    お祭りのことを知らなくても、シンクならこの音で目を覚ましていただろう。
    シンクの足元を気配だけが通り過ぎて行った。祭りに遅れた小さな生き物か。
    息を殺して篝火の方へ近づいていく。
    大きな木の幹に隠れて、物影からそっと覗けば大きな焚火が照らす雪原に小さな黒い影がいくつも踊っている。
    グランの膝にも届かない小さな生き物たち。四足であったり二足であったり影だけ見れば小さな魔物にも見える。彼らは輪になって焚火を囲み、手を叩き、尻尾で雪を叩き、飛び跳ねている。
    「本当にいたんだ……」
    恥ずかしがり屋で、薄暗い場所に住む生き物たち。この島にしかいない不思議な生き物たち。
    この目で見るまで半信半疑だった。
    雪に映るシルエットをみると、ウサギにもネズミにもリスにも似ていない。ツノや二股の尻尾をもつ影もある。輪になって焚火を囲んで踊る姿は人のお祭りに似ている。
    「あつっ」
    熱い空気に耐えられなくなって、木の後ろに下がる。手袋を外した手で頬を触るとかぁっと熱くなっていた。
    もう一度、そっと物陰から覗くとお祭りはまだまだ続いている。耳を澄ますと彼らの歌声も聞こえてきそうだ。
    気配を探れば、シンクのいる大木とは別の影に不寝の番の村人もいる。
    神秘を祀る島、その意味が少し分かった。
    もう少し見ていたかったけど、冷たい体でグランの隣に戻るわけにはいかないので、シンクは家へと戻ることにした。
    不思議な冬の思い出として今夜の光景を大切に心の中にしまった。


    ◆◆◆


    雪が解けていき、春の気配を感じはじめた頃
    「ウッ……ゴホッゴホッ」
    シンクは咳き込んで、ふぅふぅ熱い息を吐いた。
    ひどい風邪を引いてしまったのだ。
    「シンク、大丈夫?起きれる?」
    グランが心配そうにのぞき込んでくる。
    ベッドの中のシーツは汗でぐしゃぐしゃだ。今朝、アーロンの両親がきてくれて着替えとシーツを替えてくれたのに。
    「ごめんね、シンク。僕のせいで……」
    「気に、しないで……」
    鼻が詰まっておかしくなっている。グランの持ってきたスープの匂いもわからない。
    なにより、喉がひどく痛い。咳き込むとグランがますます落ち込んでしまった。
    冬の時と立場が逆だ。
    シンクがひどい熱を出しているのは、つい先日、凍った氷の上で遊んでいたグランが落ちそうになったのをかばって代わりに落ちたからだ。

    凍った池の上はツルツルと滑る。スケートは冬の間に何度か遊んだ。スケート靴は木靴に動物の骨で作ったエッジを取り付けた、村のお手製でよく滑れる。
    もうすぐ春がくるからその前に最後に、一回だけ滑りたい、お願い!
    グランにそう上目遣いでお願いされたら、お目付け役のビィもシンクもうなずいてしまう。
    もうすぐ春が来るなら危ないんじゃないか?無理をして遊んで大変なことになった記憶があるのに、まんまるの目と桃色の頬、少し突き出た唇にお願いされると「少しだけ……」と許してしまった。
    雪に覆われた森の中、夏の間に何度も通った小さな池は、白く凍りついていた。
    夏の間は池の底を泳ぐ魚の姿まで見えたのに、今は真っ白でなんにも見えない。
    先を行くグランの手を掴んで引き留めた。
    「待て、俺がのって、確かめてくるから」
    「大人がのっても大丈夫だよ」
    「でも」
    「きっとスケート靴を使う最後になるよ」
    「わかったから、確かめさせてくれ」
    シンクは警戒しながら氷の上に一歩を踏み出した。
    氷はシンクがのっても大丈夫だった。底が見えないのだ、薄氷なはずはない。
    「ほら、大丈夫だった」
    グランがシンクの手を引いて氷の上でくるくる回った。
    「シンクも滑ろうよ」
    「俺は大丈夫だ」
    グランになにかあればすぐに抱えて岸まで滑れるようにシンクは氷の上に仁王立ちで待機していた。

    十分ほど、グランが氷の上で名残惜しむように遊んでいると、池の真ん中の氷が大砲のような音を立てて割れだした。
    白い氷に亀裂が入っていく。割れ目から水が噴き出す。
    シンクはすぐにグランを背負って氷の上を走ったが岸につく寸前で、足場にしていた氷が砕けてしまった。
    せめてグランだけでもと彼を岸へと放り投げたシンクは池に落ちて全身ずぶ濡れになってしまった。冷たかった。雪解け水どころかさきほどまで氷におおわれていた水だ。
    味わったことのない寒さに全身が襲われた。
    すぐに村に帰って、大人たちに体を温めてもらったが、強靭な体を持っていても凍った池に落ちれば話は別。
    シンクはすぐに熱を出した。特に喉が痛かった。内側から攻撃されているようで喉の中になにか住み着いたように痛む。


    喋ろうとするとかすれた声が出る。
    「迷惑を、かける……」
    「気にしないで、シンクの看病よりはうまいでしょ」
    その時を思い出したグランが笑う。
    逆にシンクは恥ずかしくて、頬と鼻の先が熱くなる。
    シンクの初めての看病は下手くそだった。看病のおままごとだ。
    看病の知識がほとんどないシンクは、凄まじい握力でタオルを絞ってグランの額にのせた。
    ただ乾いたタオルが熱っぽい額に乗っただけである。意識が朦朧なグランは額にタオルがのったことに気づかなかった。冷たくもなんともないので。
    シンクに看病を任せたビィは医者のところに薬を貰いに行っていた。
    帰ってきたビィには驚かれ、笑われた。グランの中では笑い話になっているがシンクの中では恥ずかしすぎる思い出だった。布団を鼻先まで引き上げる。
    グランは笑いながら臥せるシンクの額にふれて前髪をかき分けた。冷たい水でしっかり濡れたタオルをのせる。
    「スープ飲んでね、そしたら薬飲んで寝ようね」
    「ズビ……」
    「あとね、エドガーおじさんが来てくれるから寝る前にシーツ替えてくれるって。体も拭いてもらえるから、すっきりして寝ようね」
    グランは布団の上からシンクお腹をぽんぽん叩く。
    リズムがあって寝入ってしまいそうになる。
    いつもより鈍い感覚で気配をさぐる。いつもはピンと立っている耳が力なくピクピク動く。外では冬を終えた村人たちが働き始めている。
    冬の間、閉じこもっていた村人たちは、木々の剪定や雪で壊れた垣根の修理に精を出している。もう少し雪が融ければ、畑の耕作もはじまるとビィが言っていた。
    それまでに治さなければ……



    ◆◆◆



    ザンクティンゼルの春は色鮮やかに染まっていく。
    眠っていた動物たちは穴倉から這い出して、お日様の光を浴びる。枝から枝へとリスが乗り移り、鳥たちが歌う。
    白い花が咲き、散ったと思えば別の花が咲く。ザンクティンゼルには命の力溢れる新緑とは趣の異なる美しい風景が広がっていた。
    穏やかな陽気と花の咲き乱れる美しい季節だ。


    シンクは木製のまな板の上で小麦粉に水と塩とブドウから作った酵母を混ぜてこねている。
    パン作りだ。
    この春、大人たちの話し合いの末、グラン家の石窯の使用が許可されたのだ。
    生地は最初こそベトベトとしているがこねているうちにまとまってくる。
    パン作りの先生であるアニタおばさんから教わった秘訣は『耳たぶより柔らかいくらいの硬さにする』だ。
    耳たぶ……
    シンクは隣でぐつぐつしているスープの様子を見ているグランの耳に手を伸ばした。
    そのまま何も言わずにグランの小さな耳たぶを二本の指でつまんだ。パン作り初心者エルーンには耳たぶのある種族が必要である。
    パンを作る時はいつもこうなのでグランももう何も反応しない。シンクが生地をこね始めたら隣で鍋をかき混ぜたり、調味料で味を調えていつでも耳たぶチェックができるように待機している。
    十分に捏ねたら、少し放置して発酵させる。生地を三等分にしたシンクは、じ…と悩んでから、そのうちの一つをさらに三つに小分けした。小さなビィの手でも食べられるようにするためだ。
    大きさが違うので焼き上がりに差が出るが、まぁ何事も挑戦だ。
    大きな木のへらに生地を載せて石窯の中に入れてふたを閉める。
    最初の数分はふたを開けずに焼き、その後は火加減を見ながら焼き色を確認していく。
    中身の見えない石窯を二人で並んで見つめる。
    「うまくいくかな」
    「昨日もおいしかったよ」
    「もっとうまくできると思う」
    パン作りは、この村に来てすべてが初心者なシンクにとって、グランよりも一歩リードしている数少ないことだ。
    シンクはパンを焼くことに楽しみを見出していた。村のお母さんたちは「珍しい!うちの旦那/子にも見習ってほしいわ」と喜んでいる。

    この小麦粉は昨年の夏に収穫して、水車小屋で挽いたものだ。
    酵母は、去年の秋に収穫したブドウから作った。皮ごとジュースにして砂糖と一緒に瓶に詰めて発酵させた。発酵するまで毎日、グランと交代で瓶を振ってガス抜きをした。
    1年をかけて、村の皆で作ったものが、今日を生きる自分たちの糧になる。
    輪の中に自分が入っている。全てが循環している。一年の営みに自分が参加している喜びがパン作りの中にある。
    冬作物の種まきにはシンクも参加した。その時にまいた小麦は今年の初夏に収穫だ。自分が蒔いた小麦が実って、それを製粉して、パンを作る。それをグランとビィと一緒に食べる。
    あと半年以上は先のことなのに、まだ小麦は芽すら出していないのに。シンクは今から楽しみにしている。


    農村はすでに動き出している。
    朝食の後はさっそく仕事が待っていた。
    「よ、いっしょ!」
    グランは木製の軽いシャベルで、シンクは鉄製のシャベルで用水路にたまったごみを掻きだした。
    枯葉や草の塊をグランが持ち上げて溝の縁へ積み上げる。シンクは重たいヘドロ状の泥を掻きだしていく。
    本格的に農業を始める前でもやることは山積みにある。シンクとグランの仕事もその一つ。
    冬の間放置された用水路の清掃だ。
    溜まった泥、雪解け水が運んできた石、溶け合うように合体した枯葉の塊。
    すべて掻き出して透明で底まで覗ける水路に戻すのだ。
    溝から顔を出せば、小さな子供が大きな枝を一本、ずるずる引きずりながら歩いている。見守っていると、枝を親らしき大人に渡した。邪魔な小枝を折って、破損した畑周りの柵を修繕に使われる。
    数少ないドラフの村人は製材された板を担いでいる。木材石材を載せた荷車を引くロバが後ろについていく。
    雪の重みで屋根や壁が破損したと騒ぎになっていたからそこにいくのだろう。春先は塀や小屋の修繕が多くなる。村のあちらこちらでトンカチを振るう音が聞こえてくる。
    畑に沿うように流れる用水路の中からごみを掻きだし、石を拾い上げる。
    グランは軽いシャベルなのにだんだん腕が上がらなくなってきた。重たいゴミを担当しているシンクはちっともペースが乱れていない。
    反対側からも同じように掃除を進める組がいるので、そこと合流できれば完了だ。
    「グラン、シンク、ここ終わったらめし食べてこい」
    「そのまま遊んできなさいな」
    向こう側から進めてきた村の大人たち……2/3以上は彼らが終わらせてくれた、と合流する。
    「いいの?まだ手伝えるよ」
    「子供は遊ぶのも仕事だ!ま、遊ぶときついでに壁の様子をみてきてくれ。毎年どっかしら壊れてるからな」
    「わかった」
    「はーい、頑張ろうねシンク!」



    仕事を終わらせた二人は畑近くの小高い丘の上、モクレンの木の下でお弁当をひろげる。
    シンクの焼いたパンにハムや卵、野菜のほか、昨日の夕食の残りを挟んだサンドイッチだ。
    ここからは村の一部が見渡せる。春を迎えた村をシンクに見せたくてグランが連れてきた。
    ロバが鋤を引いて耕し終えた畑の隣では、農作業を手伝えない小さな子供達が枝を持って歌いながら走り回っている。
    一年前、シンクは子供達が遊んでいるなと思った。無邪気に楽しそうに。
    本当は遊びではない。
    蒔いた種を鳥に食べられないように追い払う重大な仕事だ。
    「シンクが来たときは春が終わっちゃってたから、今年はたくさん案内するからね」
    「楽しみだ……春の仕事ってほかには?」
    「木の剪定して、種蒔きして……放牧もはじまるからアニタおばさんの所だね」
    「久しぶりにコユキに会えるのか。大きくなったかな」
    小さな山羊はすっかり大きくなって、ミルクではなく大人の山羊と同じ草や飼料を食べるようになった。シンクの日課の一つは終わってしまった。
    「あはは、そのうちコユキからミルクをもらうようになるよ」
    「それは……楽しみだな」
    「それに今年は羊の毛がりとバター作りもできるよ」
    「……多いな」
    「春は秋の次くらいに忙しいもん」
    シンクは気合をいれるように最後のサンドイッチのかけらを飲み込んだ。
    まだまだたくさん覚えなくてはいけない仕事がある。
    「それにシンクに教えてない遊びもたくさんあるよ」
    「あんなにたくさん遊んだのに?」
    「あるある。竹馬はやってないし、樽でも遊んでない」
    「樽で⁉︎」
    「楽しいよ、輪回し。穴があいた樽を貰えたらやろうね」
    ワイン作りの時に見たあの大きな樽でどう遊ぶのだろう。
    シンクはまだ見ぬ遊びに心躍らせる。
    「じゃあ、アーロン誘ってまた森に行こう。」
    差し出されれたグランの手を取って、シンクは手をつないで春のザンクティンゼルへと駆け出した。



    ◆◆◆




    ゆっくりと月日は経っていく。
    農村らしく、天候不良や暴風に一喜一憂しながら。

    あるとき、商船が一通の手紙を運んできた。
    特産品を買い込んだ商人から村人へ渡される。
    飾りっ気のない真っ白な封筒に赤い封蝋。
    宛名もなく、どこから届いたかわからない手紙を村人は迷うことなくグランへ手渡した。
    外の世界にいて、グランに手紙をくれる人など一人しかいない。
    その場で開封しようとして、やめた。
    手紙を右手に握って駆けだした。走って、走って、村の果樹園に向かった。梯子に腰かけて林檎の木を剪定するシンクの姿が見えた。まだだいぶ距離があるけど、シンクなら耳がいいからきっと届くはず。
    「シンク、みて!父さんからの手紙が来た!!」






    END







    自分、あとがきいいですか?

    去年の夏、ぼくなつの実況動画を見ていて夏を満喫する子シスが書きたい……となって書いていた作品です。
    子シスが夏を満喫するにはザンクティンゼルにくるしか方法がないので義兄弟IFしかないと書いて
    途中で引っ越しがありそこで筆が止まり、時が進みグラシスオンリーで完成させよ~と思っていたら周年イベントで公式のショタグラシスを食らいました。
    演算世界、ありがとう……
    書いていくうちに、ザンクティンゼルってムーミン谷だなって思い、夏の話から四季のお話になり、シンクちゃんのスローライフINムーミンだ…ザンクティンゼルになりました。
    最初は仲良くないショタグラシスが仲良くなっていく話にしよ~と思ってたらまさかの文字数半分以上かかりました。
    まぁスローライフ導入部でもあるそれだけかかっちゃったかな。
    仲良くなってる後半は小ネタ集みたいになりましたね。まぁいいや。
    書くにあたって中世の農村の暮らしをググり、季節ごとの農業を調べ、楽しいムーミン一家のBGMを流し、時々たのムー本編を見て、ぼくなつ実況を見て、心をムーミン谷にして書きました。
    途中で、お正月とクリスマスのこと忘れていたのに気づきましたがここはムーミン谷なのでザンクティンゼルにもないことにしてゴリ押ししました(ムーミンたちは冬眠するのでクリスマスとお正月がない)
    謝肉祭っぽいことさせたくて、ねじこんだり、農業についてはきっと矛盾あるので気にしないで。このザンクティンゼルはムーミン谷なので家に鍵はかけないし、冬は雪がすごく降るし、不思議な生き物がいます。

    中世ファンタジー時代とはいえ、グランくん七歳か八歳とビィとの二人暮らしなら火は使わせないかな?ご飯は?お風呂は?と考えたり。
    シンクちゃんがスローライフするなら村人たちとの交流は欠かせないなとオリ村人を出したり。
    アニメの一話をみて、食生活と動物を確認したり(二話のパーティーシーンでは魚がなくてパンとお肉ばかりでした)
    閉ざされてる島だから、自給自足で何を作っていて、何が手に入らないものなのかを考えるのは楽しかったです。
    塩は……交易してない時代は岩塩かな?
    生姜とレモンは栽培してるし、蜂蜜はある、サトウキビも栽培してそう…牛の牧場は手間がかかるので小さな島では無理かも……山羊ならミルクも取れるし、山羊かな!と考えてたら周年イベントで牛乳飲んでてびっくりしました。

    スローライフなので山もなく、おちもなくですがお付き合いありがとうございます。
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