マシェリとジップ 何もかも否定や拒絶から入っていると、いつか必ず後悔する時が来る。
親友の言葉だ。
私は幼い頃から保守的で、新しい刺激に対して保身に走りがちだった。そんな臆病者な私を見かねた親友がそれを教えてくれたのだ。
わかっている。ああ、痛いほどにわかっているとも。そうして逃した機会がどれだけあるだろうか。
今も後悔していることがある。
拒絶から入ったゆえに、みっともない意地で拒絶し続けることになってしまった哀れな私がここにいる。
嫌いだ。
嫌いだ。
私はあなたが大嫌いだ。
あなたの存在が心底ムカついて仕方がない。どうせ、その笑顔の裏で私を嫌っているのだろう。
嫌いだ。
嫌いだ。
私はあなたなんかいなくなればいいと思うほどに嫌いだ。どうせ、私のことなど眼中にないのだろう。
そうして言い聞かせて、言い聞かせて、言い聞かせて、私は耐える。耐え続ける。
あなたの温桃のような輪郭の笑顔が鼻につく。
あなたの鈴を転がしたような笑い声に苛立ちを覚える。
あなたとすれ違った時、鼻腔をくすぐる香りが心底不愉快だ。
嫌いだ。
嫌いだ。
私はあなたなんか、大嫌いだ。
「──ッ!!」
「きゃっ?!」
マシェリ・アームールは飛び起きた。
ここは仮眠室。マシェリはすぐさま傍に立つ女を睨む。
「…………、ジップ・チャック……」
「お、おはようございます、マシェリさま」
ジップ・チャック。マシェリの部下のひとりである彼女は、困ったように眉尻を下げ、マシェリに微笑む。
「うなされていらっしゃいましたので、その……すいません……」
彼女がマシェリを揺り起こしたのだろうか。
濡羽色の艶やかな黒髪。黒曜石の瞳。温桃の輪郭。マシェリと同じ喪服のようなスーツに包まれた彼女の肢体は、マシェリと正反対のしなやかなラインをしており、触れたら実に柔らかそうで──。
「……あの、マシェリさま?」
いかがなさいましたか、とマシェリの邪な視線に気づいたか、さらに小さく萎縮する彼女に、我にかえる。
「……あなたには関係のないことです」
「そう、ですか……大変失礼いたしました。申し訳ありません」
手を前に組み、深々と礼をする彼女から視線を逸らし、マシェリは簡易ベッドから立ち上がった。
「……ネクタイを、きちんと締めなさい」
「は、はいッ」
彼女の黒いネクタイが緩んで、ほんの少しだけ、噛み付いたら牙が柔らかく沈み込みそうな柔肌が覗いていたのだ。疼く歯根に気づかないふりをしてマシェリは仮眠室を出る。
……彼女は悪くない。何も悪くない。マシェリが悪いのは明確だ。
この感情に名前があるのならば、きっと恋というのだろう。そしてそれはマシェリが一番抱いてはならない感情だった。
理由は──そのほとんどがマシェリの自己中心的な感情だが──たくさんある。ようやっと手に入れたこの立場を失いたくないという保身。そもそもマシェリが上司と部下という関係から恋愛に発展させると周囲に示しがつかなくなると考えていること。生来の気質ゆえか高すぎるプライド。自覚してもなお改善できない嫉妬心。そして何より……本当に親しい腹心の友にしか明かしていないマシェリの秘密が、ジップを遠ざけようと牙を剥く。
嫌いだ。
嫌いだ。
あなたが、嫌いだ。
マシェリは重たい身体を引きずりながら、ジップへの感情を塗りつぶす。
マシェリはジップが嫌いだから、触れたいなんて思わない。抱きしめたいなんて論外。彼女をより深く知って、彼女の隣に立ちたいなんて願わない。叶いもしないのに、願ったりしない。
苛立つ頭を冷やそうと、マシェリはシャワールームへ向かった。