徒花ーprologue「魈って、嫌いな食べ物あるの?」
何でもない日の昼下がりのこと。旅人とパイモンは望舒旅館を訪れていた。
スメールから調達を頼まれた品を手渡すと、言笑は嬉々とした顔で手早く包みを開いた。たちまち露わになる種々雑多な香辛料に、大きな獣肉の塊。厨房じゅうに芳しい香りが漂い、異国の風景がそこに広がるようだった。
つい先日まで滞在していた街の至るところで香っていた匂いだが、改めて嗅ぐと食欲が刺激される。ぐ〜、と響いた同行者の腹の音が、何よりの証拠だ。
それを聞いた料理人は大きく笑って「さっそく何か試作してみるから食っていってくれ。代金? 要らん、要らん」と言うと、機嫌よく鉄鍋を振るい始めた。
気前のいい一言に喜んだパイモンが「蛍、聞いたか!? タダでごちそうが食べられるチャンスだぞ! あっちで待ってようぜ!」と、すぐさまテーブルに腰かけるよう急かしてきたのは言うまでもない。
……そして、待つことしばらく。卓の上に並べられた料理は、二人では到底食べきれないような量だった。揚げ物、蒸し物、炒め物、汁物――。言笑は仕入れた品を相当気に入ったのか、かなり張り切ってくれたらしい。目移りするばかりの皿の数々に、パイモンの目は宝石のように輝いていた。
けれど、さすがに量が多すぎる。食べきれないほどの品数と大皿で饗するのが璃月流とはいえ、今回は試食を名目とした言笑の好意での卓だ。味に間違いはない確信があるぶん、大して手を付けずに残すのも料理人の面目を潰すようで、せめて人手があればと困り果てた末に呼んだのが彼だった。
名を呼んで間もなく現れた彼は、卓上の料理を一瞥するなり無言で去ろうとした。予想はしていた反応だが、人助けだと思ってほしいと何とか引き留めて、今に至る。
「もとより仙人に凡人の食事は必要ない」
焼き魚の串を手に、対面の少年は眉を顰めた。慣れない香りを警戒しているのか、ぱりっと香ばしい皮目に振りかけられた香辛料を神経質そうに嗅いで、裏側も入念に確かめてから口に含む。
食事を始めてからというもの他の料理を食べるときもこの調子で、いちいち嗅いだり解したりしてから口に運んでいるのだ。よほど嫌いなものでもあるのだろうかと勘繰ってしまう。それで好き嫌いがあるのかと質問をしたわけだが、当然のことを聞くなと言わんばかりにそっけなく返されてしまった。
「うん。知ってる。変なこと聞いてごめん……」
彼に食事が必要ないことは知っていた。それでも自分が頼み込んだせいか、いやいや食事をしているといった様子に、若干の申し訳なさがあった。
「分かっているのなら何故それを聞く?」
迷惑そうな顔で大きくため息をついた彼の名は、魈という。またの名を降魔大聖、護法夜叉、金鵬大将……。肩書の多い彼は見た目こそ自分と年の近い少年そのものだが、その実は数千年の時を生きる仙人であり、降魔を生業とする璃月の守り手だ。
神秘に包まれる璃月仙人のなかでも、どちらかといえば人間を避けて暮らすほうである彼とは、先立って国中を揺るがした大事件で縁を紡ぐことができた。その後も様々な難関を共に切り抜け、何だかんだで信頼関係を築いてきたと思う。
とはいえ彼のことは分からないことがまだ多い。何かと顔を合わせる機会が増え、交わす言葉も増えてはきたものの、まだどこか距離を感じる間柄だった。自分自身のことをあまり話したがらず、無駄話を好まない彼の性格も手伝っているのかもしれない。
それでも頼めばこうして食事の席を共にして、質問の意図を尋ね返してくれる程度には、心を許してくれていると思う。これでも出会った当初から比べれば大きな進歩だ。
「さっきから肉料理には手を付けてないなあ、って」
たとえば、と彼の前に配膳されている肉野菜炒めを指し示した。厚みを持たせて切った獣肉と歯ざわりのいい野菜を炒め合わせた、璃月では一般的な料理だ。
それも今回は、教令院監修のもとで果物だけを食べて育った特上の獣肉が使われている。芳醇な味わいに期待できるのはもちろん、万民堂風の甘辛いタレを纏って艶々と光る脂身は、見ているだけで涎が出そうな一品だ。
しかし、彼は手前にあるそれに一切手を付けようとせず、蝦餃子や蒸し野菜といった獣肉の入っていない料理ばかりに箸を伸ばしていることに気付いてしまった。この卓での目玉は香辛料と肉だと伝えたというのに。
誘った手前、せっかくなら食事を楽しんでもらいたい。旅人が肉野菜炒めを小皿に取って勧めようとすると、魈は少しばつが悪そうに目を伏せた。
「我は味が濃いものと、調理に時間のかかるものは好まん」
「そうなんだ」
意外だ、と旅人は思った。手間のかかる料理は調理が難しいぶん万人に喜ばれるものだと思っていたが、仙人の感覚は少し違うのかもしれない。味が濃いものを避けるのは好みの問題だろうか。
思い返してみれば確かに、彼の好物の杏仁豆腐も、以前振る舞ってから気に入られた満足サラダも、淡白な味わいの料理だ。
「おっ、なんだそれは?」
それならばと比較的薄味な肉団子のスープを取り分けようとしたとき、ずっと食事に夢中になっていたパイモンが声を上げた。視線の先を追えば、魈が袂から小瓶を取り出したところだった。瓶の中には何やら色鮮やかな飴玉のようなものが少量入っている。
「……やらぬぞ」
物欲しげに見つめるパイモンを後目に、彼はそれを瓶から直接口の中へ放り込んだ。口の中でかるく転がしたのち喉を鳴らして飲み込むと、ほうっ、と息を吐いてみせる。
……それが艶っぽさを含む恍惚とした表情に見えたのは、彼の顔が恐ろしく整っているせいだろうか。酩酊しているような、満ち足りているような、見たことのない大人びた表情に、思わず見とれてしまっていた。
「うう……美味そうな飴を独り占めするなんて子供っぽいぞ……」
「パイモン。料理はまだいっぱいあるでしょ。食い意地張るんじゃないの」
机に置かれた空き瓶を恨めしげに見つめる彼女を諫める。
魈が突然、飴を食べた意図はわからないものの、彼が特異な体質を抑える粉薬を服用していることはよく知っている。それと似たようなものならパイモンが食べても意味を成さないだろう。むしろ、かつて忠告を受けたように健康に害を成すかもしれない。
そして不満を述べられたほうの彼といえば、大して意に介していないようで小さく鼻を鳴らした。それが食べ物の恨みは深いパイモンの気に触ってしまったらしい。
「魈はそうやって好き嫌いしてるから、大きくなれないんだろ!」
いくら食べても小さいままのパイモンがそれを言うのか、と口に出すよりも早く、慌ただしく椅子を引く音がした。手に持った椀の中でスープが揺れる。
「…………ッ」
音のした対面を見ると、椅子から立った魈が目を見開き、少し後ずさっていた。それは普段は冷静沈着な彼らしくもない、明らかな動揺だった。
「魈? どうしたの?」
豪胆な彼がパイモンの悪態程度で取り乱すとは思えなかったが、明らかに顔色が悪い。心配になって声をかければ、魈は首を軽く振って忌々しげにテーブルから目を背けた。
「……我はもう行く。馳走になったと言笑に伝えておけ」
そして、特に事情を話すことなく風と共に去っていった。……まあ、彼のこういった態度も既に慣れたものだ。そこそこの時間、あまり興味のない食事に付き合ってくれただけ奇跡かもしれない。
「なんだあ? あいつ、そんなに身長のことを気にする奴だったか?」
「うーん……。今度会ったら謝ったほうがいいかもね」
さすがのパイモンも少しは悪気を感じているようだった。おずおずと尋ねられた言葉に、スープを啜りながら返す。「じゃないと宝箱の中身を全部キャベツに変えられちゃうかも」と付け加えると、「それだけは勘弁だぜ!」と悲鳴を上げた。
それにしても、魈の様子に違和感があると言ったパイモンの言葉には、僅かながら同意できる部分もある。
これだけ香りが強い料理が並んでいて、すぐ隣にいるわけでもないのに、彼からは特徴的な―—……それこそ、スメールの森林でいくらでも嗅ぐことのできるような甘ったるい匂いがした。荒々しい彼の印象とは真逆な芳香は感慨深く、誰に言うでもない言葉となってぽつりと零れる。
「魈って、あんなに花みたいな良い匂いしてたっけ?」
***