隣にある幸せ「先生、もっと甘えて欲しい」
「急にどうした」
お互いに仕事が休みの午後。
居間で二人、卓を挟んで長椅子に座り、タルタリヤが淹れた茶をまったり飲んでいる最中、急にタルタリヤが真顔でボソリと呟いた。
何か変な物でも食べたのか。いや、同じ昼食を取ったからそれはないのか?等と鍾離が考えていると反対側からタルタリヤが身を乗り出してきた。
「公子殿、卓上から身を乗り出すのは行儀が悪い」
「あ、ごめん…じゃなくて!せっかく恋人になって一緒に住み始めたんだからさ、もっと恋人として甘えて欲しいの!」
「ふむ、例えば?」
「えっ、うーんと…先生、俺にして欲しい事とか無い?あれば叶えるよ!」
「それが甘える事になるのか?」
「なるなる!…で、何か無い?」
キラキラと期待の色を浮かべた瑠璃色が鍾離の返事を今か今かと待っている。鍾離とて恋人からのお願いを断るつもりは無く、タルタリヤに言われた事を考えてみる。が。
「そうだな、特に無いな」
「なんでっ!!?欲しい物とかやって欲しい事とか無いの!?」
「欲しい物は毎回に公子殿に買って貰っている」
「…まぁ、確かにそうだね」
「やってもらいたい事も同じだな。俺が何か言う前に公子殿が察して既に叶っていることが多い」
「あぁ…うん…」
「そう考えると現時点で十分、俺は公子殿に甘えている事になるのでは?」
本当にタルタリヤの察知能力は凄まじい。鍾離が支払いに困っていると颯爽と現れていつの間にか購入が済んでいたり。夕食にタルタリヤの故郷の料理をと所望しようとしたら既に作ってあったり。顔を合わせるだけで必要な物を手渡されたり。と、様々だ。
付き合う前は取引相手として少しだけ発揮されていたものが、付き合い始めてからはタルタリヤは持てる能力を最大限活用しているようだった。鍾離が不満を唱えた事はほぼ無い。
随分と甘やかされてしまっているな。と、今更気付いて鍾離が感慨に耽っていると、いつの間にか鍾離の隣に移動していたタルタリヤがムッと不満そうな顔をし、ズイッと顔を突き出しながら距離を縮めて来た。
「いーや、ならないね!」
「と、言うと?」
「先生が言った事は全部俺がやりたいからやってる事ばかりだ!先生がして欲しい事じゃない!」
「…なるほど、一理あるな」
「と、言う訳で何か無い?」
そうか、あれは全部やりたくてやっていたのか。家族に対して愛情深いとは聞いていたが恋仲になった自分にも適用されるのか。
と、半ば現実逃避しつつも改めて鍾離は考える。タルタリヤにして欲しい事。急に言われてもそう簡単に思いつきそうにも無かった。
一緒に住みだしてからというもの、タルタリヤの察知能力は更に向上しているのだ。してもらいたい事なんてほとんど無くなってしまった。欲しい物も休みが合う日に二人で出掛けて全てタルタリヤに買って貰っている始末。
「………。」
そもそも恋人として甘えるとは何だろう?具体的に何をするのが正解なのか?世間一般的にはどう行動すればいい?何を言ってどう行動すればタルタリヤの期待に応えられる?
そもそも、タルタリヤはああ言ったが、十分甘やかされていると感じているのだ。こちらから望むまでもなく満たされているのにこれ以上何をどう望めばいいのだろうか。
鍾離が考えをぐるぐると巡らせていると、タルタリヤが手をポンと肩に軽く置いた。
「ごめんごめん、困らせちゃったみたいだね」
「俺は何も言っていないが」
「言わなくても分かるよ」
—眉間のシワ凄いよ?
そう言いながらタルタリヤは指先で鍾離の額に触れた。その後、マッサージをするように柔く眉間を揉んでくるものだから、鍾離は何とも言えない気持ちになる。
先程の問いにもきちんと答えられていない。考えは纏まっていないが無理にでも答えよう。そう決めて鍾離が口を開こうとすれば、その前にタルタリヤに引き寄せられて、そのまま頬に口付けられた。
「ちょっと言ってみたかっただけだから気にしないでよ、ね?」
「だが、…」
「はい、この話はお終い。それよりも、今日の夕食まだ決めてなかったよね?メニューの相談に乗ってくれると嬉しいんだけど?」
「…承知した」
鍾離の肩を抱きながら、あれやこれやと話しかけてくるタルタリヤの話に耳を傾けながら、ふと、鍾離は考える。もしや、また、タルタリヤに甘やかされてしまったのではないか。と。
「恋人として甘えて欲しい」と、そう言ったタルタリヤの願いを叶えることができなかった事実に、鍾離の胸にモヤモヤとしたものが蓄積する。
恋仲になるのも一種の契約だ。なら公平を重んじる鍾離としては同じだけの何かを差し出すべきだと考える。けれど今、同じだけの気持ちや行動を自分はタルタリヤに返せているのだろうか?現状、どう考えても比重はタルタリヤの方が大きいように思える。甘やかされされるがままの現状は大変よろしくない。
ならば、タルタリヤが願った事を叶えれば公平になるのだろうか?
少なくとも何も行動していない今よりかは天秤の傾きはマシになるだろう。それに恋人のささやかな願いを叶えてあげたい。鍾離とてタルタリヤの事が好きなのだ。好いた相手には喜んでもらいたいという気持ちはある。
今日の夕食どころか、三日分の献立まで嬉しそうに話すタルタリヤを鍾離が見つめれば、花が綻ぶように笑みを深めたタルタリヤに髪を撫でられる。
見聞きして知識はあれど、他者と直接触れ合う機会のなかった鍾離には、こういう時にどう返せばいいのか分からずいつもされるがままだった。
…今もまさしくそうだ。
「先生聞いてる?」
「…ああ、三日後の朝食はそれでいいと思う」
「…?そう?」
—分からないのなら、学ぶしかない。
不思議そうな顔をしたタルタリヤの顔を見ながら、鍾離はそう決心した。
✦✧✦
意気込んだはいいものの、どう学ぶべきか?居間で一人、鍾離は途方に暮れる。
タルタリヤに言われた「恋人として甘える」について考え出してから早三日。その間、一人で何度も考えてみたものの、具体的な案は何一つ出てこず今日に至る。
今日も朝からタルタリヤが仕事に出勤してから今まで考えてみたが、ここ数日と同じく、これだと思えるようなものは思い浮かばなかった。知識はあっても圧倒的に経験が足りないのだろう。と、鍾離は結論付ける。自分一人ではどうやら考えるにも限界のようだった。
考えている間に冷めきってしまった茶を一口だけ飲む。冷たい口当たりが考えて煮詰まった頭にはちょうど良かった。一息ついてから茶碗を卓上に置き、再び思考を巡らせる。
一人で限界なら誰かに助力を求めるか、もしくは、何か参考になる物を探すしかない。
ただ、相談をとなると中々に難しい。まず、恋愛相談できそうな相手があまり思い浮かばない。唯一、思い浮かんだ相手はいるにはいるのだが、聞かせた瞬間に爆笑しながら酒の肴にしつつ、相談内容に因んだ詩を一曲作ってその場で披露しそうだ。
あまりにも鮮明に想像できてしまったので脳内で星岩を落としておいて、相談については除外する。
と、なると。何か参考になるものを探すのが良いのだろう。
「参考になるもの、か…万文集舎にそういった書物があればいいのだが…」
こういった事の手解き本が売っているとは思えないが、何かしらとっかかりになる物があればいい。それに、買いたい物の動機が動機なのでタルタリヤが仕事で留守にしている今のうちに行動しておくべきだろう。とりあえず方針は決まった。
一つ頷いてから鍾離は音もなく立ち上がり、心なしかいつもよりも早足で部屋を後にした。
✦✧✦
内容を軽く見るために、パラパラと捲っていた本を鍾離は静かに閉じ、改めて表紙に目を向けた。最近璃月で売り出された娯楽小説。それも恋愛物だ。すでに似たような本を三冊ほど確保した。参考文献はこれだけあれば大丈夫だろう。
手に取った本を、脇にどけてあった三冊の上に積んで会計に進む。値段を言われ、懐からモラの入った財布を出せば、いつもタルタリヤに買ってもらっているのが常習化しているせいか店主の紀芳に驚いた顔をされた。今回の買い物はあまりタルタリヤに知られたくないのだ。財布を忘れるわけにはいかなかった。
こういった本にはあまり馴染みがない。馴染みがないからこそ読む事自体は楽しみだった。以前、旅人に稲妻の娯楽小説の話を聞いてから気にはなっていたのだ。今度、旅人が持っている本も機会があれば借りることにしよう。
もちろん目的の事も忘れていない。作り話の内容を丸ごと鵜呑みにするつもりは無いが、参考程度にはなるだろう。
鍾離が会計を済ませ買った本を抱えて後ろを振り返ると、橋の半ばで佇むタルタリヤの姿が見えた。目を見開き、ポカンとした顔をして立ち尽くすタルタリヤの姿を見て鍾離も思わず固まる。お互い長い間そのままの状態でいたが、先に動いたのはタルタリヤの方だった。心なしか、引き痙ったような笑顔を浮かべこちらの方へ近付いてくる。
「先生、買い物に出てたんだね」
「ああ…公子殿は仕事は終わったのか?」
「今日はあともうちょっとだけ残ってるかな。でも、定時で帰れると思うよ」
「そうか、夕飯は予定通り俺が作っておこう」
タルタリヤの視線は鍾離の手元に釘付けだった。真っ直ぐ瞬きもせずに凝視して来るものだから、疚しいことをしている訳ではないのに居心地が悪い。
「うん、お願い…それよりも、先生が財布を持ってるのなんて珍しいね」
「偶にはそういう時もある」
「…ふーん、そう…じゃあ、戻るね」
「ああ…」
そう言って切り上げたタルタリヤは踵を返して去って行った。今朝は普通だったと思うが、いつもと比べてそっけない物言いと態度は何だったのだろう?不思議に思いながら鍾離も帰路につく。
万文集舎から帰宅した鍾離は予定していた夕飯を作り上げてから、居間に戻って買ってきた本の一冊を読み始める。それから幾つか時が経ち、物語の半ば辺りで顔を上げた。
本の内容は楽しめている。しかし、今のところ参考にはなっていない。物語の恋人たちが仲睦まじく過ごす描写は幾つかあるものの「これだ」と思えるようなものは中々見つからなかった。もう少し読み進めていけば何かが変わるのだろうか?
栞を挟んでから卓上に本を積み上げる。日が傾き部屋の中が暗くなっていた。タルタリヤは定時で帰れると言っていたから、そろそろ帰ってくるはずだ。鍾離が立ち上がり部屋に明かりを灯すとちょうど玄関で物音がした。居間を出て廊下に顔を出せば、タルタリヤが扉を開けたところだった。
「おかえり、公子殿」
「うん…ただいま、先生」
何故かタルタリヤの元気がない。いつもなら鍾離が玄関に出迎えに行けば、出迎えているのはこちらなのに熱烈歓迎される。もしタルタリヤに尻尾が付いていたなら、千切れんばかりに振って鍾離に抱きついたりしてくるのだ。それがどうした事か、鍾離の方を見向きもせず横をすり抜けて行った。
「…?」
昼に偶然会った時も様子がおかしかった。仕事で何かあったのだろうか?疲れているであろう恋人を労う為にも、鍾離は夕飯の用意を早める事にした。
✦✧✦
花が飛んでるんじゃないか。いつもならそう思える位に幸せそうに鍾離の作った食事を平らげているのに、帰ってきてから現在まで、ずっとタルタリヤは元気が無いままだった。食事も、その片付けも終わり、鍾離が先に湯浴みを済ませたので今はタルタリヤが湯を使っている。その間に本の続きを読もうと、寝所に買った本を持ち込み寝台に腰掛けて読み進めて行くが、先程のタルタリヤの様子が気になって頭に入ってこない。
鍾離とて恋人が気落ちした様子であれば心配もする。溜息をついて本を閉じ、意味も無く本の表紙を指でなぞっていると、カタと部屋の入り口が音を立てて開き、寝衣に着替えたタルタリヤが入ってきた。風呂上がりのせいかも知れないが、顔色や表情は幾分かマシにはなっていた。
が、鍾離の手元を見て何故か崩れ去る。衝撃を受けたような顔になり、その場で固まった。鍾離が声を掛けようと、寝台の側にある卓に本を置いた瞬間、ハッと気が付いたタルタリヤがツカツカと、座っている鍾離の方へ詰め寄り正面で立ち止まる。
「先生!」
「何だ?」
「それっ!その本、相棒の為に買ったの?!!」
「?…なんの話だ?」
目前でタルタリヤに叫ばれて鍾離の鼓膜がビリビリと震えるが、頑丈な身体では支障は出ない。平然とした様子でタルタリヤの言っている事が分からずに鍾離が首を傾げると、心なしか涙目になったタルタリヤがビシッと卓に置いた本を指す。
「だってこの本、流行りの恋愛モノだよっ!?先生、こういう本あんまり読まないよね!?…それに、相棒と稲妻の娯楽本について話してたし、だったら…!」
「うん?自分用に買ったもので誰かに贈るつもりは無いぞ?」
「……この前欲しい物は無いって言ったのに?…先生、自分でモラ払ってたし…やっぱり贈り物なんでしょ?別に隠さなくてもいいのに…」
鍾離の目の前で佇み視線を床に落とした恋人が、悲痛な面持ちでそう言う姿を見て、ようやくタルタリヤが何に引っ掛かっているのか理解して鍾離は慌てた。
慌てたが、何と言うのが正解だろうか。鍾離も同じく視線を床に落として悩む。タルタリヤの願いを叶える為に、参考になるだろうと買った本が逆に裏目に出るとは思わなかった。恋人を喜ばせるどころか、誤解させた上に悲しませる結果になってしまっては、正直に話して誤解を解くしかないだろう。意を決して上を向いた鍾離は口を開く。
「…この前、公子殿が甘えて欲しいと言ってきたから参考にしようと思って買ったものだ」
「…………えっ!?」
「俺がモラを忘れなかったのは…察してくれ…」
羞恥心がこみ上げてきて、思わずふいっと目を逸らして鍾離がそう告げれば、正面に立っていたタルタリヤが素早く移動し、鍾離の横に腰掛け、そのまま力強く抱きしめてきた。鍾離の頬にタルタリヤの髪が擦れる。チラッと視線をタルタリヤの方に向けると、眉尻の下がった顔が申し訳無さそうにこちらを見ていた。
「勝手に勘違いしてごめん!俺の為だったんだね!」
「…呆れてはいないのか?」
「え?なんで??」
「…公子殿が望んだことは、凡人なら分かって当然の事だろう?」
きょとんとした顔をしたタルタリヤの顔を見ていられなくて、再び鍾離は目を逸らす。
何か参考になるものが無ければ、毎日尽してくれる恋人のささやかな願い一つ叶えられない。その事実にチクリと鍾離の胸が痛む。タルタリヤが知らぬ間に、凡人の恋人の振る舞い方を習得して驚かせてやろうと、そう画策していたのも理由の一つではあるが、本を買うのを知られたくない一番の理由はこれだった。
渋面を作って静かに落ち込む。バレないように小さく溜息をつくと、あやすようにタルタリヤに撫でられた。
「あー、俺の一言のせいでこんなに困らせちゃってたんだね…ごめん。俺はただ、先生の我儘を聞きたかっただけなんだ」
「…我儘?なぜ?」
「んー、不満とかそういうの先生から聞いた事無かったな、って思ってさ」
「公子殿には十分良くして貰っている。今の日常に特に不満は無い」
不満なんてあるはずが無い、十分満たされている。これだけは誤解なく伝えたくて、逸していた視線を元に戻す。真っ直ぐ伝えれば。タルタリヤは何故か胸を押さえて呻きだす。自分は、何か変な事を言ったのだろうか?
「ぐっ!………そ、それにしても、どうして俺のお願いを叶えようと思ったの?」
「…言わないと駄目か?」
「できれば聞きたいかな」
「いつも貰ってばかりだから、少しでも返そうと思っただけだ」
天秤の傾きを水平にしたかった。そう鍾離が小さい声で伝えれば、タルタリヤは目を見開いて驚いた後、ゆっくり目元を和ませて微笑んだ。
「あーもう…ホント、可愛い神様だよ」
「今は凡人だ」
「ふふ、そうだね。じゃあ、凡人の先生に一つお願いがあるんだけど。叶えてくれる?」
「…できる範疇なら」
「そう、ありがとう…なら…」
優しさを滲ませていた瑠璃色が、急にギラついて獣のような欲が垣間見えた。鍾離の背筋にゾクリとしたものが走る。そうこうしている間に、タルタリヤに優しくトンと肩を押され寝台に押し倒されてしまった。鍾離が目を白黒させていれば、先程までの優しい顔つきから一転して、ニヤリと怪しく笑みを浮かべたタルタリヤが覆いかぶさってくる。
「お互い明日休みなんだし、いいよね?」
そう言って、タルタリヤは鍾離の頬に手を滑らせ耳朶を擽る。擽ったさに震えながらも、近付いてくる体温に了承の意を込めて、鍾離は身体の力を抜いて目を瞑った。
✦✧✦
—寒い。
ぼんやりとした意識の中、身体が寒さを訴えてきて鍾離は身動ぐ。が、ギシリと軋む重い身体ではあまり満足に動かせなかった。
隣にあった暖かさに包まれ、心地よい眠りについていたはずなのに、何故こんなに寒いのだろうか。重い腕を動かし、そこにあったはずのぬくもりを、目を瞑ったまま闇雲に探しても見つからない。
眠気と疲労で重くなった瞼を懸命に動かして薄く開くと、寝台の端に腰掛けるタルタリヤの背中が、起き抜けでぼやけた視界の中に見えた。下に落ちている衣服を拾い上げ、そのまま羽織る様をぼんやりと見上げていれば、タルタリヤがこちらを振り返り鍾離の頭をクシャリと撫でてくる。
「ごめん、起こしちゃったかな?朝食、作ってくるからまだ寝てていいよ」
そう言いながら眠りを促すように撫でる手が離れていく。それがひどく惜しくて、でも眠気も確かにあって、そのまま素直に眠りに落ちようと、鍾離は目を瞑った。
『俺はただ、先生の我儘を聞きたかっただけなんだ』
『不満とかそういうの先生から聞いた事無かったな、って思ってさ』
が、そんな声が鍾離の脳裏に浮かぶ。眠りに抗いもう一度目を開けば、狭い視界の中で寝台から離れていく手が見えた。離れていくそれに、早くしなければ届かなくなってしまう。そう思って、必死に手を伸ばして…
「ん?先生…って、痛っ!ちょっ、力つよっ!何!どうしたの!?イタタタた」
痛いと聞こえて、ハッと鍾離の目が完全に覚めた。視界にはタルタリヤの手を思いっきり掴んで離さない己の手が見える。次いで、転ばないように必死に体制を整えようと逆方向に抵抗するタルタリヤ本人も見えた。
昨晩は激しく交わったせいか、鍾離の本性が少しだけ顕になっていた。現在、尾と角が出てるし、手足の爪もほんの少し伸びている。本性が出てるとそれなりに力加減が必要になってくるのだが、寝惚けて加減もせずにタルタリヤの手を引っ張ってしまったようだった。下手をすれば折っていたかもしれない。
鍾離は慌てて力を緩めるが、手は離したくは無かった。掴んだまま上を向いて恋人の様子を伺えば、困った顔をしたタルタリヤが反対の手で鍾離の手を優しくポンポンと叩く。
「先生?これだと朝食作りに行けないよ?」
—俺に我儘を言ってほしいと、そう言ったのではなかったのか?
そう言葉に出したかったが、昨晩酷使されて枯れた喉では声を出せず、その代わりに一度だけ、きゅう、と喉が小さく音を立てた。掴んでいた手を離し、これは違ったのかと、胸中で呟いて鍾離は鼻先を上掛けに埋める。
行為をした翌日は、タルタリヤは必ず甲斐甲斐しく世話を焼きにくる。その一環で、鍾離が起きるのと同時に食事を摂れるようにしたいらしく、鍾離が目覚めた時には既に隣から居なくなって準備に取り掛かっているのが常だった。
だが、目を覚ました時に隣に誰も居なくて冷たくなった寝床が、どこか物寂しく感じて、それが少しだけ鍾離は不満だった。その日、仕事があるのなら仕方がないが、休みの日は朝食よりも、もう少し隣に居て欲しいと、世話を焼かれる度にそう思っていた。
世話を焼かれる身であるから、ずっと言えずにいた。
昨日、我儘を言ってほしいと言われたが、これは違ったようだ。恋人として甘える、我儘を言うというのは難易度の高い行為なのだな。と、鍾離は落ち込む。
失敗した居た堪れなさと、本性が少し出ている影響か、喉が人では出せない音を出してしまった恥ずかしさに、タルタリヤの顔が見れない。上掛けを頭まで引っ張り上げて顔を隠す。また勝手に喉が鳴りそうになったが、なんとかして耐えた。
頑丈に作っているはずなのに、まだ体力が戻らず疲労も抜けきっていない。タルタリヤの言う通りもう少し寝た方がいいのだろう。そう他人事のように鍾離は考え、そのまま不貞寝を決め込もうとしたが、タルタリヤが動く気配がないのが気になった。
何故か先程から一歩も動いていない。朝食を作りに行くのではなかったのか?
伺うように半分だけ上掛けから顔を出す。そろっと鍾離が視線を上げれば、顔どころか首や耳まで真っ赤にしたタルタリヤが顔を両手で抑えていた。
疑問に思ってのそりと完全に顔を出し、手を伸ばして、今度は強くなりすぎないようタルタリヤのシャツの裾を二回程引っ張った。しばらくの間まったく反応がなく、鍾離が不安に思い始め手を引っ込めようと思ったのと同時に、長い息がタルタリヤから吐き出され、そっとシャツを握る手を取られた。
鍾離が緩く手を引っ張れば、今度は抵抗せずにタルタリヤは寝台に乗り上げそのまま鍾離の側に横になる。すかさず鍾離が身を寄せればギュッとタルタリヤの腕の中に抱き込まれた。
伺うように鍾離が顔を上げれば、まだほんのりと赤い顔をしたタルタリヤが、そっと鍾離の背を撫でながら目線を合わせてくれた。優しい面差しに鍾離の胸の奥がじわりと温まる。
「朝食はいいの?」
まだ声が出せないのでコクリと頷いて返す。
「そっか…じゃあ、お昼まで寝ちゃおっか」
再び首肯して隙間ができないほど身を寄せ、タルタリヤの胸元に頬を擦り付けて足を絡めた。
「あはは…先生、かわいいね」
そう言いながら背から移動したタルタリヤの手が頭を撫できた。それが心地よくて、くるくると喉が音を立てる。甘えるように鳴った喉が恥ずかしいと思う間もなく、心地よさと暖かさに鍾離の意識は徐々に微睡んでいった。今度は抗わずに素直に眠りにつく。
「…おやすみ、先生」
幸せな体温に包まれ、意識が完全に眠りに落ちる前に鍾離は思う。
次に目が覚めた時も、このぬくもりが隣にあればいい。
服を握りしめながら、そう心から願った。