Man in the mirror イケブクロ。
二年ぶりの街は平和ボケした平凡な人間どもで賑わっていた。
これがあの男の支配する世界。
真っ赤なジャケットを羽織り、道行く人に声をかけられて爽やかに笑顔を返す男。
山田一郎。
どうするかは考えていなかった。
今の俺の眼にその姿を映して、湧いてくるものがなにかで決めようと思っていた。怒りか、悲しみか、落胆か、あるいは……出てきた感情に身を任せるつもりだった。
胸に熱が籠っている。だがそれがなにかよくわからない。激しい感情であることは間違いないのに、どんな言葉も当てはまらない。
「谷ケ崎……?」
こっちの行動が決まる前にあいつが呟いた。
日本随一といってもいい人ごみの中で、雑音を貫いてきた。
俺の名を呼ぶ、あの声。
やはり俺にとって特別な存在。それだけは確かだ。
背を向けたが、すかさず肩を掴まれた。
「こっちだ」
「な……おい」
山田一郎は俺の腕を無理やり引いて歩き出した。
人ごみを外れた裏通りを早足で進む。この方角、警察に突き出すつもりではなさそうだ。五分ほど歩いて、素早く周囲を警戒しながら雑居ビルの一つに入った。
階段を昇った先、看板も表札もない扉の鍵を開ける音が響く。
昼なのに中は真っ暗だった。
電灯をつけると、がらんとした部屋が浮かび上がった。
「なんだここは?」
「俺の秘密基地」
山田一郎は小さな冷蔵庫からペットボトルのコーラを二本出すと、一本を投げてよこした。
「電気と水道は通ってるから、自由に寛いでくれよ。一応布団もある」
「どういうつもりだ?」
「あの道はいつも中王区が張ってンだ。見つかる前で良かったよ」
こちらの質問には答えず、なにもない部屋の真ん中に胡坐をかいてコーラを飲む。
「てめぇの頭もボケちまったのか?」
俺は強く床を踏み込んで勢いをつけ、空中で身を翻してあいつの背後に回り込んだ。首に手をかける。
「あんま物音立てるなよ。おとなしくしてりゃあここは安全だ」
無抵抗、落ち着いた声。
ペットボトルの蓋をしめて、俺の胸に寄りかかってきた。
「お前でっかくて、布団みてぇ……気持ちいい」
「はぁ?」
「ハハハッ、悪ぃ。なんかさ……嬉しくってよ」
笑ってごまかしながら、山田一郎は体を離した。
かつて復讐のために命を奪おうとした相手を見て、喜ぶことがあるか?
振り返った山田一郎は、らしくない表情をしていた。悲しむような、寂しがるような、照れるような……やはりいい言葉が見つからない。
「お前がいるって気づいたとき、すげぇ怖かったンだ。なんつーかさ……この一年ちょっとの間に俺がやってきたことを、お前に裁かれるような気分だった。お前を犠牲にした俺がちゃんと変われてなかったら、怒るだろうなって。俺は自分の信じる道を真っ直ぐ進んできたつもりだけどよ、お前から見てもそうなのかって……そしたらお前、すげぇ優しい顔してたから」
「っ……してねぇよ!」
優しい顔!? そんなもの持ち合わせた記憶はない。監獄の刑務官だって俺の形相に萎縮して目も合わせようとしなかった。
「だから嬉しかった。あの時のこと、やっと許されたみてぇな。……俺も、お前も」
「チッ……勝手なことベラベラほざきやがって」
嬉しい? どの口が言ってるんだ。
意味不明。
なのに頭にこびりつく。
こいつの声はダメだ。いつだって強すぎる。
嬉しい……嬉しい……頭でぐるぐる回る。否定したいが、できない。
さっき山田一郎を見た瞬間に現れた感情……表現できないあの熱に、少しだけ近い感覚がした。本当はそんな単純なものじゃない。いろんな感情が複雑に絡み合っている。だが、ぐちゃぐちゃの胸のうちの一端は示しているような気がした。
良い方向に変わった……俺も、変わることができたのか。
「じゃ、俺はそろそろ帰るな」
「おいっ……待て!」
なに一人で満足してやがるんだ。
「ここは好きに使っていいから。鍵もやるよ」
「いい加減にしろ。このまま帰れると思ってンのか?」
「会えてよかったぜ、谷ケ崎。ブクロまで来てくれてありがとな」
爽やかな笑顔で強引に話を打ち切ろうとするのは、なんだ?
「なにをビビってんだ? 山田一郎」
精悍な顔から表情が消える。仮面を剥がしたように。
温度のない眼が俺を見下ろす。
なんだ、これは?
山田一郎は……俺になにを求めている?
「この部屋……」
思いつきで言ってみたら、ぴくりと目の端だけに反応があった。
がらんどうの部屋。
イケブクロの片隅にある隠れ家。
この土地の王に似つかわしくない空間。
「なんで俺をこの部屋に連れてきた?」
「……落ち着いて話したかったから」
「それだけじゃねぇんだろ?」
俺に見せたかった……外界から切り離された部屋で孤独になる時間を。
「……さぁ、わからねぇ」
本人も掴みかねている。
俺と山田一郎は、似ている。生きてきた道はまるで違うが、鏡映しのような繋がりがある。光と影、表と裏、正義と悪。いわば半身だ。
だからこそわかるはずだ……こいつが求めているものがなにか。
俺は立ち上がると、山田一郎の頭を掴んで、胸に引き寄せた。
「っ……!?」
驚いて離れようとするのを力で押さえつける。
「いまさらヒヨってンじゃねぇよ。なにもしねぇって」
「おい、谷ケ崎……?」
「一度しか言わねぇからな。……お前は十分よくやってる、立派なもんだ」
恥ずかしいから早口になった。
よく兄さんが俺にかけてくれた言葉だ。
俺たち兄弟はクズだったから、常に罵倒や敵意をぶつけられていた。行動の良し悪しはともかく、そんな厳しい環境で強く生きていること自体は偉いんだと、だからハッキリ口に出して伝えるんだと兄さんは笑っていた。その言葉を信じていたから今日まで耐えられた。
いまにも擦り切れそうな自尊心を抱いて生きるつらさなんか、輝かしい王道をひた走るヤツには一生わからないと思っていた。だが、鏡の向こう側も……王に祭り上げられた男もまた、常に張り詰めたまま生きる苦痛があるのかもしれない。
抵抗しかけた腕からゆっくりと力が抜けていった。
「……うん」
聞き取れないくらい小さな返事があって、胸に微かに体重がかかった。
どうやら正解だったようだ。
「へへ……俺にそんなこと言えるやつもういねぇよ」
「だから言った」
「うん……ありがとな。なんかすげぇスッキリした気がする……そっか、俺、お前に褒めてほしかったのか……」
顔を上げた山田一郎は、また言葉にしがたい……いや、これはたぶん嬉し泣きを必死にこらえているだけだ。歪んだ顔で俺を見据えて笑った。ブサイクすぎて世間には見せられないだろうな。
「谷ケ崎も、よく無事でいてくれた。がんばったよな」
「……フン」
顔がふやけそうで慌ててそっぽを向いた。
こいつが嬉しいなら……俺もそうなのか。
「なんか谷ケ崎って、兄ちゃんみたいだな」
「はぁ!? てめぇみてぇな弟いらねぇよ!」
こっちは半身のつもりなんだが。
まぁ俺の方が年上だから、あながち違わないのかもしれない。
そのとき、窓の外で男たちが怒鳴り合う声が聞こえてきた。
「あー、俺もう行くよ。トラブルみてぇだ」
一瞬で山田一郎の顔に戻る。
俺も懐からマイクを取り出した。
「未熟な弟が心配だからつきあってやるよ」
「え……」
ぽかんと目を丸くした顔が面白くて、ちょっと吹き出してしまった。
一郎も遅れて笑い出した。
「フッハッハッハッハ! 頼もしい兄ちゃんで助かるぜ!」
手助けなんていらねぇのは承知の上だ。
なんとなく、もう少し一緒にいてもいいと思った。
たぶんこいつも。