その瞬間は突然に訪れた。
——何か。
微かな音を知覚したような気がして、私は目を覚ました。
サンダルフォンは私の胸元で、小さく背を丸めて眠っている。聴覚によらず感じ取ったささやかなその音は、彼の身体から沁み出すように響いていた。おそらくは、そのコアから。
今は秘されている彼の羽の、ちょうど付け根にあたる場所に手のひらを押し当てる。
そこから辿れる彼のコアへの道筋、その行き止まりの更に奥深く。小さく、けれど深く刻まれた癒えない瑕——その傷口にかさぶたのように重ねてきた私の力が、音を立ててひび割れようとしていた。
ざわりと、困惑を孕んだ焦燥が胸を撫でる。
「……これは、」
状況を掴みきれないまま咄嗟に力を送り込もうとした、その寸前。
すっかりと傷痕を塞いでいたはずのそれが、耳障りに硬質な音を響かせたかと思うと、内側から勢いよく破砕されるようにして砕け散った。
サンダルフォンが僅かに身動ぐ。
「…ぅ、」
息を飲んで見守る私の目の前で、サンダルフォンはふいにびくりと身体を跳ねさせた。苦しげに小さく呻くと、きつく眉根を寄せ、いっそう固く目蓋を閉ざす。血の気を失ってわなわなと震えるその唇から、明確な悲鳴が迸った。
「ぁ、っあぁあ——……ッ!」
「サンダルフォン!」
跳ね起きたサンダルフォンの身体を咄嗟に腕に捕まえて、肩を包むように抱いて宥める。
覚醒しきれずにいるようで、息を荒くしたサンダルフォンは呆然と両眼を見開き、自らの両の手のひらを見下ろしていた。憐れなほどに震えているそれは、何かを抱えているかのように胸元に掲げられている。
「悪い夢でも見たのか。大丈夫だ、何もない」
「あ…、」
白くしなやかな指をとって低く諭す。
そこに何ものも存在していないことを認識してようやく、サンダルフォンは詰めていた息を吐いた。細々と零れる呼気がまるで嗚咽のように響く。
「……俺は、」
しなやかな手のひらが持ち上がり、胸元の服をきつく握り込んだ。
まだ少し、夜が明けきるには早い時間帯だ。白くけぶる黎明の光の下で、震える指先が柔らかな布地に刻む皺が、彼の胸元にくっきりとした陰影を作り出していた。
「サンダルフォン、」
「夢…? ……違う、これは」
掠れた声で呟いて、サンダルフォンはじっと中空を見つめている。そしてその手のひらは、自らの身の内にある何かを探るような仕草で、胸に押し当てられていた。
私は諦念に目を伏せた。
己の身に不具合を認識した天司が、真っ先に何を確認するか——それはあまりにも明白だった。同時に、サンダルフォンの身に起きた突然の出来事の理由にも思い当たる。
「そうか…君に与えた自浄機能が」
コアの修復が進みエーテルの漏洩もなくなっていたことで、十全に機能を回復したそれが、私の干渉を異物と判断し弾いたのだろう。予測できない事態ではなかった。
だが、彼の肉体は私が造り上げたもの。例えその心が私を認識しておらずとも、私の力をサンダルフォンの肉体が拒むことはないと、私はどこかで過信していたのだ。——あるいは、そうであってほしいと、信じたかっただけだったかもしれない。
いずれにしろ、コアに他者の力が干渉した気配を、サンダルフォンは覚ってしまっただろう。それが私であることも。どんな目的でもって為されていたことなのかも。
それを証明するように、宙を見つめていた赤い瞳が揺れて、私を見上げる。
「俺はいつも、あんたに抱かれた後には眠って、……あんた、あんたが? どうして、」
なかば確信をもって問うていながら、サンダルフォンは怯えていた。私が彼の言葉に頷くことに。
なぜならそれは————
「……君のコアはひどく摩耗し、傷付いていた。放っておけば幾日と保たず粉々に砕けてしまっていただろう。修復を進めてからもエーテルの放出は止まらず、生命維持に支障を来しかねない状態が続いていた。故に、その原因となっている記憶を」
「そんなことが訊きたいんじゃない!」
私の言葉を遮って、サンダルフォンが叫ぶ。喉を裂いてしまいそうな、悲痛な音色だった。彼の肩を抱くようにして支えていた腕が、思い切り払い除けられる。
「長く、生きて…ようやく、……なのに、どうして…っ」
打たれることすら覚悟した私を、しかしサンダルフォンは音が立つ程に奥歯を噛み締めて睨め付けただけだった。私の胸元の服を掴む、その指先は震えている。
真っ白に血の気を失うほどに力を込めて布地を握り締めるそれを、私はそっと手のひらで上から覆った。
「君を死なせたくなかった。失いたくなかった。……どんな手段を使ってでも、生きてほしかった」
「…どうして、」
繰り返し問う赤い瞳が、激情に滲んだ涙で揺れている。
口の端に上りかけた言葉を、しかし私はやはり、紡ぐことができなかった。
私を思い出せなくてもいい。かつてあの中庭でふたりで過ごした時間も、何もかも忘れてしまっていても構わない。
彼本来の性質を捻じ曲げてしまうほどに彼を苛んでいた私との確執も諸共に彼の中から消えてしまうのなら、彼が負う必要などなかったはずの劣等感も空虚も、それ故に思い悩んだ過去も、もう彼を苦しめることはないのだから。
そう考えて選んだ方法でも、確かにあった。それでも。
彼の好意も信頼も裏切って、そんな私が愛を囁いて許される道理など————
私が答えないことを知って、サンダルフォンはくしゃりと顔を歪めた。
泣き出してしまうのではないか。そんな予感がして、そしてそれが私はひどくおそろしかった。
腕の中から飛び出そうとした身体を、咄嗟に強く抱き締めて阻む。そのまま縺れるように、ふたりしてその場に倒れ込んだ。柔らかな草を背にして、サンダルフォンがはっとしたように息を飲む。
「や、」
「サンダルフォン、」
「いやだ、放せ——…ッ」
肺腑の奥から絞り出すようにして叫んだかと思うと、激しく四肢をばたつかせて抵抗する。私は彼の手を掴み、地面に縫い付けるようにしてそれを抑えた。
「落ち着くんだ、何もしない」
そんなつもりではないと、言い訳をする隙もなかった。単純な膂力では私を押し退けられないと判断したサンダルフォンは、すぐさまその背に羽を顕現させた。
攻撃性を顕にしているそれが地を打つと、呼応するように音を立てて地面に亀裂が走る。土を盛り上げ、下草の緑を千切り散らしながら、それは私たちを中心に放射状に広がっていった。周囲を取り巻く大気はびりびりと震え、鋭く肌を刺す。
どこにこんな力がと、目を瞠らずにいられなかった。おそらくは、これまでの行為によって彼の中に蓄積されていた私の力さえ、己のそれに変換している。その受容性の高さと咄嗟の機転に、場違いにも感心していられたのは、ほんの一瞬のことだった。
あまりにも放出されるエーテルの量が多い。
私だけでなくサンダルフォン自身まで傷付けかねない力の奔流は、もはやコアの暴走状態に近かった。
「やめなさい、このままでは君まで……サンダルフォン!」
「呼ぶな——……!」
すっかりと興奮しきっているサンダルフォンは、私の言葉に耳を貸す気配もなく激しく頭を振っている。致し方ないと、私もまた背に羽を顕現させた。
大きく開いて打ち振ったそれで、サンダルフォンが吹き荒らしているエーテルの乱流を無理矢理に、文字通り力尽くで抑え込む。それがサンダルフォンにとって、どれほどの苦痛であり屈辱であるかを知りながら。
「っく、ぅ…」
次第に凪いでいく大気を、大きく乱れたサンダルフォンの呼気が揺らす。掛ける言葉を見つけられず、私はただ押しひさいでいた細い手首を握り締めた。
見下ろすと、紅潮しているサンダルフォンの頬に幾筋もの赤い線が走っている。眦にも、喉元にも。鋭く裂けた皮膚が鮮血を浮き上がらせている様を目にして、私は眉根を寄せた。なかば吸い寄せられるようにして頭を降ろす。彼が傷を負っている姿を見ているのが嫌だった。
唇が肌に触れて、途端にびくりとサンダルフォンの全身が強張る。愕然と見開かれた瞳が、大きく揺れた。
顔を背けようとするのを追いかけ、頬の傷にそっと舌を這わす。浮き出た血を舐め取り、跡も残さず綺麗に消えたそれと同じことを、眦にも。首筋の傷を唇で覆った瞬間に、白くしなやかな喉から悲鳴が迸った。
「いやだ! もう…っ、忘れたくない、忘れたくないんだ! 俺はあのひとの、…あの方の最後の願いを……っ」
押さえ込む私の手を振り解こうと必死に身を捩りながら、サンダルフォンはなかば錯乱したように声を振り絞って叫ぶ。
「もう一度、一緒に珈琲を、……俺に、俺だけに望んでくれた、あのひとのただ一つの願いなのに……!」
「————な、」
悲痛な声が語るその内容に、私は彼の首筋に埋めていた顔を跳ね上げた。サンダルフォンはきつく目を閉じ唇を噛み締めている。
————まさか、
頭を横合いから殴られたようだった。思いもしなかった可能性に総身が怖気立つ。
人伝に聞いたものだとばかり思っていたのに。
ならばあの時、彼が背負うと誓ってくれたのは、天司長の座を継いだ重責だけではなく。
個としての私の、他でもない彼への身勝手な願いさえ抱えてなお、あれほど晴れやかに笑んで飛び立ってみせたというのか。
「……だが、あの時の君にそんな素振りは、」
呆然とひとりごちて、己の愚かさに気付く。
見えなかったのではない。見せなかったのだ。
きっと、未練を抱えたまま彼を送り出さねばならない私に、苦しみを置いていかないために。
彼は、サンダルフォンはそういう子なのだ。
その健気さへの過ぎた甘え故に一度は彼を失って、だからこそ私は誰よりもそれを知っていたはずなのに。
私は一体、彼に何を遺したのか。
共に災厄の罪を償わなければならない。だから私は滅び、彼には生きて空の世界を守るのだと——そう言い置いた。
サンダルフォンに生きてほしいと、私は願っていた。贖罪のためだけではなく。罪を抱え、それでもなお生きて、この世界の美しさを知り温かさに触れ、彼自身のかけがえのない輝きに気付いてほしかった。決して無価値などではないのだと。
そして、もはや叶うことはないと知りながら、いつかまたもう一度と。
そう、願った。
ただひらすらに彼への愛おしさ故。
だがそれは、呪いにも等しくはなかったか。
触れていなければ読み取れないほどに弱々しい思念に過ぎなかったはずの、私の最期の言葉を聞いていた————つまりは、私の首を抱いたのだろうサンダルフォンにとって。
ぐらりと大きく視界が傾ぐ。悔恨はあまりにも深く大きかった。
きっと彼は私が彼に架した期待に応え、最期に遺した願いを叶えようと、この空の下で懸命に一途にひたすらに生きたに違いない。
あまりにも長い刻の中で、私を忘れ果ててしまうまで必死に。
「あぁ、サンダルフォン……私は、君を———…っ」
私の手から逃れたがって暴れる身体を、強く強く抱き竦める。初めて心底からの拒絶を示して踠く腕が、足が、私を強かに打った。
そうしながら、しかし彼は彼自身さえ傷付けたその力で、私には傷ひとつ付けてはいなかったのだ。
「……あんたを、憎みたくなんか、なかったのに」
やがて一切の抵抗を投げ出したサンダルフォンが私の胸の下で漏らしたそれは、無理矢理に殺した嗚咽のように掠れていて。どうにかなってしまいそうな胸の痛みに耐えかねて、私は彼に縋るように回した腕に力を込めた。
サンダルフォンは抗わなかった。けれど、私の背を抱き温めてくれる腕も、もうない。
その肉体の奥深くで再び口を開けた傷痕が、とめどなく流れる涙のように、エーテルをあふれさせていた。
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