乾いた砂が隙間から零れ落ちるような音がする。肉体の内側から響いているそれは、俺のコアが歌い上げる断末魔のささやかな音色だった。
この空の世界で俺という存在を構成しているために必要なエーテルが、コアに空いた小さな瑕からとめどなく流れ出しているのがわかる。
男に連れられてこの島に来る前までは、当たり前に聞いていたものだ。彼とふたりで過ごすうち、いつの間にか聞こえなくなっていたことにさえ、俺は気付かずにいた。
彼の言った通りだ。
俺のこの肉体は、おそらくもう幾日も保たないだろう。
それでいい。
最後に思いがけない遠回りを経てしまったけれど、これで今度こそようやくあのひとのところへ行けるのだ。
渇望したその時を目前にして、俺の心には確かな喜びが満ちていた。
それだけでいい。それで十分なはずだった。
——それなのに。
俺は彼に、どうして、と問うてしまった。
あまつさえ、答えてくれない男を恨めしく思ってしまった。
無理矢理に掻き集めたエーテルを加減なく放出した負荷に俺の肉体は耐えられず、いつの間にか意識を飛ばしていたらしい。
目を覚ますと、俺はまだ彼の腕の中にいた。
重い目蓋をぼんやりと瞬かせる。視界一面が淡い虹色を滲ませた白い光に埋まっていた。俺を横抱きに抱えて座り込んだ男の膝に乗せられ、その羽に足の先まで覆われている。
抱き締めるように抱えた俺の肩に額を押し付けて、男は顔を伏せていた。
だらりと地に垂れていた手を持ち上げようと、力を込める。僅かに身動いだことで、俺が意識を取り戻したことに気付いたのだろう。男が弾かれたように顔を上げた。
その顔を見上げて、つい小さく苦笑する。
なんて顔してるんだ。
そう口にしたつもりが、実際には上手く唇は開いてくれず、ただ僅かな呼気が漏れただけだった。
「…サンダルフォン」
俺を呼ぶ男の声も掠れている。
男はひどく憔悴していた。元から抜けるように白い肌はすっかり血の気を失って、形良い唇には、相当に強く噛み締めたのだろう。深く裂けた皮膚が痛々しく血を滲ませている。赤黒く歪な線を刻んでいるそれに、俺はつい眉をひそめてしまった。
男の清冽な美しさに不似合いなそれを拭いたかったが、溶けた鉛を流し込まれたように重たい四肢はもう、俺の意思を汲んではくれない。ようやく持ち上げた指先は無様に震えていて、表面を掠めるように触れるだけで精一杯だった。
男はびくりと肌を震わせた。蒼い瞳を揺らし、俺を見下ろす。
「……あんた、そんな顔もするんだな」
少しばかり掠れてしまったが、今度はきちんと音になった。
時折少しだけ困ったように眉を下げてみせることはあっても、男はいつも悠然と構えていて余裕を失うことなどないのかと思っていた。それが今はまるで、行き先を見失って立ち竦む迷子のように途方に暮れている。
——ああ。やっぱり。
目を閉じて視界を閉ざす。諦念に吐息が漏れた。
俺にはたぶん、男を憎んでいい十分な理由がある。
何ひとつ語らないまま勝手にコアを弄り、欠けている記憶そのものの存在を、俺の意識から消そうとしていたのだ。男のしたことを許せるかと問われたならば、俺は迷うことなく否と答える。
けれど、それでも。
心の底から彼を憎むこともまた、できそうになかった。
この小さな島にふたりきり、俺たちはたくさんの話をした。
男は博識で、俺が聞いたこともなかったような古い事象や、今では失われて久しい様々な事柄について驚くほど詳細に知っていた。自らの目と耳で観測してきたそれらを俺に語る時、男の視点は常に公平かつ公正であり、彼の主観は全くと言っていいほどに排されていた。
男の知識と経験は膨大で、けれどある時を境に——ちょうど俺が空の世界で生きることを始めた辺りで途切れていた。その理由を男は語らず、ただ優しく微笑んで俺の髪を撫でるばかりで。だから俺は男の後を引き継ぐようにして、空の世界の様々なものの行く末を彼に語ってみせた。
男は好んで俺の話を聞きたがった。涼やかな眦を優しく撓め、時にはその美しい蒼を痛ましく細め。いつでも深い関心を持って、俺が語る空の軌跡に耳を傾けていた。
男も俺も、お互いだけが知っている物語をひとつに繋ぎ合わせるように教え合う時間が好きで、肌を合わせていない時にはただ抱き合って横たわり、あるいは風に揺れる緑の中を並んで歩きながら、時が経つのも忘れて語り合った。
そしてある時、俺は気付いたのだ。
男が語る話の中で、彼が常に孤高であったことに。
信頼のおける仲間と呼べる存在は周囲に多く在った様子だったが、それでも。誰にも頼らず、誰にも預けず、誰にも委ねない。ひたすらに穏やかに淡々とした男の表情と語り口からは、かつての彼のそんな在り方が却って浮き彫りになるようで。
彼がそこに寂しさを認識していた様子はなかったが、だからこそ。彼の心は長い間ずっとひとりだったのではないか。そう思えて仕方がなかった。
なぜ俺だったのかは、わからないけれど。
解けない雪のようにゆっくりと少しずつ降り積もっていった孤独の果てに、ようやく手に入れた温もりを男は手放せなかった。傍らから離れていかないよう、頑是ない子供のように必死に足掻いて————
それでも選ばれなかった苦悩を、知っている。
「…あんたなら、他にいくらでも相手が見つかる」
それが慰めにはならないことも、残酷な選択の結果を突き付ける行為であるとも知っていて、俺は男にそう言った。肺腑の奥を鈍った刃で抉り散らされるような痛みがあった。
頭を振る男の淡い銀糸が、光を散らすようにして小さく揺れる。
「君でなくては」
かすかに震えて、けれど少しの揺らぎもないそれは頑なで、俺はつい小さく苦笑ってしまった。
「ずるい男だな……本当に」
問いは、願いの裏返しだ。
どうして、と問うた俺に、好きだとも愛しているとも一度として言ってくれなかったくせに。
男は俺がずっと、ずっと欲しかった言葉をくれる。
早く、はやく、
あのひとのところへ
それが俺にとって一番の願いであることは変わらない。
けれど同じくらい、彼をひとりにしたくないとも思う。
名前も何も知らない男なのに、その傍らはひどく心地良く温かくて。しなやかに逞しい腕に抱かれ、美しい空色の瞳に見つめられ、優しく慈しむような声に名を呼ばれる。
この小さな島にふたりで過ごした時間は、俺にとっても長い孤独の果ての、確かに幸福だったから。
だからこそ、はやく、と願わずにいられない。
これ以上、俺がその温もりに甘えてしまう前に。
この空の世界で、生きたいと、願ってしまう前に。
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