心のまま自由に何処までも羽ばたいてほしい。
そう願って、その手を放したはずだったのに。
生きてほしいという私の言葉に応え、サンダルフォンは無垢な笑顔だけを残して飛び立ってくれた。
天司長の役割と、私の未練と。彼のしなやかな背に、私が託した羽はさぞや重かったに違いない。
それを背負ったまま、サンダルフォンは長い長い刻を身も心も擦り切れるまで一途に生きた。ついにはこの広い空の下、ひとりきりになるまで。
私が遺した言葉が、零した想いが、彼にどれほどの孤独を齎したことか。
再び意識を手放した身体を抱いて、私は目を閉じた。
いくら強く引き寄せても、しなやかな手足を摩っても、厚く重ねた羽で覆ってみても。サンダルフォンの肌は冷えていくばかりだった。流れ出るエーテルも止まらない。自らの意志で滅びを選択した彼を引き留める術は、私にはもうなかった。
たとえあったとしても、それを為す資格は私にはない。
私が彼に託さなければ。私が彼に願わなければ。
サンダルフォンの生は、もっとずっと伸びやかで自由なものであったはずなのだ。
「…サンダルフォン」
サンダルフォンが終わりを渇望していた理由が、その切実さが、ようやくわかった気がした。
死は救済だなどと唱えるつもりはない。死は生の喪失であり、それ以上でも以下でもない。
だが、あるいは彼には——サンダルフォンには。彼を縛り続けたすべてのものから解き放たれる死は、確かに安らぎであるのかもしれない。
そっと額を重ねて、小さく形良い鼻先に己のそれを擦り寄せる。ささやかな吐息が唇を撫でて、私は微笑んだ。まだ温かいそれが、狂おしいほどに胸を締め付ける。
生きている。
何ものにも代えがたく尊い、いのちだ。
けれど。
だからこそ。
「君はもう十分に生き、十分にこの世界を守り愛してくれた」
強大な星の力を携えたまま、その存在を空の一部と見做されるほどに。
その結果、彼はこの世界に欠けてはならない構成要素のひとつと数えられ、私という新たな『天司長』の顕現なくしては、眠ることさえ許されなかった。
「もうすべて忘れて眠っていい。君を縛り付ける私の勝手な願いも、約束もすべて」
腕の中の身体を今一度しっかりと抱き締める。温もりも容も何ひとつ忘れることのないよう。
頭の先から爪先まで、彼のすべてを包み込むように閉じていた羽を開いた。白くけぶる朝陽に幼なげな寝顔が照らされる。
軽く結ばれている小さな唇を、指先でそっと撫でた。ひたむきで無垢な彼の想いを穢してしまいそうで、どうしても触れられなかった場所。
「私たちの罪は、君の分も私が覚えておくから」
今度こそ、正しく彼に自由を。
そのために、私にできる唯一のこと。
それは————
島の中心に位置する小さな泉。その畔の柔らかな草の褥に、私はサンダルフォンの身体を横たえた。
最初に彼を組み敷いたのと同じ場所だ。
この島で最も命の気配にあふれるここならば、サンダルフォンのコアの崩壊を僅かなりとも先に伸ばすことができるだろう。焼け石に水には違いないが、事を終えるまで、サンダルフォンの魂をその肉体から放つ訳にはいかないのだ。打てる手はすべて打つべきだった。
寝かせた彼の傍らに跪き、力なく大地に広がる鳶色の羽に触れる。そっと撫でたその手をそのまま、私は自らの背に負ったそれに伸ばした。
六枚の白い羽。天司長の座をもつ者である証。
星晶獣の文字通り核であるコアと密接に繋がっているそれは、天司にとっては正しく生命線でもある。
すべてを終えて後、私が持ち堪えられるかどうか。確率はおそらく五分もない。
「…どうか、少しの間。目を覚まさないでくれ」
祈るように呟く。
身勝手で愚かな行いを仕出かした私を、サンダルフォンはすべてを覚って尚その指先で慰めてくれた。過ぎるほどに優しい彼に、見せたい場面ではなかった。
けれど今この状況で彼の傍を離れるおそろしさを、どうしても超えられない。
エーテルを放出するばかりのサンダルフォンのコアは、もはやいつ崩壊しても不思議ではない状態だった。このまま時が過ぎるのを待っていれば、数刻と経たずして彼の肉体は死を迎えるだろう。
そして、いずれ彼の代わりとして喚ばれた私が稼動限界を迎えれば、おそらく今度はサンダルフォンの魂が、今の私と同じように輪廻の輪から引き出され再臨させられるのだ。この世界には『天司長』という力の存在が不可欠で、その力と座を宿せる魂を持つものは、私とサンダルフォンだけであるが故に。
どちらかが壊れればもう一方が喚ばれ、力と座の継承を繰り返す。
神の手によって歪に閉じられた輪廻の理。
そこから脱け出すには。
ひとつ、ゆっくりと大きく空気を吸い込んで、私は目を閉じた。
肩甲骨の辺りから伸びている最上段の羽、その一方を手のひらに掴む。骨が軋むほどに力を込めたそれを、一息に、
「——————……ッ!」
鈍い音を立てて骨と肉が裂ける。視界一面が鮮やかな赤色に染まった。
目蓋の裏側に激しく光が明滅して、ほんの一瞬、意識が遠ざかる。
漏れそうになった苦鳴は、ほとんど無意識のうちに奥歯を噛み締めて堪えていた。
「————ッは、ぁ………ッく、」
ぶわりと一気に噴き出した汗がこめかみに浮いて、冷たく滴る。
捥ぎ取った羽の付け根の皮膚は、再生機能によってすぐに塞がった。けれど、引き千切ったそこから新たな羽が顕現することはなく、握り締めているそれが背に還ろうとする気配も感じられなかった。
苦痛に固まった手のひらを解いて、噴き出した血に汚れた羽を地に放る。音も立てずに落ちたそれは、やがて羽先からゆっくりと光に溶けるようにしてエーテルに還っていった。
少しだけ軽くなった背を意識する。どうやら推論は外れてはいないようだった。痛みに震える唇が、自然と弧を描く。
ならば、もう。恐れることは何もない。
肉体の苦痛に上擦る呼吸をどうにか喉で抑えながら、対となるもう一枚の羽を掴む。
無様に悲鳴を上げてサンダルフォンの眠りを妨げてしまわないよう、割れそうなほどに固く奥歯を噛んでから、同じように。自らの手で迷うことなく千切り捥ぐ。
三枚目の羽を地に投げた時、暗く翳った視界と指の先まで痺れるほどの虚脱感に耐えられず、立てていた片膝が崩れた。がくりと落ちたそれが草を滑り、傾いだ身体を、片腕を地についてどうにか支える。
吐き出す呼気は喉を焼くほどに熱く、一方で身体はエーテルの急激な消失により凍りついたように冷えていて、ひどい寒気を覚えた。
耳鳴りの合間に、小さく不明瞭な音が混じる。
それがサンダルフォンの喉から漏れたものだと気付いたのは、横たえていたその身体をふらつきながら起こす彼の姿を視界に捉えた後だった。
「……な、に…? して、」
すぐには状況を把握できなかったのだろう。ぼんやりと瞬いた赤い瞳が、私の顔から肩を伝って、草を掴んでいる腕に降りる。エーテルに還りきれずにいる血液と千切れた羽根に塗れたそれに、ぴたりと視線が留まった。
血色の薄くなっていた顔がいっそう蒼白になる。
つい唇が苦く歪んだ。
まったく、彼に関することだけは、私の思惑はまるで望み通りに運んでくれない。
「サンダルフォン、」
案ずることはないと、そう宥めようとした声は、しかしサンダルフォンの肩をびくりと跳ねさせた。弾かれたように顔を上げた彼は私の背を見て、半分にまで数を減らしているそれに愕然と目を瞠る。
はっきりと震える手のひらが私の肩に伸びて、躊躇った後、冷えたそれが上腕に触れた。
「なんで、何が、…再生は…っ!?」
縋るような姿勢で見上げてくる顔はすっかりと取り乱し、目の前の惨状に怯えている。その頬を包み安心させてやりたいと思っても、もはや私の両手は血に塗れ、触れれば彼の肌を汚すだけだ。
どうすることもできず、私はせめてもと微笑んだ。
「大丈夫だ、危険はない。これは私が、自らの意思でしたことだ」
「何、言って…あんた、あんたも天司なら解ってるだろう! そんなことをしたら、」
信じられないというように激しく頭を振って、サンダルフォンは力の入らない身体を膝でにじるようにして私に近付いた。残る三つの羽のひとつに掛けた手を、やめさせようと細い指が必死に掴む。
「どうしてだ、何のためにこんな、」
きつく眉根を引き絞るサンダルフォンに、私はただ大丈夫だと繰り返した。
せめて刃ででも斬り落とすことができれば、こうも汚れることも手間もなかった。文字通り肉と骨を裂く苦痛も僅かなりともましだっただろう。
だが、私のこの肉体は、いかなる攻撃によっても損なわれることはない。理を破壊する幽世の力を宿したものでもなければ、どれほどの傷を負おうと再生してしまう。
そのように造られたこの身に、たとえば羽を捥ぐような決定的な損傷を与えることができるのは、この肉体が拒絶しない私自身の力のみだった。
あの日。
カナンの神殿で、幾度となく切り裂かれ散った私の羽は解けてエーテルに還り、しかし星の力を拒絶する空の世界に溶け合うこともできず、空を漂っていた。それを、私は私に残った最後の力でもって、天司長の座を継承したサンダルフォンの背に結晶させたのだ。
空の世界が異物と判じた星の力。だが、この世界が『天司長』の力と存在を自らの一部と認識している、今ならば。
この世界の恒常性を維持するため、必要とされているのはあくまで『天司長』という力の存在であって、私でも彼個人でもない。ならば——サンダルフォンが死して、その魂が神の手のひらに包まれる前に、その証であり象徴である羽の力と権能、そのすべてをこの世界に捧げてしまえば。
サンダルフォンは神の軛から逃れられるはずだった。その魂が過去の一切合切を抱えたまま、再びこの世界に喚ばれることもない。
「案ずることはないよ、サンダルフォン。君の長い孤独も苦しみも、直にすべて終わる」
ただそれだけを囁く。
サンダルフォンの唇が震えて、けれど語るべき言葉を見つけられなかったのか、もどかしげに歪んで閉じられた。
彼が戸惑うのも無理はない。サンダルフォンは私が再臨を果たした仕組みを知らず、故に私が為そうとしていることの意味も知りようがないのだ。
それでいい。これ以上、彼に何も背負わせたくはなかった。
背中の傷は、表面上は既に綺麗に塞がり、血液を模したエーテルの流出も止まっている。
だが、羽と密接に繋がっているコアに大きな損傷を負ったままであることは変わらない。私の体内で脈打つそれは、まるで悲鳴を上げているかのように軋み、背の内側には灼熱の杭で肉を抉られ掻き回されているような激しい痛みがあった。
絶えず滲む冷たい汗が頤を伝って滴る。傍らでは三つめの羽がすべて、舞い散る光の粒子となって空に溶けた。
あと何枚を落とせば足りるだろう。
座と力のすべてを棄て終えるまで、私は何としても生きていなければならなかった。
背に残った羽のひとつにかけた手に力を込める。
サンダルフォンが顔色を変えて制止の声を上げた。
「ッだめだ! それ以上は本当に——!」
身体を投げ出すようにして、サンダルフォンが懐に飛び込んでくる。
私は咄嗟に腕を広げて、その身体を抱きとめた。血に塗れた手のひらが彼に触れて、その肌を汚す。
「…っ、サンダルフォン。大丈夫だから、離れなさい。君まで汚れる」
肩口に額を押し付けて頭を振るサンダルフォンが、震える声で叫んだ。
「いやだ。どうしてこんなことするんだ。あんたは、…っ、……あんたまで、俺の前で、」
死ぬつもりなのか、と。
かろうじて聞き取れるほどに小さな声。それはまるで寄る辺ない幼な子のように頼りなく揺れていた。
強く眉根を引き絞る。
力なく垂れた鳶色の羽ごと、細くしなやかな背を掻き抱いた。
「サンダルフォン…ッ」
俯いている頬を両手で包み持ち上げる。首筋に滑らせたそれで頭を支えるようにしながら、上向かせた顔に私は唇を降ろした。
「ッん、っ」
優しく、とは程遠い触れ方だったろう。ぶつけるように強く重ねた唇で、サンダルフォンの柔らかなそれを押し潰す。そのまま頬を傾けて開かせたそこを、私は些かの加減もなく蹂躙した。
小さな舌に自らのそれを絡めて、強く吸う。一度びくりと肩を跳ねさせた後、されるがままになっているサンダルフォンが喉の奥で苦しげに呻くのにさえ構わず、熱く濡れた口内の柔らかさとあふれる唾液の甘さを貪った。
唇を離して見つめ合う。息苦しさにか、あるいはもっと別の理由にか、赤い貴石のような瞳は透明な水面の奥で揺れていた。
堰を切ってあふれた想いが、唇から零れて言葉を形作る。
彼は私を知らず、だから私のそれはサンダルフォンには届かない。そうわかっていて、それでも伝えずにはいられなかった。
「サンダルフォン、…サンダルフォン、私の愛し子、私だけの天司。私の安寧、私の心のすべて。君だけが私を見て、私の名を呼んでくれた」
————ああ、そうだ。
いつかまた彼と再会できたなら。共に珈琲を飲むことができたなら。
きちんと伝えたいと、ずっと胸に温めていた言葉が、私にもあったのだ。
「愛も、それゆえの懊悩も寂寞も、すべて君が私の中に花開かせてくれたものだ。あの中庭で私を待っていてくれたのが君だったから、あの場所は私にとってかけがえのない楽園たりえた」
「……な、にを、言ってるんだ。なんで、どうして…? あんたは俺の……」
戸惑いに赤い瞳が揺れる。ひどく不安げに、怯えさえ滲ませる声を耳にしても、どうしても。
かつて友と呼んだ男から彼の役割を聞いた、あの時にも。
二千年の時を経てようやく、彼が抱え続けた苦悩を叫んだあの時にも。
愚かにも言葉にすることができなかった、これだけは。
「こんな言い方をすると、君は怒るかもしれないが……君がなにものであるかなど、私にはどうでもよかったのだ。私はただ君の笑顔が好きで、君が語る言葉が好きで、君と過ごす時間が好きで……ただ、君のことが好きだった」
サンダルフォンが大きく目を瞠る。唇が開いて、けれどやはり、紡がれるものはなかった。
それでもいい。それでも、私は彼を。
前髪越しに額を重ね、目を閉じる。唇は、意識せずとも、ようやく伝えられる歓びに綻んだ。
吐息が交わる距離でそっと、心のすべてをこめて囁く。
「愛しているよ、サンダルフォン。君を、ずっと」
傲慢で、自分勝手で、愚かな男だ。
それでもやはり私には、君を手放せそうにないから。
生まれ変わった君も、きっと見つけてみせる。君に愛されてみせるから。
その時こそ、どうかもう一度、私と————
愛しい身体を片腕で強く抱き寄せる。そうしながら私は、背に回した手で四枚目の羽を掴んだ。
めりめりと酷い音がして、千切れたそれから鮮血が舞った。
サンダルフォンの口から恐怖に上擦った悲鳴が迸る。閉じ込めた腕から抜け出そうと身を捩るのを、覆い被さるようにしてさらにきつく抱き締めた。
残りふたつになった羽を掻き分けて、がくがくと震えるサンダルフォンの手のひらが私の背を這う。焼けた鉄を捩じ込まれたような痛みを感じるそこから重みが消えて、私は食い縛っていた奥歯を解いた。
安堵と苦痛に、ふっと目の前が暗くなる。ぐらりと身体が傾いだ。
「っ、いやだ、いやだ、嫌だ……!」
涙まじりに叫ぶサンダルフォンの声が遠ざかる。
硬く小さな音がどこかで響いて——コアに亀裂が走る感覚があった。
「ルシフェル様————!!」
悲痛な声が耳を打つ。
それが幻ではないと確かめるより先に、私の意識は暗転した。
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