SEXY NIGHTS FEVER0日目
「テラさん、ポリネシアンセックスってご存知ですか?」
「……え、何。幻聴?」
「幻聴じゃありません、テラさん。ポリネシアンセックスです」
にこにこと問いかけてくる恋人――天彦の言葉に、テラは思いきり顔を顰めて応戦した。なんだそのポリネシアンセックスとやらは。聞いたことのない単語だったが、この爽やかな朝に相応しくないものであることだけは、はっきりとわかった。
「知らないし、知りたくもない。絶対ろくでもないじゃん」
にべもなくあしらうと、天彦は驚愕の表情を浮かべる。
「そんなことはありません!」
珍しく語気を強めて否定してきた天彦に、テラは面食らった。さすが世界セクシー大使、性に関することとなるとこうも真剣になるのか。思わず感心してしまったが、続いた言葉の羅列はテラにとって実にろくでもないものであった。
「ポリネシアンセックスとは、五日間かけて行う性行為のことです。まず最初の一日目はお互いの身体には触れずに――」
天彦が恍惚とした表情で語り出した辺りから、テラは意識を遥か彼方へ飛ばしていた。今日のランチは何にしようかなあとか考えていた。というか、もうそろそろ家を出なければならない時間だから、さっさと解放されたかった。
「――というわけです。わかりましたか、テラさん」
「うん、わからん」
「どこからですか」
「最初の一日目」
悪びれることなく言ってのけるテラに、天彦はがくりと項垂れた。項垂れたいのはこちらである。何が悲しくて、月曜の朝っぱらから部屋の前でセックスの話をしなければいけないのか。
テラがそもそも話を聞く気が無いことに気づいたのか、天彦はしょぼくれた顔のままテラに視線を合わせる。効かんぞ、と思いながらも絆されそうになってしまうのは、惚れた弱みと言うか寧ろ、雨に打たれる捨て犬を見ている時のそれに近かった。
「……しないよ」
「どうしてもと言っても?」
「しない。だってそれ、僕に何のメリットもないよね?」
「ありますよ。普段のセックスを超えるエクスタシーを……それこそ天国にお連れします」
「天国ねぇ……」
実際、テラが天彦に抱かれる時はいつも、彼の華麗なる手技で巧みに絶頂へと導かれるのが常である。それを超える快楽を、と言われると……正直なところほんの少しだけ興味があった。
というのも、天彦はセックスの時、まだ遠慮がある気がするのだ。身体の関係を持ってからそれなりの時が経ち、それなりの回数を重ねたというのに、どこか本気を出さず余裕を残している節がある。それがどうにも気に食わない。このテラくんを目の前にしてどうしてそんなに余裕でいられるのか、意味がわからない。
そんなことを考えているうちにだんだん腹が立ってきて、テラは目の前に立つ天彦を見上げた。
「いいよ、付き合ってあげる」
「ええっ!?」
突然態度を変えたテラに天彦が大声を上げる。
「なんだよ、嫌なの?」
「そんなことはありません!この天彦、全身全霊をかけて取り組みます」
「そ。ならいいけど」
いつからにする、と問いかけるときらきらと瞳を輝かせた天彦が弾んだ声で応えた。そんなに喜ばれると逆に何が起こるのか恐ろしくなってしまうのだが、許可してしまった手前もう引き下がることはできない。
最終日は次の日がお休みの方がいいと思うので、と聞き捨てならないことを言いながら、天彦がスマホのカレンダーアプリを開く。
「この週なら僕も空いているので、この日からはどうでしょうか?」
指定されたのは二週間後の火曜日だった。運が良いのか悪いのか、テラもその週は都合がつきそうであったので、二つ返事で了承する。
「では、そうしましょう!」
楽しみですね、と笑いかけられて、あまりの無邪気さに毒気を抜かれてしまう。その笑顔を引き出せた理由が理由なせいであまり爽やかな気分にはなれなかったが、まあいいかと適当に「そだね」とだけ返しておいた。
慌ただしい月曜の朝から、ろくでもない予定を入れてしまった。出社のために家を出て、一人になったテラは本当に己の選択が正しかったのか考えそうになって、やめた。今正気に戻ったところで、天彦はあれだけ乗り気だったのだ、逃げられるはずがない。
こうしてテラは、まんまとポリネシアンセックスを実行する羽目になってしまったのであった。
1日目
「――オバケくん、おはよ」
「ぅひっ! ……お、おはようございます」
二度寝から目覚めたテラが洗面所に行くと、そこには意外な先客がいた。まさか声をかけられるとは思っていなかったようで飛び上がった大瀬は、少々気まずそうな顔で振り返り、ぺこりと頭を下げる。
立ち去りたそうな雰囲気を醸し出しつつも律儀に挨拶を返してくるあたりが好ましいなと思いながら、歯ブラシを取って隣に立つ。強いミントが口の中に広がると、嫌でも目が覚めた。
天彦とろくでもない約束をしてからあっという間に時は経ち、今夜いよいよ、ポリネシアンセックスとやらが始まってしまう。あの時は天彦の説明を聞き流していたので後から自分で調べてみたのだが、とあるサイトで『究極のセックス』『未知の快感』『新しい愛の形』などといういかにも天彦が好みそうな謳い文句にたどり着いた時には、あの時のノリと勢いを心から悔やんだ。
自分はその五日間を無事に乗り切れるのだろうか、という疑問がまず浮かんだ。我慢はあまり好きではない。特に近頃は、抱かれたい時にはそれを言葉にする前に察されて部屋へ招かれるのが当たり前になっていたから、そういった欲を抱えたまま数日過ごすようなことも無くなり、我慢のきかなさに拍車がかかっている自覚がある。
五日目を迎える頃、一体自分はどうなっているのやら。しゃこしゃこと歯ブラシを動かしながら考えていると、隣に立つ大瀬がテラをちらりと見上げた。
「テラさん、今日はその……そわそわして、ますね」
泡を吹き出しそうになった。慌てて口を濯いで、げほげほと咳き込む。
「っ、絶対気のせい。何も無いから」
「そうでしょうか……」
「そうなの。きみは余計なこと考えなくてよし」
明らかに何かある言い回しをしてしまったが、大瀬が大人しく頷いてくれたのでまあ良しとする。同居人たちには申し訳ないが、自分たちが何をしようとしているのかはさすがに知られるわけにはいかないのだ。……まあ、ここの住人であれば余程のことがないと驚かないだろうが。
とにかく、五日間かけてセックスをするなどという試みをしていることが厄介な同居人たちにバレないよう、普段の態度には気をつけようとテラは気を引き締めた。
「……あの、」
「んー?」
意を決したような声色で声をかけてきた大瀬に向き直る。
「えと……無理だけは、なさらぬよう……」
クソが出すぎた真似をすみません、と萎んでいく姿に申し訳なさが募り、隣に並んだ背中をぽんと叩く。
「ありがとね。身体には気をつける」
「はい……あ、タオル、どうぞ」
テラの返事にほんの少し安堵の表情を浮かべて、大瀬は新しいタオルを差し出してきた。家事担当が丹精込めてふかふかにしたそれに顔を埋めると、柔軟剤の清潔な香りが鼻腔に広がる。最終日には何枚か部屋に持ち込んだ方がいいな、などと考えてしまった自分に気づき、テラは洗面所中に響き渡る大きな溜め息を吐いた。
◇
住人たちが寝静まった深夜。テラは音を立てないようそっと部屋を抜け出し、向かいの部屋のドアをごく小さな音でノックした。しばしの沈黙の後、ゆっくりと扉が開き部屋の主が顔を覗かせる。
「お待ちしていました、テラさん」
憎らしいほど朗らかな笑顔である。そのご機嫌ぶりに若干イラッとしながら、テラは天彦を部屋へ押し込んで自分も部屋に入った。
「来てくださらないかと思いました」
「今、来なきゃよかったと思ってるとこ」
「ふふ、良い五日間にしましょうね」
微妙に会話が成立しないご機嫌男はバスローブ姿のまま、部屋の真ん中に鎮座する丸いベッドへ腰を下ろす。テラは大人しくその隣に座ると、ぐるりと部屋を見回した。
相変わらずなんだかギラギラとした趣味の悪……合わない部屋は、今日も部屋の主によく似合う妙な色気を放っている。もう何度も訪れているが、この何とも言えない居心地の悪さには未だ慣れられずにいた。
「一日目はキスもお預けなんですよ」
するりと髪を撫でながら、顔を覗き込まれる。普段ならその流れでキスを交わすものだから流れで顔を傾けそうになって、テラははっと我に返り顎を引いた。
「……らしいね。で、僕はどうすればいいの」
「そうですねぇ。では、今日は抱き合ってお話でもしましょうか」
「はあ……」
拍子抜けした。一体どんなプレイを強いられるのかと身構えていたというのに、ただのハグとは。天彦のことだ、どうせまたろくでもない思いつきでもしているのだろうと思ったのに。
「じゃ、はい」
自分から両腕を広げて迎え入れる姿勢を取ると、天彦はゆるりと目元を緩ませながら身を寄せてくる。そしてそのまま、ふわりと抱きしめられた。
(……うわ)
バスローブ越しに触れる体温がいつもより高い気がして、身体が強張る。その緊張が伝わったのか、耳元で小さく笑う声が聞こえた。
「テラさん、緊張してますね」
「きみはなんでそんなに余裕なの。なんか怖いんだけど」
「心配しないでください。ちゃんと優しくしますから」
普段の行いを省みてから言え、という言葉は飲み込んだ。代わりに「はあそうですか」と冷めた言葉を返すと、天彦はくすくす笑いながら背中を撫でてくる。
(調子狂うな……)
普段ならこの辺りでキスをされ身体をまさぐられているというのに、ポリネシアンセックスというのは難儀なものだ。物足りないような、それでいてなんだかむず痒いような不思議な感覚にそわそわしながら、テラは天彦の胸に頭を擦り寄せた。
「ふふ、可愛らしいですね」
「知ってる。テラくんってほんと奇跡みたいに可愛いんだよね、天彦知ってた?」
「はい、もちろん。とてもチャーミングですよ」
天彦は楽しそうに言って、テラの頭を抱き込むように手を添えた。何度か髪を撫でられ、大きな手のひらはそのまま背中へ移動する。
軽く抱き寄せられて思わず息を詰めた。密着した体勢のせいで、普段よりもはっきりと天彦の体温を感じる気がする。バスローブ越しでもわかる厚みのある身体は、いつもテラより少し温かかった。
「天彦ってさ、筋肉ついてるから体温高いよね」
「そうですね。確かに、あまり寒がりではないかもしれません」
「えー、いいな。冬とか一緒に寝たら暖かそう」
「天彦はいつでも大歓迎ですよ」
「遠慮しとく」
どうでもいい会話をぽつりぽつりとしながら、ただ抱きしめ合う。普段の騒がしさはどこへやら、天彦は静かにテラの背中を撫でていた。
あまりにもまったりとした空気感で忘れかけていたが、今日はポリネシアンセックス一日目だ。こんな抱き合っている以外に大した色気もない会話をしていて大丈夫なのかと訝しく思いながら天彦を見上げると、ん? と首を傾げられる。
「今日はほんとにこれだけでいいの?」
「えぇ、そうですよ。キスは明日からのお楽しみです」
「ふーん……」
言いながらも、天彦は背中に添えた手をどかさない。そのままゆっくりと背中を撫でさすられて、なんだか妙な気分になってくる。
(……なんか……)
普段であればすでにベッドに押し倒されて身体中を触られている頃だというのに、なんだかおあずけを食らったような気分だ。ただベッドに並んで腰かけて抱き合うだけだなんて付き合いたての高校生のようだと思ってしまうが、世界セクシー大使が言うのであればこれが正しいのだろう。
とはいえこのまま抱擁を続けているのも、あらゆる意味でしんどい。どうするべきかと考え込んでいると、天彦が穏やかな声で話しかけてきた。
「そろそろ寝ましょうか?」
「あー……うん、そうね。そうしよっか」
「では、失礼しますね」
「えっ」
天彦に身体を抱かれたまま、視界がぐらりと傾く。次の瞬間には背中に柔らかいスプリングを感じ、天井を背景にした天彦と目が合ってしまった。
視線が絡んだ途端、腹の奥にしまい込んだ情欲に火が灯りそうになって、慌てて振り払う。ふいと顔を背けると天彦が楽しげにくすくす笑う。その余裕ぶりに、すべて見透かされているような気がして悔しかった。
シーツに散った髪の流れを目で追っていると、天彦の身体はあっさりと離れていった。ぱちんと照明が落とされ、部屋には暗闇が満ちる。静寂と妙な空気感に耐えられず、ごろりと寝返りを打つと衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
「おや、テラさん。天彦にお顔を見せてくれないんですか?」
戻ってきた天彦は布団をかけるなりそう言って、テラの背後にぴたりと寄り添う。
「見せない。テラくんの美しい背中でも堪能してて」
「では失礼して」
背後から逞しい腕を回され、再びその中へ捕まってしまった。温かさが擽ったくて身をよじると、その拍子につま先が触れ合う。からかうように指と指をすり合わせられ、つい小さく声が漏れてしまった。
「っ、ん……」
「おや」
吐息のような、しかし愉しげな天彦の声が耳に届く。テラは後ろを振り返ると、暗がりに慣れた目でにやつく天彦を睨んだ。
「……何か言ったら出てく」
「それは困りますね」
くすくすと笑いながら天彦は返事をするが、揶揄うのをやめる気は無いらしく、今度は脚を絡められた。
「本当は裸で抱き合う方がいいらしいんですが」
「却下」
「ですよねぇ」
残念そうな声とともに腹の辺りをやわりと撫でられて、ひくりと腰が跳ねそうになったのをぎりぎりで堪えた。ふ、と聞こえないように息を吐き出し、固く目を瞑る。
一日目からこんな有様でどうするんだ。快楽に正直な自分を叱咤しつつ、これからのことに思いを馳せる。
(……明日は何するんだろ)
なんだかんだでポリネシアンセックスを楽しみ始めている自分に気づいて、テラは諦めたように眠りに落ちたのだった。