「クリプト、時間だよ」という言葉を残念に思った。
一緒に横になっているあいつはモバイルバッテリーに自身を繋ぐとリモコンを操作して部屋の明りを消した。
「ちょっと頭をあげて」という言葉に従った。
すると頭の下にあいつの腕と枕を差し込まれた。
「寒くない?」という言葉に頷いた。
それでも腹にタオルケットを掛けてくる。
「今日も楽しかったね」という言葉に安堵した。
モニターの笑顔にそっと触れた。
「君が触ってくれるとすごく嬉しいんだ」という言葉に落ち着かなくなった。
触れているのは俺の方なのにむず痒くて変な声が漏れそうになる。
「好きだよ」という言葉に無言を返した。
ただあいつの稼働音が鼓膜を震わすのを感じていた。
「もう寝られそうかい?」という言葉にゆっくりと瞬きをした。
あいつのおやすみの挨拶と同じ言葉を俺も繰り返した。
「じゃあまた朝にね。何かあったら起こして」という言葉から数秒後、モニターの表示は暗転した。
常夜灯が室内と傍らにある存在の輪郭を薄暗く浮かび上がらせている。
青く特殊なMRVNの稼働音は小さくなったが消えてはいない。だがモニターに手を伸ばしても指の圧力センサーに触れてもパスは何も言わない。シャットダウンはされていない。スリープモードに入っただけだ。『何かあったら起こして』の言葉通りに声をかければパスは起きる。だから俺は息を潜めて目の前に横たわる青い躯体を眺めた。
最初は仮眠を取る時に子守歌を歌おうかと提案されたことだっただろうか。それから眠れない夜に湧き上がる不安を気を紛らわそうと通話で話すようになって、いつの間にか強く拒むこともできないずに時折こうして共寝をする仲になった。無防備な姿で眠りに落ちているパスを見ると信頼されていることを感じずにはいられなかった。
うとうとした思考のままモニターの側面に手を付けた。人肌よりもずっと低い温度が伝わってくる。表面から滑らかな場所とざらついた場所を感じる。手の平を動かせばほんの僅かな摩擦音が耳に届いた。それは指の腹でなぞれば低い音を立て、指先の爪に当たれば高い音を響かせた。
暫くそうした後に今度はモニターに触れた。指先で軽く叩けばトントン、コツコツと小さい音を返す。ちらりとパスの様子を窺う。モニターは黒くカメラの赤い光も灯っていない。稼働音は小さく起きる気配はない。今後はコツンと少し強めに叩いてみた。パスは変わらず眠っていた。
安心した。それから、ほんの少しだけ寂しさがジワリと胸に滲んだ。
パスは起きていることもできるが時間が来たらこうして眠っている。『僕のせいで君が寝られないのは嫌だから』と言われた時はそんなにことはないと思った。だけど、こうして反応を欲しがってしまう気持ちを自覚すると悔しくなる。こいつは俺よりも俺のことがわかっていると嫌でも理解する。ロボットに制御されているような感覚さえある。不満で納得ができない。パスにとっては理不尽な感情だ。
ただ、それらの気持ちより安心感や心地よさの方がずっと勝っていた。
(好きだな)
と、暗いモニターを見ながら記憶の中にあるパスの様子を思い出す。
『好きだよ』
という言葉に何も言えなかったことが苦しくなった。パスファインダーのことは好きだ。ただ俺が素直になって自分をさらけ出すことが怖いだけだ。
モニターを叩いた。トントン、コツコツと心の内を打ち明けるように、だけど知られないように。
あれから何度か眠りに落ちては目が覚め、そして再び眠りに落ちるといった具合に夜は更けた。起きる時間になり眠っていた鈍い頭と重たい身体を引きずりながらリビングに行けばあいつは朝ごはんを用意し始めていた。火事にされたら困るので袋から出して食器に移したりケトルのスイッチを入れたりするだけだが、正直それだけでも起き抜けのふらふらした状態だとありがたかった。
「おはようクリプト!」
「おはよう」
何やらご機嫌な様子だ。流しから水を汲んで飲んでいる間に音程の外れた鼻歌が聞こえてくる。
「随分と調子がいいようだな」
「だって、ふふ。君が愛してるってずっと伝えてくれていたから嬉しくて」
心臓が大きく鳴った。持っていたコップを落としそうになって指に力を込めた。そんなはずはない。あいつはずっと寝てたんだ。
「何を言っているんだ。随分と面白い夢を見ていたようだな」
高度なAIは夢を見ることがあると聞いたことがある。記憶整理や情報の紐付の過程で起こるらしい。だからそういった類のものだろう。そうに違いない。
あいつは俺へ向き直る。モニターにはハートが浮かんでいた。
「夢じゃないよ。だって君、僕の胸でモールス信号を叩いていたでしょ。『I love』とか『Luv』とか『like u』とかそれから……」
俺はその日、夜中で共寝をする際にあいつはスリープモードではなく省エネモードになっていたことを知った。つまり、眠っているのではなくて目を閉じている状態のようなものだったことを知った。俺が夜中のあれこれを知られていた動揺から立ち直るには3日間かかった。